下手くそに愛を叫べⅡ
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人の温もりが恋しい季節が腰を据えてやって来た。朝目を覚ましてベッドから出る事を躊躇いたくなるのは人間誰しもが経験したことだろう。
もうすぐ今年が終わる。新たな環境に身を置いた俺としては、あっという間の一年であった。テニス中心であった生活から離れ、大学生となったが、名前さんとの関係性が変化したことが大きかった。一方的であった想いが実り、双方的に育む想いに形が変わった。一つずつ噛みしめるように過ごせた時間が俺の中で積み重なっていく。
ところがどっこい。十二月に突入し、クリスマスも二人で過ごすつもりなのだが、最近関係の雲行きが怪しい。キス以上を阻まれてからというもの、彼女と触れ合うことに躊躇するようになってしまった俺は、直接会えた場でもぎこちない動きを披露する羽目になっている。以前遠慮するなと言われた手前、堂々と手を繋ぎ、名前さんの体温を感じられるように策を練るものの、嫌がられたらどないしよう、と怯えることが増えた。彼女も彼女で俺の挙動不審なところに気付いているにも関わらず、何も触れてこなくなってしまった。あの時、無理矢理話題に触れないように俺が謝罪したのが悪かったのか、意地でも聞き出した方が良かったのか。日が経つにつれ、聞きにくさが増すばかり。彼女の事を考えては、俺はこんなにも意気地のない奴だったのかと自覚する毎日なのだ。
勿論、彼女と身体を重ねたいのは本音だ。だが、決してそれだけではない。想いを伝える表現の一つとして行為を選択するに越したことはないが、彼女が首を横に振るならそれで構わなかった。俺はただ理由が知りたかった。俺という人間が彼女にとって拒否する理由になっているのか、それとも行為自体に嫌悪感を持っているのか。しようとしまいと俺は名前さんのことが知りたい。好きだからこそ知っていたい。誰よりも傍にいるのは俺でいたい。それだけであるのに。
はあ、と溜息を吐いた。彼女が何を思い、何を抱えているのか。可能な限りの候補を考えても、気持ちよく当てはまるピースは見つからない。一人の時間を得ると彼女の事ばかりで、抑えの利かない好意だけが上昇していく。とうに温まった座席に座り直せば、遠くから聞きなれた声が飛んだ。今いる講義室の人数が多くて良かったと思いつつ、周囲に座る同回生からの視線は少しだけ刺さった。
「白石~。クリスマス予定あるやろ?」
苦しそうに何枚も着込んだ友人は鼻の頭を赤くさせている。今からその調子で年を越せるのかと疑問を抱きつつ、座席に置いていた荷物を動かした。
「……分からへん」
溜息交じりに答え、手で顔を覆った。友人の心配を口に出すよりも、自分の不安の溜息を出す方が容易い。顔を覆った瞬間に机に肘をついたが、微妙に勢いが良かったせいか痛みが走った。
「喧嘩か?」
よっこらせ、と年不相応な声を出しながら腰を下ろした。とりあえず候補を挙げてみたと言うように口に微笑みを張り付けている。そのとりあえずが当たっているせいで俺の口は不本意ながら尖った。友人には筒抜けと言っていいほど俺と名前さんの関係を網羅しており、その度に助けられているのはひっくり返しようのない事実であった。だが、こうも簡単に当てられると些か変な気持ちになる。
「喧嘩、とはちゃうんやけど……どないしたらええんか分からんっちゅーか……」
切れ味の悪い言葉を並べた。友人の顔さえ見れず、何もない真っ白な机と面白味のない睨めっこを続けては首を捻る。喧嘩のように関係が悪化したわけでも、言い争ったわけでもない。微妙な線上でぐらぐらと揺れ動いている。すると、友人は何秒か俺を見つめた後、手のひらを差し出していた。
「詳しくどうぞ」
ふざけつつも、最終的には自分のことのように相談に乗ってくれる。弟がいるからか、俺が自分の弱点に負けそうになるとすかさず助け舟を出してくれるのは随分と頼もしい。
友人の長所に救われながら先日の失態を説明すれば、逐次相槌が挟まれた。いい塩梅で挟み込まれたおかげか、俺の口からはするすると詳細が語られた。こういうところも友人の魅力なんだろう。
「へえ、頑張ったんや」
全てを語り終えると、友人は顎を擦りながら数度頷いた。キスで悩んでいたときの俺よりも成長を感じてくれたようで、表情は柔らかかった。だが、俺はそれだけでは満足出来なくなってしまったが故に、弱弱しい返事をした。友人は唸りながら俺の悩みを噛み砕くと、眉間に皺を寄せたまま言葉を選んだ。
「理由なあ……本人にしか分からへんからなあ。他人にとっては何でそないなことでって思う事でも本人にはどうしても譲れへんもんとかあるやろうし」
「……例えば?」
「俺が思いつく候補やったら……経験がないとか、体のコンディションが良くないとか……ちゃうかな。大概は生理のときやし」
項を手で覆いながら天を仰ぐ友人が思い浮かべるのは過去の経験だろう。俺もそういう経験があれば、と思ったが、名前さん以外を考えたことがない上に、この先彼女以外の選択肢など俺からは選ばない。ただあの人の悲しむ顔を見たくない。
「でも、理由言わずに嫌って言うもんなんやろか」
いじけた子供のように呟く。遠慮するなと言われた手前、名前さんが俺に対して何か遠慮しているとは考えづらい。ならば理由は? そこから先が見えなくて路頭に迷ってしまう。すると、友人は気まずそうに顔を歪めて尋ね返した。
「……彼女さん、過去何人?」
思わず喉が絞まった。俺は彼女の過去を何も知らない。ただ知っているのは四年前の微かな記憶。朗々とした声がフラッシュバックする。
「聞いたことないけど、おるにはおったから……」
見たことのある唯一の男の姿が脳裏に映し出されれば、不安を覆いつくそうとする嫉妬が露わになる。ギリギリと内臓のどこかが踏み抜かれているようで嫌悪感が今にも飛び出しそうだった。あの人は名前さんのことを抱いたのだろうか、と想像しただけでも心が灰色に染まる。
「う~ん……ほな経験ないこともないか……」
顎に手を当てて首を捻った。その姿を横目に独り言のように呟いた友人の言葉が刺さった。頭では分かっていながらも心が追い付いていない象徴である。
「やっぱ聞いてみるしかないんちゃうか。何が嫌なんって」
「せやなあ……」
俺から動かなければ意味がないと思うと同時に彼女の沈んだ顔が思い出される。理由が見当たらないのであれば、過去に何かあったのだろうか。かつての恋人と何かあったのだろうか。
結局友人と出し合った答えはどれも腑に落ちず、直接聞くことが正解とした。だが、いつまでも晴れない顔を心配したのか、友人は俺の肩を撫でるように叩いた。そして、力強く一度だけ頷いた。
「こんなんで怯えとったらあかん。お前は出来る奴や」
もう片方の手で拳を作っては言い切った。普段傍にいるからこそ、友人の力強い言葉に背中を押された。
「おおきに。頑張ってみるわ」
「おう」
友人は口を横に大きく広げて笑えば、八重歯が顔を出していた。俺もそれにつられて、ようやく頬の力を緩めた。
「で、さっきの何やったん」
座り直しながら友人の方に身を乗り出した。クリスマスの予定を聞いてきた友人に理由を問えば、ああ、と既に頭から消していたようで、改めて用件を聞いた。
「クリスマス、彼女おらん奴集めてパーティーしよって話。お前も行かへんやろなって思ったから勝手に断ったけど」
机に置いていたスマホを手に取ると、画面をスワイプしながら説明をした。だから聞き方が断定的だったのかとすんなりと理解が及んだ。
「おん。助かる」
頷きながら礼を言えば、友人はこちらを見ることなく立てた親指を上に向けていた。
友人に相談した、その日の夜。スマホを手にしたまま自室でうろうろと彷徨っていた。スマホには名前さんとのトーク画面が映り、いつでも通話可能な状態になっている。今から話すのはクリスマスの予定だけで、拒否した理由は聞かない。理由を聞くための場所をセッティングするだけ。何度も目的の確認をしては深呼吸を繰り返した。
「よっしゃ……!」
意を決して受話器のマークを押せば、特徴的な呼び出し音が流れ込んでくる。痛いほどに打ち付ける心臓が彼女の登場を急かす。一コール、二コール、三コール。ふっと流れ込んでいた音が消えると、好きな音が鼓膜を震わせた。
「もしもし」
「っ、名前さん、今時間ええですか」
「うん。大丈夫やよ。どないしたん?」
いつもの優しいトーンが耳を撫でる。深呼吸を何度も繰り返したのに、その行為が無駄だったと嘲笑うかのように緊張が鼓動に出た。上擦った声に気持ちが引き摺られないためにも、と一瞬だけスマホを顔から離して深呼吸をした。
「クリスマス、会えますか?」
落ち着きを取り戻したが、若干硬い声が尋ねる。名前さんはすぐに頷き、俺との予定を立て始めた。
「うん。空いとるよ。仕事終わりやけど、ええ?」
「名前さんさえええなら、俺は大丈夫です」
「ほなどっか予約しとこか」
トントン拍子に決まっていく予定。何か食べたいものある?と続けざまに問いを重ねる名前さんを遮って、俺は遠慮なく我儘を言った。
「いや……その、二人でゆっくり過ごしたい」
例の話もしたいし、とは言わずに二人きりの空間を強請った。しかし、俺は言葉を口にしてから要件の出し方の問題に気付いた。二人でゆっくり、というのはとどのつまり彼女の部屋で、だ。理由も言わずに願えば、彼女は俺が次の行動を起こそうと思われるのではないか、とコンマ一秒で頭が回転した。だが、言ってしまえば後の祭り。受け入れられることを祈っては、スマホを握りしめる手に力が入り、額には脂汗が浮かんだ。
「……ええよ。うちおいで」
声のトーンは変わらなかったものの、暫しの沈黙が引っ掛かった。だが、俺から手を出す気持ちは一つもない。彼女の口から理由を聞かない限り、キスより先はしないと決めた。何よりも名前さんの悲しむ顔を見たくない。
「ありがとうございます。プレゼント、楽しみにしとってくださいね」
俺は努めて声を明るくして当日の話を盛り上げようとした。関門を突破し、安堵した証拠でもある。電話が終わった後に早速プレゼントを探そう。密かに胸に決め、本来の目的を終えようとしたときだった。
「待って待って」
慌てた声が俺の予定進行を止めた。少しだけ高くなった声が歯切れの悪い声を漏らしている。俺が一度彼女の名を呼べば、迷った末に用件を口にした。
「プレゼントはええから。手ぶらでおいで」
「なんで!?」
突拍子もない言葉に声量が大きくなる。目の前に名前さんがいれば両肩を掴んで揺さぶっていたかもしれない。せっかくの恋人同士のイベントだと言うのに、プレゼント無し。楽しみにしている一つを失うのは精神的に痛過ぎる。俺の頭にはあれやこれや候補がいくつもあったが、彼女の一言で突然消滅した。
「だって、学生なんやから……バイトで稼いだのは自分のために使い」
混乱する俺を他所に、いつもの理由が口から飛び出す。
大学に入学してからスポーツジムでアルバイトを始め、実家暮らしということもあり、他の学生よりも金銭的余裕はあった。学生同士の付き合いと言っても限度はあるから大丈夫だと何度説得しても彼女の首が縦に振れることはなかった。だが、今日という今日は俺も引き下がれない。今日は強気で行くと決めたのだから。
「嫌です。そう言うていつもご飯行って俺に払わしてくれへん」
「私社会人」
彼女の一言のせいで、言葉に詰まってしまった。一番口にされたくなかった言葉で線引きをされ、呆気なく白旗を挙げそうになる。本業が違うのだから仕方ないが、これから何年も続くと思うと不満が積み重なるのも必然だろう。俺も男なのだからかっこいいところを見せたいというのが本音だった。外でデートをすれば支払はいつも名前さん持ちであり、俺がいくら払おうとしても名前さんは一銭も受け取ろうとしない。代わりにと何か物を渡そうにも、「消費出来るものなら」と許容範囲が狭い。何とか意地になって渡せたのは、好物のチョコレートぐらい。ようやくクリスマスなら、と思ったのに、名前さんの壁は高すぎる。
「……嫌や。名前さんだけプレゼント用意するつもりやろ」
名前さんがしでかしそうなことを予測して口にすれば、彼女は分かりやすく口篭った。俺は寂しい思いを堪え、拗ねた口ぶりで拒否をした。
「せやから名前さんが用意しても受け取りません」
「えっ」
えっ、とちゃうねん。思わず手が前髪をかき上げる。溜息を吐きそうになるのをぐっと堪え、俺は最後の追い込みをした。
「そうやないと納得できひん」
正直、名前さんが俺のために何選んでくれるんやろ、と思ったことに嘘は吐かない。だが、俺にプレゼント選びの時間さえ与えてくれないのは間違いなく不服なのだ。せめてこれでイーブンとしたいところ。
「……分かった。そういうことで」
名前さんは不服そうに声を低くして納得した。かっこいい姿ではないが、何とか金銭面の話で初めて勝った。勝ち負けの世界の話ではないが、普段の動向からして俺の勝利と言っても過言ではない。あまり嬉しくはない結果だとしても、第一段階として話す機会を、場所を得られたことに安堵していた。
もうすぐ今年が終わる。新たな環境に身を置いた俺としては、あっという間の一年であった。テニス中心であった生活から離れ、大学生となったが、名前さんとの関係性が変化したことが大きかった。一方的であった想いが実り、双方的に育む想いに形が変わった。一つずつ噛みしめるように過ごせた時間が俺の中で積み重なっていく。
ところがどっこい。十二月に突入し、クリスマスも二人で過ごすつもりなのだが、最近関係の雲行きが怪しい。キス以上を阻まれてからというもの、彼女と触れ合うことに躊躇するようになってしまった俺は、直接会えた場でもぎこちない動きを披露する羽目になっている。以前遠慮するなと言われた手前、堂々と手を繋ぎ、名前さんの体温を感じられるように策を練るものの、嫌がられたらどないしよう、と怯えることが増えた。彼女も彼女で俺の挙動不審なところに気付いているにも関わらず、何も触れてこなくなってしまった。あの時、無理矢理話題に触れないように俺が謝罪したのが悪かったのか、意地でも聞き出した方が良かったのか。日が経つにつれ、聞きにくさが増すばかり。彼女の事を考えては、俺はこんなにも意気地のない奴だったのかと自覚する毎日なのだ。
勿論、彼女と身体を重ねたいのは本音だ。だが、決してそれだけではない。想いを伝える表現の一つとして行為を選択するに越したことはないが、彼女が首を横に振るならそれで構わなかった。俺はただ理由が知りたかった。俺という人間が彼女にとって拒否する理由になっているのか、それとも行為自体に嫌悪感を持っているのか。しようとしまいと俺は名前さんのことが知りたい。好きだからこそ知っていたい。誰よりも傍にいるのは俺でいたい。それだけであるのに。
はあ、と溜息を吐いた。彼女が何を思い、何を抱えているのか。可能な限りの候補を考えても、気持ちよく当てはまるピースは見つからない。一人の時間を得ると彼女の事ばかりで、抑えの利かない好意だけが上昇していく。とうに温まった座席に座り直せば、遠くから聞きなれた声が飛んだ。今いる講義室の人数が多くて良かったと思いつつ、周囲に座る同回生からの視線は少しだけ刺さった。
「白石~。クリスマス予定あるやろ?」
苦しそうに何枚も着込んだ友人は鼻の頭を赤くさせている。今からその調子で年を越せるのかと疑問を抱きつつ、座席に置いていた荷物を動かした。
「……分からへん」
溜息交じりに答え、手で顔を覆った。友人の心配を口に出すよりも、自分の不安の溜息を出す方が容易い。顔を覆った瞬間に机に肘をついたが、微妙に勢いが良かったせいか痛みが走った。
「喧嘩か?」
よっこらせ、と年不相応な声を出しながら腰を下ろした。とりあえず候補を挙げてみたと言うように口に微笑みを張り付けている。そのとりあえずが当たっているせいで俺の口は不本意ながら尖った。友人には筒抜けと言っていいほど俺と名前さんの関係を網羅しており、その度に助けられているのはひっくり返しようのない事実であった。だが、こうも簡単に当てられると些か変な気持ちになる。
「喧嘩、とはちゃうんやけど……どないしたらええんか分からんっちゅーか……」
切れ味の悪い言葉を並べた。友人の顔さえ見れず、何もない真っ白な机と面白味のない睨めっこを続けては首を捻る。喧嘩のように関係が悪化したわけでも、言い争ったわけでもない。微妙な線上でぐらぐらと揺れ動いている。すると、友人は何秒か俺を見つめた後、手のひらを差し出していた。
「詳しくどうぞ」
ふざけつつも、最終的には自分のことのように相談に乗ってくれる。弟がいるからか、俺が自分の弱点に負けそうになるとすかさず助け舟を出してくれるのは随分と頼もしい。
友人の長所に救われながら先日の失態を説明すれば、逐次相槌が挟まれた。いい塩梅で挟み込まれたおかげか、俺の口からはするすると詳細が語られた。こういうところも友人の魅力なんだろう。
「へえ、頑張ったんや」
全てを語り終えると、友人は顎を擦りながら数度頷いた。キスで悩んでいたときの俺よりも成長を感じてくれたようで、表情は柔らかかった。だが、俺はそれだけでは満足出来なくなってしまったが故に、弱弱しい返事をした。友人は唸りながら俺の悩みを噛み砕くと、眉間に皺を寄せたまま言葉を選んだ。
「理由なあ……本人にしか分からへんからなあ。他人にとっては何でそないなことでって思う事でも本人にはどうしても譲れへんもんとかあるやろうし」
「……例えば?」
「俺が思いつく候補やったら……経験がないとか、体のコンディションが良くないとか……ちゃうかな。大概は生理のときやし」
項を手で覆いながら天を仰ぐ友人が思い浮かべるのは過去の経験だろう。俺もそういう経験があれば、と思ったが、名前さん以外を考えたことがない上に、この先彼女以外の選択肢など俺からは選ばない。ただあの人の悲しむ顔を見たくない。
「でも、理由言わずに嫌って言うもんなんやろか」
いじけた子供のように呟く。遠慮するなと言われた手前、名前さんが俺に対して何か遠慮しているとは考えづらい。ならば理由は? そこから先が見えなくて路頭に迷ってしまう。すると、友人は気まずそうに顔を歪めて尋ね返した。
「……彼女さん、過去何人?」
思わず喉が絞まった。俺は彼女の過去を何も知らない。ただ知っているのは四年前の微かな記憶。朗々とした声がフラッシュバックする。
「聞いたことないけど、おるにはおったから……」
見たことのある唯一の男の姿が脳裏に映し出されれば、不安を覆いつくそうとする嫉妬が露わになる。ギリギリと内臓のどこかが踏み抜かれているようで嫌悪感が今にも飛び出しそうだった。あの人は名前さんのことを抱いたのだろうか、と想像しただけでも心が灰色に染まる。
「う~ん……ほな経験ないこともないか……」
顎に手を当てて首を捻った。その姿を横目に独り言のように呟いた友人の言葉が刺さった。頭では分かっていながらも心が追い付いていない象徴である。
「やっぱ聞いてみるしかないんちゃうか。何が嫌なんって」
「せやなあ……」
俺から動かなければ意味がないと思うと同時に彼女の沈んだ顔が思い出される。理由が見当たらないのであれば、過去に何かあったのだろうか。かつての恋人と何かあったのだろうか。
結局友人と出し合った答えはどれも腑に落ちず、直接聞くことが正解とした。だが、いつまでも晴れない顔を心配したのか、友人は俺の肩を撫でるように叩いた。そして、力強く一度だけ頷いた。
「こんなんで怯えとったらあかん。お前は出来る奴や」
もう片方の手で拳を作っては言い切った。普段傍にいるからこそ、友人の力強い言葉に背中を押された。
「おおきに。頑張ってみるわ」
「おう」
友人は口を横に大きく広げて笑えば、八重歯が顔を出していた。俺もそれにつられて、ようやく頬の力を緩めた。
「で、さっきの何やったん」
座り直しながら友人の方に身を乗り出した。クリスマスの予定を聞いてきた友人に理由を問えば、ああ、と既に頭から消していたようで、改めて用件を聞いた。
「クリスマス、彼女おらん奴集めてパーティーしよって話。お前も行かへんやろなって思ったから勝手に断ったけど」
机に置いていたスマホを手に取ると、画面をスワイプしながら説明をした。だから聞き方が断定的だったのかとすんなりと理解が及んだ。
「おん。助かる」
頷きながら礼を言えば、友人はこちらを見ることなく立てた親指を上に向けていた。
友人に相談した、その日の夜。スマホを手にしたまま自室でうろうろと彷徨っていた。スマホには名前さんとのトーク画面が映り、いつでも通話可能な状態になっている。今から話すのはクリスマスの予定だけで、拒否した理由は聞かない。理由を聞くための場所をセッティングするだけ。何度も目的の確認をしては深呼吸を繰り返した。
「よっしゃ……!」
意を決して受話器のマークを押せば、特徴的な呼び出し音が流れ込んでくる。痛いほどに打ち付ける心臓が彼女の登場を急かす。一コール、二コール、三コール。ふっと流れ込んでいた音が消えると、好きな音が鼓膜を震わせた。
「もしもし」
「っ、名前さん、今時間ええですか」
「うん。大丈夫やよ。どないしたん?」
いつもの優しいトーンが耳を撫でる。深呼吸を何度も繰り返したのに、その行為が無駄だったと嘲笑うかのように緊張が鼓動に出た。上擦った声に気持ちが引き摺られないためにも、と一瞬だけスマホを顔から離して深呼吸をした。
「クリスマス、会えますか?」
落ち着きを取り戻したが、若干硬い声が尋ねる。名前さんはすぐに頷き、俺との予定を立て始めた。
「うん。空いとるよ。仕事終わりやけど、ええ?」
「名前さんさえええなら、俺は大丈夫です」
「ほなどっか予約しとこか」
トントン拍子に決まっていく予定。何か食べたいものある?と続けざまに問いを重ねる名前さんを遮って、俺は遠慮なく我儘を言った。
「いや……その、二人でゆっくり過ごしたい」
例の話もしたいし、とは言わずに二人きりの空間を強請った。しかし、俺は言葉を口にしてから要件の出し方の問題に気付いた。二人でゆっくり、というのはとどのつまり彼女の部屋で、だ。理由も言わずに願えば、彼女は俺が次の行動を起こそうと思われるのではないか、とコンマ一秒で頭が回転した。だが、言ってしまえば後の祭り。受け入れられることを祈っては、スマホを握りしめる手に力が入り、額には脂汗が浮かんだ。
「……ええよ。うちおいで」
声のトーンは変わらなかったものの、暫しの沈黙が引っ掛かった。だが、俺から手を出す気持ちは一つもない。彼女の口から理由を聞かない限り、キスより先はしないと決めた。何よりも名前さんの悲しむ顔を見たくない。
「ありがとうございます。プレゼント、楽しみにしとってくださいね」
俺は努めて声を明るくして当日の話を盛り上げようとした。関門を突破し、安堵した証拠でもある。電話が終わった後に早速プレゼントを探そう。密かに胸に決め、本来の目的を終えようとしたときだった。
「待って待って」
慌てた声が俺の予定進行を止めた。少しだけ高くなった声が歯切れの悪い声を漏らしている。俺が一度彼女の名を呼べば、迷った末に用件を口にした。
「プレゼントはええから。手ぶらでおいで」
「なんで!?」
突拍子もない言葉に声量が大きくなる。目の前に名前さんがいれば両肩を掴んで揺さぶっていたかもしれない。せっかくの恋人同士のイベントだと言うのに、プレゼント無し。楽しみにしている一つを失うのは精神的に痛過ぎる。俺の頭にはあれやこれや候補がいくつもあったが、彼女の一言で突然消滅した。
「だって、学生なんやから……バイトで稼いだのは自分のために使い」
混乱する俺を他所に、いつもの理由が口から飛び出す。
大学に入学してからスポーツジムでアルバイトを始め、実家暮らしということもあり、他の学生よりも金銭的余裕はあった。学生同士の付き合いと言っても限度はあるから大丈夫だと何度説得しても彼女の首が縦に振れることはなかった。だが、今日という今日は俺も引き下がれない。今日は強気で行くと決めたのだから。
「嫌です。そう言うていつもご飯行って俺に払わしてくれへん」
「私社会人」
彼女の一言のせいで、言葉に詰まってしまった。一番口にされたくなかった言葉で線引きをされ、呆気なく白旗を挙げそうになる。本業が違うのだから仕方ないが、これから何年も続くと思うと不満が積み重なるのも必然だろう。俺も男なのだからかっこいいところを見せたいというのが本音だった。外でデートをすれば支払はいつも名前さん持ちであり、俺がいくら払おうとしても名前さんは一銭も受け取ろうとしない。代わりにと何か物を渡そうにも、「消費出来るものなら」と許容範囲が狭い。何とか意地になって渡せたのは、好物のチョコレートぐらい。ようやくクリスマスなら、と思ったのに、名前さんの壁は高すぎる。
「……嫌や。名前さんだけプレゼント用意するつもりやろ」
名前さんがしでかしそうなことを予測して口にすれば、彼女は分かりやすく口篭った。俺は寂しい思いを堪え、拗ねた口ぶりで拒否をした。
「せやから名前さんが用意しても受け取りません」
「えっ」
えっ、とちゃうねん。思わず手が前髪をかき上げる。溜息を吐きそうになるのをぐっと堪え、俺は最後の追い込みをした。
「そうやないと納得できひん」
正直、名前さんが俺のために何選んでくれるんやろ、と思ったことに嘘は吐かない。だが、俺にプレゼント選びの時間さえ与えてくれないのは間違いなく不服なのだ。せめてこれでイーブンとしたいところ。
「……分かった。そういうことで」
名前さんは不服そうに声を低くして納得した。かっこいい姿ではないが、何とか金銭面の話で初めて勝った。勝ち負けの世界の話ではないが、普段の動向からして俺の勝利と言っても過言ではない。あまり嬉しくはない結果だとしても、第一段階として話す機会を、場所を得られたことに安堵していた。