下手くそに愛を叫べⅡ
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「さいあく……」
手元に寄せられたジョッキの中に詰められた氷が音を立てる。カラリとぶつかり合う音が異様に重く感じられ、普段との調子の違いを実感した。汗をかくジョッキを何度見送ったかと胃の中に流し込んだ量など到底覚えてない。薄められた琥珀色など軽度の酔いで終わってしまい、物足りなさが更に苛立ちを募らせた。顔にかかる前髪を避けるように額に手を当てれば、溜息を吐いた。
金曜日の夜。仕事終わり。一人で駆け込んだ居酒屋の周囲は浮かれる声で埋められている。団体がほとんどである中、私はカウンター席の一番端でひっそりとアルコールを回していた。
アルコールでも入れれば、感じる痛みも和らぐかと思ったのが間違いだった。むしろ悪化する一方で、明日は休みだと言うのに気持ちは晴れない。空にするジョッキやグラスが増える度に自分が惨めになる。
先日大きな失態を犯してから頭はそれに支配された。仕事となれば切り替えられると思ったのが大きな間違いで、仕事にまで支障をきたした挙句、普段ならしないだろうミスまで生み出していた。上司には「珍しいねえ」と笑って流してもらえたものの、常に調子の悪い状態にアクシデントが起これば、いくら小さくとも胸に刺さって棘が抜けなくなる。原因となる大きな失態は間違いなく恋人との関係であるが、現状のように人との関係を想って調子が出ないのは初めての事だった。だからこそ余計に自分自身を情けなく恥じたのだ。
つい先日、蔵ノ介くんに身体を求められ、理由も言わずに断った。あの出来事の後、連絡を入れようと言葉に迷っている最中に彼から謝罪が送られたのだ。今日はすみませんでした。たったそれだけで、私も謝罪を送ったが文章で理由を綴るのは少しだけ気が引けた。伝えるなら直接言うべきだろう。そう思えば、指先が止まっていた。
あの時拒否をしたのは、生理でも、体調が悪いわけでもなかった。初体験でもないし、と理由が浮き彫りになり始めると、私は乱雑に髪の毛をかき上げた。
蔵ノ介くんと身体を重ねることに嫌悪感はない。何も考えなくていいのなら、あのまま抱かれればよかった。なのに、そうしなかったのは私が原因。悪いのは紛れもなく私。説明しようにも言葉を選び過ぎたあまり蔵ノ介くんの帰宅を阻止し遅れ、考えれば考えるほど何が正解なのかが見えなくなった。ただ彼を傷つけたくなかっただけなのに、結局傷つけているのは私。遠慮するなと言ったくせに、何をやっているんだと心が黒く染まっていく。自分自身がどこにいたいのか分からなくなる。
じわりと視界が歪み、目頭を押さえた。もう一杯だけ飲んで帰ろう。そう決めた瞬間、端に置いていたスマホの明かりが点いた。騒がしくも重い足腰が立つことを拒否し、私はその場で画面をスワイプして耳に当てた。
「……もしもし」
「もしもし~? もうご飯食べた?」
私の沈んだ声色とは対照的な、朗々とした声が耳に届いた。相手は大学時代の友人で、よく一緒にいたメンバーの一人であった。中でも職場が近いのは彼女だけであり、こうして電話をかけてきては食事を共にしている。今日の電話も同じであるはずだ。
「酒なら飲んでる」
ツマミとして頼んだ食べ物は少量であったからか、テーブルの上からは殆ど姿を消していた。あるのは残り少ないジョッキが汗をかいているものだけ。
「一人?」
「うん」
「行ってもいい?」
「うん、来て」
十秒ほどの簡単な会話を終えた後、液体で満たされた腹部を撫でた。そして地図を送り、スマホの画面を下に向けて置いた。だが、心に広がった後悔に嘘は吐けなかった。
いつものように呼んだはいいものの、今の私を晒したくないという意地が今更になって形成され始めた。既に了承してしまえば、来ないでくれなんて言えない。会うなら元気なときにすれば良かった、とアルコールに抗えなくなった自分を馬鹿にするしか出来なかった。
追加で頼んだ日本酒とちびちび戯れ始めてから二十分ほど経つと、彼女は現れた。ケラケラと無邪気に笑いながら薄手のコートを脱ぐ彼女は仕事終わりにしては元気が良い。
「うわ~出来上がってる~」
緩やかに巻かれたブラウンが揺れながら近づく。持っていたバッグとコートをテーブル下の籠に入れ、席に着いた彼女はへらへらと笑っている。私はそんな彼女を黙ったまま一瞥してメニュー表を渡した。
「元気やねえ」
「私からしたら名前の方が元気やで~」
そう言って店員を呼び、お酒とご飯ものを注文し始めた。私もすかさず追加の酒を注文すれば、友人は重ねて水を注文した。
「もう水頼むん?」
店員が去った後、そう尋ねれば友人は丸い目を更に丸くさせて呆れたように笑った。
「名前の分に決まってるでしょ」
「水ならあるやん」
至極真面目に手元にある徳利を持って揺らす。すると友人は私の頭に軽く手刀を食らわした。
「それ日本酒」
不貞腐れて首を竦めれば、友人の指先が頬に触れた。氷に似た指先が溶けていくようで、今の私には丁度良い温度であった。アルコールが存分に回っているお陰か、私自身にダメージはなく、むしろ気持ちよかった。
「あっつ~!」
店内に入ってきたときと同じ笑い声が響いた。他の場所に座る客と比較しても並ぶような勢いの笑いだった。
「こんなに飲むって珍しいなあ」
意外そうに呟きながら友人は私の頬から手を離した。頬に残る熱の箇所をなぞるように自分の指先を這わせ、意識的に長い瞬きをした。
普段飲むと言っても私は常に介抱側で、肝臓の強さには自信があった。一緒に飲みに行った友人や後輩が試し飲みしたいと言えば頼ませ、限界であれば代わりに飲むことなど日常茶飯事であった。どれだけ飲もうとも顔に出ないのが私の飲みの席での姿だった。
「……大したことないわ」
虚勢を張りながらも飲んだ杯数はカウント不可能。端から数える気もなかったが、身体が求めるのだから仕方ない。
ぐい吞みが空になり、再び徳利を傾けたが、水滴が一つ、二つ、と垂れるだけで口が歪んだ。徳利を元の位置に戻し、ほんの数滴を舐めるように飲む。飲みたいときに手元にないもどかしさで酷く背中が丸まった。
「へえ~。名前が来てなんて言うから飛んできたのに」
そんなこと言っただろうか。だが、彼女が来るのは早かった。腕を組んで拗ねる友人を無視して記憶を辿るが、アルコールに邪魔されて思い出せない。彼女がそう言うならそうなんだろう。それにしても敏感な人間だと思う。
改めて友人の顔を覗けば、にやにやといやらしく笑っていた。少しばかりの苛立ちを覚えたが、間違いではないせいで私は白旗を挙げる選択肢しか残っていない。今までも彼女の敏感さに救われているのも確かな事実だった。
「自分がどうしたいんか、分からへん」
酔った勢いで気持ちを吐き捨てた。気概はなくとも、選んだ言葉が迷路の途中であることを明示した。友人は一瞬だけ腰を浮かしてその場に座り直し、丁度運ばれたジョッキを笑顔で受け取った。私は机に置かれるのを眺めるだけで、微動だにせずジョッキのかいた汗を眺めていた。
「……何に対して?」
店員が去ると、友人は話の続きを催促した。私は運ばれたばかりのジョッキからアルコールを摂取し、深い呼吸をしてから答えだけを口にした。
「蔵ノ介くん」
恋人の名だけを呟くと、友人は私を無言で見つめた。そして意外だったのか、へえ、と声を漏らした。
「上手くいってへんの?」
「いってるって言ったら嘘になる。でも、不仲ではない」
自分だけが理解している答えを要点を押さえずに、感情の起伏さえも無しに言葉を紡ぐ。
私が理由のない拒否をしてからというもの、蔵ノ介くんはどことなくよそよそしい。遠慮するなと言ったくせに、近づかれて拒絶をするのは誰だって困惑するに違いない。
「年の差のせい?」
「……まあ、ほとんどそう」
悩みの元を辿れば、年の差に行きつく。意識の差とでも言うのだろうか。私が超えなくちゃならない壁が目の前に待ち構えているのだ。超えたくても一人ではどうにも超えられそうになくて、行き詰まって座り込んでしまっている今、最悪の手段を選ぼうとしている。
「でも分かっててオッケー出したんやろ?」
「分かってる。それなのに自分で面倒にしてる」
ジョッキの汗が垂れる。いつもより狭い視野の中、見ていられるのはそれぐらいであった。
彼女が社会人で、彼氏が学生の破局率が高いのは頭にあった。元々時間の都合が付けづらい上に、生活する環境が違いすぎるのだ。それを私も蔵ノ介くんも理解しているつもりでゆっくりと関係を構築してきたが、ワンステップ上がろうとする足が竦んでいた。
「……聞いても、ええの?」
一向に友人の方を見ない私の顔を彼女は覗き込もうと首を縮めた。私は彼女のか弱くなった声を拾い、淡々とした声で宣言した。
「適当に流して欲しい。勝手に喋るから。煩かったら口にお手拭きでも詰め込んで」
「はぁい」
間延びした返事が耳に届いた。一拍、二拍、と働かない頭に仕事をしているフリをさせてから口を開いた。
以前開かれた飲みの席で蔵ノ介くんのことを話していたため、友人は三年を経て迎えに来てくれたことも、現在進行形で交際していることも知っている。だからこそ、彼女は私達の関係が順調だと思っていた。大学時代、蔵ノ介くんだけを想っていたのは紛れもない事実だったから。
「……一人で、考えてん。蔵ノ介くんとのこと」
そう切り出し、机の端にあるお手拭きに手を伸ばした。そして、右の親指と人差し指で硬い端を捏ねるように触り続けた。
「自分でどう思ってるか整理したくて。でも、考えたら考えるほど悪い事しか考えられへんくなって、付き合うこと自体止めた方が良かったんちゃうんかって思うようになる」
一ミリたりとも思っていないくせに、選ぼうとする自傷行為。出来過ぎた人間を私の横に置いておくのは相応しくないと思ってしまう。
「この間、抱かれるんやろなって場面に出くわしたんやけど拒否してもうた。いずれ来るって分かってたのに怖くなってん。初めてでもないくせに、怯えてんねん。あの子にとって私は何をどうしたって初めてで、でも、それってこれ以上ない幸せやろなって思うても、それ自体が怖いというか」
ふう、と溜息を吐いた。弄り回していたお手拭きを広げて、また同じ形に丸め直す。汚れた箇所を内向きにして外から見えないようにして、爪を立てた。
「別に抱かれたないわけとちゃう。むしろ逆やよ。なのに何もかも不安に思う。あの子が未成年の今、万が一のことが起こったらどうしよ、とか、学生の間ずっと禁止にしとくべきなんか、とか考えだしたらキリない」
「……でも、一番は?」
友人の言葉に、一筋頬が濡れた。重たかった目元が右だけ軽くなった。
「私がまだ、蔵ノ介くんを恋人として思えてへん」
聞かせられるわけが無い言葉を私の唇が弾く。残酷にも程があると思いながら、事実であることに罪の意識が増幅した。
「極端に言うたら、そうやねん。ちゃんと好きやし、蔵ノ介くんに想われてることはめちゃくちゃ嬉しい。迎えに来てくれたのも可笑しくなるくらい嬉しい。でも、蔵ノ介くんが中学生で止まったままやねん。あの子は確かに成長してんのに、私の時計が進まへんせいで躊躇ってる」
誰よりも好きで傍にいたいと思うのに、初心な態度が思い出させるのだ。見た目がいくら大人びたとしても、私を直に追いかけてきた十五歳の彼が透けて見えるのだ。阻むものは何もないと思いながら、唇を重ねても浮かび上がるのは底のない罪悪感。積み重なっていく負の感情があるにも関わらず、それを解決せずにズルズルと引き摺った今。止めるべきであったのに、止められなかったのは私の甘さが招いた。
ただ好きだから。それが理由で彼を握った手を離せない。初めて蔵ノ介くんとキスをしたとき、過去を比較して価値を決定づける訳では無いが、彼とする口付けは昔の何よりも軽やかで簡素で幼稚だった。陳腐で普遍的な口付けに変わりはない。それでも一瞬の熱の交換に心を動かされてしまった。
だから二人で生み出す熱に溺れた。そうであったはずなのに私は二つに分離してしまった。遠慮するなと宣っておきながら、手を引いて欲しいなんて言えるわけがない。それであるのに私が今起こしている行動は、惨たらしい線引きであった。
「真っ直ぐすぎて、眩しい」
また勝手に頬が濡れていく。一度溢れることを覚えれば、二度目は容易い。
時折見せる蔵ノ介くんの焦がれた目が怖い。逸らしたくなる熱烈な目が、今まで培った余裕や虚勢を簡単に壊しそうで一歩、また一歩引き下がろうとしてしまう。
とどのつまり、私は私が可愛いのだ。蔵ノ介くんのことを好きだと言いながら、過去を一つ足りとも見せたくない。見せたら、私が私でいられないような、明確な理由のない恐怖が見えないところから襲ってくる。
「蔵ノ介くんに言うたらええやんか」
「……絶対嫌やわ。こないな姿見せられへん」
いずれ限界が来ることも、蔵ノ介くんに話すべきであることも分かっている。そうであるのに行動に移せないのは、虚栄心から作り上げた我儘のせい。
カラリ。氷が溶けてジョッキの中で崩れる。すると、友人は酒を一口だけ飲み、大きく呼吸をした。
「名前って……蔵ノ介くんのことめちゃくちゃ好きなんやねえ」
しみじみと感想を述べる友人はどことなく嬉しそうで、妙なこそばゆさが身体を襲った。
「……好きやよ。好きやから困ってる」
情けなく次から次へと述懐してしまうのは、いつもと調子が違うから。些細なことだと思われようとも、すぐにおかしくなる訳など彼の事が好きだからに決まっている。
「ふふ。今日は随分と素直で可愛いやんか」
揶揄う調子が私に酒を勧める。ぐっと煽ったジョッキは氷がぶつかり合って騒がしい。氷だけになったジョッキを机に戻すと、友人はほんのりと赤らんだ顔を私に向けた。
「蔵ノ介くんの前でも、そうやって素直やったらええんちゃう?」
何も言えなくなってしまった。出来ることならこうして困っていない。ぐっと喉が詰まると、彼女は私に追い打ちをかける。
「一回、年齢とか属性とか全部取っ払ってもうたらええやん。今の名前みたいにお腹に仕舞い込んで言わへんままの方が蔵ノ介くんのこと傷つけるんちゃうかな」
友人の言葉が鋭利に突き刺さる。熱を持った瞳の奥が痛む。自覚していてもどこかで甘さを見つけ、逃げ惑うのは紛れもなく私の短所。
「名前なら大丈夫やから。話して蔵ノ介くんがはあ?とか言うたら私がどつきまわしに行くから」
笑顔でシャドーボクシングを始める彼女の手をさり気なく握って行動を制止する。丁度誰の目もないからと言っても、ここはカウンター席だ。
「ハハ、ありがと」
重たい頬を上げて礼を告げた。吐き出したことで心は軽くなったが、物事の解決には至ってない。今度は私から進まなければ、ここで終わりになる。
すると、友人は私を手招きながら顔を近づけた。それに釣られて私も顔を寄せると、潜めた声が助言を始めた。
「そうそう。余計なお世話かもしれへんけど、する、せえへん話な」
真剣な表情に、こくりと一度だけ頷いてから耳をそばだてた。そして彼女は確認をしながら話を進めた。
「名前も蔵ノ介くんもしたいことはしたいんやろ?」
「気持ちは、そう」
抱かれたいという気持ちに嘘はない。理性と本能の乖離が激しいせいで、二人分の感情が暴れ回っている。二人が一人に落ち着かない限り、私は進めない。
「それやったら期限設けたらどう?」
友人の提案に首を傾げると、言葉を続けた。
「例えば、何歳になったら解禁します~みたいな。その方が名前も心積もり出来るんとちゃう?」
「期限なあ……」
ラインを決めた方が私にとっても蔵ノ介くんにとっても良いに違いない。特に私にとっては今の蔵ノ介くんに合わせるには当てはまっている。
「抱きたい、抱かれたいの矢印が合ってるんやったら、それも一つの手やと思うな。どうするかは蔵ノ介くんとよう話し合って決めたらええし」
友人の助言に、ゆっくり数度頷いた。私は心の奥底、で大人の対応をしていなければならないと制限をかけていたのかもしれない。平等でいたいと思いながら、平等にしていなかったのは他でもない私だった。
「ちゃーんと、話すんやで」
つん、と鼻の先を人差し指の腹で突かれる。硬くなっていた表情一帯が鼻を中心に解れ、漸く目を細めて笑った。
「ん……時間取れそうなとき考えてみる」
「よし。じゃあこの話は終わり! 次、私の彼氏の話してもええ?」
ぱあ、と顔を満面の笑みに変え、両の手のひらを重ねる友人に私は笑ってしまった。いつも通りと言えばいつも通りで、私は足を組んだ。
「……そっちが本題やろ」
「バレた?」
手元に寄せられたジョッキの中に詰められた氷が音を立てる。カラリとぶつかり合う音が異様に重く感じられ、普段との調子の違いを実感した。汗をかくジョッキを何度見送ったかと胃の中に流し込んだ量など到底覚えてない。薄められた琥珀色など軽度の酔いで終わってしまい、物足りなさが更に苛立ちを募らせた。顔にかかる前髪を避けるように額に手を当てれば、溜息を吐いた。
金曜日の夜。仕事終わり。一人で駆け込んだ居酒屋の周囲は浮かれる声で埋められている。団体がほとんどである中、私はカウンター席の一番端でひっそりとアルコールを回していた。
アルコールでも入れれば、感じる痛みも和らぐかと思ったのが間違いだった。むしろ悪化する一方で、明日は休みだと言うのに気持ちは晴れない。空にするジョッキやグラスが増える度に自分が惨めになる。
先日大きな失態を犯してから頭はそれに支配された。仕事となれば切り替えられると思ったのが大きな間違いで、仕事にまで支障をきたした挙句、普段ならしないだろうミスまで生み出していた。上司には「珍しいねえ」と笑って流してもらえたものの、常に調子の悪い状態にアクシデントが起これば、いくら小さくとも胸に刺さって棘が抜けなくなる。原因となる大きな失態は間違いなく恋人との関係であるが、現状のように人との関係を想って調子が出ないのは初めての事だった。だからこそ余計に自分自身を情けなく恥じたのだ。
つい先日、蔵ノ介くんに身体を求められ、理由も言わずに断った。あの出来事の後、連絡を入れようと言葉に迷っている最中に彼から謝罪が送られたのだ。今日はすみませんでした。たったそれだけで、私も謝罪を送ったが文章で理由を綴るのは少しだけ気が引けた。伝えるなら直接言うべきだろう。そう思えば、指先が止まっていた。
あの時拒否をしたのは、生理でも、体調が悪いわけでもなかった。初体験でもないし、と理由が浮き彫りになり始めると、私は乱雑に髪の毛をかき上げた。
蔵ノ介くんと身体を重ねることに嫌悪感はない。何も考えなくていいのなら、あのまま抱かれればよかった。なのに、そうしなかったのは私が原因。悪いのは紛れもなく私。説明しようにも言葉を選び過ぎたあまり蔵ノ介くんの帰宅を阻止し遅れ、考えれば考えるほど何が正解なのかが見えなくなった。ただ彼を傷つけたくなかっただけなのに、結局傷つけているのは私。遠慮するなと言ったくせに、何をやっているんだと心が黒く染まっていく。自分自身がどこにいたいのか分からなくなる。
じわりと視界が歪み、目頭を押さえた。もう一杯だけ飲んで帰ろう。そう決めた瞬間、端に置いていたスマホの明かりが点いた。騒がしくも重い足腰が立つことを拒否し、私はその場で画面をスワイプして耳に当てた。
「……もしもし」
「もしもし~? もうご飯食べた?」
私の沈んだ声色とは対照的な、朗々とした声が耳に届いた。相手は大学時代の友人で、よく一緒にいたメンバーの一人であった。中でも職場が近いのは彼女だけであり、こうして電話をかけてきては食事を共にしている。今日の電話も同じであるはずだ。
「酒なら飲んでる」
ツマミとして頼んだ食べ物は少量であったからか、テーブルの上からは殆ど姿を消していた。あるのは残り少ないジョッキが汗をかいているものだけ。
「一人?」
「うん」
「行ってもいい?」
「うん、来て」
十秒ほどの簡単な会話を終えた後、液体で満たされた腹部を撫でた。そして地図を送り、スマホの画面を下に向けて置いた。だが、心に広がった後悔に嘘は吐けなかった。
いつものように呼んだはいいものの、今の私を晒したくないという意地が今更になって形成され始めた。既に了承してしまえば、来ないでくれなんて言えない。会うなら元気なときにすれば良かった、とアルコールに抗えなくなった自分を馬鹿にするしか出来なかった。
追加で頼んだ日本酒とちびちび戯れ始めてから二十分ほど経つと、彼女は現れた。ケラケラと無邪気に笑いながら薄手のコートを脱ぐ彼女は仕事終わりにしては元気が良い。
「うわ~出来上がってる~」
緩やかに巻かれたブラウンが揺れながら近づく。持っていたバッグとコートをテーブル下の籠に入れ、席に着いた彼女はへらへらと笑っている。私はそんな彼女を黙ったまま一瞥してメニュー表を渡した。
「元気やねえ」
「私からしたら名前の方が元気やで~」
そう言って店員を呼び、お酒とご飯ものを注文し始めた。私もすかさず追加の酒を注文すれば、友人は重ねて水を注文した。
「もう水頼むん?」
店員が去った後、そう尋ねれば友人は丸い目を更に丸くさせて呆れたように笑った。
「名前の分に決まってるでしょ」
「水ならあるやん」
至極真面目に手元にある徳利を持って揺らす。すると友人は私の頭に軽く手刀を食らわした。
「それ日本酒」
不貞腐れて首を竦めれば、友人の指先が頬に触れた。氷に似た指先が溶けていくようで、今の私には丁度良い温度であった。アルコールが存分に回っているお陰か、私自身にダメージはなく、むしろ気持ちよかった。
「あっつ~!」
店内に入ってきたときと同じ笑い声が響いた。他の場所に座る客と比較しても並ぶような勢いの笑いだった。
「こんなに飲むって珍しいなあ」
意外そうに呟きながら友人は私の頬から手を離した。頬に残る熱の箇所をなぞるように自分の指先を這わせ、意識的に長い瞬きをした。
普段飲むと言っても私は常に介抱側で、肝臓の強さには自信があった。一緒に飲みに行った友人や後輩が試し飲みしたいと言えば頼ませ、限界であれば代わりに飲むことなど日常茶飯事であった。どれだけ飲もうとも顔に出ないのが私の飲みの席での姿だった。
「……大したことないわ」
虚勢を張りながらも飲んだ杯数はカウント不可能。端から数える気もなかったが、身体が求めるのだから仕方ない。
ぐい吞みが空になり、再び徳利を傾けたが、水滴が一つ、二つ、と垂れるだけで口が歪んだ。徳利を元の位置に戻し、ほんの数滴を舐めるように飲む。飲みたいときに手元にないもどかしさで酷く背中が丸まった。
「へえ~。名前が来てなんて言うから飛んできたのに」
そんなこと言っただろうか。だが、彼女が来るのは早かった。腕を組んで拗ねる友人を無視して記憶を辿るが、アルコールに邪魔されて思い出せない。彼女がそう言うならそうなんだろう。それにしても敏感な人間だと思う。
改めて友人の顔を覗けば、にやにやといやらしく笑っていた。少しばかりの苛立ちを覚えたが、間違いではないせいで私は白旗を挙げる選択肢しか残っていない。今までも彼女の敏感さに救われているのも確かな事実だった。
「自分がどうしたいんか、分からへん」
酔った勢いで気持ちを吐き捨てた。気概はなくとも、選んだ言葉が迷路の途中であることを明示した。友人は一瞬だけ腰を浮かしてその場に座り直し、丁度運ばれたジョッキを笑顔で受け取った。私は机に置かれるのを眺めるだけで、微動だにせずジョッキのかいた汗を眺めていた。
「……何に対して?」
店員が去ると、友人は話の続きを催促した。私は運ばれたばかりのジョッキからアルコールを摂取し、深い呼吸をしてから答えだけを口にした。
「蔵ノ介くん」
恋人の名だけを呟くと、友人は私を無言で見つめた。そして意外だったのか、へえ、と声を漏らした。
「上手くいってへんの?」
「いってるって言ったら嘘になる。でも、不仲ではない」
自分だけが理解している答えを要点を押さえずに、感情の起伏さえも無しに言葉を紡ぐ。
私が理由のない拒否をしてからというもの、蔵ノ介くんはどことなくよそよそしい。遠慮するなと言ったくせに、近づかれて拒絶をするのは誰だって困惑するに違いない。
「年の差のせい?」
「……まあ、ほとんどそう」
悩みの元を辿れば、年の差に行きつく。意識の差とでも言うのだろうか。私が超えなくちゃならない壁が目の前に待ち構えているのだ。超えたくても一人ではどうにも超えられそうになくて、行き詰まって座り込んでしまっている今、最悪の手段を選ぼうとしている。
「でも分かっててオッケー出したんやろ?」
「分かってる。それなのに自分で面倒にしてる」
ジョッキの汗が垂れる。いつもより狭い視野の中、見ていられるのはそれぐらいであった。
彼女が社会人で、彼氏が学生の破局率が高いのは頭にあった。元々時間の都合が付けづらい上に、生活する環境が違いすぎるのだ。それを私も蔵ノ介くんも理解しているつもりでゆっくりと関係を構築してきたが、ワンステップ上がろうとする足が竦んでいた。
「……聞いても、ええの?」
一向に友人の方を見ない私の顔を彼女は覗き込もうと首を縮めた。私は彼女のか弱くなった声を拾い、淡々とした声で宣言した。
「適当に流して欲しい。勝手に喋るから。煩かったら口にお手拭きでも詰め込んで」
「はぁい」
間延びした返事が耳に届いた。一拍、二拍、と働かない頭に仕事をしているフリをさせてから口を開いた。
以前開かれた飲みの席で蔵ノ介くんのことを話していたため、友人は三年を経て迎えに来てくれたことも、現在進行形で交際していることも知っている。だからこそ、彼女は私達の関係が順調だと思っていた。大学時代、蔵ノ介くんだけを想っていたのは紛れもない事実だったから。
「……一人で、考えてん。蔵ノ介くんとのこと」
そう切り出し、机の端にあるお手拭きに手を伸ばした。そして、右の親指と人差し指で硬い端を捏ねるように触り続けた。
「自分でどう思ってるか整理したくて。でも、考えたら考えるほど悪い事しか考えられへんくなって、付き合うこと自体止めた方が良かったんちゃうんかって思うようになる」
一ミリたりとも思っていないくせに、選ぼうとする自傷行為。出来過ぎた人間を私の横に置いておくのは相応しくないと思ってしまう。
「この間、抱かれるんやろなって場面に出くわしたんやけど拒否してもうた。いずれ来るって分かってたのに怖くなってん。初めてでもないくせに、怯えてんねん。あの子にとって私は何をどうしたって初めてで、でも、それってこれ以上ない幸せやろなって思うても、それ自体が怖いというか」
ふう、と溜息を吐いた。弄り回していたお手拭きを広げて、また同じ形に丸め直す。汚れた箇所を内向きにして外から見えないようにして、爪を立てた。
「別に抱かれたないわけとちゃう。むしろ逆やよ。なのに何もかも不安に思う。あの子が未成年の今、万が一のことが起こったらどうしよ、とか、学生の間ずっと禁止にしとくべきなんか、とか考えだしたらキリない」
「……でも、一番は?」
友人の言葉に、一筋頬が濡れた。重たかった目元が右だけ軽くなった。
「私がまだ、蔵ノ介くんを恋人として思えてへん」
聞かせられるわけが無い言葉を私の唇が弾く。残酷にも程があると思いながら、事実であることに罪の意識が増幅した。
「極端に言うたら、そうやねん。ちゃんと好きやし、蔵ノ介くんに想われてることはめちゃくちゃ嬉しい。迎えに来てくれたのも可笑しくなるくらい嬉しい。でも、蔵ノ介くんが中学生で止まったままやねん。あの子は確かに成長してんのに、私の時計が進まへんせいで躊躇ってる」
誰よりも好きで傍にいたいと思うのに、初心な態度が思い出させるのだ。見た目がいくら大人びたとしても、私を直に追いかけてきた十五歳の彼が透けて見えるのだ。阻むものは何もないと思いながら、唇を重ねても浮かび上がるのは底のない罪悪感。積み重なっていく負の感情があるにも関わらず、それを解決せずにズルズルと引き摺った今。止めるべきであったのに、止められなかったのは私の甘さが招いた。
ただ好きだから。それが理由で彼を握った手を離せない。初めて蔵ノ介くんとキスをしたとき、過去を比較して価値を決定づける訳では無いが、彼とする口付けは昔の何よりも軽やかで簡素で幼稚だった。陳腐で普遍的な口付けに変わりはない。それでも一瞬の熱の交換に心を動かされてしまった。
だから二人で生み出す熱に溺れた。そうであったはずなのに私は二つに分離してしまった。遠慮するなと宣っておきながら、手を引いて欲しいなんて言えるわけがない。それであるのに私が今起こしている行動は、惨たらしい線引きであった。
「真っ直ぐすぎて、眩しい」
また勝手に頬が濡れていく。一度溢れることを覚えれば、二度目は容易い。
時折見せる蔵ノ介くんの焦がれた目が怖い。逸らしたくなる熱烈な目が、今まで培った余裕や虚勢を簡単に壊しそうで一歩、また一歩引き下がろうとしてしまう。
とどのつまり、私は私が可愛いのだ。蔵ノ介くんのことを好きだと言いながら、過去を一つ足りとも見せたくない。見せたら、私が私でいられないような、明確な理由のない恐怖が見えないところから襲ってくる。
「蔵ノ介くんに言うたらええやんか」
「……絶対嫌やわ。こないな姿見せられへん」
いずれ限界が来ることも、蔵ノ介くんに話すべきであることも分かっている。そうであるのに行動に移せないのは、虚栄心から作り上げた我儘のせい。
カラリ。氷が溶けてジョッキの中で崩れる。すると、友人は酒を一口だけ飲み、大きく呼吸をした。
「名前って……蔵ノ介くんのことめちゃくちゃ好きなんやねえ」
しみじみと感想を述べる友人はどことなく嬉しそうで、妙なこそばゆさが身体を襲った。
「……好きやよ。好きやから困ってる」
情けなく次から次へと述懐してしまうのは、いつもと調子が違うから。些細なことだと思われようとも、すぐにおかしくなる訳など彼の事が好きだからに決まっている。
「ふふ。今日は随分と素直で可愛いやんか」
揶揄う調子が私に酒を勧める。ぐっと煽ったジョッキは氷がぶつかり合って騒がしい。氷だけになったジョッキを机に戻すと、友人はほんのりと赤らんだ顔を私に向けた。
「蔵ノ介くんの前でも、そうやって素直やったらええんちゃう?」
何も言えなくなってしまった。出来ることならこうして困っていない。ぐっと喉が詰まると、彼女は私に追い打ちをかける。
「一回、年齢とか属性とか全部取っ払ってもうたらええやん。今の名前みたいにお腹に仕舞い込んで言わへんままの方が蔵ノ介くんのこと傷つけるんちゃうかな」
友人の言葉が鋭利に突き刺さる。熱を持った瞳の奥が痛む。自覚していてもどこかで甘さを見つけ、逃げ惑うのは紛れもなく私の短所。
「名前なら大丈夫やから。話して蔵ノ介くんがはあ?とか言うたら私がどつきまわしに行くから」
笑顔でシャドーボクシングを始める彼女の手をさり気なく握って行動を制止する。丁度誰の目もないからと言っても、ここはカウンター席だ。
「ハハ、ありがと」
重たい頬を上げて礼を告げた。吐き出したことで心は軽くなったが、物事の解決には至ってない。今度は私から進まなければ、ここで終わりになる。
すると、友人は私を手招きながら顔を近づけた。それに釣られて私も顔を寄せると、潜めた声が助言を始めた。
「そうそう。余計なお世話かもしれへんけど、する、せえへん話な」
真剣な表情に、こくりと一度だけ頷いてから耳をそばだてた。そして彼女は確認をしながら話を進めた。
「名前も蔵ノ介くんもしたいことはしたいんやろ?」
「気持ちは、そう」
抱かれたいという気持ちに嘘はない。理性と本能の乖離が激しいせいで、二人分の感情が暴れ回っている。二人が一人に落ち着かない限り、私は進めない。
「それやったら期限設けたらどう?」
友人の提案に首を傾げると、言葉を続けた。
「例えば、何歳になったら解禁します~みたいな。その方が名前も心積もり出来るんとちゃう?」
「期限なあ……」
ラインを決めた方が私にとっても蔵ノ介くんにとっても良いに違いない。特に私にとっては今の蔵ノ介くんに合わせるには当てはまっている。
「抱きたい、抱かれたいの矢印が合ってるんやったら、それも一つの手やと思うな。どうするかは蔵ノ介くんとよう話し合って決めたらええし」
友人の助言に、ゆっくり数度頷いた。私は心の奥底、で大人の対応をしていなければならないと制限をかけていたのかもしれない。平等でいたいと思いながら、平等にしていなかったのは他でもない私だった。
「ちゃーんと、話すんやで」
つん、と鼻の先を人差し指の腹で突かれる。硬くなっていた表情一帯が鼻を中心に解れ、漸く目を細めて笑った。
「ん……時間取れそうなとき考えてみる」
「よし。じゃあこの話は終わり! 次、私の彼氏の話してもええ?」
ぱあ、と顔を満面の笑みに変え、両の手のひらを重ねる友人に私は笑ってしまった。いつも通りと言えばいつも通りで、私は足を組んだ。
「……そっちが本題やろ」
「バレた?」