下手くそに愛を叫べⅡ
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来たるゴールデンウィーク。穏やかな陽気とは対照的に、俺の胸は騒がしさを極めていた。約束の何分も前に名前さんの住むマンションに到着したというのに、初めて踏み込む場所に足が躊躇い続けてしまい、深呼吸をするか、エントランスの前でウロウロ彷徨うかの二パターンを繰り返している。完全に不審者だと思われても仕方ないのだが、現状人気が少ないことがせめてもの救いだった。
スマホの画面を点け、何度確認したか分からない現在時刻を見る。もう行ってもええよな、と不安を募らせつつ、約束の一分前を表示する画面を一瞥してから手にしていた紙袋の取っ手に力を込めた。そして、よし、と意気込んでからエントランスに足を踏み入れる。エントランスにさえ踏み込むのにも心臓が煩くて、未知の境界に飲み込まれるような恐怖さえ覚えた。
再び深呼吸をして、震える指で共用扉に備え付けられてあるボタンを一つずつ、事前に教えられた数字を押す。最後に呼出のボタンを押せば、機械から彼女の声が聞こえた。
「開けまーす」
緊張に縛られた俺とは正反対のリラックスした声だった。
隣の扉は直後にガチャリと音を立てて開き、俺は取っ手を回して彼女の部屋を目指した。すぐ目の前にある階段をトントンと調子よく上がる足は気の表れだろう。
今度こそ名前さんが出てくる。未だ心臓と仲良く出来ないまま彼女の部屋の前に辿り着くと、それとなく前髪を直した。下で押した番号と同じ番号の部屋のインターホンを鳴らせば、扉はすぐに開いた。
「いらっしゃい」
扉から覗くは晴れやかに目を細めた名前さん。彼女の笑みが眩しくて、咄嗟に顔を俯かせた。じわじわと熱が実体を持って俺を襲い始めてしまい、「お邪魔します」と独り言のように小さく言葉にした。片想いのままだった三年前が色濃く残っているせいで彼女の姿が妙に刺激的に映っている。
回るレバーハンドルに触れ、おずおずと小さく頭を下げながら漸く玄関へと入る。ちらりと覗き見るように顔を上げれば、彼女は笑いを堪えたいのか、静かに肩を震わせていた。
「緊張してんの?」
口元に手を当ててはいるが、隠しきれない笑いが声として現れている。彼女の言葉はどこも間違ってはいない。しかし、人が気にしている箇所を突けば、不満が顔に出るというもの。俺の目は再び彼女から逸れ、態とらしく唇を尖らせてやった。
「初めてやもん……家族関係なしに女の子の部屋入るん」
そう呟き、彼女の薄く平べったい足を視野に入れながら壁に手を当てる。ブラウンの革靴を脱ぎつつ、未だに収まることのない鼓動を少しでも抑えようと隠れて深呼吸を試みると、上からケラケラと転げるような笑い声が降り掛かった。何かおかしいことを言っただろうかと反射的に顔を上げた先には、満足そうに目を細めた名前さんが俺を見つめていた。体を壁に預けつつ俺に注がれる視線は春の日差しのように柔らかい。だが、その行動の意図が汲めずに疑問を抱いたまま彼女を見つめ返すと、目下に位置を変えた顔が首を傾げた。
「私、女の子なんやね?」
彼女の問いに俺まで首を傾げそうになった。俺は瞬きを数度繰り返した後、覚えている自身の発言を単語ごとに確認した。瞬間的なせいもあるのか、俺の頭には碌な答え一つ浮かばない。彼女の表情から窺うに悪い事ではないんだろう。そう思いたい。
「当たり前やないですか。俺、変な事言いました?」
降参であると正直に述懐すれば、彼女は首を横に振った。
「んー、秘密」
名前さんはそう言うと、くるりと反転して廊下と称すにはあまりにも短いフローリングを歩き始める。背中で両手を組み、足取りは軽い。俺の発言に何を思ったかは知らぬままだが、弾ける笑顔で深層心理を秘めたままにする彼女に嫌悪感は抱かなかった。むしろ、無邪気に遊びまわる子供のようで、普段抱く彼女への気持ちとは対照的で新鮮であった。
俺は彼女の後を大人しく着いていき、未知の世界へ足を踏み入れる準備に取り掛かった。薄いカーテンに仕切られた向こう側には彼女の生活ゾーンが待っている。
トクトクと逸る鼓動のために、ふう、と一つ息を吐いてから間仕切りのカーテンを潜ると整頓されたワンルームが広がった。白を基調とした家具が並び、テレビの周辺には様々なゲームの据え置き機が鎮座している。その隣にあるデスクには二画面のパソコンが仲良く置かれ、棚にはぎっちりと本が詰め込まれていた。
「適当に座ってな」
戸棚からマグカップを二個出しながらテレビ前のテーブル周辺を指し示す。俺は座る場所一つに戸惑いつつ、言われた通りテーブルをテレビと挟むように座った。そして、持参した紙袋はテーブルの上に置き、両手でそれぞれ太腿を撫でた。彼女はすぐ近くの台所で飲み物を作っているのだろう。鼻歌を奏でながら戸棚から箱を取り出しては吟味することを繰り返していた。
俺は彼女を待ちながら、コポコポと沸き始めるケトルの音をBGMにきょろきょろと部屋中を見渡した。シンプルではあるが所々に彼女の趣向が感じられ、それを確認する度に俺は名前さんの部屋にいるのだと実感する。部屋の香りは程よく鼻を掠め、深く息を吸った。
俺が初めて来るのでなければ落ち着けていただろう。姉妹を抜きにして異性の部屋に入るのは初めてなのだから。
「何飲む?コーヒーと紅茶とお茶があるけど、」
「ほな紅茶でお願いします」
「はーい」
名前さんは同じティーバッグを二つ取り出すと、カップの中に入れた。そして、お湯が沸くまでと彼女は俺の隣に腰を下ろした。足を揃えて崩して座る姿に、夢と現実が入り混じった、不思議な感覚に襲われる。彼女のいる左側だけが自分の身体ではないんじゃないかと思えるほどに、空間には不釣り合いな心が剥き出しになる。黒のハイネックニットの長袖に藍の暗いパンツに覆われた彼女のボディラインに俺の喉は大きく動いたのだ。
「足、崩したらええよ。そないに緊張せんと」
まじまじと見すぎたのか、彼女は照れ臭そうに目尻を落として笑った。俺はそこで正気に戻り、自身の体勢を見直した。俺の足は綺麗に折り畳まれ、無意識に正座の形を取っている。
「っ、すんません……」
慌てて足を崩したが、丁度良い体勢が見当たらず何度か足をばたつかせてしまった。これから先、やる事成す事全て初めてなのだからと言い訳したい気持ちをぐっと堪えつつも、その裏で彼女は既に経験済みの行為に違いない、だから余裕なんだと自分以前の見ず知らずの男に密かに嫉妬の炎を燃やした。
すると、彼女は俺の腕にそっと触れ、ゆったりとした動きで傍に寄った。近づいた顔はいつもより幼く見えるのに、表情はいつになく扇動的で俺の動きを止める。もしかしたら、と期待する胸が瞼を閉じた。
「安心しい。私も恋人呼ぶん、初めてやから」
わざとらしく耳元で囁かれた言葉が俺をかき乱す。予想外の声に錆びたロボットのようにぎこちなく首を回した。
「……ほんまに?」
「嘘吐いてどないするん」
情けなく震えた声を出す俺に、名前さんは大きく息を吐き出しながら肩を下げた。先程まで燃え上がっていた嫉妬の炎はどこへ行ったのか、彼女の一言であっさりと鎮火してしまう。
「絶対初めてちゃう思うてたから……名前さんの初めてになれて、めっちゃ嬉しい」
崩れていく表情を隠そうと口元を手で覆うが、そんなことでは隠し切れないほど顔の色が変化しているのが分かった。俺が初めてである自覚と喜びがいとも簡単に込み上げ、恋愛での感情の操作があまりにも下手なことを実感する。彼女の過去をいくら詮索しても仕方がないと分かっていながら、いざ判明すると良くも悪くも表へと出てしまう。いくつ残っているのか分からない彼女の初めて。これからどれほど回数を共に重ねられるのだろう、と胸が切なく鳴いた。
「随分可愛らしいこと言うねんな」
俺の態度を評しながら涼やかに笑う名前さん。俺と彼女の抱える想いを天秤にかければ、俺の方が深く下がってしまいそうで少しだけ怖くなった。余裕な名前さんに、緊張しっぱなしの俺。いつまで初心なままかと極まり悪い。
悶々とする俺を他所にケトルが合図を出し、彼女が台所へと立ち上がる。体の左側が急に寂しさを覚えたが、沸騰した体の休息にも思えた。だが、ずっとたどたどしい俺でいるわけにはいかない。コポコポとお湯が注がれる音を聞きながら、次の手段を思案する。俺の目には机の上に置かれた紙袋が映った。
「もうちょい待ってな。今蒸らしてるから」
よいしょ、と名前さんが再び隣に座ったのを見計らってから、紙袋を指先で彼女の前までスライドさせた。
「名前さん、これ」
渡したのはチョコレート。事前に姉から聞いた情報を頼りにプレゼントを用意していた。女性人気の高い店舗であったため、姉に頭を下げてついてきてもらったのは先日の事。終始にやにやと厭らしく揶揄われたことなどすぐに思い出せてしまう。
彼女は瞼を引っ張られたように目を見張り、紙袋の中を覗いた。中にある箱を見た瞬間に、名前さんは中身と俺の顔を交互に見つめた。
「これ、めっちゃ好きなとこのやつやわ」
ふにゃりと綻ぶ笑顔に胸を撫で下ろした。自宅であるからなのか、いつもより柔らかな雰囲気に硬くなった心も和らぎ始める。
「ええの?もろて」
「そのために持ってきたんですから」
「え~、嬉しいなあ」
紙袋から鮮やかな水色の箱を取り出し、白く長い指先が表面を撫でる。余程嬉しいのか名前さんの口角は上がったままだ。
彼女はあっ、と声を漏らすと、箱を机に戻し、台所へと戻っていった。いそいそと慌ただしい様子で作業をこなすと、マグカップを二つ持って俺の隣に座った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
机に置かれたカップからは赤褐色が湯気を上げている。もらった緑のマグカップに口をつけると、彼女は正座でそわそわと落ち着かない様子で箱と睨めっこを始めた。
「さっきのチョコ、開けてもええ?」
勢いよく向いた顔は真剣そのもので、こちらまで顔が緩む。好物に対しての態度を知り、新たな一面が眩しい。
「勿論。名前さんのもんですから」
俺の許可を受け、彼女は再度ターコイズブルーの箱を手にした。他にも色は何種類かあったが、涼やかな中にも確かな芯を持っている彼女らしい色なのではないかと判断した結果であった。
名前さんは箱を開けるや否や、わあ、と感嘆の声を漏らした。一つ一つ眺めては、好きなチョコや、だとか、まだ食べたことないやつ、と目を蘭々と輝かせている。
ほんま、可愛らしい人やわ。
俺は彼女を眺めながら、更に一口紅茶を含んだ。名前さんは開けた箱の前で両手を擦り合わせ、どれから食べようかと迷っている。前のめりになって目を彷徨わせる姿を観察していると、突然彼女がこちらに首を回した。
「蔵ノ介くんって、甘いもの大丈夫な人?」
彼女の問いに手にしていたマグカップを机に置いた。顎に手を当て、今までを思い返せば答えはイエス。だが、お菓子の類を誘われるか、もらうかしない限り口にしなかっただろうと過去の行動を顧みる。
「あー……大丈夫やけどあんま食べへん、かも」
そう答えてからちらりと表情を窺えば、名前さんは喜色を満面に浮かべて何度か頷く。擦り合わせていた手を止め、上目遣いのように下から俺の顔を覗き込めば質問を重ねた。
「もしかして……結構調べてくれた?」
ドキリと一瞬だけ心臓に痛みが走った。名前さんは瞳を動かすことなく俺を見つめ、重ね合わせた指先は唇に触れて質感を持たせている。
「す、少し……だけ」
思わず名前さんから目を逸らした俺は、机の脚を見ながら虚勢を張った。先程の質問がこう転ぶとは、と羞恥が集う。
「蔵ノ介くん」
名前さんに呼ばれ、顔を上げる。彼女はほんのりと頬を染めて、口を横に広げて笑った。
「嬉しい。ありがとう」
彼女のお礼一つで姉から揶揄された記憶がいとも簡単に消えていく。こんな笑顔が見られるなら何度でも、と舞い上がる自分を抑え、至って冷静に笑って見せた。それが彼女の目にどう映っているかは分からないが、良かったと思いたい。
名前さんは漸く一口目を決めたのか、ビターのチョコレートを口に放り込んだ。黙って口を動かしているが、顔に美味しいと書いてあるようで胸が一杯になる。
「やっぱり美味しいなあ」
一つ堪能した後、黄色のマグカップを手に取った。熱いのか、唇を窄めては、ずるずると音を立てて紅茶を口内に招いている。猫舌なのだろうかと口先を見つめて同じように紅茶を口に運べば、名前さんはマグカップを机に置いた。
「蔵ノ介くん」
「はい」
「さっきから見すぎ。穴開きそうやわ」
なんか付いてる?と頬に触れながら尋ねる彼女に対し、目から気持ちが溢れていることに狼狽した。いつまででも見ていられるなんて口が裂けても言えない。想いが全面に出過ぎて引かれるかもしれない。そう思いながらぐるぐると働かない頭で導いたのは、全く別の一手であった。
「いや、なんも付いてないです。でも、」
「でも?」
「なんや今日、どことなく幼く見えるような気がして、」
序盤から思っていた気持ちが口から転げ落ちた。特別表情が豊かなせいかもしれないと理由を浮かべつつ動向を探れば、彼女は居心地悪そうに表情を緩める。
「あー……多分今日化粧薄いからやわ」
手抜きのつもりとちゃうで?と、力なく眉を下げて笑う彼女に、俺は失言をしたと瞬時に理解が及んだ。好意的な言葉であると訂正しなければならないと意気込んだ俺は、咄嗟に彼女との距離を詰め、声を張った。
「お、俺は……どっちの名前さんも好きです。普段外で会うときの名前さんも、お家の名前さんも……!」
盛大な告白に、名前さんは目を大きく見開き、ゆっくりと数度瞬きを繰り返した。やってしもた~!と頭を抱えたくなる気持ちに襲われ、今にも泣きだしそうになった。告白したときの威勢のよさをどこに置いてきたのかと自分に問い質しても、その答えが返ってくることはない。
「そ、それは……ありがとう……」
勢いに圧倒される名前さんを見て、どうしようもない焦燥感に駆られる。どうしてこうも下手くそに成り下がるのかと辟易せずにはいられない。
「いきなりすんません……」
対照的な弱弱しい声で謝罪を口にすれば、名前さんはくすくすとおしとやかに笑った。
「いや、褒められて嫌な気持ちにはなれへんから大丈夫よ」
優しい女性で良かったと胸を撫で下ろす。包容力というのだろうか、同級生であればこうはいかなかったと深く自省した。
変に澱んだ空気の入れ替えをしようと話の転換を狙った俺は、パソコンの置かれた机の下にひっそりと置かれたケースを見つけ、それに食いついた。これなら彼女のことも知ることが出来る上に俺自身が主体となって話を持っていけるという魂胆だった。
「名前さん、あれって」
「あ、ああ……これなあ、」
指を差して中身を問えば、一瞬だけ彼女の顔色が曇った。瞬間の変化に気付いてしまったせいで胸がチクリと針で刺される。止めようにも時すでに遅し。名前さんは徐に立ち上がると、俺が指差したブラウンの長方形のケースを取り出した。一メートル弱ほどありそうな横長のそれは、ケースを囲っていたチャックを引くことで開かれる。中身を覗けば、答えはすぐに分かった。だが、正解は柔らかそうな布に包まれ、身を守っている。
彼女の方を一瞥すれば、何を表すでもなく、ただ無表情でそれを見つめていた。何を考えているのか判断のつかない妙な顔つきが本当に彼女のものなのか、疑いたくなるほどであった。
「やっとったんですか?」
探り探り声をかけると、一度だけ瞬きをしてからケースを閉じた。チャックを閉め、元あった位置に戻せば、ふう、と深く息を吐いた。
「……昔、少しだけ」
眩しそうに目を細める彼女にかける言葉を躊躇った。俺を見ることなく、彼女の瞳は床へと落ちている。
あの形状は恐らくバイオリンだろう。俺に見せたということは、思い出したくない過去ではないように思う。だが、暗がりを見せた顔をどう説明する。知りたいと思う身勝手な気持ちと、知らないままでいいと未来を考える強気な思いが鬩ぎ合う。
彼女が俺の左隣に戻る間の短い時間で考えた末、俺は深堀しないことに決めた。いずれ必要なときが来れば聞けばいい。今聞く必要はないと心内で唱えた。
すると、彼女は陰った雰囲気を気にしたのか、霧払いするように、あ、と声を漏らした。何かを思いついたのか、テレビの周辺を動かし始めた。
「ゲームでもやろか」
そう言って笑顔と共に引っ張り出してきたのは、テレビの前に置かれていたゲームの据え置き機。手には赤と青の専用のコントローラーを手にしている。
「ゲームやることある?」
「あるにはありますけど……」
「まあテニスに勉強とやってたら時間ないか」
先程の陰りは何だったのかと思わせるほど、ケロリと変化した明るい表情に動揺した。やはり他所の俺が気にするべき事物ではないのだと突き放されたように感じながらも差し出された青のコントローラーを受け取った。
「よっしゃ、やろか」
やる気十分といった具合で名前さんは改めて俺の左隣に腰を下ろした。やっぱ大画面の方が盛り上がるなぁ、と弾ける笑顔を横目に始まるゲームに意識を向けた。
様々なミニゲームが収録された最近話題のもので、ゲームに明るくない俺でも楽しめそうなものばかりであった。手軽なものが多く、恐らくゲームに強いであろう彼女が初心者の俺とでも楽しめるようにと選んでくれたのだろう。と、思っていたのだが。
「やった~」
「う、嘘やろ……」
蓋を開けてみれば、彼女の圧勝であった。何度見たか分からない『1P WIN』の文字。運が必要なゲームでは上手く渡り合えても、実力の出るものでは完膚なきまで叩きのめされた。あまりの差に肩を落とし、かつての後輩達を思い浮かべては首を横に振った。
「こないに強い人知らんわ……」
「運もあるけどなぁ」
ぐんと背伸びをしながら清々しい表情で感想を述べる。湯気の消えた紅茶を飲む彼女を眺めつつ、とある二人を脳裏に浮かべた。
「後輩も強かったけど、名前さんはそれ以上ですわ」
後輩という単語を口に出すと、名前さんは暫し考える素振りを見せた。ちょっと待って、と手のひらを見せて口止めを要するのはどういう意図からか。真剣な面持ちの彼女は閃いたのか、一人の名を上げた。
「……もしかして、財前くんとか?」
「正解です。けど、あともう一人いてます」
「えっ、誰やろ。財前くんしか知らんわ」
私聞いたことあるかな、と口に出しながら再び熟考し始める。俺としては財前の名が出てきただけで一驚を喫していた。朧げな記憶の中では財前のことを話した気もするが、まさか彼女が覚えているとは思っていない。
「切原クン言う子です。えらい人懐っこい性格で、財前よりゲーム強いんちゃうかな」
切原クンの話はしたことがないからと早々に答えを提示した。すると彼女は俺の言葉を聞くなり、心底嬉しそうにしながら両の手のひらを擦り合わせる。
「へえ~、そうなんやあ。対戦願いたくなるやん」
名前さんのさり気ない言葉に胸元が一瞬だけ重みを感じた。絶対俺から紹介して会わせへんけど、と密かに関係のない切原クンを巻き込みつつ、少しだけ話を戻した。
「というより、よう覚えてましたね」
「財前くんのこと?」
そうです、と肯定すると彼女はああ、と零した。話したとしても三年前のことで、よく覚えているものだと感心していた。すると、彼女は当たり前だと言うように答えを口にした。
「好きな相手に関係することは覚えるやろ」
目が合ったまま、数秒沈黙が流れる。どこが可笑しいのかと首を傾げる彼女に対し、俺はと言えば自覚するレベルで顔に熱が集っている。彼女からの明確な好意を受け取り慣れていないせいで、どう言葉を紡ぐべきか慌てふためくばかり。口は開いたり閉めたりを繰り返している。
そんな俺の様子と自身の言葉で思い返したのか、俺の様子の異変を察知した彼女は俺とお揃いの表情をし始めた。上手く言葉にならないのか、両手を宙で遊ばせている。
「え、あ、忘れて、やなくて!……って、当たり前やろ。好きに決まってる」
途中で腹を括ったのか、彼女は落ち着きを取り戻し、いじらしく目を逸らしながら吐き捨てた。拗ねた仕草と、はっきり口に出された好意に喜ばずにはいられない。だが、財前のことを話したという出来事を詳細に覚えていない自分の記憶を恨んだ。もし柳クンや乾クンのようにデータとして正確に覚えていれば、彼女がいつから俺を想っていたのかが明確になったはずであるのに。
そうは思いつつも、現状彼女からの言葉に舞い上がっている。常に冷静で余裕であると思っていた彼女が俺と同じような態度を露わにしたことで、精神的立場が急変してしまったのだ。
「……名前、さん」
調子に乗った俺が名を呼べば、薄らと膜を張った瞳とぶつかった。秘匿していた感情が露呈した彼女の身体は怯えているかのように小さく映る。
「ごめん……想像以上に浮かれてる」
前髪をかき上げながら恥ずかしさを誤魔化す姿に、俺はどうしようもなく心を擽られる。本能的に手を動かせば並んでいた指先に触れ、俯いていた彼女の顔が上がった。
もしかしたら、今かもしれへん。
そう感じ取った俺はゆるやかに赤い顔に近づいた。すると彼女は俺の企てを悟ったのか、目を閉じる。突然到来した良い雰囲気に目を閉じ、触れあおうとした瞬間。
ピンポーン
インターホンの音で俺達は同時に目を開けた。粉々に砕け散った雰囲気を元に戻そうにも破片一つ残らず吹き飛んでいる。
「……荷物頼んでたの忘れとったわ」
名前さんは何事もなかったかのように立ち上がり、ドアホンの方へ向かって行ってしまった。呆然とする俺を放ってバタバタと足音が遠ざかる。間仕切りの向こうで対応する声が聞こえ、がっくりと肩を落とした。
「嘘やろぉ……」
まさかの展開に俺は情けない声で正直な気持ちを吐き出す。思わず前髪をかき上げ、熱すぎる額の温度を確認してしまった。あれは完全に決まった流れであったはずなのに、と宅配便のタイミングの悪さを身勝手に恨んでしまった。
ガチャリと扉の閉まる音が聞こえ、軽い足取りが戻ってきた。小さな段ボールを抱えた名前さんは荷物を床に置くと、早速開封作業に入った。
「何頼んでたんですか?」
俺も何も無かったかのように段ボールを挟んで彼女と頭を突き合わせた。そして、カッターでガムテープを切る手元を凝視しながら中身を問うた。彼女がこちらを見ることはないが、手を動かしたまま俺の質問に軽やかな声色で答えた。
「紅茶。お気に入りのやつ」
「へえ、」
戸棚に多くの種類のティーバッグや茶葉が並んでいたことを思い出しながら、段ボールから出てくる商品と記されている店名をチェックする。今日だけで彼女の新たな顔を沢山知れて喜びつつも、脳内で必死にメモを取った。必ず今後活きるからと笑顔を作ってはいるが、頭の中は大騒ぎである。
名前さんは商品を出し終えると、突然手を止めた。ふいに起こった出来事に、手元から顔に目を移動させれば彼女はにこやかに問うた。
「今度お店行くけど、一緒に行く?」
「ええんですか?」
質問に質問で返すと、彼女は俺の鼻を摘まんだ。そして、少しだけ顔を近づけてから内緒話をするように囁いた。
「デートのお誘いしてるつもり」
悪戯っ子の微笑みに、俺は勢いよく首を縦に振った。いっぱいいっぱいの返事からして、俺に余裕が生まれるのは当分先だろうと思わざるを得なかった。
スマホの画面を点け、何度確認したか分からない現在時刻を見る。もう行ってもええよな、と不安を募らせつつ、約束の一分前を表示する画面を一瞥してから手にしていた紙袋の取っ手に力を込めた。そして、よし、と意気込んでからエントランスに足を踏み入れる。エントランスにさえ踏み込むのにも心臓が煩くて、未知の境界に飲み込まれるような恐怖さえ覚えた。
再び深呼吸をして、震える指で共用扉に備え付けられてあるボタンを一つずつ、事前に教えられた数字を押す。最後に呼出のボタンを押せば、機械から彼女の声が聞こえた。
「開けまーす」
緊張に縛られた俺とは正反対のリラックスした声だった。
隣の扉は直後にガチャリと音を立てて開き、俺は取っ手を回して彼女の部屋を目指した。すぐ目の前にある階段をトントンと調子よく上がる足は気の表れだろう。
今度こそ名前さんが出てくる。未だ心臓と仲良く出来ないまま彼女の部屋の前に辿り着くと、それとなく前髪を直した。下で押した番号と同じ番号の部屋のインターホンを鳴らせば、扉はすぐに開いた。
「いらっしゃい」
扉から覗くは晴れやかに目を細めた名前さん。彼女の笑みが眩しくて、咄嗟に顔を俯かせた。じわじわと熱が実体を持って俺を襲い始めてしまい、「お邪魔します」と独り言のように小さく言葉にした。片想いのままだった三年前が色濃く残っているせいで彼女の姿が妙に刺激的に映っている。
回るレバーハンドルに触れ、おずおずと小さく頭を下げながら漸く玄関へと入る。ちらりと覗き見るように顔を上げれば、彼女は笑いを堪えたいのか、静かに肩を震わせていた。
「緊張してんの?」
口元に手を当ててはいるが、隠しきれない笑いが声として現れている。彼女の言葉はどこも間違ってはいない。しかし、人が気にしている箇所を突けば、不満が顔に出るというもの。俺の目は再び彼女から逸れ、態とらしく唇を尖らせてやった。
「初めてやもん……家族関係なしに女の子の部屋入るん」
そう呟き、彼女の薄く平べったい足を視野に入れながら壁に手を当てる。ブラウンの革靴を脱ぎつつ、未だに収まることのない鼓動を少しでも抑えようと隠れて深呼吸を試みると、上からケラケラと転げるような笑い声が降り掛かった。何かおかしいことを言っただろうかと反射的に顔を上げた先には、満足そうに目を細めた名前さんが俺を見つめていた。体を壁に預けつつ俺に注がれる視線は春の日差しのように柔らかい。だが、その行動の意図が汲めずに疑問を抱いたまま彼女を見つめ返すと、目下に位置を変えた顔が首を傾げた。
「私、女の子なんやね?」
彼女の問いに俺まで首を傾げそうになった。俺は瞬きを数度繰り返した後、覚えている自身の発言を単語ごとに確認した。瞬間的なせいもあるのか、俺の頭には碌な答え一つ浮かばない。彼女の表情から窺うに悪い事ではないんだろう。そう思いたい。
「当たり前やないですか。俺、変な事言いました?」
降参であると正直に述懐すれば、彼女は首を横に振った。
「んー、秘密」
名前さんはそう言うと、くるりと反転して廊下と称すにはあまりにも短いフローリングを歩き始める。背中で両手を組み、足取りは軽い。俺の発言に何を思ったかは知らぬままだが、弾ける笑顔で深層心理を秘めたままにする彼女に嫌悪感は抱かなかった。むしろ、無邪気に遊びまわる子供のようで、普段抱く彼女への気持ちとは対照的で新鮮であった。
俺は彼女の後を大人しく着いていき、未知の世界へ足を踏み入れる準備に取り掛かった。薄いカーテンに仕切られた向こう側には彼女の生活ゾーンが待っている。
トクトクと逸る鼓動のために、ふう、と一つ息を吐いてから間仕切りのカーテンを潜ると整頓されたワンルームが広がった。白を基調とした家具が並び、テレビの周辺には様々なゲームの据え置き機が鎮座している。その隣にあるデスクには二画面のパソコンが仲良く置かれ、棚にはぎっちりと本が詰め込まれていた。
「適当に座ってな」
戸棚からマグカップを二個出しながらテレビ前のテーブル周辺を指し示す。俺は座る場所一つに戸惑いつつ、言われた通りテーブルをテレビと挟むように座った。そして、持参した紙袋はテーブルの上に置き、両手でそれぞれ太腿を撫でた。彼女はすぐ近くの台所で飲み物を作っているのだろう。鼻歌を奏でながら戸棚から箱を取り出しては吟味することを繰り返していた。
俺は彼女を待ちながら、コポコポと沸き始めるケトルの音をBGMにきょろきょろと部屋中を見渡した。シンプルではあるが所々に彼女の趣向が感じられ、それを確認する度に俺は名前さんの部屋にいるのだと実感する。部屋の香りは程よく鼻を掠め、深く息を吸った。
俺が初めて来るのでなければ落ち着けていただろう。姉妹を抜きにして異性の部屋に入るのは初めてなのだから。
「何飲む?コーヒーと紅茶とお茶があるけど、」
「ほな紅茶でお願いします」
「はーい」
名前さんは同じティーバッグを二つ取り出すと、カップの中に入れた。そして、お湯が沸くまでと彼女は俺の隣に腰を下ろした。足を揃えて崩して座る姿に、夢と現実が入り混じった、不思議な感覚に襲われる。彼女のいる左側だけが自分の身体ではないんじゃないかと思えるほどに、空間には不釣り合いな心が剥き出しになる。黒のハイネックニットの長袖に藍の暗いパンツに覆われた彼女のボディラインに俺の喉は大きく動いたのだ。
「足、崩したらええよ。そないに緊張せんと」
まじまじと見すぎたのか、彼女は照れ臭そうに目尻を落として笑った。俺はそこで正気に戻り、自身の体勢を見直した。俺の足は綺麗に折り畳まれ、無意識に正座の形を取っている。
「っ、すんません……」
慌てて足を崩したが、丁度良い体勢が見当たらず何度か足をばたつかせてしまった。これから先、やる事成す事全て初めてなのだからと言い訳したい気持ちをぐっと堪えつつも、その裏で彼女は既に経験済みの行為に違いない、だから余裕なんだと自分以前の見ず知らずの男に密かに嫉妬の炎を燃やした。
すると、彼女は俺の腕にそっと触れ、ゆったりとした動きで傍に寄った。近づいた顔はいつもより幼く見えるのに、表情はいつになく扇動的で俺の動きを止める。もしかしたら、と期待する胸が瞼を閉じた。
「安心しい。私も恋人呼ぶん、初めてやから」
わざとらしく耳元で囁かれた言葉が俺をかき乱す。予想外の声に錆びたロボットのようにぎこちなく首を回した。
「……ほんまに?」
「嘘吐いてどないするん」
情けなく震えた声を出す俺に、名前さんは大きく息を吐き出しながら肩を下げた。先程まで燃え上がっていた嫉妬の炎はどこへ行ったのか、彼女の一言であっさりと鎮火してしまう。
「絶対初めてちゃう思うてたから……名前さんの初めてになれて、めっちゃ嬉しい」
崩れていく表情を隠そうと口元を手で覆うが、そんなことでは隠し切れないほど顔の色が変化しているのが分かった。俺が初めてである自覚と喜びがいとも簡単に込み上げ、恋愛での感情の操作があまりにも下手なことを実感する。彼女の過去をいくら詮索しても仕方がないと分かっていながら、いざ判明すると良くも悪くも表へと出てしまう。いくつ残っているのか分からない彼女の初めて。これからどれほど回数を共に重ねられるのだろう、と胸が切なく鳴いた。
「随分可愛らしいこと言うねんな」
俺の態度を評しながら涼やかに笑う名前さん。俺と彼女の抱える想いを天秤にかければ、俺の方が深く下がってしまいそうで少しだけ怖くなった。余裕な名前さんに、緊張しっぱなしの俺。いつまで初心なままかと極まり悪い。
悶々とする俺を他所にケトルが合図を出し、彼女が台所へと立ち上がる。体の左側が急に寂しさを覚えたが、沸騰した体の休息にも思えた。だが、ずっとたどたどしい俺でいるわけにはいかない。コポコポとお湯が注がれる音を聞きながら、次の手段を思案する。俺の目には机の上に置かれた紙袋が映った。
「もうちょい待ってな。今蒸らしてるから」
よいしょ、と名前さんが再び隣に座ったのを見計らってから、紙袋を指先で彼女の前までスライドさせた。
「名前さん、これ」
渡したのはチョコレート。事前に姉から聞いた情報を頼りにプレゼントを用意していた。女性人気の高い店舗であったため、姉に頭を下げてついてきてもらったのは先日の事。終始にやにやと厭らしく揶揄われたことなどすぐに思い出せてしまう。
彼女は瞼を引っ張られたように目を見張り、紙袋の中を覗いた。中にある箱を見た瞬間に、名前さんは中身と俺の顔を交互に見つめた。
「これ、めっちゃ好きなとこのやつやわ」
ふにゃりと綻ぶ笑顔に胸を撫で下ろした。自宅であるからなのか、いつもより柔らかな雰囲気に硬くなった心も和らぎ始める。
「ええの?もろて」
「そのために持ってきたんですから」
「え~、嬉しいなあ」
紙袋から鮮やかな水色の箱を取り出し、白く長い指先が表面を撫でる。余程嬉しいのか名前さんの口角は上がったままだ。
彼女はあっ、と声を漏らすと、箱を机に戻し、台所へと戻っていった。いそいそと慌ただしい様子で作業をこなすと、マグカップを二つ持って俺の隣に座った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
机に置かれたカップからは赤褐色が湯気を上げている。もらった緑のマグカップに口をつけると、彼女は正座でそわそわと落ち着かない様子で箱と睨めっこを始めた。
「さっきのチョコ、開けてもええ?」
勢いよく向いた顔は真剣そのもので、こちらまで顔が緩む。好物に対しての態度を知り、新たな一面が眩しい。
「勿論。名前さんのもんですから」
俺の許可を受け、彼女は再度ターコイズブルーの箱を手にした。他にも色は何種類かあったが、涼やかな中にも確かな芯を持っている彼女らしい色なのではないかと判断した結果であった。
名前さんは箱を開けるや否や、わあ、と感嘆の声を漏らした。一つ一つ眺めては、好きなチョコや、だとか、まだ食べたことないやつ、と目を蘭々と輝かせている。
ほんま、可愛らしい人やわ。
俺は彼女を眺めながら、更に一口紅茶を含んだ。名前さんは開けた箱の前で両手を擦り合わせ、どれから食べようかと迷っている。前のめりになって目を彷徨わせる姿を観察していると、突然彼女がこちらに首を回した。
「蔵ノ介くんって、甘いもの大丈夫な人?」
彼女の問いに手にしていたマグカップを机に置いた。顎に手を当て、今までを思い返せば答えはイエス。だが、お菓子の類を誘われるか、もらうかしない限り口にしなかっただろうと過去の行動を顧みる。
「あー……大丈夫やけどあんま食べへん、かも」
そう答えてからちらりと表情を窺えば、名前さんは喜色を満面に浮かべて何度か頷く。擦り合わせていた手を止め、上目遣いのように下から俺の顔を覗き込めば質問を重ねた。
「もしかして……結構調べてくれた?」
ドキリと一瞬だけ心臓に痛みが走った。名前さんは瞳を動かすことなく俺を見つめ、重ね合わせた指先は唇に触れて質感を持たせている。
「す、少し……だけ」
思わず名前さんから目を逸らした俺は、机の脚を見ながら虚勢を張った。先程の質問がこう転ぶとは、と羞恥が集う。
「蔵ノ介くん」
名前さんに呼ばれ、顔を上げる。彼女はほんのりと頬を染めて、口を横に広げて笑った。
「嬉しい。ありがとう」
彼女のお礼一つで姉から揶揄された記憶がいとも簡単に消えていく。こんな笑顔が見られるなら何度でも、と舞い上がる自分を抑え、至って冷静に笑って見せた。それが彼女の目にどう映っているかは分からないが、良かったと思いたい。
名前さんは漸く一口目を決めたのか、ビターのチョコレートを口に放り込んだ。黙って口を動かしているが、顔に美味しいと書いてあるようで胸が一杯になる。
「やっぱり美味しいなあ」
一つ堪能した後、黄色のマグカップを手に取った。熱いのか、唇を窄めては、ずるずると音を立てて紅茶を口内に招いている。猫舌なのだろうかと口先を見つめて同じように紅茶を口に運べば、名前さんはマグカップを机に置いた。
「蔵ノ介くん」
「はい」
「さっきから見すぎ。穴開きそうやわ」
なんか付いてる?と頬に触れながら尋ねる彼女に対し、目から気持ちが溢れていることに狼狽した。いつまででも見ていられるなんて口が裂けても言えない。想いが全面に出過ぎて引かれるかもしれない。そう思いながらぐるぐると働かない頭で導いたのは、全く別の一手であった。
「いや、なんも付いてないです。でも、」
「でも?」
「なんや今日、どことなく幼く見えるような気がして、」
序盤から思っていた気持ちが口から転げ落ちた。特別表情が豊かなせいかもしれないと理由を浮かべつつ動向を探れば、彼女は居心地悪そうに表情を緩める。
「あー……多分今日化粧薄いからやわ」
手抜きのつもりとちゃうで?と、力なく眉を下げて笑う彼女に、俺は失言をしたと瞬時に理解が及んだ。好意的な言葉であると訂正しなければならないと意気込んだ俺は、咄嗟に彼女との距離を詰め、声を張った。
「お、俺は……どっちの名前さんも好きです。普段外で会うときの名前さんも、お家の名前さんも……!」
盛大な告白に、名前さんは目を大きく見開き、ゆっくりと数度瞬きを繰り返した。やってしもた~!と頭を抱えたくなる気持ちに襲われ、今にも泣きだしそうになった。告白したときの威勢のよさをどこに置いてきたのかと自分に問い質しても、その答えが返ってくることはない。
「そ、それは……ありがとう……」
勢いに圧倒される名前さんを見て、どうしようもない焦燥感に駆られる。どうしてこうも下手くそに成り下がるのかと辟易せずにはいられない。
「いきなりすんません……」
対照的な弱弱しい声で謝罪を口にすれば、名前さんはくすくすとおしとやかに笑った。
「いや、褒められて嫌な気持ちにはなれへんから大丈夫よ」
優しい女性で良かったと胸を撫で下ろす。包容力というのだろうか、同級生であればこうはいかなかったと深く自省した。
変に澱んだ空気の入れ替えをしようと話の転換を狙った俺は、パソコンの置かれた机の下にひっそりと置かれたケースを見つけ、それに食いついた。これなら彼女のことも知ることが出来る上に俺自身が主体となって話を持っていけるという魂胆だった。
「名前さん、あれって」
「あ、ああ……これなあ、」
指を差して中身を問えば、一瞬だけ彼女の顔色が曇った。瞬間の変化に気付いてしまったせいで胸がチクリと針で刺される。止めようにも時すでに遅し。名前さんは徐に立ち上がると、俺が指差したブラウンの長方形のケースを取り出した。一メートル弱ほどありそうな横長のそれは、ケースを囲っていたチャックを引くことで開かれる。中身を覗けば、答えはすぐに分かった。だが、正解は柔らかそうな布に包まれ、身を守っている。
彼女の方を一瞥すれば、何を表すでもなく、ただ無表情でそれを見つめていた。何を考えているのか判断のつかない妙な顔つきが本当に彼女のものなのか、疑いたくなるほどであった。
「やっとったんですか?」
探り探り声をかけると、一度だけ瞬きをしてからケースを閉じた。チャックを閉め、元あった位置に戻せば、ふう、と深く息を吐いた。
「……昔、少しだけ」
眩しそうに目を細める彼女にかける言葉を躊躇った。俺を見ることなく、彼女の瞳は床へと落ちている。
あの形状は恐らくバイオリンだろう。俺に見せたということは、思い出したくない過去ではないように思う。だが、暗がりを見せた顔をどう説明する。知りたいと思う身勝手な気持ちと、知らないままでいいと未来を考える強気な思いが鬩ぎ合う。
彼女が俺の左隣に戻る間の短い時間で考えた末、俺は深堀しないことに決めた。いずれ必要なときが来れば聞けばいい。今聞く必要はないと心内で唱えた。
すると、彼女は陰った雰囲気を気にしたのか、霧払いするように、あ、と声を漏らした。何かを思いついたのか、テレビの周辺を動かし始めた。
「ゲームでもやろか」
そう言って笑顔と共に引っ張り出してきたのは、テレビの前に置かれていたゲームの据え置き機。手には赤と青の専用のコントローラーを手にしている。
「ゲームやることある?」
「あるにはありますけど……」
「まあテニスに勉強とやってたら時間ないか」
先程の陰りは何だったのかと思わせるほど、ケロリと変化した明るい表情に動揺した。やはり他所の俺が気にするべき事物ではないのだと突き放されたように感じながらも差し出された青のコントローラーを受け取った。
「よっしゃ、やろか」
やる気十分といった具合で名前さんは改めて俺の左隣に腰を下ろした。やっぱ大画面の方が盛り上がるなぁ、と弾ける笑顔を横目に始まるゲームに意識を向けた。
様々なミニゲームが収録された最近話題のもので、ゲームに明るくない俺でも楽しめそうなものばかりであった。手軽なものが多く、恐らくゲームに強いであろう彼女が初心者の俺とでも楽しめるようにと選んでくれたのだろう。と、思っていたのだが。
「やった~」
「う、嘘やろ……」
蓋を開けてみれば、彼女の圧勝であった。何度見たか分からない『1P WIN』の文字。運が必要なゲームでは上手く渡り合えても、実力の出るものでは完膚なきまで叩きのめされた。あまりの差に肩を落とし、かつての後輩達を思い浮かべては首を横に振った。
「こないに強い人知らんわ……」
「運もあるけどなぁ」
ぐんと背伸びをしながら清々しい表情で感想を述べる。湯気の消えた紅茶を飲む彼女を眺めつつ、とある二人を脳裏に浮かべた。
「後輩も強かったけど、名前さんはそれ以上ですわ」
後輩という単語を口に出すと、名前さんは暫し考える素振りを見せた。ちょっと待って、と手のひらを見せて口止めを要するのはどういう意図からか。真剣な面持ちの彼女は閃いたのか、一人の名を上げた。
「……もしかして、財前くんとか?」
「正解です。けど、あともう一人いてます」
「えっ、誰やろ。財前くんしか知らんわ」
私聞いたことあるかな、と口に出しながら再び熟考し始める。俺としては財前の名が出てきただけで一驚を喫していた。朧げな記憶の中では財前のことを話した気もするが、まさか彼女が覚えているとは思っていない。
「切原クン言う子です。えらい人懐っこい性格で、財前よりゲーム強いんちゃうかな」
切原クンの話はしたことがないからと早々に答えを提示した。すると彼女は俺の言葉を聞くなり、心底嬉しそうにしながら両の手のひらを擦り合わせる。
「へえ~、そうなんやあ。対戦願いたくなるやん」
名前さんのさり気ない言葉に胸元が一瞬だけ重みを感じた。絶対俺から紹介して会わせへんけど、と密かに関係のない切原クンを巻き込みつつ、少しだけ話を戻した。
「というより、よう覚えてましたね」
「財前くんのこと?」
そうです、と肯定すると彼女はああ、と零した。話したとしても三年前のことで、よく覚えているものだと感心していた。すると、彼女は当たり前だと言うように答えを口にした。
「好きな相手に関係することは覚えるやろ」
目が合ったまま、数秒沈黙が流れる。どこが可笑しいのかと首を傾げる彼女に対し、俺はと言えば自覚するレベルで顔に熱が集っている。彼女からの明確な好意を受け取り慣れていないせいで、どう言葉を紡ぐべきか慌てふためくばかり。口は開いたり閉めたりを繰り返している。
そんな俺の様子と自身の言葉で思い返したのか、俺の様子の異変を察知した彼女は俺とお揃いの表情をし始めた。上手く言葉にならないのか、両手を宙で遊ばせている。
「え、あ、忘れて、やなくて!……って、当たり前やろ。好きに決まってる」
途中で腹を括ったのか、彼女は落ち着きを取り戻し、いじらしく目を逸らしながら吐き捨てた。拗ねた仕草と、はっきり口に出された好意に喜ばずにはいられない。だが、財前のことを話したという出来事を詳細に覚えていない自分の記憶を恨んだ。もし柳クンや乾クンのようにデータとして正確に覚えていれば、彼女がいつから俺を想っていたのかが明確になったはずであるのに。
そうは思いつつも、現状彼女からの言葉に舞い上がっている。常に冷静で余裕であると思っていた彼女が俺と同じような態度を露わにしたことで、精神的立場が急変してしまったのだ。
「……名前、さん」
調子に乗った俺が名を呼べば、薄らと膜を張った瞳とぶつかった。秘匿していた感情が露呈した彼女の身体は怯えているかのように小さく映る。
「ごめん……想像以上に浮かれてる」
前髪をかき上げながら恥ずかしさを誤魔化す姿に、俺はどうしようもなく心を擽られる。本能的に手を動かせば並んでいた指先に触れ、俯いていた彼女の顔が上がった。
もしかしたら、今かもしれへん。
そう感じ取った俺はゆるやかに赤い顔に近づいた。すると彼女は俺の企てを悟ったのか、目を閉じる。突然到来した良い雰囲気に目を閉じ、触れあおうとした瞬間。
ピンポーン
インターホンの音で俺達は同時に目を開けた。粉々に砕け散った雰囲気を元に戻そうにも破片一つ残らず吹き飛んでいる。
「……荷物頼んでたの忘れとったわ」
名前さんは何事もなかったかのように立ち上がり、ドアホンの方へ向かって行ってしまった。呆然とする俺を放ってバタバタと足音が遠ざかる。間仕切りの向こうで対応する声が聞こえ、がっくりと肩を落とした。
「嘘やろぉ……」
まさかの展開に俺は情けない声で正直な気持ちを吐き出す。思わず前髪をかき上げ、熱すぎる額の温度を確認してしまった。あれは完全に決まった流れであったはずなのに、と宅配便のタイミングの悪さを身勝手に恨んでしまった。
ガチャリと扉の閉まる音が聞こえ、軽い足取りが戻ってきた。小さな段ボールを抱えた名前さんは荷物を床に置くと、早速開封作業に入った。
「何頼んでたんですか?」
俺も何も無かったかのように段ボールを挟んで彼女と頭を突き合わせた。そして、カッターでガムテープを切る手元を凝視しながら中身を問うた。彼女がこちらを見ることはないが、手を動かしたまま俺の質問に軽やかな声色で答えた。
「紅茶。お気に入りのやつ」
「へえ、」
戸棚に多くの種類のティーバッグや茶葉が並んでいたことを思い出しながら、段ボールから出てくる商品と記されている店名をチェックする。今日だけで彼女の新たな顔を沢山知れて喜びつつも、脳内で必死にメモを取った。必ず今後活きるからと笑顔を作ってはいるが、頭の中は大騒ぎである。
名前さんは商品を出し終えると、突然手を止めた。ふいに起こった出来事に、手元から顔に目を移動させれば彼女はにこやかに問うた。
「今度お店行くけど、一緒に行く?」
「ええんですか?」
質問に質問で返すと、彼女は俺の鼻を摘まんだ。そして、少しだけ顔を近づけてから内緒話をするように囁いた。
「デートのお誘いしてるつもり」
悪戯っ子の微笑みに、俺は勢いよく首を縦に振った。いっぱいいっぱいの返事からして、俺に余裕が生まれるのは当分先だろうと思わざるを得なかった。