紫煙に抱かれて
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暑さが落ち着きを見せ、寒さが顔を出し始めた頃、財前は先輩である高橋と昼食を共にしていた。特段仲がいいというわけではないが、あの研究室に行くようになってから鉢合わせることが増えた。そのせいで何かと誘われるようになっていた。
今日はなぜか学内の図書館で顔を合わせてしまい、大学近くのラーメン屋に足を運んでいた。昼時から少しズレた時間帯だったおかげか、すぐにラーメンにありつけた。
すると隣に並んで麺を啜っている最中、高橋は何食わぬ顔で財前にこう尋ねた。
「財前って、名前のとこ出入りしとるん?」
財前の動きが一瞬止まった。どうして知っているのかと尋ね返したかったが、知るとしたら名前からだろうと勝手に結論付ける。余計な事を喋らないように、と喉まで出かかった疑問を麺と一緒に飲み込んだ。
「……時々」
未だに続く関係を大っぴらにしたいわけじゃない。勝手な推測だが、それは名前も同じだろう。
すると高橋は、へえ、と意外そうな声を上げた。
「あいつ別れたんか」
独り言のようにぼやくと、ラーメンを啜る。
「どういうことっすか」
財前は思わず箸を止めた。高橋を睨みつけるように見つめると、彼はあっけらかんとした様子で答えた。
「知らん?社会人と付き合うてたん」
高橋の言葉に、財前の背中には汗が伝い、更に言葉を失った。
高橋の話はこうだ。元々高橋と名前は顔見知りで、彼が唯一まともに話せる女子でもあった。二、三年ほど前に突然名前がピアスを付け始め、更に煙草を吸い始めていた。高橋がそれに気づき理由を問えば、「女が変わる理由聞くのは野暮やろ」なんて言うものだから、高橋は全てを察知した。
高橋はそれから名前の彼氏を興味本位で探った。普段からよく話しかけ、遊びに誘い、口を軽くさせようとした。へらへらと笑いながら本質的な事は語らず、のらりくらりと躱す彼女の相手は骨が折れたが収穫はあった。社会人の男と付き合っていること。そしてその相手に二股をかけられていること。その二点だった。高橋は詳細を求めたが、それ以上口を割ることはなかった。ピアスを外したのはほんの最近で、外した理由を聞けば「ピアス飽きてん」と意味のわからない理由が返った。それ以降は、名前と財前が距離を縮めている様を見ていただけ、と話を締めた。
「まさか名前が財前となあ……」
いやあ、と首を傾げながらレンゲにスープを掬い、ずるると音を立てて飲んだ。その瞬間、財前は勢いよく箸を机に叩きつけた。その大きな音のせいで高橋の動きは止まり、財前の方に目をやった。
「俺とあの人は付き合うてませんから」
財前はそう言い切ると、荷物を持って店を出た。
「は?おい、ざいぜ、」
遠巻きに高橋の財前を呼ぶ声が聞こえたが、無視して名前に電話をかけた。出たのはいつも通りの気の抜けた声で、財前に対して火に油を注ぐ。財前は苛立ちを露わにしたまま、会話に感情を乗せた。
「今どこや」
「家」
「今から行く」
「は~い」
画面をスワイプし、電話を切った。逸る感情は何からか。憤怒か焦燥か悲嘆か。財前は答えを出す余裕もなく、名前の自宅へと向かった。
家に行くと相変わらずへらへらして、だぼついた服を着ていた。首回りから覗く肌や下着に目がいく。
「光クン今日顔怖いで」
「いつもと変わらん」
冷静になったつもりで押し入るように部屋に入ると、名前は顔はにこやかだが棘の生えた言葉を投げかけた。
「はい嘘吐き〜。私嘘見抜くん上手いねんで」
しかし財前は無視して部屋に入り、上着を脱いで床に置いた。
「光クン今日めっちゃ怒ってるやん」
「気のせいや」
「嘘つきは嫌い」
きっぱりと断られ、若干俯く財前。
「……怒っとるかもしれん」
「はっはっは、わかりやすうて楽やわ」
はっきりとした言葉に傷つきながらも、財前は名前の手を引き、雪崩れるようにベッドに押し倒した。逃げないようにとベッドに両腕を縫い合わせるように押さえつける。それと同時に覗く小さな傷。それがが過去の男のためにつけられたものだと知ってしまったが故に、酷く醜く見える。
「なんでピアスせえへんの」
「飽きた言うたやん」
「嘘や」
「嘘かなんてわからへんやろ」
「前の男やろ」
財前が断定的に言い寄れば、一瞬笑顔が消えた。
「あー……」
うろうろと焦点の定まらない瞳で惑う名前。笑顔以外は自分のせいで見たかった。だが、どうだ。他の男のせいで笑顔以外の表情を作っている。
名前はすぐに口角に弧を張り付ける。微妙に引きつったそれが癪に障る。
「高橋やろ?あいつ口軽い〜嫌いやわ〜」
名前は調子を崩さず、お道化て見せる。
財前は、ここまで来たのならと全てを知るつもりだった。彼女の口から全てを、事実を聞きたかった。
「そいつのために開けたんやろ」
耳朶を軽く引っ張ってやると、名前は目を閉じて溜息を吐いた。眉間には皺が寄っている。
「……ちゃう。開けられた、が正しい」
名前の目は財前の方を見ない。合わせないように目を伏せている。名前は財前の手を振り払うと、自身の手で顔を覆った。
「いつやったか忘れたわ。前付き合っとった人がセックスの後に開けてん。気ぃ失っとる間に、勝手に」
財前は静かに息を呑んだ。
「でも、消えてもうた。人の体に穴開けてどっか行った。結婚するからって。私邪魔なんやって。突然連絡取れへん思うたら、このザマ。会う度に、好きやとか愛してんでとか、薄っぺらい中身のない言葉を真に受けて、この狭い部屋であの人を待っとった。美味しいって笑うてご飯食べる姿も、お前は吸うなよって言って私の頭撫でながら吸い続ける姿も、昨日のことのように思い出せる」
震え始めた声。名前は起き上がると、ポケットに入れていたであろう煙草とライターを近くにある机に放り投げた。
「煙草吸うてんのもあの人を忘れられへんから。あの人が吸うてたのを真似して吸うて、自分慰めてんの。捨てられても、この体のどっかであの人を求めてまう。次会えたら、私も吸えるようになったんよって言いたくて」
名前はベッドから立ち上がると、棚からいつも着させられているスウェットを出しては床に投げつけた。
「スウェットも、あの人が残していったもんやよ。光クンにわざと着さした」
そしてアクセサリーの入った箱を取り出すと、煙草とライターの横に乱雑に置いた。
「ピアスつけへんのは、少しだけ踏ん切りがついたから。今まで外す事さえ出来ひんくて。もう戻ってこうへんのに、もしかしてって思う自分と決別するために」
名前はその場にしゃがみ込んで、何度目かわからない溜息を吐く。
「全部あの人のためやったのに。わかっとったんよ。私は二番手やって、途中で。でも、あの人の優しさに私は溺れてしもうた」
髪の毛をかき上げて嘆く姿に、財前は何も言えなかった。彼女の強がりに、慰めの言葉一つ見つけられない。
「アホやろ。ほんまにどうしようもないアホやねん」
自虐しながらもケタケタと笑って見せる名前。財前には名前が壊れた玩具のように見えて恐怖を覚えた。
「……満足した?あんたが聞きたかった真実は、これやよ」
名前はへらりと笑った。いつもと変わらない、だらしのない顔だった。
整頓された部屋も、タッパー詰めされた料理も、煙草も、ピアスも。全部全部クソ野郎のせいだったのだと、財前は初めて知った。
名前は深呼吸をしてから立ち上がると、今にも泣きだしそうな顔で帰宅を催促する。
「今日はもう帰り」
財前は動かなかった。否、動けなかった。堪えようのない怒りに震え、ベッドから降りると財前は名前の手首を掴む。
「なんで、そないに…笑っとけんねん……」
「好きやからやよ。酷い人でも、一時的でも、愛してくれた事実は変わらへん」
理解ができなかった。わかっているのに、わからないフリをし続ける意味が。
財前は名前のことをわかったつもりでいた。この半年間、彼女のことをよく知ったつもりだったのに、何も知らなかった。何も気づけなかった自分と、一ミリでも自身に向いてくれなかった彼女の想いが財前の感情をかき乱す。
「そんなん、おかしいやろ……何が愛やねん……」
ボロ、と零れる涙。力なく、ゆっくり床に落ちていく財前の身体。の足元名前で次々に小さな水溜まりをつくっていく。名前がそれを愛だと肯定するのであれば、俺のこの涙は、この怒りは何なのだと、財前には一つもわからなかった。恐らく、わかりたくなかったが最も適当なのだろう。
名前は財前の後を追って静かにしゃがんだ。しかし、財前自身に触れることはなく、傍観するだけ。
「目ぇ溶けてまうよ」
「うるさい」
ぐずぐずに濡れた頬を拭うことなく、財前は噛みつくように名前の口を塞いだ。そしてそのまま二人は体を重ねた。この日ばかりは普段よりも特別優しく、静かに抱いた。可視化できない傷を慰めるように、目一杯優しく。
***
「なあ、ピアスちょうだい」
薄暗い空間で掠れた声が強請る。財前に背を向け、寝転ぶ名前は何を思ってそれを口にしたのか。財前は隣に座ったまま、その背中を眺めている。
「絶対あげへん」
「ケチ」
いとも簡単に一蹴すると、財前は無意識に名前の頭に触れた。短くなった髪を流れの通りに優しく手で梳かしていく。
「光クン」
「なに」
「なんでそないに優しゅうするん」
財前の手が止まった。
「……言葉が欲しいんすか」
「嘘」
ギシ、とスプリングが軋み、財前の影が名前に落ちる。そして腫物に触れるように耳朶に触れた。小さな小さな傷痕があまりにも憎い。それでも財前は抱える感情を殺してでも、彼女を選んでしまう自分を嘲笑った。
「傍におったるわ。あんたの穴が埋まるまで、ずっと」
今日はなぜか学内の図書館で顔を合わせてしまい、大学近くのラーメン屋に足を運んでいた。昼時から少しズレた時間帯だったおかげか、すぐにラーメンにありつけた。
すると隣に並んで麺を啜っている最中、高橋は何食わぬ顔で財前にこう尋ねた。
「財前って、名前のとこ出入りしとるん?」
財前の動きが一瞬止まった。どうして知っているのかと尋ね返したかったが、知るとしたら名前からだろうと勝手に結論付ける。余計な事を喋らないように、と喉まで出かかった疑問を麺と一緒に飲み込んだ。
「……時々」
未だに続く関係を大っぴらにしたいわけじゃない。勝手な推測だが、それは名前も同じだろう。
すると高橋は、へえ、と意外そうな声を上げた。
「あいつ別れたんか」
独り言のようにぼやくと、ラーメンを啜る。
「どういうことっすか」
財前は思わず箸を止めた。高橋を睨みつけるように見つめると、彼はあっけらかんとした様子で答えた。
「知らん?社会人と付き合うてたん」
高橋の言葉に、財前の背中には汗が伝い、更に言葉を失った。
高橋の話はこうだ。元々高橋と名前は顔見知りで、彼が唯一まともに話せる女子でもあった。二、三年ほど前に突然名前がピアスを付け始め、更に煙草を吸い始めていた。高橋がそれに気づき理由を問えば、「女が変わる理由聞くのは野暮やろ」なんて言うものだから、高橋は全てを察知した。
高橋はそれから名前の彼氏を興味本位で探った。普段からよく話しかけ、遊びに誘い、口を軽くさせようとした。へらへらと笑いながら本質的な事は語らず、のらりくらりと躱す彼女の相手は骨が折れたが収穫はあった。社会人の男と付き合っていること。そしてその相手に二股をかけられていること。その二点だった。高橋は詳細を求めたが、それ以上口を割ることはなかった。ピアスを外したのはほんの最近で、外した理由を聞けば「ピアス飽きてん」と意味のわからない理由が返った。それ以降は、名前と財前が距離を縮めている様を見ていただけ、と話を締めた。
「まさか名前が財前となあ……」
いやあ、と首を傾げながらレンゲにスープを掬い、ずるると音を立てて飲んだ。その瞬間、財前は勢いよく箸を机に叩きつけた。その大きな音のせいで高橋の動きは止まり、財前の方に目をやった。
「俺とあの人は付き合うてませんから」
財前はそう言い切ると、荷物を持って店を出た。
「は?おい、ざいぜ、」
遠巻きに高橋の財前を呼ぶ声が聞こえたが、無視して名前に電話をかけた。出たのはいつも通りの気の抜けた声で、財前に対して火に油を注ぐ。財前は苛立ちを露わにしたまま、会話に感情を乗せた。
「今どこや」
「家」
「今から行く」
「は~い」
画面をスワイプし、電話を切った。逸る感情は何からか。憤怒か焦燥か悲嘆か。財前は答えを出す余裕もなく、名前の自宅へと向かった。
家に行くと相変わらずへらへらして、だぼついた服を着ていた。首回りから覗く肌や下着に目がいく。
「光クン今日顔怖いで」
「いつもと変わらん」
冷静になったつもりで押し入るように部屋に入ると、名前は顔はにこやかだが棘の生えた言葉を投げかけた。
「はい嘘吐き〜。私嘘見抜くん上手いねんで」
しかし財前は無視して部屋に入り、上着を脱いで床に置いた。
「光クン今日めっちゃ怒ってるやん」
「気のせいや」
「嘘つきは嫌い」
きっぱりと断られ、若干俯く財前。
「……怒っとるかもしれん」
「はっはっは、わかりやすうて楽やわ」
はっきりとした言葉に傷つきながらも、財前は名前の手を引き、雪崩れるようにベッドに押し倒した。逃げないようにとベッドに両腕を縫い合わせるように押さえつける。それと同時に覗く小さな傷。それがが過去の男のためにつけられたものだと知ってしまったが故に、酷く醜く見える。
「なんでピアスせえへんの」
「飽きた言うたやん」
「嘘や」
「嘘かなんてわからへんやろ」
「前の男やろ」
財前が断定的に言い寄れば、一瞬笑顔が消えた。
「あー……」
うろうろと焦点の定まらない瞳で惑う名前。笑顔以外は自分のせいで見たかった。だが、どうだ。他の男のせいで笑顔以外の表情を作っている。
名前はすぐに口角に弧を張り付ける。微妙に引きつったそれが癪に障る。
「高橋やろ?あいつ口軽い〜嫌いやわ〜」
名前は調子を崩さず、お道化て見せる。
財前は、ここまで来たのならと全てを知るつもりだった。彼女の口から全てを、事実を聞きたかった。
「そいつのために開けたんやろ」
耳朶を軽く引っ張ってやると、名前は目を閉じて溜息を吐いた。眉間には皺が寄っている。
「……ちゃう。開けられた、が正しい」
名前の目は財前の方を見ない。合わせないように目を伏せている。名前は財前の手を振り払うと、自身の手で顔を覆った。
「いつやったか忘れたわ。前付き合っとった人がセックスの後に開けてん。気ぃ失っとる間に、勝手に」
財前は静かに息を呑んだ。
「でも、消えてもうた。人の体に穴開けてどっか行った。結婚するからって。私邪魔なんやって。突然連絡取れへん思うたら、このザマ。会う度に、好きやとか愛してんでとか、薄っぺらい中身のない言葉を真に受けて、この狭い部屋であの人を待っとった。美味しいって笑うてご飯食べる姿も、お前は吸うなよって言って私の頭撫でながら吸い続ける姿も、昨日のことのように思い出せる」
震え始めた声。名前は起き上がると、ポケットに入れていたであろう煙草とライターを近くにある机に放り投げた。
「煙草吸うてんのもあの人を忘れられへんから。あの人が吸うてたのを真似して吸うて、自分慰めてんの。捨てられても、この体のどっかであの人を求めてまう。次会えたら、私も吸えるようになったんよって言いたくて」
名前はベッドから立ち上がると、棚からいつも着させられているスウェットを出しては床に投げつけた。
「スウェットも、あの人が残していったもんやよ。光クンにわざと着さした」
そしてアクセサリーの入った箱を取り出すと、煙草とライターの横に乱雑に置いた。
「ピアスつけへんのは、少しだけ踏ん切りがついたから。今まで外す事さえ出来ひんくて。もう戻ってこうへんのに、もしかしてって思う自分と決別するために」
名前はその場にしゃがみ込んで、何度目かわからない溜息を吐く。
「全部あの人のためやったのに。わかっとったんよ。私は二番手やって、途中で。でも、あの人の優しさに私は溺れてしもうた」
髪の毛をかき上げて嘆く姿に、財前は何も言えなかった。彼女の強がりに、慰めの言葉一つ見つけられない。
「アホやろ。ほんまにどうしようもないアホやねん」
自虐しながらもケタケタと笑って見せる名前。財前には名前が壊れた玩具のように見えて恐怖を覚えた。
「……満足した?あんたが聞きたかった真実は、これやよ」
名前はへらりと笑った。いつもと変わらない、だらしのない顔だった。
整頓された部屋も、タッパー詰めされた料理も、煙草も、ピアスも。全部全部クソ野郎のせいだったのだと、財前は初めて知った。
名前は深呼吸をしてから立ち上がると、今にも泣きだしそうな顔で帰宅を催促する。
「今日はもう帰り」
財前は動かなかった。否、動けなかった。堪えようのない怒りに震え、ベッドから降りると財前は名前の手首を掴む。
「なんで、そないに…笑っとけんねん……」
「好きやからやよ。酷い人でも、一時的でも、愛してくれた事実は変わらへん」
理解ができなかった。わかっているのに、わからないフリをし続ける意味が。
財前は名前のことをわかったつもりでいた。この半年間、彼女のことをよく知ったつもりだったのに、何も知らなかった。何も気づけなかった自分と、一ミリでも自身に向いてくれなかった彼女の想いが財前の感情をかき乱す。
「そんなん、おかしいやろ……何が愛やねん……」
ボロ、と零れる涙。力なく、ゆっくり床に落ちていく財前の身体。の足元名前で次々に小さな水溜まりをつくっていく。名前がそれを愛だと肯定するのであれば、俺のこの涙は、この怒りは何なのだと、財前には一つもわからなかった。恐らく、わかりたくなかったが最も適当なのだろう。
名前は財前の後を追って静かにしゃがんだ。しかし、財前自身に触れることはなく、傍観するだけ。
「目ぇ溶けてまうよ」
「うるさい」
ぐずぐずに濡れた頬を拭うことなく、財前は噛みつくように名前の口を塞いだ。そしてそのまま二人は体を重ねた。この日ばかりは普段よりも特別優しく、静かに抱いた。可視化できない傷を慰めるように、目一杯優しく。
***
「なあ、ピアスちょうだい」
薄暗い空間で掠れた声が強請る。財前に背を向け、寝転ぶ名前は何を思ってそれを口にしたのか。財前は隣に座ったまま、その背中を眺めている。
「絶対あげへん」
「ケチ」
いとも簡単に一蹴すると、財前は無意識に名前の頭に触れた。短くなった髪を流れの通りに優しく手で梳かしていく。
「光クン」
「なに」
「なんでそないに優しゅうするん」
財前の手が止まった。
「……言葉が欲しいんすか」
「嘘」
ギシ、とスプリングが軋み、財前の影が名前に落ちる。そして腫物に触れるように耳朶に触れた。小さな小さな傷痕があまりにも憎い。それでも財前は抱える感情を殺してでも、彼女を選んでしまう自分を嘲笑った。
「傍におったるわ。あんたの穴が埋まるまで、ずっと」