下手くそに愛を叫べⅡ
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テストを終え、夏季休暇を迎えた俺は、事前に取り付けた約束の通り名前さんと会う予定が立っていた。他の日に会う予定はあったものの、一番の目的を叶えるのなら家が最も勝手が良いと友人のアドバイスを受けてのことだった。友人からの特別授業を受けた俺の気合は十分。目標達成するためのイメージトレーニングも完璧だ。何としてでも俺は今日名前さんとキスをする!
と意気込んだのが数分前。今、俺は名前さんの部屋に入ったものの、勝手に計画を立てているせいで心臓がバクバクと騒がしさを極めていた。
台所に立つ名前さんはウエストが絞られたノースリーブのワンピースを着ていて、俺の目はひらひらと泳ぐ裾に奪われる。色白の肌と黒のワンピースのコントラストに女性特有の繊細さが際立ち、儚さを感じさせていた。
触れたら壊れてしまうんじゃないか。そう思えば、俺は自身の左の手のひらを見つめた。この手はあの肌にどう吸いつき、どう影をつけるのか。質感を想像しては、生唾を呑み込んだ。
「何飲む?」
手を止めた彼女に微笑みを向けられ、はっと夢から戻る。色違いのグラスを取り出しながら俺に問いかける名前さんは俺の考えている事など知る由もない。俺がスマートに計画を実行するためには、素直な感情を出すことなく、享受した行動に移ることが必要になってくる。
「名前さんと同じもんでお願いします」
「はーい」
俺の答えを聞くと、名前さんは再び準備を始めた。そんな彼女を横目に、高鳴る鼓動が俺を急かしていた。ドッドッと背後から迫ってくる足音が心臓から聞こえ、顔が強ばらないように手で頬を揉む。冷静に、と唱えても心臓が静まる気配はない。
あかん。いつも以上に緊張してるわ。
名前さんと会う度にトキメキという名の緊張を纏ってはいるが、今日は一段と顕著だ。理由など勿論、計画を企てているせい。名前さんはというと、余裕を持て余していて俺の緊張を移してやりたくなる。触れることで少しでも伝染したらええのに、と希望を描いては、自分の唇にそっと触れた。
一人で思案していると、彼女は透明の丸みの帯びたグラスを二人分テーブルに置き、俺が既に座っているソファに腰掛ける。そして、ふわりと香る彼女の優しい匂いが俺を更に誘惑した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
目の前のグラスは黄色の透明が小さな気泡を作り、順々に弾けていく。グラスを手に取り、空気を手で煽って香りを嗅げば、微かなマスカットの匂いが鼻を掠めた。
「これ、こないだの?」
匂いに引っ張られた記憶が飛び出す。隣の彼女に問えば、ふふ、と静かに笑った。
「正解。夏やし、ティーソーダがええかなって」
こないだの、と称したのは、以前一緒に出掛けた際に購入していた茶葉だった。覚えのある香りに凝り固まっていた頬も柔らかくなり、改めて黄色の透明に目をやれば、着実に積み重なり始めた現実が浮かび上がるようだった。
「普段やらへんけど、せっかく蔵ノ介くん来るんやったらって挑戦してみた」
ま、言うて入れて置いとくだけなんやけど。そう言って彼女は微笑みながら一口飲み込んだ。
あかん、何しても可愛ええ。名前さんやから可愛ええ。
ぼうっと見惚れて目的を忘れそうになる怠慢な頭を切り替えようと首を横に振る。ダメだ。彼女の魅力に溺れていてはダメだ。さて、ここからどう行動すべきか。俺の頭は友人からのアドバイスで一杯で、気休めに含んだ紅茶があっさりと消えていく。さりげなく良い雰囲気にもっていきたいが、早々に察してもらわれても困る。机に置いたグラスを睨みつけながら腕を伸ばしたり縮めたりと隣に座る彼女の肩をどうにか抱こうとするも、触れられないでいる。どうしても勢いがつかないのは、名前さんの今日の格好がノースリーブなことに問題があった。抱きしめたことはあってもそれは服の上からで、素肌に触れたのは手を繋いだときぐらいだ。片想いのときに彼女の涙を拭おうと頬に触れたが、あれはカウント出来ないだろう。実際友人に馬鹿にされたことだ。
それはそれとして、地肌に触れることにまた別の緊張が走る。柔らかそうな白い肌に喉は大きく動いた。その瞬間。
「あ、」
彼女は何か思い出したかのように立ち上がり、本棚へと向かう。思わずこけそうになるのを堪えた。
「前言うてたやつ、これやろ」
一冊の本を取り出すと、座ったままの俺に尋ねた。差し出された本は、以前話題として持ち上がった小説であった。
「あ、ああ……そうです」
「今日持って帰り」
微笑む名前さんに、ぎこちない返事しか口に出来なかった。前のデートで話題に上がった内容であるのに、すっかり頭から抜けていた事を恥じ入る。それと同時にどうにも冷静になれない自分を殴ってやりたい。ろくに会話も弾ませられないし、返答も大した言葉を出せない。これでは雰囲気をつくるどころではない。友人にも指摘されたことを思い出し、深く息を吐いた。失敗に怯え過ぎていることに気づいてはいる。だが、名前さんにかっこ悪いところは見せたくない気持ちが上回ってしまう。
名前さんは本を机に置くと、元いた位置に戻りながらパーソナルな事について尋ねてきた。
「そういえば、誕生日いつ?」
「四月十四日です」
「めっちゃ過ぎてるやん」
あーあ、と肩を落とし落胆する名前さんは再び俺の隣に腰を下ろすと、訝しげに俺の顔を見つめていた。
「な、なんです?」
動揺からか、上擦った声に心の中でしまったと失態の声を漏らした。彼女はじろじろと舐め回すように俺を眺めては、わざとらしく俺の行動を怪しんでいる。その目に怯えてしまった俺は思わず視線を追いかけてしまった。
「いーや? なんか違う事考えてんのかなって思っただけ」
心の内を言い当てられ、心臓が限界を迎える。このままでは埒が明かないと俺は漸く腹を括った。聡い彼女の事だ、この反応は俺の脳内などお見通しに違いない。意気込む頭の中では友人のアドバイスが繰り返されていた。
◇ ◇ ◇
友人に相談した昼食時と同時刻。友人は最終手段と称して勢いよく人差し指を俺の顔に向けた。
「上手くいかへんかったら、直接言え!」
あれやこれやとアドバイスしたくせに最後の砦として出された言葉であった。散々語った最後が直球勝負だとは、と口がぽかんと開いた。
「直接、て……したいって言うんか?」
「せや。キスしたいですって言え」
不服な俺とは対照的に堂々と真剣な表情で言い切る友人に俺は首を縦に振れなかった。俺の目標は良い雰囲気を作って彼女とキスをすることであるのに、かっこいいのかの字も感じられないせいだ。
「ええ……かっこ悪ない?」
気が進まないように伝えると、友人は大きく溜息を吐いた。
「分かってへんなあ」
チッチッチッと舌打ちに合わせて人差し指を左右に振る。そして動きが止めば、彼女の情報をなぞった。
「年上やろ? なら可愛い子ぶったらええねん」
断言する友人に、嫌でも自身の口が歪むのが分かった。
「俺はかっこいいって思われたい」
「それは後や。お前には難しい」
清々しい一刀両断に為す術なし。ガン、と鈍器で頭を殴られた気がした。高校のとき、無駄に「かっこいい」と持て囃されたはずなのにと切なくなる。
弱弱しく肩を落とせば、友人は諭すように穏やかな口調で俺に理解を促した。
「まず基本的にな、男は可愛いって思われたら勝ちやねん。かっこええやとな、カッコ悪いときに好感度は下がるけど、可愛ええ場合、失敗しても可愛ええなあで包含出来んねん」
「……それ、ほんまに?」
力説されたものの、イマイチ信用できない。だが、友人は晴れることのない俺の表情を吹き飛ばすように爽やかに笑った。
「いけるから!ほんまに信じてみって」
◇ ◇ ◇
経験のある友人の言葉を信じようと一呼吸置いた。そして、彼女の方に体ごと向き直り、拳を作る。
「名前……さん、」
硬くなった声色が重々しい雰囲気を纏えば、彼女は手にしていたグラスを机に返す。なんでしょう、とわざとらしく真面目な口ぶりで揃いの格好で向かい合うのは、何とも言えずむず痒かった。俺の目論見など容易に見透かしていそうな瞳が真っ直ぐ刺さるから、続きが言葉にならないせいで口がはくはくと空気で遊ぶのだ。
遂には渇いた喉が限界を迎え、拳の中で爪が手のひらの肉に食い込んだ。生成できない唾液を呑み込むと、俺は漸く言葉を発した。
「キッ、キス……したいです」
上擦った声だが要望を堂々と言い張れば、名前さんは一瞬だけ目を丸くさせた。そしてすぐに微笑むと、首を伸ばしながら目を閉じた。
これは、ええってことやんな。
脳内会議をコンマ一秒で切り上げ、恐る恐る晒されている腕に触れた。柔肌に吸いついた手のひらが喜んでいるのが嫌でも知覚してしまう。元の色に近い健康的な唇に吸い寄せられるように顔を近づけた後、ふに、と触れるだけのキスをした。静まり返る部屋さえも気にならないほどに、彼女との一秒で胸が埋め尽くされる。
「満足?」
体勢を緩める名前さんの余裕な表情がいつになく挑発的であり、煽情的に思えた。口内の肉に密かに歯を立てた俺は首を横に振り、一言口にした。
「もっかい、したい」
すぐに離れても、もう一度。控えめながらもふっくらとした唇は、いとも簡単に誘引してくれる。ぼんやりと顔を覆う熱に理性が緩むのも自然の摂理だと思いたい。
触れたままの腕に力を込め、再度顔を近づけると、名前さんも時が戻ったかのように目を閉じた。
回数を重ねる度に触れあう時間は延び、角度も変化をもたらす。口を開くのは酸素を求めるときだけ。経験する全てが初体験の俺に足並みを揃える彼女に申し訳なさが募った。
更なる先を求めようと一度唇に別れを告げれば、彼女はじっとりとした雨の日のような瞳を俺に向けていた。足元から纏わりつく湿り気にも似た視線は生々しく、かつ、女であることが強調された艶めかしいものだった。
彼女は巻き付くように俺の腕に手を重ねると、僅かに上がった口角で俺を次の扉へと誘った。
「少し、大人になろか」
艶気のある低音がするすると体内に流れ込んでくる。ふいに腕を掴んでいた手が脱力すれば、その隙を突くように彼女の右の手のひらが俺の頬に触れた。するりと輪郭をなぞっては落ちていく指先に、未知の官能を覚えた俺は身体の奥から熱を持った小波が広がっている。
さすがの俺も理解が及び、喉を大きく動かしてから控えめに頷いた。すると、彼女は俺の顎に手を当てて軽く押した。俺はその動きに逆らうことなく従い、恥じらいを交えたまま口を開ける。緊迫と興奮が全身を駆け巡るせいで思考はままならない。
目の前の女はとうに人当たりの良い愛嬌など脱ぎ捨てて、歯列を超えて覗く舌が食い時を探っている。まだ何かされているわけではないのに、細められた瞳と舌が容易く自由を奪うのだ。
名前さんが身を捩り、ゆっくりと腰を上げる。来る、と察知したときには、視界が彼女で占められていた。ぬるりと舌が差し込まれ、絡められる肉を追いかける。一方的ではない行為は俺の知る彼女そのもので、ついぞ安堵を覚えた。的確に口内を攻め入る手法に、凝り固まっていたはずの筋肉は弛緩し、張り付いていた腕から手が落ちていく。
ペースは彼女のもので、俺はされるがまま。次第に身体が跳ねるようになれば、座っていたソファと背中が合わさった。彼女はその方がやりやすかったのだろう、体重がかかる。俺の手はいつしか彼女の背中に皺を作ることしか出来ず、互いに交じり合った熱情に狂っていった。
「ぁ、名前さ……」
だらしなく開いた口は機能せず、彼女の名前さえ碌に呼べない。熱に覆われた身体を慰めるように彼女の指先が這えば、素直な反応を晒してしまう。あ、と無意識に溢れた甘い声は、慌てて口を手で覆ったとしても消えることはない。
「……ごめんなあ」
自身の口周りをべろりと舐め取りながら穏やかな口調が詫び言を述べた。ぼうっとして眺めた表情はどこか浮かない顔をしていたが、俺はその意図を汲めなかった。出来たのは彼女の謝罪に対して、ただ首を横に振ることだけ。
この人には、勝てへん。そう思いながらも、俺の胸には確かに新たな感情が芽生えていた。
◇ ◇ ◇
「どないやった? 俺のアドバイス、ちゃんと実行したか?」
にやにやと頬を盛り上げながら進展を気にするのは、俺にアドバイスを与えた友人であった。先日本番があることを口にしていたせいか、唐突に食事に誘ってきては顔を合わせて結果報告となっている。俺としてはアドバイスをもらい、こうして結果を気にしてくれているというのは嬉しい限りであった。
俺はぼんやりと夢見心地であったことを思い出しながら、撫でるように自身の唇に触れた。
「おん……実行はしたけど……」
曖昧に語尾を濁らせると、友人は不思議そうに首を傾げた。だが、すぐに改めて質問を重ねた。
「で、骨抜きにしたったか?」
そわそわと身を乗り出して尋ねてくる友人に、俺は口篭ってしまった。あの事を赤裸々に話すのはどうも気が引ける。最終手段に頼った挙句、雰囲気の手綱を彼女に終始握られていたのだから。
何となくだけ伝えようと、顔を覗くように上目で見つめてからゆっくり口を開いた。
「骨抜きに、されてん……」
「された……?」
落ち着きなく足元を動かしている俺とは対照的に、友人は目を見開いて固まってしまった。
「名前さん、キスめっちゃ上手かった」
更に情報を付け加えれば、数秒経った後に友人はバランスを崩した。それはもう勢いよく。すると、突然立ち上がったかと思えば、頭に鈍痛が走った。
「アホ!俺の時間返さんかい!」
と意気込んだのが数分前。今、俺は名前さんの部屋に入ったものの、勝手に計画を立てているせいで心臓がバクバクと騒がしさを極めていた。
台所に立つ名前さんはウエストが絞られたノースリーブのワンピースを着ていて、俺の目はひらひらと泳ぐ裾に奪われる。色白の肌と黒のワンピースのコントラストに女性特有の繊細さが際立ち、儚さを感じさせていた。
触れたら壊れてしまうんじゃないか。そう思えば、俺は自身の左の手のひらを見つめた。この手はあの肌にどう吸いつき、どう影をつけるのか。質感を想像しては、生唾を呑み込んだ。
「何飲む?」
手を止めた彼女に微笑みを向けられ、はっと夢から戻る。色違いのグラスを取り出しながら俺に問いかける名前さんは俺の考えている事など知る由もない。俺がスマートに計画を実行するためには、素直な感情を出すことなく、享受した行動に移ることが必要になってくる。
「名前さんと同じもんでお願いします」
「はーい」
俺の答えを聞くと、名前さんは再び準備を始めた。そんな彼女を横目に、高鳴る鼓動が俺を急かしていた。ドッドッと背後から迫ってくる足音が心臓から聞こえ、顔が強ばらないように手で頬を揉む。冷静に、と唱えても心臓が静まる気配はない。
あかん。いつも以上に緊張してるわ。
名前さんと会う度にトキメキという名の緊張を纏ってはいるが、今日は一段と顕著だ。理由など勿論、計画を企てているせい。名前さんはというと、余裕を持て余していて俺の緊張を移してやりたくなる。触れることで少しでも伝染したらええのに、と希望を描いては、自分の唇にそっと触れた。
一人で思案していると、彼女は透明の丸みの帯びたグラスを二人分テーブルに置き、俺が既に座っているソファに腰掛ける。そして、ふわりと香る彼女の優しい匂いが俺を更に誘惑した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
目の前のグラスは黄色の透明が小さな気泡を作り、順々に弾けていく。グラスを手に取り、空気を手で煽って香りを嗅げば、微かなマスカットの匂いが鼻を掠めた。
「これ、こないだの?」
匂いに引っ張られた記憶が飛び出す。隣の彼女に問えば、ふふ、と静かに笑った。
「正解。夏やし、ティーソーダがええかなって」
こないだの、と称したのは、以前一緒に出掛けた際に購入していた茶葉だった。覚えのある香りに凝り固まっていた頬も柔らかくなり、改めて黄色の透明に目をやれば、着実に積み重なり始めた現実が浮かび上がるようだった。
「普段やらへんけど、せっかく蔵ノ介くん来るんやったらって挑戦してみた」
ま、言うて入れて置いとくだけなんやけど。そう言って彼女は微笑みながら一口飲み込んだ。
あかん、何しても可愛ええ。名前さんやから可愛ええ。
ぼうっと見惚れて目的を忘れそうになる怠慢な頭を切り替えようと首を横に振る。ダメだ。彼女の魅力に溺れていてはダメだ。さて、ここからどう行動すべきか。俺の頭は友人からのアドバイスで一杯で、気休めに含んだ紅茶があっさりと消えていく。さりげなく良い雰囲気にもっていきたいが、早々に察してもらわれても困る。机に置いたグラスを睨みつけながら腕を伸ばしたり縮めたりと隣に座る彼女の肩をどうにか抱こうとするも、触れられないでいる。どうしても勢いがつかないのは、名前さんの今日の格好がノースリーブなことに問題があった。抱きしめたことはあってもそれは服の上からで、素肌に触れたのは手を繋いだときぐらいだ。片想いのときに彼女の涙を拭おうと頬に触れたが、あれはカウント出来ないだろう。実際友人に馬鹿にされたことだ。
それはそれとして、地肌に触れることにまた別の緊張が走る。柔らかそうな白い肌に喉は大きく動いた。その瞬間。
「あ、」
彼女は何か思い出したかのように立ち上がり、本棚へと向かう。思わずこけそうになるのを堪えた。
「前言うてたやつ、これやろ」
一冊の本を取り出すと、座ったままの俺に尋ねた。差し出された本は、以前話題として持ち上がった小説であった。
「あ、ああ……そうです」
「今日持って帰り」
微笑む名前さんに、ぎこちない返事しか口に出来なかった。前のデートで話題に上がった内容であるのに、すっかり頭から抜けていた事を恥じ入る。それと同時にどうにも冷静になれない自分を殴ってやりたい。ろくに会話も弾ませられないし、返答も大した言葉を出せない。これでは雰囲気をつくるどころではない。友人にも指摘されたことを思い出し、深く息を吐いた。失敗に怯え過ぎていることに気づいてはいる。だが、名前さんにかっこ悪いところは見せたくない気持ちが上回ってしまう。
名前さんは本を机に置くと、元いた位置に戻りながらパーソナルな事について尋ねてきた。
「そういえば、誕生日いつ?」
「四月十四日です」
「めっちゃ過ぎてるやん」
あーあ、と肩を落とし落胆する名前さんは再び俺の隣に腰を下ろすと、訝しげに俺の顔を見つめていた。
「な、なんです?」
動揺からか、上擦った声に心の中でしまったと失態の声を漏らした。彼女はじろじろと舐め回すように俺を眺めては、わざとらしく俺の行動を怪しんでいる。その目に怯えてしまった俺は思わず視線を追いかけてしまった。
「いーや? なんか違う事考えてんのかなって思っただけ」
心の内を言い当てられ、心臓が限界を迎える。このままでは埒が明かないと俺は漸く腹を括った。聡い彼女の事だ、この反応は俺の脳内などお見通しに違いない。意気込む頭の中では友人のアドバイスが繰り返されていた。
◇ ◇ ◇
友人に相談した昼食時と同時刻。友人は最終手段と称して勢いよく人差し指を俺の顔に向けた。
「上手くいかへんかったら、直接言え!」
あれやこれやとアドバイスしたくせに最後の砦として出された言葉であった。散々語った最後が直球勝負だとは、と口がぽかんと開いた。
「直接、て……したいって言うんか?」
「せや。キスしたいですって言え」
不服な俺とは対照的に堂々と真剣な表情で言い切る友人に俺は首を縦に振れなかった。俺の目標は良い雰囲気を作って彼女とキスをすることであるのに、かっこいいのかの字も感じられないせいだ。
「ええ……かっこ悪ない?」
気が進まないように伝えると、友人は大きく溜息を吐いた。
「分かってへんなあ」
チッチッチッと舌打ちに合わせて人差し指を左右に振る。そして動きが止めば、彼女の情報をなぞった。
「年上やろ? なら可愛い子ぶったらええねん」
断言する友人に、嫌でも自身の口が歪むのが分かった。
「俺はかっこいいって思われたい」
「それは後や。お前には難しい」
清々しい一刀両断に為す術なし。ガン、と鈍器で頭を殴られた気がした。高校のとき、無駄に「かっこいい」と持て囃されたはずなのにと切なくなる。
弱弱しく肩を落とせば、友人は諭すように穏やかな口調で俺に理解を促した。
「まず基本的にな、男は可愛いって思われたら勝ちやねん。かっこええやとな、カッコ悪いときに好感度は下がるけど、可愛ええ場合、失敗しても可愛ええなあで包含出来んねん」
「……それ、ほんまに?」
力説されたものの、イマイチ信用できない。だが、友人は晴れることのない俺の表情を吹き飛ばすように爽やかに笑った。
「いけるから!ほんまに信じてみって」
◇ ◇ ◇
経験のある友人の言葉を信じようと一呼吸置いた。そして、彼女の方に体ごと向き直り、拳を作る。
「名前……さん、」
硬くなった声色が重々しい雰囲気を纏えば、彼女は手にしていたグラスを机に返す。なんでしょう、とわざとらしく真面目な口ぶりで揃いの格好で向かい合うのは、何とも言えずむず痒かった。俺の目論見など容易に見透かしていそうな瞳が真っ直ぐ刺さるから、続きが言葉にならないせいで口がはくはくと空気で遊ぶのだ。
遂には渇いた喉が限界を迎え、拳の中で爪が手のひらの肉に食い込んだ。生成できない唾液を呑み込むと、俺は漸く言葉を発した。
「キッ、キス……したいです」
上擦った声だが要望を堂々と言い張れば、名前さんは一瞬だけ目を丸くさせた。そしてすぐに微笑むと、首を伸ばしながら目を閉じた。
これは、ええってことやんな。
脳内会議をコンマ一秒で切り上げ、恐る恐る晒されている腕に触れた。柔肌に吸いついた手のひらが喜んでいるのが嫌でも知覚してしまう。元の色に近い健康的な唇に吸い寄せられるように顔を近づけた後、ふに、と触れるだけのキスをした。静まり返る部屋さえも気にならないほどに、彼女との一秒で胸が埋め尽くされる。
「満足?」
体勢を緩める名前さんの余裕な表情がいつになく挑発的であり、煽情的に思えた。口内の肉に密かに歯を立てた俺は首を横に振り、一言口にした。
「もっかい、したい」
すぐに離れても、もう一度。控えめながらもふっくらとした唇は、いとも簡単に誘引してくれる。ぼんやりと顔を覆う熱に理性が緩むのも自然の摂理だと思いたい。
触れたままの腕に力を込め、再度顔を近づけると、名前さんも時が戻ったかのように目を閉じた。
回数を重ねる度に触れあう時間は延び、角度も変化をもたらす。口を開くのは酸素を求めるときだけ。経験する全てが初体験の俺に足並みを揃える彼女に申し訳なさが募った。
更なる先を求めようと一度唇に別れを告げれば、彼女はじっとりとした雨の日のような瞳を俺に向けていた。足元から纏わりつく湿り気にも似た視線は生々しく、かつ、女であることが強調された艶めかしいものだった。
彼女は巻き付くように俺の腕に手を重ねると、僅かに上がった口角で俺を次の扉へと誘った。
「少し、大人になろか」
艶気のある低音がするすると体内に流れ込んでくる。ふいに腕を掴んでいた手が脱力すれば、その隙を突くように彼女の右の手のひらが俺の頬に触れた。するりと輪郭をなぞっては落ちていく指先に、未知の官能を覚えた俺は身体の奥から熱を持った小波が広がっている。
さすがの俺も理解が及び、喉を大きく動かしてから控えめに頷いた。すると、彼女は俺の顎に手を当てて軽く押した。俺はその動きに逆らうことなく従い、恥じらいを交えたまま口を開ける。緊迫と興奮が全身を駆け巡るせいで思考はままならない。
目の前の女はとうに人当たりの良い愛嬌など脱ぎ捨てて、歯列を超えて覗く舌が食い時を探っている。まだ何かされているわけではないのに、細められた瞳と舌が容易く自由を奪うのだ。
名前さんが身を捩り、ゆっくりと腰を上げる。来る、と察知したときには、視界が彼女で占められていた。ぬるりと舌が差し込まれ、絡められる肉を追いかける。一方的ではない行為は俺の知る彼女そのもので、ついぞ安堵を覚えた。的確に口内を攻め入る手法に、凝り固まっていたはずの筋肉は弛緩し、張り付いていた腕から手が落ちていく。
ペースは彼女のもので、俺はされるがまま。次第に身体が跳ねるようになれば、座っていたソファと背中が合わさった。彼女はその方がやりやすかったのだろう、体重がかかる。俺の手はいつしか彼女の背中に皺を作ることしか出来ず、互いに交じり合った熱情に狂っていった。
「ぁ、名前さ……」
だらしなく開いた口は機能せず、彼女の名前さえ碌に呼べない。熱に覆われた身体を慰めるように彼女の指先が這えば、素直な反応を晒してしまう。あ、と無意識に溢れた甘い声は、慌てて口を手で覆ったとしても消えることはない。
「……ごめんなあ」
自身の口周りをべろりと舐め取りながら穏やかな口調が詫び言を述べた。ぼうっとして眺めた表情はどこか浮かない顔をしていたが、俺はその意図を汲めなかった。出来たのは彼女の謝罪に対して、ただ首を横に振ることだけ。
この人には、勝てへん。そう思いながらも、俺の胸には確かに新たな感情が芽生えていた。
◇ ◇ ◇
「どないやった? 俺のアドバイス、ちゃんと実行したか?」
にやにやと頬を盛り上げながら進展を気にするのは、俺にアドバイスを与えた友人であった。先日本番があることを口にしていたせいか、唐突に食事に誘ってきては顔を合わせて結果報告となっている。俺としてはアドバイスをもらい、こうして結果を気にしてくれているというのは嬉しい限りであった。
俺はぼんやりと夢見心地であったことを思い出しながら、撫でるように自身の唇に触れた。
「おん……実行はしたけど……」
曖昧に語尾を濁らせると、友人は不思議そうに首を傾げた。だが、すぐに改めて質問を重ねた。
「で、骨抜きにしたったか?」
そわそわと身を乗り出して尋ねてくる友人に、俺は口篭ってしまった。あの事を赤裸々に話すのはどうも気が引ける。最終手段に頼った挙句、雰囲気の手綱を彼女に終始握られていたのだから。
何となくだけ伝えようと、顔を覗くように上目で見つめてからゆっくり口を開いた。
「骨抜きに、されてん……」
「された……?」
落ち着きなく足元を動かしている俺とは対照的に、友人は目を見開いて固まってしまった。
「名前さん、キスめっちゃ上手かった」
更に情報を付け加えれば、数秒経った後に友人はバランスを崩した。それはもう勢いよく。すると、突然立ち上がったかと思えば、頭に鈍痛が走った。
「アホ!俺の時間返さんかい!」