下手くそに愛を叫べⅠ
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「名前さん!」
私を見つけては、すぐに顔を明るくさせて名を呼んだ。ぴょこぴょこと背伸びを繰り返しながら手を振る姿は私の目に可愛らしく映る。
「ごめん、遅なって」
彼の傍に駆け寄ってから謝罪すると、彼は変わらず頬を緩ませて私の遅刻を許してくれた。
「俺も今来たとこやから大丈夫です」
さらっとこういう事を言えてしまう彼。元々の性格が人たらしなのか何なのか。むずがゆい気持ちを抑えてありがとうと伝えた。
それはそうと、なぜ今私達は二人で会っているのか。それは全国大会終了後までに遡る。泣きじゃくった彼を家の近くまで送り、私も帰宅したところ、彼からメッセージが届いていた。確認すると、律儀にお礼の言葉が綴られていた。
『私は何もしてへんよ』
そう送るも、余程泣いたことを気にしているのか、何かお礼をしたいとのことだった。彼の申し出に、相手が同年ならまだしもと頭を悩ませる。相手は十五歳の男の子だ。自分が中学生のときを思い返しても、彼を納得させるだろう答えは出てこない。
んん、と部屋の中を見渡し、何かヒントになるものはないかと探す。ふと本棚に目がいった私はあるものを思い出し、背幅の広い本がきっちり詰まった箇所からあるものを取り出した。それは、友人と一緒に行こうと話していた映画の前売り券。枚数は二枚。本来ならば友人と観に行くはずだったのだが、その相手がバイトが入ったせいで行けなくなっていた。新たに予定を立てようにもお互い忙しく、有耶無耶になってしまっていたのだ。どうせなら、これの相手をしてもらおう。興味ないんだったら興味ないで断ってもらおう。そう考えて返信を送ろうとしたが、送信ボタンを押す手が止まった。誘い言葉を消し、打ち直す。
『韓国映画、観たことある?』
予定していた映画は友人セレクト。マフィアの抗争を描いたアクションもの。友人の好きな俳優が主演だったために付き添いで買ったチケットだった。私はアクションが見たくて誘われただけで、映画について詳しくない。だが、さすがに中学生相手にこの内容で大丈夫か?と自問自答を重ねた。
邦画だったらもう少し誘いやすかったかもしれない。しかし、既に買ってあるからどうにもならない。中学生で韓国映画を選り好みする子などいるだろうか、と返信を待っていると、
『観ますよ』
『好きでよう観てます』
と返ってきていた。お姉ちゃんや妹の影響だろうか。一瞬そう考えたが深く気にすることなく、すぐに返事を送る。
『空いてる日あったら付き合ってほしい』
言葉と共に、チケットの写真を添付した。すると、彼から自分でいいのかという確認が返ってくる。チケットを余らせていると説明すると、彼からの了承が届いた。これでチケットを無駄にしないし、彼の気持ちの処理も出来たし、と満足していた。
スケジュール帳に書いておこうとバッグの中を探っている最中、私はふと気づいてしまった。これは、私から誘ってしまったデートなのではないか、と。
デートの文字が頭に浮かぶと、一気に穴という穴から汗が噴き出した。これはまだ許される範疇なのだろうか。下心じゃなく、ただチケットを余らすのが勿体ないというだけ。それだけのこと。
自身を落ち着けようとするも、急にやってきた焦りはそう易々と緩和されない。やってしまったか、と自分の詰めの甘さに溜息が出る。文面からわかる彼の喜びを今更奪うのも気が引けて、私は観念して当日待ち合わせ場所へと向かった。
「ごめん、遅なって」
「俺も今来たとこやから大丈夫です」
こうして冒頭に至る。
急いで来たせいで浮かんだ汗。それを拭きとるように額を手の甲で抑える。自分から約束してしまった今日という日を緊張しているのかもしれない。
まだ去ることのない暑さに辟易していると、どこからか妙な視線を感じた。周囲を見渡すと、歩みを止めることのない人々の中で唯一こちらを見ている人物がいた。四天宝寺中の制服を着た少女が一人、じっとりと舐め回すようにこちらを見つめている。
隣にいる彼は気付いてないんだろう。気付いているのは、私一人。その目は明らかに私の隣にいる彼を見ていて、私は罪悪感を覚えた。
「……名前さん?」
蔵ノ介くんの声で我に返る。
「誰か知り合い?」
「ううん。ちゃうよ。気のせいやったわ」
適当に誤魔化して、再び同じ場所に目をやった。しかし、そこに女の子の姿はなかった。
「はあ~……おもろかったあ……」
暗闇から出て、小さく伸びをする。想像以上の激しいアクションに終始ハラハラしっぱなしで、手に汗握る展開に私の目は釘付けだった。
「久しぶりに映画来たから、余計おもろかったです」
「ほんま?よかった」
蔵ノ介くんも満足しているようで胸を撫で下ろした。せっかく来たのなら、楽しんでもらいたかったからこれで良かったのだろう。
「結構見るんですか?」
「友達に連れられてな。あんま詳しないから教えてもらうことばっかりやけど」
ふふ、と笑うと、彼は少し緊張した様子で私の名を呼んだ。
「名前さんさえよかったら、また行きませんか」
彼の言葉に一瞬身構える。あまりにも直接的な次に固唾を呑んだ。
「……チケット、余ったら考える」
「ほな積極的に余らせてほしいです」
表に出る感情を悟られまいと彼から顔を背ける。
それでも彼はわかっているんだろう。知っているんだろう。私の抱える想いが同じように色づいていることに。
◇ ◇ ◇
木々の色がまばらに変わり始め、吹く風にも冷たさが増した今日この頃。私は変わらず家庭教師として勉強を教えていた。
びっしりと書かれた答案と明朝体の文字列を見比べながら赤いボールペンを走らせる。
「よし、完璧」
キャップを被せ、ノートを返すと教え子はニコニコと笑っていた。
「やったあ。これで応用もいけるわ」
「他、不安なとこない?」
「ん~……あと、ここ」
指差された問題に目を通していると、彼女は独り言のように呟き始めた。
「そういやくーちゃんな、高校日本代表選手合宿?っていうやつに行くらしいねん」
その言葉に私は思わず手を止めて聞き返していた。
「……テニスの日本代表?」
「詳しいこと知らんのやけど、選ばれたんやて」
すごいことなんだろう。日本代表なのだから。喜ぶべきことなんだろうけれど、どこか素直に喜べない自分がいる。胸がチクチクと痛む。
「へえ、そうなんや。すごいなあ」
目を細め、口角を上げる。それが、無理矢理作られたものだと気付かれないように。
「ほな、また金曜日」
「はーい」
お姉ちゃんと別れ、白石宅を後にする。玄関を出て少し歩くと、学校帰りの蔵ノ介くんと鉢合わせた。挨拶を交わすと、彼はスマホで時計を確認した。
「今帰りですか?」
彼の問いに頷くと、彼は体を反転させた。
「送ります」
「ええよ、大丈夫」
手を振って遠慮するが、彼も彼で引かない。
「送らせてください。話したいこともありますし」
話したい事?と首を傾げるが、彼は全く気にしていないようだった。わざわざ会って話すことの見当がつかないが、私は彼の言葉に甘えた。
「ほな行きましょか」
彼に促されるまま、再び歩き始めたが、彼からの話が何なのかわからない。その話へと舵を切る前に、他愛のない話で盛り上がってしまった。
「お姉ちゃんから聞いたで。日本代表に選ばれたって」
「特別参加、らしいですけどね」
「すごいなあ……」
照れながらも誇らしげに話す彼が眩しかった。彼はこれから私が想像する以上の世界を見るんだろう。そして、私がいる場所とかけ離れていくんだ。
駅が見え、話したい内容がわからないままだったが、帰ろうとした時だった。
「ほな、またね」
手を振ろうと右手を上げた瞬間、上げた手を引っ張られ、温もりに包まれる。擦れるシャツの音と触れる肌で私は蔵ノ介くんに抱きしめられているのだと気付いた。硬い胸板に直接香る少年の匂い。それは酷く甘い、危険な香りだった。
「このまま、聞いてください」
低くなった彼の声が鼓膜を震わせる。腕に込める力も強くなる。そして、互いの鼓動が強く打ち込まれている音を苦しいほど感じてしまう。これ以上は、と警鐘を鳴らす自分がいるのに、体は動かない。
「名前さんのことが」
ああ、お願いやから。それ以上は言わんといて。
言ってしまったら、私はこの関係を壊さなくちゃならない。私は僅かに残る理性で彼の腕から離れた。彼の両腕を掴んで、一歩、二歩と離れた。
「ごめん」
顔を俯かせ、首を横に振った。
「それ以上は、聞けへん」
今彼の顔を見てしまったら、本当に戻れなくなる。
「……言うぐらい、許してほしい」
上から届く震える声。彼の悲痛な叫びが刺さる。
「わかるやろ。蔵ノ介くんは賢い子やから」
「……わからへん」
「わかって。お願いやから」
彼が黙ったところで、握っていた手をゆっくりと離した。ふう、と呼吸をして、髪をかき上げる。
「……一つ、聞かして」
「なんですか……」
「なんで、あの時……なんも聞かへんかったん?」
あの時というのは、雨の中濡れたまま軒先にいた時の事。何も言わず、私の気を紛らわせてくれた。聞くべきじゃないとわかっていた。でも、彼が感情を出したいというのなら、それに近いもので代用したかった。直接的な答えを聞いてしまえば、私は首を縦に振ってしまいそうだったから。
「気付いとったんやろ。あの人が原因で泣いとったって」
「……聞きたかった気持ちはありました。でも、」
その先が続かない。それでも私は続くであろう言葉を待った。
「そのことを思い出しながら悲しい顔をする名前さんを見たなかったんです」
あんたの方が傷ついた顔しとったやろ。そう言ってやりたかった。
前に見た彼の表情と今の表情が被る。今だって崩れてしまいそうなほど脆い顔をしているのに。
私は彼の頬にそっと触れて、溢れそうになる感情を押し殺した。
「その優しさは、他の子にあげて」
私の願いを聞いた彼は何も言わずに口を一文字に結んだ。それを確認してから、彼の頬から手を外した。
ごめんな。私はその言葉だけを残して、彼の元から逃げた。
荒々しく玄関を開け、靴箱の上のスペースに鍵を叩きつけた。自宅に着いたことで気が抜けたのか、玄関扉に背を預けたまま、ずるずると地べたに座り込んだ。
「何やってんねやろ……私……」
呆然としながら静かに涙が零れる。
わかっている。私は彼のことが好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。好きだから離したくなくて。好きだから拒めなくて。好きだから放っておけなくて。好きだから、触れた。何も考えなくていいのなら、彼の気持ちを手放しで喜べた。彼の気持ちだってわからないわけじゃない。痛いほど伝わっている。通じ合っているのに、一歩踏み出せない。その理由なんて簡単だ。大きく言ってしまえば年齢。今年で二十の私。今年で十五の彼。そして日本代表の文字が頭にこびりついて離れない。彼の世界はこれからだ。私が邪魔をしてしまうんじゃないかと不安になる。それならば、一歩引くのが賢明な判断なのではないか。
「なんで、こんなに……好きなんやろ……」
素直に伝えてくれる彼に対して逃げてばっかりの私。ちゃんと話さないと。無理だとダメだと言わなくちゃならないのに。離れたくないから、ぼやかしたままで居続けようとしてしまう。
もっと年が離れてたら簡単だった?同い年だったらすぐに首を縦に振れた?
「ちゃんとせな……」
このまま思い出にしてしまうのが一番綺麗なのだと、私は信じて疑わなかった。
私を見つけては、すぐに顔を明るくさせて名を呼んだ。ぴょこぴょこと背伸びを繰り返しながら手を振る姿は私の目に可愛らしく映る。
「ごめん、遅なって」
彼の傍に駆け寄ってから謝罪すると、彼は変わらず頬を緩ませて私の遅刻を許してくれた。
「俺も今来たとこやから大丈夫です」
さらっとこういう事を言えてしまう彼。元々の性格が人たらしなのか何なのか。むずがゆい気持ちを抑えてありがとうと伝えた。
それはそうと、なぜ今私達は二人で会っているのか。それは全国大会終了後までに遡る。泣きじゃくった彼を家の近くまで送り、私も帰宅したところ、彼からメッセージが届いていた。確認すると、律儀にお礼の言葉が綴られていた。
『私は何もしてへんよ』
そう送るも、余程泣いたことを気にしているのか、何かお礼をしたいとのことだった。彼の申し出に、相手が同年ならまだしもと頭を悩ませる。相手は十五歳の男の子だ。自分が中学生のときを思い返しても、彼を納得させるだろう答えは出てこない。
んん、と部屋の中を見渡し、何かヒントになるものはないかと探す。ふと本棚に目がいった私はあるものを思い出し、背幅の広い本がきっちり詰まった箇所からあるものを取り出した。それは、友人と一緒に行こうと話していた映画の前売り券。枚数は二枚。本来ならば友人と観に行くはずだったのだが、その相手がバイトが入ったせいで行けなくなっていた。新たに予定を立てようにもお互い忙しく、有耶無耶になってしまっていたのだ。どうせなら、これの相手をしてもらおう。興味ないんだったら興味ないで断ってもらおう。そう考えて返信を送ろうとしたが、送信ボタンを押す手が止まった。誘い言葉を消し、打ち直す。
『韓国映画、観たことある?』
予定していた映画は友人セレクト。マフィアの抗争を描いたアクションもの。友人の好きな俳優が主演だったために付き添いで買ったチケットだった。私はアクションが見たくて誘われただけで、映画について詳しくない。だが、さすがに中学生相手にこの内容で大丈夫か?と自問自答を重ねた。
邦画だったらもう少し誘いやすかったかもしれない。しかし、既に買ってあるからどうにもならない。中学生で韓国映画を選り好みする子などいるだろうか、と返信を待っていると、
『観ますよ』
『好きでよう観てます』
と返ってきていた。お姉ちゃんや妹の影響だろうか。一瞬そう考えたが深く気にすることなく、すぐに返事を送る。
『空いてる日あったら付き合ってほしい』
言葉と共に、チケットの写真を添付した。すると、彼から自分でいいのかという確認が返ってくる。チケットを余らせていると説明すると、彼からの了承が届いた。これでチケットを無駄にしないし、彼の気持ちの処理も出来たし、と満足していた。
スケジュール帳に書いておこうとバッグの中を探っている最中、私はふと気づいてしまった。これは、私から誘ってしまったデートなのではないか、と。
デートの文字が頭に浮かぶと、一気に穴という穴から汗が噴き出した。これはまだ許される範疇なのだろうか。下心じゃなく、ただチケットを余らすのが勿体ないというだけ。それだけのこと。
自身を落ち着けようとするも、急にやってきた焦りはそう易々と緩和されない。やってしまったか、と自分の詰めの甘さに溜息が出る。文面からわかる彼の喜びを今更奪うのも気が引けて、私は観念して当日待ち合わせ場所へと向かった。
「ごめん、遅なって」
「俺も今来たとこやから大丈夫です」
こうして冒頭に至る。
急いで来たせいで浮かんだ汗。それを拭きとるように額を手の甲で抑える。自分から約束してしまった今日という日を緊張しているのかもしれない。
まだ去ることのない暑さに辟易していると、どこからか妙な視線を感じた。周囲を見渡すと、歩みを止めることのない人々の中で唯一こちらを見ている人物がいた。四天宝寺中の制服を着た少女が一人、じっとりと舐め回すようにこちらを見つめている。
隣にいる彼は気付いてないんだろう。気付いているのは、私一人。その目は明らかに私の隣にいる彼を見ていて、私は罪悪感を覚えた。
「……名前さん?」
蔵ノ介くんの声で我に返る。
「誰か知り合い?」
「ううん。ちゃうよ。気のせいやったわ」
適当に誤魔化して、再び同じ場所に目をやった。しかし、そこに女の子の姿はなかった。
「はあ~……おもろかったあ……」
暗闇から出て、小さく伸びをする。想像以上の激しいアクションに終始ハラハラしっぱなしで、手に汗握る展開に私の目は釘付けだった。
「久しぶりに映画来たから、余計おもろかったです」
「ほんま?よかった」
蔵ノ介くんも満足しているようで胸を撫で下ろした。せっかく来たのなら、楽しんでもらいたかったからこれで良かったのだろう。
「結構見るんですか?」
「友達に連れられてな。あんま詳しないから教えてもらうことばっかりやけど」
ふふ、と笑うと、彼は少し緊張した様子で私の名を呼んだ。
「名前さんさえよかったら、また行きませんか」
彼の言葉に一瞬身構える。あまりにも直接的な次に固唾を呑んだ。
「……チケット、余ったら考える」
「ほな積極的に余らせてほしいです」
表に出る感情を悟られまいと彼から顔を背ける。
それでも彼はわかっているんだろう。知っているんだろう。私の抱える想いが同じように色づいていることに。
◇ ◇ ◇
木々の色がまばらに変わり始め、吹く風にも冷たさが増した今日この頃。私は変わらず家庭教師として勉強を教えていた。
びっしりと書かれた答案と明朝体の文字列を見比べながら赤いボールペンを走らせる。
「よし、完璧」
キャップを被せ、ノートを返すと教え子はニコニコと笑っていた。
「やったあ。これで応用もいけるわ」
「他、不安なとこない?」
「ん~……あと、ここ」
指差された問題に目を通していると、彼女は独り言のように呟き始めた。
「そういやくーちゃんな、高校日本代表選手合宿?っていうやつに行くらしいねん」
その言葉に私は思わず手を止めて聞き返していた。
「……テニスの日本代表?」
「詳しいこと知らんのやけど、選ばれたんやて」
すごいことなんだろう。日本代表なのだから。喜ぶべきことなんだろうけれど、どこか素直に喜べない自分がいる。胸がチクチクと痛む。
「へえ、そうなんや。すごいなあ」
目を細め、口角を上げる。それが、無理矢理作られたものだと気付かれないように。
「ほな、また金曜日」
「はーい」
お姉ちゃんと別れ、白石宅を後にする。玄関を出て少し歩くと、学校帰りの蔵ノ介くんと鉢合わせた。挨拶を交わすと、彼はスマホで時計を確認した。
「今帰りですか?」
彼の問いに頷くと、彼は体を反転させた。
「送ります」
「ええよ、大丈夫」
手を振って遠慮するが、彼も彼で引かない。
「送らせてください。話したいこともありますし」
話したい事?と首を傾げるが、彼は全く気にしていないようだった。わざわざ会って話すことの見当がつかないが、私は彼の言葉に甘えた。
「ほな行きましょか」
彼に促されるまま、再び歩き始めたが、彼からの話が何なのかわからない。その話へと舵を切る前に、他愛のない話で盛り上がってしまった。
「お姉ちゃんから聞いたで。日本代表に選ばれたって」
「特別参加、らしいですけどね」
「すごいなあ……」
照れながらも誇らしげに話す彼が眩しかった。彼はこれから私が想像する以上の世界を見るんだろう。そして、私がいる場所とかけ離れていくんだ。
駅が見え、話したい内容がわからないままだったが、帰ろうとした時だった。
「ほな、またね」
手を振ろうと右手を上げた瞬間、上げた手を引っ張られ、温もりに包まれる。擦れるシャツの音と触れる肌で私は蔵ノ介くんに抱きしめられているのだと気付いた。硬い胸板に直接香る少年の匂い。それは酷く甘い、危険な香りだった。
「このまま、聞いてください」
低くなった彼の声が鼓膜を震わせる。腕に込める力も強くなる。そして、互いの鼓動が強く打ち込まれている音を苦しいほど感じてしまう。これ以上は、と警鐘を鳴らす自分がいるのに、体は動かない。
「名前さんのことが」
ああ、お願いやから。それ以上は言わんといて。
言ってしまったら、私はこの関係を壊さなくちゃならない。私は僅かに残る理性で彼の腕から離れた。彼の両腕を掴んで、一歩、二歩と離れた。
「ごめん」
顔を俯かせ、首を横に振った。
「それ以上は、聞けへん」
今彼の顔を見てしまったら、本当に戻れなくなる。
「……言うぐらい、許してほしい」
上から届く震える声。彼の悲痛な叫びが刺さる。
「わかるやろ。蔵ノ介くんは賢い子やから」
「……わからへん」
「わかって。お願いやから」
彼が黙ったところで、握っていた手をゆっくりと離した。ふう、と呼吸をして、髪をかき上げる。
「……一つ、聞かして」
「なんですか……」
「なんで、あの時……なんも聞かへんかったん?」
あの時というのは、雨の中濡れたまま軒先にいた時の事。何も言わず、私の気を紛らわせてくれた。聞くべきじゃないとわかっていた。でも、彼が感情を出したいというのなら、それに近いもので代用したかった。直接的な答えを聞いてしまえば、私は首を縦に振ってしまいそうだったから。
「気付いとったんやろ。あの人が原因で泣いとったって」
「……聞きたかった気持ちはありました。でも、」
その先が続かない。それでも私は続くであろう言葉を待った。
「そのことを思い出しながら悲しい顔をする名前さんを見たなかったんです」
あんたの方が傷ついた顔しとったやろ。そう言ってやりたかった。
前に見た彼の表情と今の表情が被る。今だって崩れてしまいそうなほど脆い顔をしているのに。
私は彼の頬にそっと触れて、溢れそうになる感情を押し殺した。
「その優しさは、他の子にあげて」
私の願いを聞いた彼は何も言わずに口を一文字に結んだ。それを確認してから、彼の頬から手を外した。
ごめんな。私はその言葉だけを残して、彼の元から逃げた。
荒々しく玄関を開け、靴箱の上のスペースに鍵を叩きつけた。自宅に着いたことで気が抜けたのか、玄関扉に背を預けたまま、ずるずると地べたに座り込んだ。
「何やってんねやろ……私……」
呆然としながら静かに涙が零れる。
わかっている。私は彼のことが好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。好きだから離したくなくて。好きだから拒めなくて。好きだから放っておけなくて。好きだから、触れた。何も考えなくていいのなら、彼の気持ちを手放しで喜べた。彼の気持ちだってわからないわけじゃない。痛いほど伝わっている。通じ合っているのに、一歩踏み出せない。その理由なんて簡単だ。大きく言ってしまえば年齢。今年で二十の私。今年で十五の彼。そして日本代表の文字が頭にこびりついて離れない。彼の世界はこれからだ。私が邪魔をしてしまうんじゃないかと不安になる。それならば、一歩引くのが賢明な判断なのではないか。
「なんで、こんなに……好きなんやろ……」
素直に伝えてくれる彼に対して逃げてばっかりの私。ちゃんと話さないと。無理だとダメだと言わなくちゃならないのに。離れたくないから、ぼやかしたままで居続けようとしてしまう。
もっと年が離れてたら簡単だった?同い年だったらすぐに首を縦に振れた?
「ちゃんとせな……」
このまま思い出にしてしまうのが一番綺麗なのだと、私は信じて疑わなかった。