下手くそに愛を叫べⅡ
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困ったことになった。これは本当に困った。
一人で頭を抱え続けて、早三十分。テーブルに置かれたロイヤルミルクティーの湯気はとうに消えていた。私だけで解決することではないと分かっていながら、打開策をいくつも練っては消すことを繰り返す。その度に吐いた溜息の数など覚えていられない。
休日のとある日、私は近所の喫茶店に足を運んでいた。おやつ時だからと普段のご褒美に飲み物とガトーショコラを注文しようとしたが、脳裏にあることが思い浮かんだせいで口から出たのはロイヤルミルクティーだけだった。
学生のときから利用させてもらっていた喫茶店。狭小な店舗ではあるが、ログハウスならではの温もりが感じられる場所であった。中でも光が差し込むことで、木で作られた家具の色が明るくなる窓際の席がお気に入りだった。レポートで行き詰まったり、就職活動の息抜きであったり、と頭を休ませたいときにはもってこいの場所。だが、今日は休ませるというより、働かせに来たという方が正しい。
「はあ……」
微動だにしない現実に手も足も出ない。顔に垂れる前髪をかき上げては、暇を持て余す手が添えられたスプーンで亜麻色に渦を作った。ゆらゆらと揺れる水面が何故かご機嫌に踊っているように見えて少しばかりの苛立ちを覚える。だが、眉間に皺を寄せて睨みつけても答えは浮かび上がらない。
「どうしたらええやろ……」
天を仰いで出た溜息交じりの声は呆気なく消えていく。一定の調子で回り続けるシーリングファンを羨ましく思いながら、微かに聞こえる他人のお喋りをBGMに設定した。
仕事、プライベートと忙しく過ぎる日々。あっという間に流れていく時間に何とか着いていく生活にこれといった不満はなかった。勿論理不尽だと腹を立てることもあれば、自分の力量不足に気分が沈むこともある。だが、生活に支障をきたしてはいない。それならばなぜ今こうして悩んでいるのかというと、原因は恋人にあった。
年下の恋人が出来て三か月。もうすぐ四か月目を迎える。出会ってから惹かれるまでに大した時間はかからなかったが、関係を作るまでは長かったように思う。想いを素直に伝えてくれていた彼とは対照的に、私があれやこれやと蛇行して首を縦に振らなかったせいなのは紛れもない事実だ。
それはそれとして。ゴールデンウィークに初デート、つい先日二回目のデートを終えたのだが、私には引っ掛かることがあった。それは恋人である蔵ノ介くんの態度である。交際前後での態度の差が激し過ぎるあまり、これからの対応に困っているのだ。
私は彼にとって初恋の相手であり、初めての恋人だ。付き合うことに関して勝手が分からないのも頷ける。私もそれを知った上で彼と交際することを決めた上に、進展も緩やかだろうと予測していた。だが、あまりにも初心過ぎやしないかと頭を悩ませる事態に嵌っている。
自宅で過ごした初デート。他意はないと釘を刺していながら、素直すぎる感情の露呈に戸惑いを隠せなかった。想定ではもう少し余裕があるのかと思いきや、頬を染めて目を逸らすばかり。私の気が他所に逸れていれば焼き尽くされそうなほどの熱視線を注ぐくせに、合えば誤魔化そうとするから揃いの顔をせざるを得なくなる。意識していなかったところまで意識してしまい、精神的な時計が逆回りを始めてしまう。
約束を取り付けた電話から違和感を覚えなかったわけじゃない。徐々に馴化してくれればいいと思ってはいたが、ビジョンが見えなくて不安になる。もっと私から積極的にいくべきなのか、一緒に歩むべきなのか。社会人にもなって青い恋をするなんて予想外だと驚きつつ、ちゃんと恋愛をしている自分が本当に自分なのかと不思議な感覚に踊らされる。
それに私も恋愛経験が多い方じゃない。あまり思い出したくない過去をひっくり返しても、当てになるような答えは転がっていない。初心者と初心者に毛が生えた程度の二人。探り探りでやっていくしかないと思うが、どう転ぶのか。
まずは同等に話せる関係をつくりたい。二回目のお誘いをしたときも許可取りをしてきた。このままで満足なのか、それとも遠慮し過ぎている弊害なのか。
ふう、と行き詰まった頭のための酸素を求める。冷え切ったミルクティーを口に運び、働かせた頭を涼ませた。
やはり正直に話すべきだろう。どのような関係であれ、話さなければ気持ちは伝わらないのだから。
私はスマホを点け、緑のアイコンをタップした。彼とのトークを開き、三回目のお誘いを文面にしたためる。最近上映開始になった評判の映画を観に行こう。そう綴れば、答えは早々に返ってきた。答えは勿論YES。ちゃんと楽しみにしてくれてはいるのだと胸を撫で下ろした。すると続けざまに彼がチケットを取ってくれるという申し出が送られてくる。
こんなことがなければ観に行かなかっただろう作品。これも何かの運命だと思って、ありがとうと打ち込んだ。
◇ ◇ ◇
後日、私の休日に合わせた三回目のデートを迎えた。約束通り、吹き抜けた広いスペースにある大きなモニターを目指す。お気に入りのパンプスで床と一緒になってかき鳴らせば、スマホを確認しながら待つ蔵ノ介くんがいた。中身の幼稚さを窺えない大人びた外見が目を惹く。あれは声をかけられてしまうのも納得がいく、と思いながら彼の待つ柱に駆け寄り、口角を上げた。
「ごめん、待たせてもうて」
「全然。俺も今来たところです」
幼さを孕んだ瞳が目尻を下げた。こういうことはさらりと言ってのけるのに、意識した行動下ではどうしてぎこちなくなってしまうのか。今の発言は元の人間性から生まれたものだろうから、私が引っ掛かっても仕方がない。私達は夕刻特有の人混みを潜り抜けながら赤い観覧車を目印に歩き始めた。
表向きはごく普通の映画デートだが、私の狙いは蔵ノ介くんの本心を知る事。さりげなく合わせてくれる歩幅に気付きつつ、物足りなく垂れる手は空虚感を伴っていた。
◇ ◇ ◇
「おもろかったですね」
「あ、ああ……うん、せやね」
ぽわぽわと華やかな笑顔を携えて感想を述べる蔵ノ介くんとは対照的に、私はずっしりと意識が重たくなっていた。
あかん。何も覚えてへん。
これは完全に私の不注意なのだが、この後話す内容に意識を取られ、映画が頭に全く入らなかったのである。上映が始まれば集中できるだろうと思っていたのが見込み違いで、穏やかでない二時間を無駄に過ごして終わった。どう切り出そう。どう説明しよう。もし傷つけてしまったらどうしよう。普段は考えが及ばない域にまで進んでしまって、悶々とした闇が頭を覆う。よく分からない鈍痛が頭を襲えば、集中力は遥か向こうへと跳んでしまった。
「名前さん?」
ふいに声をかけられ足が止まったが、すぐにその歩みを再開させる。今は上映中じゃないと脳内の霧払いに努めた。すると、隣を歩く彼は異変を嗅ぎ取ったのだろう、顔色を窺おうと腰をかがめた。
「体調悪いですか?」
「いいや?元気やよ」
「ならええんです。なんや上の空みたいやったから」
心配の声を弾き返すように頬に力を入れて笑ったが、目敏い指摘に心臓が騒がしくなる。私の勝手な計画が次第に不安を纏い始めてしまい、足取りが重量を増した。
「ご飯、行こか」
企てを悟られないように場所移動を誘導する。私は頷く彼を確認してから歩幅を広げた。
きちんと言葉にしなければ伝わらないことは重々承知している。だからこそ。腹を括った私は握り拳をつくると共に空気を掴んだ。
朱色が照明により明度を増長させた店内には私達と同じような関係の人間で埋まっていた。異国情緒溢れるオブジェが店内を飾り、アジア圏を目一杯詰め込んだ様相である。目の奥が絞まるような輝きに入店早々、瞬きを繰り返した。以前友人から勧められたまま足を運んでいなかったため、どうせならとこの場を選んだ。エスニック料理が評判だとは聞いていたが、店内の様子からよく窺える。これくらい賑やかな方が、精神的に猶予が生まれそうだと思ったのも選んだ理由の一つだった。
「初めて来たけど、ええとこやったなあ」
「そうですね。ご飯も美味しいし」
空になった皿を眺めながら和やかな雰囲気を楽しむ。話そう話そうと思いながら料理を頬張る彼を見ていたら話の入口を見失っていた。ここまで引き延ばしてきたが、今からが私の本題だ。一番初めに運ばれてきていた水で口内を潤しては、周囲に掻き消されそうな声で一手打ち込んだ。
「前から聞きたかったんやけど、」
ぐっと喉が絞まった。出かかった言葉を全て言ってしまいたいのに、未だ迷い続ける私が阻止している。私が突然黙り込んだことを不思議に思ったのだろう。何も知らない顔をして首を傾げる男は目を丸くさせて次の言葉を待っている。私は膝の上に置いていた手をテーブルの上に置き、指同士を様々な形で絡ませながら喉を突き破った。
「……私に、遠慮してる?」
今度は私が彼の表情を覗き込んだ。周囲の喧騒に掻き消されたかと思いきや、彼はきちんと受け取ってくれていたようだった。そう認識できたのは私の問いに自覚があるのか、分かりやすく目を彷徨わせたから。私が目を合わせようと舐め回すように彼の顔をじっと見つめても、彼は私から逃れるようにテーブルの上の皿を睨みつけている。恐らく何を答え、話すべきか悩んでいるんだろう。口元は使用済みの針金のように歪んでいる。
「そういうつもりやないんなら全然ええねんけど、どうなんかなって……」
無言に耐えかねてしまった私は焦りから身を守る言葉が零れ、私まで目線を迷わせてしまう。どこを見るべきなのか分からなくなって、グラスがかいた汗を垂れるのを見送った。私がしっかりと立っているべきなのにふらりふらりとへたり込んでしまいそうなのは経験の乏しさ故だ。二本足で地面を蹴り飛ばしてやるほどの力を持って彼の手を引っ張るべきは私なのに、それが出来ずに共に後退しそうな現状をどう打破すればいい。
時期尚早だったかと撤回するには遅すぎる状況に頭を悩ませていると、目が合わないままの蔵ノ介くんが一つ一つ言葉を選びながら口を開いた。私の背筋はぐんと伸び、一つたりとも逃さぬように耳をそばだてる。
「……そないなこと言わせるつもりやなかったんですけど、その、いざ付き合うってなると、どないしたらええか分からんくて、」
彼の声を聞く度に良心に棘が刺さっていく。見えない表情と震えた声が全てを物語る。もう少し待ってから言うべきだったと悔やんでも遅い。
「責めてるんとちゃうよ? 私は、」
「分かってます……分かってるから、悔しい」
慰めの言葉も跳ね返され、口を噤む他なくなる。徐々に下がっていく目の前の頭にろくな言葉一つかけられない。すると、彼は徐に顔を上げた。下唇だけが口内に丸め込まれ、何かを堪えるかのように眉間に皺を寄せる。その堪えている蟠りを吐き出してほしい。私が今欲しいのは、それ以外の何物でもない。私は彼が再度口を開くのをじっと待った。
「……ほんまは、もっと俺から誘いたいです。周りのカップルみたいにいつだって会いたいです。でも、俺らはちゃうやないですか。我儘言うて名前さんのこと困らせたない。なのに、こうやってまた名前さんを困らせてる」
ああ、よかった。私だけとちゃうんやな。
思わず零れそうになる想いを堪えるために背を丸めて顔だけを下げた。そして何事もなかったかのように鼻をすすってから顔を上げた。未だこちらを見ようとしない彼を一瞥しては、どう解してやるべきかと頭を捻った。
「蔵ノ介くん」
名を呼ぶと、彼はようやくこちらを向いた。忸怩たる瞳が怯えている。はい、と零した返事をすかさず拾って言葉を続けた。
「君が優しいことは十分分かってる。そう思ってくれてるのも嬉しい。でもな、私はそないな優しさは求めてない」
彼の迷いを一刀両断すれば、喉元が大きく動いた。独りよがりの早口にならないように深呼吸を挟んでは、強く瞬きを数度繰り返した。
「一方的に好きなんとちゃうんやから。私ら付き合うてるんやから、その、もう少し我儘言うて欲しい……かなって」
今になって私の方が我儘を言って駄々を捏ねているのではないかと過熱した頭が急激に冷え始める。そうであるのに走り出した口と焦燥感に駆られた心に押され、唇が音を弾くことを止めない。
「変な気回されて、気まずくなる方が嫌やわ」
言った。全部言った。空になった腹の中には安堵が詰まったが、反対に背筋が震えてぐんと伸びた。伸び過ぎて身体が弓なりに変形する。すぐに蔵ノ介くんの顔が見れなくて、前髪をかき上げるふりをして手で自身の顔を隠した。
「ほな……一つええですか?」
「うん、言うて?」
言われたことを受け入れようと改めて彼の顔を見据える。先程とは違って目は光り、決死の表情がそこにいた。私はそれを受け、努めて慰撫するように甘やかな声で許可を出した。何を言われるのかと緊張を纏いながらも楽しみの方が上回ってしまい、体は思わず前のめりになる。今か今かと瞬きの間隔が狭くなっていけば、彼ははっきりと要求を口にした。
「月一は絶対会いたい」
え?今、なんて?
拍子抜けした私は自覚するほど目を見開いていた。変わらず謙虚なのか、あまりにも欲がないのか。あまり会いたくない派なのだろうかと過去の人と比較しては心の中で首を傾げた。
「……それだけ?」
「おん」
確認しても彼は笑顔を崩さない。彼も彼で言いたい事が言えたかのような喜色を浮かべている。
「蔵ノ介くんがそれでええならええけど」
肩の力を抜き、背もたれに身体を預ける。背もたれの部分が硬かったことと、勢いよく脱力したせいで背中に少しの痛みが走った。しかし今の私には問題なかった。彼との関係を拗らせることなく、言葉を渡せたことに酷く安堵していた。完全に納得したわけではないが、彼がいいならいいのだろうと素直に言葉を受け入れた。
「でも、」
「ん?」
「会いたなったら、会いに行ってええですか」
弱気を宿した瞳が訴える。ああは言ってもまだ遠慮している部分はあると察知しながら私は大きく頷いた。
「ええよ。でも急は困るかも」
「ちゃんと連絡はします」
「ん、よろしい」
一段落したことで彼も安心したのだろう。満足そうに目を細めては口を横に伸ばして微笑んでいる。私もそれにつられて同じ顔をしていたに違いない。
少し前進出来たと思っていいのだろう。速度は緩やかでも素直でいたい。多分、これは相手が蔵ノ介くんでなければ芽生えなかった想いだろうと人の変化を他人事のように感じていた。
支払いを終えて店を出ると、方々で人工的な灯りが煌びやかに光っていた。食事中に雨が降っていたのだろう、アスファルトは黒く、輝きを反射している。周辺の喧騒に交じり合おうとした瞬間、蔵ノ介くんの声が降りかかった。
「名前さん」
「ん?」
顔を上げれば火照った頬を見せる彼が私を見つめていた。柔らかく吹いた風は温かったが、不思議と嫌な気持ちはしない。
「その……手、繋ぎませんか」
誘い文句とは違って体横にぴったりとついた腕に、強く握りしめられた拳。帰り道は空気と友達にならないのだと心の奥からじわりじわりと熱が流れた。
「はい」
彼の前に手を差し出せば、震える手が私の手をゆっくり攫った。変わらず初々しい態度ではあったが、素直に行動に移してくれたことが嬉しくて、だらしなく目尻を落としてしまう。
「別に取って食べたりせえへんよ」
耐えようにも耐えられず、揶揄い半分皮肉半分で口元を綻ばせる。彼は唇を尖らせてしまった上に私から目をも逸らしてしまった。
「ずっと楽しみにしとった、から……こうして現実になっても、夢みたいです」
こんなに丁寧な扱いを受けて、私は何を返せばいいのだろう。そんな考えが過り、胸が痛んだ。そんな大層な人間じゃない、なんて言いたくても蔵ノ介くんの前では口が裂けても言えないと頭が警鐘を鳴らしている。
「大袈裟やなあ。そないにええもんちゃうけど、」
だから照れ隠しのつもりで謙遜をした。そうでなくとも自身を下げていたように思うが、あまり彼に悲観的な面は見せたくなかった。ただの私の見栄で、自己満足でしかないけれど。
「蔵ノ介くん?」
振り向いた先には、悲哀を覚えた男がいた。だが、それは芯を持っていて、脳天を打ち抜くような瞳が私を狙っていた。哀れみではなく、悲しみが大半を占めた双眸であった。私はそれを見ても自身の言葉の何が原因でそうさせてしまったのかが思い当たらなくて彼の言葉を静かに待つしかなかった。
彼は握った手に力を込めると、はっきりとした声で想いを口にした。
「俺にとって名前さんは比較できひんほど一番やから、そないなこと言わんとってください」
弱点に付け込まれた気がした。紡がれた言葉が心に温かみをもたらしては背筋が震えた。優しい子だと喜びを覚えながらも、私には容量不足だと思わなければならない畏怖を感じている。触れないでくれとも口に出来ず、悟られないように顔の力を抜けば、手に感じていた力が少しだけ弱まった。それに密かに安堵した私は、油断したのか余計な言葉を口にした。
「ハハ、ありがとう。初めて言われたわ」
以前私の初めてが嬉しいと顔を綻ばせていた彼のことを無意識に思った故の言葉だった。だが、私の想った言葉とは裏腹に彼はなぜか泣きそうな顔をしていた。その理由が解き明かせなかった私は前を向いて手を引っ張る。
「帰ろ」
私が促すことで動いた足は一段と緩やかだった。だが、強く握られた手に少しだけ後悔をした。
一人で頭を抱え続けて、早三十分。テーブルに置かれたロイヤルミルクティーの湯気はとうに消えていた。私だけで解決することではないと分かっていながら、打開策をいくつも練っては消すことを繰り返す。その度に吐いた溜息の数など覚えていられない。
休日のとある日、私は近所の喫茶店に足を運んでいた。おやつ時だからと普段のご褒美に飲み物とガトーショコラを注文しようとしたが、脳裏にあることが思い浮かんだせいで口から出たのはロイヤルミルクティーだけだった。
学生のときから利用させてもらっていた喫茶店。狭小な店舗ではあるが、ログハウスならではの温もりが感じられる場所であった。中でも光が差し込むことで、木で作られた家具の色が明るくなる窓際の席がお気に入りだった。レポートで行き詰まったり、就職活動の息抜きであったり、と頭を休ませたいときにはもってこいの場所。だが、今日は休ませるというより、働かせに来たという方が正しい。
「はあ……」
微動だにしない現実に手も足も出ない。顔に垂れる前髪をかき上げては、暇を持て余す手が添えられたスプーンで亜麻色に渦を作った。ゆらゆらと揺れる水面が何故かご機嫌に踊っているように見えて少しばかりの苛立ちを覚える。だが、眉間に皺を寄せて睨みつけても答えは浮かび上がらない。
「どうしたらええやろ……」
天を仰いで出た溜息交じりの声は呆気なく消えていく。一定の調子で回り続けるシーリングファンを羨ましく思いながら、微かに聞こえる他人のお喋りをBGMに設定した。
仕事、プライベートと忙しく過ぎる日々。あっという間に流れていく時間に何とか着いていく生活にこれといった不満はなかった。勿論理不尽だと腹を立てることもあれば、自分の力量不足に気分が沈むこともある。だが、生活に支障をきたしてはいない。それならばなぜ今こうして悩んでいるのかというと、原因は恋人にあった。
年下の恋人が出来て三か月。もうすぐ四か月目を迎える。出会ってから惹かれるまでに大した時間はかからなかったが、関係を作るまでは長かったように思う。想いを素直に伝えてくれていた彼とは対照的に、私があれやこれやと蛇行して首を縦に振らなかったせいなのは紛れもない事実だ。
それはそれとして。ゴールデンウィークに初デート、つい先日二回目のデートを終えたのだが、私には引っ掛かることがあった。それは恋人である蔵ノ介くんの態度である。交際前後での態度の差が激し過ぎるあまり、これからの対応に困っているのだ。
私は彼にとって初恋の相手であり、初めての恋人だ。付き合うことに関して勝手が分からないのも頷ける。私もそれを知った上で彼と交際することを決めた上に、進展も緩やかだろうと予測していた。だが、あまりにも初心過ぎやしないかと頭を悩ませる事態に嵌っている。
自宅で過ごした初デート。他意はないと釘を刺していながら、素直すぎる感情の露呈に戸惑いを隠せなかった。想定ではもう少し余裕があるのかと思いきや、頬を染めて目を逸らすばかり。私の気が他所に逸れていれば焼き尽くされそうなほどの熱視線を注ぐくせに、合えば誤魔化そうとするから揃いの顔をせざるを得なくなる。意識していなかったところまで意識してしまい、精神的な時計が逆回りを始めてしまう。
約束を取り付けた電話から違和感を覚えなかったわけじゃない。徐々に馴化してくれればいいと思ってはいたが、ビジョンが見えなくて不安になる。もっと私から積極的にいくべきなのか、一緒に歩むべきなのか。社会人にもなって青い恋をするなんて予想外だと驚きつつ、ちゃんと恋愛をしている自分が本当に自分なのかと不思議な感覚に踊らされる。
それに私も恋愛経験が多い方じゃない。あまり思い出したくない過去をひっくり返しても、当てになるような答えは転がっていない。初心者と初心者に毛が生えた程度の二人。探り探りでやっていくしかないと思うが、どう転ぶのか。
まずは同等に話せる関係をつくりたい。二回目のお誘いをしたときも許可取りをしてきた。このままで満足なのか、それとも遠慮し過ぎている弊害なのか。
ふう、と行き詰まった頭のための酸素を求める。冷え切ったミルクティーを口に運び、働かせた頭を涼ませた。
やはり正直に話すべきだろう。どのような関係であれ、話さなければ気持ちは伝わらないのだから。
私はスマホを点け、緑のアイコンをタップした。彼とのトークを開き、三回目のお誘いを文面にしたためる。最近上映開始になった評判の映画を観に行こう。そう綴れば、答えは早々に返ってきた。答えは勿論YES。ちゃんと楽しみにしてくれてはいるのだと胸を撫で下ろした。すると続けざまに彼がチケットを取ってくれるという申し出が送られてくる。
こんなことがなければ観に行かなかっただろう作品。これも何かの運命だと思って、ありがとうと打ち込んだ。
◇ ◇ ◇
後日、私の休日に合わせた三回目のデートを迎えた。約束通り、吹き抜けた広いスペースにある大きなモニターを目指す。お気に入りのパンプスで床と一緒になってかき鳴らせば、スマホを確認しながら待つ蔵ノ介くんがいた。中身の幼稚さを窺えない大人びた外見が目を惹く。あれは声をかけられてしまうのも納得がいく、と思いながら彼の待つ柱に駆け寄り、口角を上げた。
「ごめん、待たせてもうて」
「全然。俺も今来たところです」
幼さを孕んだ瞳が目尻を下げた。こういうことはさらりと言ってのけるのに、意識した行動下ではどうしてぎこちなくなってしまうのか。今の発言は元の人間性から生まれたものだろうから、私が引っ掛かっても仕方がない。私達は夕刻特有の人混みを潜り抜けながら赤い観覧車を目印に歩き始めた。
表向きはごく普通の映画デートだが、私の狙いは蔵ノ介くんの本心を知る事。さりげなく合わせてくれる歩幅に気付きつつ、物足りなく垂れる手は空虚感を伴っていた。
◇ ◇ ◇
「おもろかったですね」
「あ、ああ……うん、せやね」
ぽわぽわと華やかな笑顔を携えて感想を述べる蔵ノ介くんとは対照的に、私はずっしりと意識が重たくなっていた。
あかん。何も覚えてへん。
これは完全に私の不注意なのだが、この後話す内容に意識を取られ、映画が頭に全く入らなかったのである。上映が始まれば集中できるだろうと思っていたのが見込み違いで、穏やかでない二時間を無駄に過ごして終わった。どう切り出そう。どう説明しよう。もし傷つけてしまったらどうしよう。普段は考えが及ばない域にまで進んでしまって、悶々とした闇が頭を覆う。よく分からない鈍痛が頭を襲えば、集中力は遥か向こうへと跳んでしまった。
「名前さん?」
ふいに声をかけられ足が止まったが、すぐにその歩みを再開させる。今は上映中じゃないと脳内の霧払いに努めた。すると、隣を歩く彼は異変を嗅ぎ取ったのだろう、顔色を窺おうと腰をかがめた。
「体調悪いですか?」
「いいや?元気やよ」
「ならええんです。なんや上の空みたいやったから」
心配の声を弾き返すように頬に力を入れて笑ったが、目敏い指摘に心臓が騒がしくなる。私の勝手な計画が次第に不安を纏い始めてしまい、足取りが重量を増した。
「ご飯、行こか」
企てを悟られないように場所移動を誘導する。私は頷く彼を確認してから歩幅を広げた。
きちんと言葉にしなければ伝わらないことは重々承知している。だからこそ。腹を括った私は握り拳をつくると共に空気を掴んだ。
朱色が照明により明度を増長させた店内には私達と同じような関係の人間で埋まっていた。異国情緒溢れるオブジェが店内を飾り、アジア圏を目一杯詰め込んだ様相である。目の奥が絞まるような輝きに入店早々、瞬きを繰り返した。以前友人から勧められたまま足を運んでいなかったため、どうせならとこの場を選んだ。エスニック料理が評判だとは聞いていたが、店内の様子からよく窺える。これくらい賑やかな方が、精神的に猶予が生まれそうだと思ったのも選んだ理由の一つだった。
「初めて来たけど、ええとこやったなあ」
「そうですね。ご飯も美味しいし」
空になった皿を眺めながら和やかな雰囲気を楽しむ。話そう話そうと思いながら料理を頬張る彼を見ていたら話の入口を見失っていた。ここまで引き延ばしてきたが、今からが私の本題だ。一番初めに運ばれてきていた水で口内を潤しては、周囲に掻き消されそうな声で一手打ち込んだ。
「前から聞きたかったんやけど、」
ぐっと喉が絞まった。出かかった言葉を全て言ってしまいたいのに、未だ迷い続ける私が阻止している。私が突然黙り込んだことを不思議に思ったのだろう。何も知らない顔をして首を傾げる男は目を丸くさせて次の言葉を待っている。私は膝の上に置いていた手をテーブルの上に置き、指同士を様々な形で絡ませながら喉を突き破った。
「……私に、遠慮してる?」
今度は私が彼の表情を覗き込んだ。周囲の喧騒に掻き消されたかと思いきや、彼はきちんと受け取ってくれていたようだった。そう認識できたのは私の問いに自覚があるのか、分かりやすく目を彷徨わせたから。私が目を合わせようと舐め回すように彼の顔をじっと見つめても、彼は私から逃れるようにテーブルの上の皿を睨みつけている。恐らく何を答え、話すべきか悩んでいるんだろう。口元は使用済みの針金のように歪んでいる。
「そういうつもりやないんなら全然ええねんけど、どうなんかなって……」
無言に耐えかねてしまった私は焦りから身を守る言葉が零れ、私まで目線を迷わせてしまう。どこを見るべきなのか分からなくなって、グラスがかいた汗を垂れるのを見送った。私がしっかりと立っているべきなのにふらりふらりとへたり込んでしまいそうなのは経験の乏しさ故だ。二本足で地面を蹴り飛ばしてやるほどの力を持って彼の手を引っ張るべきは私なのに、それが出来ずに共に後退しそうな現状をどう打破すればいい。
時期尚早だったかと撤回するには遅すぎる状況に頭を悩ませていると、目が合わないままの蔵ノ介くんが一つ一つ言葉を選びながら口を開いた。私の背筋はぐんと伸び、一つたりとも逃さぬように耳をそばだてる。
「……そないなこと言わせるつもりやなかったんですけど、その、いざ付き合うってなると、どないしたらええか分からんくて、」
彼の声を聞く度に良心に棘が刺さっていく。見えない表情と震えた声が全てを物語る。もう少し待ってから言うべきだったと悔やんでも遅い。
「責めてるんとちゃうよ? 私は、」
「分かってます……分かってるから、悔しい」
慰めの言葉も跳ね返され、口を噤む他なくなる。徐々に下がっていく目の前の頭にろくな言葉一つかけられない。すると、彼は徐に顔を上げた。下唇だけが口内に丸め込まれ、何かを堪えるかのように眉間に皺を寄せる。その堪えている蟠りを吐き出してほしい。私が今欲しいのは、それ以外の何物でもない。私は彼が再度口を開くのをじっと待った。
「……ほんまは、もっと俺から誘いたいです。周りのカップルみたいにいつだって会いたいです。でも、俺らはちゃうやないですか。我儘言うて名前さんのこと困らせたない。なのに、こうやってまた名前さんを困らせてる」
ああ、よかった。私だけとちゃうんやな。
思わず零れそうになる想いを堪えるために背を丸めて顔だけを下げた。そして何事もなかったかのように鼻をすすってから顔を上げた。未だこちらを見ようとしない彼を一瞥しては、どう解してやるべきかと頭を捻った。
「蔵ノ介くん」
名を呼ぶと、彼はようやくこちらを向いた。忸怩たる瞳が怯えている。はい、と零した返事をすかさず拾って言葉を続けた。
「君が優しいことは十分分かってる。そう思ってくれてるのも嬉しい。でもな、私はそないな優しさは求めてない」
彼の迷いを一刀両断すれば、喉元が大きく動いた。独りよがりの早口にならないように深呼吸を挟んでは、強く瞬きを数度繰り返した。
「一方的に好きなんとちゃうんやから。私ら付き合うてるんやから、その、もう少し我儘言うて欲しい……かなって」
今になって私の方が我儘を言って駄々を捏ねているのではないかと過熱した頭が急激に冷え始める。そうであるのに走り出した口と焦燥感に駆られた心に押され、唇が音を弾くことを止めない。
「変な気回されて、気まずくなる方が嫌やわ」
言った。全部言った。空になった腹の中には安堵が詰まったが、反対に背筋が震えてぐんと伸びた。伸び過ぎて身体が弓なりに変形する。すぐに蔵ノ介くんの顔が見れなくて、前髪をかき上げるふりをして手で自身の顔を隠した。
「ほな……一つええですか?」
「うん、言うて?」
言われたことを受け入れようと改めて彼の顔を見据える。先程とは違って目は光り、決死の表情がそこにいた。私はそれを受け、努めて慰撫するように甘やかな声で許可を出した。何を言われるのかと緊張を纏いながらも楽しみの方が上回ってしまい、体は思わず前のめりになる。今か今かと瞬きの間隔が狭くなっていけば、彼ははっきりと要求を口にした。
「月一は絶対会いたい」
え?今、なんて?
拍子抜けした私は自覚するほど目を見開いていた。変わらず謙虚なのか、あまりにも欲がないのか。あまり会いたくない派なのだろうかと過去の人と比較しては心の中で首を傾げた。
「……それだけ?」
「おん」
確認しても彼は笑顔を崩さない。彼も彼で言いたい事が言えたかのような喜色を浮かべている。
「蔵ノ介くんがそれでええならええけど」
肩の力を抜き、背もたれに身体を預ける。背もたれの部分が硬かったことと、勢いよく脱力したせいで背中に少しの痛みが走った。しかし今の私には問題なかった。彼との関係を拗らせることなく、言葉を渡せたことに酷く安堵していた。完全に納得したわけではないが、彼がいいならいいのだろうと素直に言葉を受け入れた。
「でも、」
「ん?」
「会いたなったら、会いに行ってええですか」
弱気を宿した瞳が訴える。ああは言ってもまだ遠慮している部分はあると察知しながら私は大きく頷いた。
「ええよ。でも急は困るかも」
「ちゃんと連絡はします」
「ん、よろしい」
一段落したことで彼も安心したのだろう。満足そうに目を細めては口を横に伸ばして微笑んでいる。私もそれにつられて同じ顔をしていたに違いない。
少し前進出来たと思っていいのだろう。速度は緩やかでも素直でいたい。多分、これは相手が蔵ノ介くんでなければ芽生えなかった想いだろうと人の変化を他人事のように感じていた。
支払いを終えて店を出ると、方々で人工的な灯りが煌びやかに光っていた。食事中に雨が降っていたのだろう、アスファルトは黒く、輝きを反射している。周辺の喧騒に交じり合おうとした瞬間、蔵ノ介くんの声が降りかかった。
「名前さん」
「ん?」
顔を上げれば火照った頬を見せる彼が私を見つめていた。柔らかく吹いた風は温かったが、不思議と嫌な気持ちはしない。
「その……手、繋ぎませんか」
誘い文句とは違って体横にぴったりとついた腕に、強く握りしめられた拳。帰り道は空気と友達にならないのだと心の奥からじわりじわりと熱が流れた。
「はい」
彼の前に手を差し出せば、震える手が私の手をゆっくり攫った。変わらず初々しい態度ではあったが、素直に行動に移してくれたことが嬉しくて、だらしなく目尻を落としてしまう。
「別に取って食べたりせえへんよ」
耐えようにも耐えられず、揶揄い半分皮肉半分で口元を綻ばせる。彼は唇を尖らせてしまった上に私から目をも逸らしてしまった。
「ずっと楽しみにしとった、から……こうして現実になっても、夢みたいです」
こんなに丁寧な扱いを受けて、私は何を返せばいいのだろう。そんな考えが過り、胸が痛んだ。そんな大層な人間じゃない、なんて言いたくても蔵ノ介くんの前では口が裂けても言えないと頭が警鐘を鳴らしている。
「大袈裟やなあ。そないにええもんちゃうけど、」
だから照れ隠しのつもりで謙遜をした。そうでなくとも自身を下げていたように思うが、あまり彼に悲観的な面は見せたくなかった。ただの私の見栄で、自己満足でしかないけれど。
「蔵ノ介くん?」
振り向いた先には、悲哀を覚えた男がいた。だが、それは芯を持っていて、脳天を打ち抜くような瞳が私を狙っていた。哀れみではなく、悲しみが大半を占めた双眸であった。私はそれを見ても自身の言葉の何が原因でそうさせてしまったのかが思い当たらなくて彼の言葉を静かに待つしかなかった。
彼は握った手に力を込めると、はっきりとした声で想いを口にした。
「俺にとって名前さんは比較できひんほど一番やから、そないなこと言わんとってください」
弱点に付け込まれた気がした。紡がれた言葉が心に温かみをもたらしては背筋が震えた。優しい子だと喜びを覚えながらも、私には容量不足だと思わなければならない畏怖を感じている。触れないでくれとも口に出来ず、悟られないように顔の力を抜けば、手に感じていた力が少しだけ弱まった。それに密かに安堵した私は、油断したのか余計な言葉を口にした。
「ハハ、ありがとう。初めて言われたわ」
以前私の初めてが嬉しいと顔を綻ばせていた彼のことを無意識に思った故の言葉だった。だが、私の想った言葉とは裏腹に彼はなぜか泣きそうな顔をしていた。その理由が解き明かせなかった私は前を向いて手を引っ張る。
「帰ろ」
私が促すことで動いた足は一段と緩やかだった。だが、強く握られた手に少しだけ後悔をした。