下手くそに愛を叫べⅠ
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水に濡れたアスファルトが独特な臭いを放ち、天候の悪さを知る。よく通うスポーツ店から出ると、そこは絶え間なく降りしきる雨が俺を迎えた。季節柄仕方のないことだとはいえ、空に広がる灰色が心にも染み渡っていく。
「天気予報外れたなあ……」
小さく呟き、用意していた傘を開く。ボン、と音を立てて咲いた透明は、ビチビチと大きな水玉を受けては弾いた。貴重な休みを使って出てきたのに、あまりにも激しい雨に心は沈んでしまう。ぼんやりと騒がしい雨を眺めて脳裏に浮かぶのはあの出来事。あの人、名前さんと初めてまともに話したときのこと。あのときも今日のような激しい雨が降っていた。ずっと声をかけたくて、ずっと機会をうかがっていた。
姉の家庭教師として家に来て、玄関先で姉と話す姿や声、姉からの情報で惹かれた。それはもう、あっさりと。簡単に俺は落ちた。
初めて彼女を気にしたのは、彼女が家に来るようになってすぐ。俺の真正面を偶然通った際に、さりげなく香るそれが鼻腔を蕩かした。ふわりと香る甘い匂いが忘れられなかった。俺自身に嵌って離れない香り。匂いに誘われて惑う蝶や蜂の気分に襲われた。それから連鎖的に彼女を追うようになった。知れば知るほど更に先を求めてしまうのは、これが恋故か。そう認知するのに時間はかからなかった。
今もこうして一度こびりついてしまった恋心は落ちることなく、燻らせたまま残っている。諦めたと言っても簡単にいくはずもなく、泣き出してしまいそうな衝動に駆られる。芋づる式に彼女との思い出が引き出されるのは、それだけ俺にとって大切なものということ。
傘の柄を握り直し、歩調を早める。しかし俺の足は、とある場所の前で止まった。小さな木造のカフェが目に入った途端、瞬きを繰り返す。その軒下には、あの人が、名前さんがいたから。
最後に彼女を見たのは、恋人と並んで歩いていたとき。だが、どうだ。今彼女は一人だ。そして、この天候のせいか、綺麗に整えていたはずだろう恰好は崩れている。俯きがちな顔からは俺に悲哀を訴えかけてくる。
放っておけない。放っておきたくない。
俺は一目散に彼女の元へと駆け寄った。
「名前、さん?」
恐る恐る傘を閉じながら声をかければ、真っ赤に潤んだ双眸がこちらを向いた。
「くら、のすけ…くん……」
一人雨の中、弱弱しく泣く彼女を見て導き出される答えは一つ。なんと声をかければ正解なのか。戸惑う俺をちらりと覗くと、彼女はばつが悪そうに顔を背けた。次の瞬間、再び雨の中へ飛び出そうとする彼女を俺は腕を掴んで止める。何も決めてない。何も決まらない。ただ感情が先に動き出した。
「離して」
「っ、嫌です」
「ええから、離して」
語気を強める彼女に、俺の手に力が入る。
「大切な人が泣いてんのに、放っとけへん」
すると、彼女はゆっくりと俺の方を体ごと向いた。眉を八の字にして顔を歪めては、雨にも負けないほどの大粒が瞳から零れ落ちる。
俺は一歩彼女に近づき、震える手でその粒を拭った。それは静かに弾け、染み込む。初めて直に触れた彼女の頬は柔らかくて、俺を次へと誘った。
「雨が止むまで……名前さんの時間、もらえませんか」
カフェに入る前に持っていたタオルで簡易的に濡れた箇所を拭きとり、二人で入店した。小さく縮こまる彼女を連れ、奥の方の席に座る。窓の外を見れば、まだ雨は痛いほど降り注いでいた。
雨で冷えた体を温めるためにホットの蜂蜜ジンジャーティーを注文し、俺達は向き合う。だが、お互い黙り込んだままの沈黙が続く。周囲の客は少なく、他の会話も聞こえない。むしろ、店員が扱う食器の音の方が大きいほどだ。
「ごめんな。こんな姿、見せてもうて」
沈黙を破ったのは、名前さんだった。房になった髪を手櫛で直しながら、ぎこちなく笑っていた。その姿のせいで、いろんな感情が渦巻き、俺には彼女が痛々しく映る。
全て聞いてしまいたかった。あなたがそうなってしまった原因は、あの男ですか。そんな悲しい顔をしてまであの人が好きなんですか。
喉まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んで、俺は話の舵を切った。
「ウチの学校、『梅雨をぶっ飛ばせお笑いツアー』って行事があるんですよね」
「……え?」
きょとんと眼を丸くさせる彼女を他所に、俺は話を続けた。彼女が言葉を挟む暇もないほど、俺は矢継ぎ早に学校であったことをつらつらと。自分のことやテニス部のことなど、話題に事欠くことはなかった。少しでも彼女の気が紛れればいい。くすっとでも笑ってもらえれば、儲けもんや。俺はとにかく夢中だった。
すると、途中から彼女の表情は変わった。口元を隠しながらも、体を震わせている。その様子を確認した俺は、心の中でガッツポーズをした。
「ふ、ははッ……もう、お腹痛い……」
限界やわ、と零す彼女は喜色が抑えきれず、泣き顔など忘れてしまいそうなほどの笑顔を咲かせていた。先程とは違う涙を拭う。それを見て、俺はやっと話を終えた。
「テニス部めっちゃおもろい人ばっかやん」
「ウチの連中はどこよりもおもろい自信ありますよ」
「蔵ノ介くんの話聞いてたらようわかったわ」
ふう、と息を吐き、窓の外を眺める。伏目がちな瞳を覆う睫毛が羽ばたく様を俺はじっと見つめていた。
「あ、完全に雨やんでる」
「ほんまですね。ほな帰りましょか」
気付いたときには、既に空から陽光が降り注いでいた。その光がこれからの俺を導いてくれるような、そんな気がした。
店から出ると、彼女は俺と真正面で向き合う。俺の好きな笑顔を浮かべて、
「今日、ありがとうね」
と、口にした。
「俺の話に付き合うてもろただけなんで、気にせんといてください」
そう返すと、彼女は困ったように笑った。
彼女を駅まで送り届け、別れの間際。改札へ向かおうとする彼女を呼び止めた。
決めたんや、俺は。今度こそ自分の気持ちに嘘は吐かへん。
ぎゅっと握り拳をつくり、言葉を待つ彼女に投げかける。
「今度、試合があるんです。時間が合えば……」
来てくれませんか。ドクドクと煩い心臓が痛みを抑えながら言おうとした。しかし、全て言い終わる前に、答えは返ってきた。
「行くわ」
「へっ?」
「試合、見に行くから……かっこええとこ、見せてや?」
ニヤリと笑って俺を指差す。
「ほなね!」
別れの言葉を一方的に言い放つと、彼女は逃げるように改札を通って行く。その背中が愛おしくて、頬は自然と緩んでしまう。そして、じわじわと込み上げる熱さを堪えきれず、人の目を気にすることなくガッツポーズを決めた。
◇ ◇ ◇
「ただいまぁ……っと」
ワンルームに空しく響く自分の声。長い一日を終え、だらしなくバッグを置いて着ていた服を脱ぎ散らかした。なげやりに服を洗濯機に入れ、下着姿のまま小さな洗面所へと向かう。
鏡に映る姿はあまりにも惨めだった。雨や涙のせいでメイクは崩れ、見るからにボロボロ。
鏡に右手を伸ばし、そっと触れる。滑稽な自分に笑いが込み上げ、口元を歪ませた。
「ぶっさいくな顔」
蔵ノ介くんと会う前、私は恋人と会っていた。
本当はデートだった。天気予報は珍しく晴れで、ちょうどええな、なんて話していた。それなのに、どうしてあの時一人だったのか。結論だけ言えば、別れた。フラれたのだ。会って早々、彼の態度がおかしいことに気付き、その理由を尋ねた。何かあったのかと。すると、彼は冷ややかに笑ってこう言った。
「それは俺が言いたい」
その言葉に一瞬、出遅れる。言葉に躓いたのだ。
「どういう意味、それ」
平静を装いながら尋ねると、彼は私から目を逸らしたまま、
「今日、別れるつもりで来てん」
と告げた。普通なら理由を尋ねていたところなのに、私はどこか予知していたように黙り込んでしまう。
「別れる前にちゃんと話しておきたい」
彼は私の言葉を待つことなく、近くの適当な喫茶店に足を踏み入れた。アイスコーヒーを頼み、それが届く前に彼は口を開く。
「前聞いてきたやんか。自分のどこが好きかって。結構わかりやすいとこって答えたけど、今はそれが嫌いなとこやわ」
じくじくと刺さる言葉。鼻の奥が痛み始める。
「俺と付き合うって言うてくれたとき、めっちゃ嬉しくて。これから一番近くで笑うてくれるんや、とか、あれもこれも二人でできるんやって楽しみにしててん。でも、そうやなかった。俺が思っとるように名前の笑顔は見られへんくなった。暗い顔ばっか見とる気する」
彼は机の上に手を置くと、苛立ちを表すように人差し指をカン、カン、と机にぶつけて音を立てる。
「相談してほしいと思うた。俺が言うても、名前はいっつも隠しとった。大丈夫、なんでもない。そればっかりで」
人差し指が鳴らす音が止まる。もう片方の手で髪をかき乱した。ちょうどそのタイミングでアイスコーヒーが到着する。
「もうわからん。俺、お前のことわからへん。わかりやすいとこが好きとか言えた口やないわ」
彼はこちらを傷ついた顔で見据える。
「今まで……一分、一秒でも俺のこと好きやったことある?」
頷けなかった。彼は私が頷かないことを見越していたのだろう。すぐに話を続ける。
「俺、思うねん。名前に、俺じゃない好きな人がおるんちゃうかって。なあ、教えて。おるんやったら、なんで俺と付き合うって言うたんかも」
膝の上で握り合った手が震える。一文字に結んでいた口をゆっくりと開く。
「その人、とは……例え好きやったとしても、付き合えへんから……ほんまに好きになる前に、好きだって言うてくれるあんたと付き合ったら気持ちが切り替えられるんちゃうかなって……」
「それで付き合ってみたけど、好きになれへんかったってこと?」
小さく頷いた。友達までだと伝えた。膨らむのは、彼ではなく蔵ノ介くんへの想いばかりだから。
「最初っから俺の勝ち目ないやん。……アホらし」
彼はそう言うと、席を立ち、そのまま店を出ていった。
当たり前の結果だ。中学生に本気になる恋なんて実るわけがない。そう思って彼を利用したんだ。求められることで、本当の願いを埋められると勘違いした私があまりにも愚かで、醜い。
彼が出て行ってから少し経過してから私も店を後にした。ドアを開けた瞬間、振り出す雨。着飾ったものは全て台無しだろう。それでもすぐにこの場から離れたくて、雨の中に飛び出した。その後、雨が強さを増し始め、さすがに、と一軒のカフェで雨宿りをしようと駆け込む。
すると、出会ってしまった。蔵ノ介くんに。あんなことをしでかしてしまったのに、私は彼の優しさに甘えてしまった。雨のせいだと理由をつけて、彼を頼った。
「大切な人が泣いてんのに、放っとけへん」
彼の言葉が反響する。初めは弟のような可愛い存在だと思っていたのに、素直な彼をいつの間にか気にしていた。中学生の彼なんて、と警鐘を鳴らしても、止まれなくて自分から追い込まれに行ってしまう。私が泣いていた理由など一つも聞かずに笑わそうと必死になる姿に愛おしさが溢れる。彼の優しさが染み渡って、私の感情が沸き起こってしまう。
こんなに優しい彼を、私なんかが好きになってはダメだ。物理的にも精神的にも無理なのだから。
思い出しては再度涙がこみ上げる。私が泣く資格なんてないのに。
私はその場にへたり込み、瞳が溶けるほどの涙を流した。
「天気予報外れたなあ……」
小さく呟き、用意していた傘を開く。ボン、と音を立てて咲いた透明は、ビチビチと大きな水玉を受けては弾いた。貴重な休みを使って出てきたのに、あまりにも激しい雨に心は沈んでしまう。ぼんやりと騒がしい雨を眺めて脳裏に浮かぶのはあの出来事。あの人、名前さんと初めてまともに話したときのこと。あのときも今日のような激しい雨が降っていた。ずっと声をかけたくて、ずっと機会をうかがっていた。
姉の家庭教師として家に来て、玄関先で姉と話す姿や声、姉からの情報で惹かれた。それはもう、あっさりと。簡単に俺は落ちた。
初めて彼女を気にしたのは、彼女が家に来るようになってすぐ。俺の真正面を偶然通った際に、さりげなく香るそれが鼻腔を蕩かした。ふわりと香る甘い匂いが忘れられなかった。俺自身に嵌って離れない香り。匂いに誘われて惑う蝶や蜂の気分に襲われた。それから連鎖的に彼女を追うようになった。知れば知るほど更に先を求めてしまうのは、これが恋故か。そう認知するのに時間はかからなかった。
今もこうして一度こびりついてしまった恋心は落ちることなく、燻らせたまま残っている。諦めたと言っても簡単にいくはずもなく、泣き出してしまいそうな衝動に駆られる。芋づる式に彼女との思い出が引き出されるのは、それだけ俺にとって大切なものということ。
傘の柄を握り直し、歩調を早める。しかし俺の足は、とある場所の前で止まった。小さな木造のカフェが目に入った途端、瞬きを繰り返す。その軒下には、あの人が、名前さんがいたから。
最後に彼女を見たのは、恋人と並んで歩いていたとき。だが、どうだ。今彼女は一人だ。そして、この天候のせいか、綺麗に整えていたはずだろう恰好は崩れている。俯きがちな顔からは俺に悲哀を訴えかけてくる。
放っておけない。放っておきたくない。
俺は一目散に彼女の元へと駆け寄った。
「名前、さん?」
恐る恐る傘を閉じながら声をかければ、真っ赤に潤んだ双眸がこちらを向いた。
「くら、のすけ…くん……」
一人雨の中、弱弱しく泣く彼女を見て導き出される答えは一つ。なんと声をかければ正解なのか。戸惑う俺をちらりと覗くと、彼女はばつが悪そうに顔を背けた。次の瞬間、再び雨の中へ飛び出そうとする彼女を俺は腕を掴んで止める。何も決めてない。何も決まらない。ただ感情が先に動き出した。
「離して」
「っ、嫌です」
「ええから、離して」
語気を強める彼女に、俺の手に力が入る。
「大切な人が泣いてんのに、放っとけへん」
すると、彼女はゆっくりと俺の方を体ごと向いた。眉を八の字にして顔を歪めては、雨にも負けないほどの大粒が瞳から零れ落ちる。
俺は一歩彼女に近づき、震える手でその粒を拭った。それは静かに弾け、染み込む。初めて直に触れた彼女の頬は柔らかくて、俺を次へと誘った。
「雨が止むまで……名前さんの時間、もらえませんか」
カフェに入る前に持っていたタオルで簡易的に濡れた箇所を拭きとり、二人で入店した。小さく縮こまる彼女を連れ、奥の方の席に座る。窓の外を見れば、まだ雨は痛いほど降り注いでいた。
雨で冷えた体を温めるためにホットの蜂蜜ジンジャーティーを注文し、俺達は向き合う。だが、お互い黙り込んだままの沈黙が続く。周囲の客は少なく、他の会話も聞こえない。むしろ、店員が扱う食器の音の方が大きいほどだ。
「ごめんな。こんな姿、見せてもうて」
沈黙を破ったのは、名前さんだった。房になった髪を手櫛で直しながら、ぎこちなく笑っていた。その姿のせいで、いろんな感情が渦巻き、俺には彼女が痛々しく映る。
全て聞いてしまいたかった。あなたがそうなってしまった原因は、あの男ですか。そんな悲しい顔をしてまであの人が好きなんですか。
喉まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んで、俺は話の舵を切った。
「ウチの学校、『梅雨をぶっ飛ばせお笑いツアー』って行事があるんですよね」
「……え?」
きょとんと眼を丸くさせる彼女を他所に、俺は話を続けた。彼女が言葉を挟む暇もないほど、俺は矢継ぎ早に学校であったことをつらつらと。自分のことやテニス部のことなど、話題に事欠くことはなかった。少しでも彼女の気が紛れればいい。くすっとでも笑ってもらえれば、儲けもんや。俺はとにかく夢中だった。
すると、途中から彼女の表情は変わった。口元を隠しながらも、体を震わせている。その様子を確認した俺は、心の中でガッツポーズをした。
「ふ、ははッ……もう、お腹痛い……」
限界やわ、と零す彼女は喜色が抑えきれず、泣き顔など忘れてしまいそうなほどの笑顔を咲かせていた。先程とは違う涙を拭う。それを見て、俺はやっと話を終えた。
「テニス部めっちゃおもろい人ばっかやん」
「ウチの連中はどこよりもおもろい自信ありますよ」
「蔵ノ介くんの話聞いてたらようわかったわ」
ふう、と息を吐き、窓の外を眺める。伏目がちな瞳を覆う睫毛が羽ばたく様を俺はじっと見つめていた。
「あ、完全に雨やんでる」
「ほんまですね。ほな帰りましょか」
気付いたときには、既に空から陽光が降り注いでいた。その光がこれからの俺を導いてくれるような、そんな気がした。
店から出ると、彼女は俺と真正面で向き合う。俺の好きな笑顔を浮かべて、
「今日、ありがとうね」
と、口にした。
「俺の話に付き合うてもろただけなんで、気にせんといてください」
そう返すと、彼女は困ったように笑った。
彼女を駅まで送り届け、別れの間際。改札へ向かおうとする彼女を呼び止めた。
決めたんや、俺は。今度こそ自分の気持ちに嘘は吐かへん。
ぎゅっと握り拳をつくり、言葉を待つ彼女に投げかける。
「今度、試合があるんです。時間が合えば……」
来てくれませんか。ドクドクと煩い心臓が痛みを抑えながら言おうとした。しかし、全て言い終わる前に、答えは返ってきた。
「行くわ」
「へっ?」
「試合、見に行くから……かっこええとこ、見せてや?」
ニヤリと笑って俺を指差す。
「ほなね!」
別れの言葉を一方的に言い放つと、彼女は逃げるように改札を通って行く。その背中が愛おしくて、頬は自然と緩んでしまう。そして、じわじわと込み上げる熱さを堪えきれず、人の目を気にすることなくガッツポーズを決めた。
◇ ◇ ◇
「ただいまぁ……っと」
ワンルームに空しく響く自分の声。長い一日を終え、だらしなくバッグを置いて着ていた服を脱ぎ散らかした。なげやりに服を洗濯機に入れ、下着姿のまま小さな洗面所へと向かう。
鏡に映る姿はあまりにも惨めだった。雨や涙のせいでメイクは崩れ、見るからにボロボロ。
鏡に右手を伸ばし、そっと触れる。滑稽な自分に笑いが込み上げ、口元を歪ませた。
「ぶっさいくな顔」
蔵ノ介くんと会う前、私は恋人と会っていた。
本当はデートだった。天気予報は珍しく晴れで、ちょうどええな、なんて話していた。それなのに、どうしてあの時一人だったのか。結論だけ言えば、別れた。フラれたのだ。会って早々、彼の態度がおかしいことに気付き、その理由を尋ねた。何かあったのかと。すると、彼は冷ややかに笑ってこう言った。
「それは俺が言いたい」
その言葉に一瞬、出遅れる。言葉に躓いたのだ。
「どういう意味、それ」
平静を装いながら尋ねると、彼は私から目を逸らしたまま、
「今日、別れるつもりで来てん」
と告げた。普通なら理由を尋ねていたところなのに、私はどこか予知していたように黙り込んでしまう。
「別れる前にちゃんと話しておきたい」
彼は私の言葉を待つことなく、近くの適当な喫茶店に足を踏み入れた。アイスコーヒーを頼み、それが届く前に彼は口を開く。
「前聞いてきたやんか。自分のどこが好きかって。結構わかりやすいとこって答えたけど、今はそれが嫌いなとこやわ」
じくじくと刺さる言葉。鼻の奥が痛み始める。
「俺と付き合うって言うてくれたとき、めっちゃ嬉しくて。これから一番近くで笑うてくれるんや、とか、あれもこれも二人でできるんやって楽しみにしててん。でも、そうやなかった。俺が思っとるように名前の笑顔は見られへんくなった。暗い顔ばっか見とる気する」
彼は机の上に手を置くと、苛立ちを表すように人差し指をカン、カン、と机にぶつけて音を立てる。
「相談してほしいと思うた。俺が言うても、名前はいっつも隠しとった。大丈夫、なんでもない。そればっかりで」
人差し指が鳴らす音が止まる。もう片方の手で髪をかき乱した。ちょうどそのタイミングでアイスコーヒーが到着する。
「もうわからん。俺、お前のことわからへん。わかりやすいとこが好きとか言えた口やないわ」
彼はこちらを傷ついた顔で見据える。
「今まで……一分、一秒でも俺のこと好きやったことある?」
頷けなかった。彼は私が頷かないことを見越していたのだろう。すぐに話を続ける。
「俺、思うねん。名前に、俺じゃない好きな人がおるんちゃうかって。なあ、教えて。おるんやったら、なんで俺と付き合うって言うたんかも」
膝の上で握り合った手が震える。一文字に結んでいた口をゆっくりと開く。
「その人、とは……例え好きやったとしても、付き合えへんから……ほんまに好きになる前に、好きだって言うてくれるあんたと付き合ったら気持ちが切り替えられるんちゃうかなって……」
「それで付き合ってみたけど、好きになれへんかったってこと?」
小さく頷いた。友達までだと伝えた。膨らむのは、彼ではなく蔵ノ介くんへの想いばかりだから。
「最初っから俺の勝ち目ないやん。……アホらし」
彼はそう言うと、席を立ち、そのまま店を出ていった。
当たり前の結果だ。中学生に本気になる恋なんて実るわけがない。そう思って彼を利用したんだ。求められることで、本当の願いを埋められると勘違いした私があまりにも愚かで、醜い。
彼が出て行ってから少し経過してから私も店を後にした。ドアを開けた瞬間、振り出す雨。着飾ったものは全て台無しだろう。それでもすぐにこの場から離れたくて、雨の中に飛び出した。その後、雨が強さを増し始め、さすがに、と一軒のカフェで雨宿りをしようと駆け込む。
すると、出会ってしまった。蔵ノ介くんに。あんなことをしでかしてしまったのに、私は彼の優しさに甘えてしまった。雨のせいだと理由をつけて、彼を頼った。
「大切な人が泣いてんのに、放っとけへん」
彼の言葉が反響する。初めは弟のような可愛い存在だと思っていたのに、素直な彼をいつの間にか気にしていた。中学生の彼なんて、と警鐘を鳴らしても、止まれなくて自分から追い込まれに行ってしまう。私が泣いていた理由など一つも聞かずに笑わそうと必死になる姿に愛おしさが溢れる。彼の優しさが染み渡って、私の感情が沸き起こってしまう。
こんなに優しい彼を、私なんかが好きになってはダメだ。物理的にも精神的にも無理なのだから。
思い出しては再度涙がこみ上げる。私が泣く資格なんてないのに。
私はその場にへたり込み、瞳が溶けるほどの涙を流した。