下手くそに愛を叫べⅡ
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はあ、と白い息で悴む指先を温める。部屋に入ったばかりでは温まるものも温まらず、手を重ねては暖をとった。何度も来慣れたはずの部屋も今日ばかりはピリピリと静電気のような緊張が走り、指先がいつもより不自由であった。
クリスマス当日、俺は名前さんの部屋にいた。彼女に言われた通り小さめのオードブルを買ってから上がり込み、今はどこのカップルとも変わらない和やかな雰囲気を過ごしている。テーブルの上には彼女の手料理も並んでおり、腹も心も美味しく満たされていた。俺の為にわざわざ準備してくれたんやろな、だとか、名前さんはお酒飲まへんのやろか、だとか思うことは色々あったが、俺は当初の目的を達成させるために平静を装うので精一杯であった。
「名前さん」
深呼吸をしてから並んでソファに座る彼女の名前を、少しだけ固い声が呼んだ。これから言うとなると、急激に喉が渇き始め、一向に落ち着かない気持ちが不安を煽る。
「ん?」
俺の気持ちを知らないままの名前さんは、柔和な笑みを携えて首を傾げている。俺は両手を握り、拳を作ると、更に強く握った。今から俺は言う。素直に聞いてやる。その意思表示だった。
「プレゼントはなしでっていう話やったけど、一つだけ欲しいもんがあるんです」
「……なんやろ」
いつもと気配が違うことを察したのか、彼女の目は細められ、声はか細くなった。俺は目を決して逸らさないように、決して逸らされないように注意を払いつつ、彼女のことを真っ直ぐ見つめた。
「キスより先を拒む理由、教えて欲しいです」
強請った瞬間、空気が嫌なほど静まり返った。静かなはずなのに、シンと張り詰める空気が居心地を悪くさせる。耳を塞ぎたくなるほど静けさが煩く感じた。だが、俺はそれに負けるつもりはないと更に言葉を重ねた。止まらぬ言葉が彼女を追い詰めるんじゃないか、という不安を募らせる間もなく、次へと向かって突き進んだ。
「体の調子があかんのやったら正直に言われたいです。過去に嫌なことがあるんやったら聞きません。でも、何も知らんままなのも辛い」
俺はまだ彼女自身のことを知れていないから、見当はずれのことを言っているかもしれない。だが、このままでは、俺自身が阻まれているような気がして怖い。好きな人には曇りない笑顔でおって欲しい。
すると、名前さんは目を彷徨わせながら一度だけ口を開けてはすぐに閉じた。その間に繰り返した瞬きの回数は極端に多かった。
「蔵ノ介くんが想像するような、悲しい過去があるわけとちゃうよ」
酷く、優しい声色だった。思い出語りが始まりそうな穏やかな口調が、俺の緊張の糸を爪で引っ掻くように弾いた。
「ほな、なんで、」
答えを催促すれば、彼女は額に手のひらを当てて顔を俯かせた。丸く稜線を描く彼女の肩がいつになく弱く、小さく見える。
「……三年って、あっという間に思えて随分と長いと思わへん?」
徐に上げた顔には不快感にも似た嫌悪と、自嘲するかのような微妙な笑いが張り付いていた。予定外の彼女の表情と言葉が俺の調子を狂わせ、反応がいくつか遅れた。だが、それを気にする素振りを見せず、彼女は微笑んだ。
「少し、聞いてくれる?」
名前さんの願いに、俺は黙ったまま頷いた。すると、彼女は一度だけ足を伸ばし、また斜めに折り畳んだ。ふう、と一息吐いて、頭頂部から手櫛を通しては首までを撫で下ろした。
「東京の高校行く言うて離れた三年間。ほんまに待ち遠しくて、ほんまに戻ってくるんやろかって不安やった。帰ってきても、私のところには来うへん。私のことはなかったことにされてるんやって強がってても、結局は期待しとった。せやないと、引っ越しもせんと、同じ場所で待たれへん。ずっと、私はこの家で待ってた」
放られていた手が拳を作った。初めに作った笑顔はとうに姿を消している。
「嬉しかった。今こうして蔵ノ介くんと過ごせるのも幸せやなって思ってる。私には勿体ないくらいの幸福やと思ってる。でもな、」
ぐっと言葉が止まった。背筋を伸ばしながら震えた息が深呼吸を始め、目を大きく見開いて何度も瞬きを繰り返していた。そして一度だけ長い瞬き、数秒目を閉じた彼女はゆっくりと目を開けた。
「怖いねん。蔵ノ介くんのことが、やなくて、私の気持ちが怯えてる。蔵ノ介くんが未成年やからとか、まだ学生やからとか、いろいろあるけど……私の気持ちがどうにもならへん。私の中の蔵ノ介くんが三年前のまんまで止まってる」
今にも破裂してしまいそうな膜がキラリと光った。俺は無意識に彼女が作った拳を上から自らの手のひらで覆い、優しく、強く握った。
「ただの我儘やよ。三年が大きすぎて、全部知られることに抵抗が出来てしもた。頭があの時から何も変わってへん。頭では分かってんのに、成長した蔵ノ介くんを受け入れられてない。私に待っててって言うた蔵ノ介くんが残ってる。好きなのに制御し続ける自分がおる。もう阻むもんはない思うても、キスの度に罪悪感が残んねん。回数を重ねたら消えていくんかなって思うても、消えへんくて……何が正しいんか分からへん……」
消えゆく声に、俺は初めてキスをした日を思い出した。俺の経験不足と、彼女の意識の迷いから生まれた「ごめんなあ」という謝罪。ようやく彼女の言葉を聞いて自覚した。帰結するのは俺の行い、俺のせいではないか、と。
「ほんまはこんなこと言いたない。虚勢張って、大人ぶって、しっかりせなあかんって思ってた、のに……」
再び俯いた頭が鼻をすすった。
俺は恋人失格だ。目の前のことしか考えられず、彼女の見据える先とは全く違うものを見ている。あまりにも自分が情けなくなった。元々自信はあったわけではないが、彼女がこうして惑うのは紛れもなく俺が原因であるとまざまざと突きつけられている。
「こないに人の事好きになったの初めてやから分からへん。どないして振舞ったらええのか、正解が分からへん。しょうもない見栄のせいで、ごめん」
俺は反省すべきであるのに、心は完全に浮かれていた。名前さんは悲しく眉をひそめているというのに、彼女の想いに喜んでは鼓動が激しさを増す。作られた感情が悲哀であれど元の感情が好意であるならば、俺はそれを愛だと声を大にして伝えたかった。経験のない俺が称してしまうのは、おかしな話かもしれない。だが、俺にはそうしか思えなかった。俺はどこまで彼女のことを好きになってしまうんだろう。これ以上好きにさせられて、俺はどうなってしまうんだろうか。底のない深淵と、広がる青天井に彼女との未来を重ね合わせた。
「謝らんといてください。二人の問題やないですか」
俺が声の明度を上げて言えば、名前さんはきょと、と目を丸くさせた。そして、俺は彼女の手の甲を親指で擦るように撫でた。彼女の存在を確かめるかの如く、さりげなく。
「言うてくれて、おおきに」
俺は感謝を伝えてから笑って見せた。上手く笑えているかなんて知るところではないが、彼女の勇気と決意に対しての喜びは確かに存在していた。
「名前さんが躊躇うってことは、俺が名前さんに見合う男になってへんってことやと思います。せやから、俺に責任があります」
表情を変えずにつらつらと俺の弱点を言えば、名前さんは首を横に振った。
「っ、ちゃう、これは、私の……!」
俺は咄嗟に彼女の言葉を遮るように抱きしめ、頭を撫でた。これ以上は話させたくないという俺の我儘から出た行為だった。名前さんは優しいから、俺のために何度も悩んで悩み抜いたんだろう。ただ好きでいてくれる。それだけでも貴重なことであるのに、名前さんの俺への接し方は高価過ぎる。
「俺らのペースで行きましょ」
髪の毛を梳くように撫でていた手を、大きく収縮する背中に移動させた。ゆっくりと背中を擦れば、彼女は小さく「ありがとう」と言葉にした。
本来ならば俺が謝るべき立場であるのに、俺はまた彼女に甘えてしまった。俺が謝れば、彼女は私が悪いのだと言って聞かなくなりそうで言えなかった。こんな弱い俺やけど、名前さんは許してくれるかな。早く頼れる男になるから、今だけは許してほしい。
「それで、その……一つ提案やねんけど、」
ゆっくりと身体を起こした名前さんは俺の腕に触れたまま、言いづらそうに俺から目を逸らした。俺はその目を追いかけつつ、彼女の細腕に触れた。
「何です?」
幼子に尋ねるように聞き返すと、名前さんは唇を口内に丸め込んでから口を開いた。
「期限を設けようかと、思ってて」
「期限って?」
オウム返しで聞けば、彼女は一度だけ首を縦に振った。
「私は私でちゃんと今の蔵ノ介くんと向き合いたい。せやから……それまでに心積もりをさせて欲しい」
力の籠った瞳が俺を見据えた。心積もり、というのは、俺とそういうことをするにあたってということで間違いないのだろうか。
何も反応出来ず、自ら答えを出す前に名前さんが先に解答を出してしまった。
「ちゃんと成人したら……そのときは、お願いします」
おずおずと頭を下げる名前さん。俺は自然と腕に触れていた手に力が入った。
「……名前さんはそれでええの?」
俯きがちの名前さんにそう言えば、彼女の肩はぴくりと跳ねた。顔を覗き込もうと首を傾げ下から眺めれば、名前さんは両の手のひらを使って俺の視界を奪う。何だか可愛らしい予感がした俺はすぐさま彼女の手首を掴むと、力なく睨みつけられた。だが、その顔は見たことない程赤く染まり、ぷるぷると震えている。
「抱かれたないわけやない、から……頼んでる」
「ッ、」
俺は掴んでいた手首を引っ張り、名前さんを自分の胸に飛び込ませた。バランスを崩した彼女を受け止めるのは容易で、すぐに腰を抱いた。そして腕を引っ張り上げ、赤い顔を俺の方に向かせては、唇を奪った。溢れる想いが俺をそうさせたのだ。
「ッ、あ……ぅン、ふッ……」
溢れ返る欲で彼女の口内を犯した。唾液を奪い合うように絡む舌は野性的で、何かが外れた気がした。だが、それに気づけるほど俺は大人でも、理性的でもなかった。ただ、目の前にいる自分の好きな人に出来る行動を無意識に起こしていた。
俺の服に深い皺が刻み込まれ、漸く唇を離す。繋がった銀糸を切るために軽い口づけをしてやれば、名前さんの瞳は溶け切っていた。腕の中で俺の身体に縋る彼女に力は入っていない。だらしなく開いた口が必死に酸素を求め、肩が上下運動を繰り返している。俺はそんな彼女の輪郭をなぞりながら上を向かせた。そして、もう一度触れるだけのキスをした。
「覚えとって。何も考えられへんほど、俺でいっぱいにしたるから」
「くら、のすけ……」
「なんてな。煽り上手に釘差しただけやで」
沸き起こる情欲を堪え、赤みを帯びた彼女の頬を擦った。そして、もう一度強く抱きしめれば、細腕が俺の背中に回った。
嫌われたんやなくて、良かった。安堵を腕に任せた俺は、彼女の身体をより強く抱きしめた。
クリスマス当日、俺は名前さんの部屋にいた。彼女に言われた通り小さめのオードブルを買ってから上がり込み、今はどこのカップルとも変わらない和やかな雰囲気を過ごしている。テーブルの上には彼女の手料理も並んでおり、腹も心も美味しく満たされていた。俺の為にわざわざ準備してくれたんやろな、だとか、名前さんはお酒飲まへんのやろか、だとか思うことは色々あったが、俺は当初の目的を達成させるために平静を装うので精一杯であった。
「名前さん」
深呼吸をしてから並んでソファに座る彼女の名前を、少しだけ固い声が呼んだ。これから言うとなると、急激に喉が渇き始め、一向に落ち着かない気持ちが不安を煽る。
「ん?」
俺の気持ちを知らないままの名前さんは、柔和な笑みを携えて首を傾げている。俺は両手を握り、拳を作ると、更に強く握った。今から俺は言う。素直に聞いてやる。その意思表示だった。
「プレゼントはなしでっていう話やったけど、一つだけ欲しいもんがあるんです」
「……なんやろ」
いつもと気配が違うことを察したのか、彼女の目は細められ、声はか細くなった。俺は目を決して逸らさないように、決して逸らされないように注意を払いつつ、彼女のことを真っ直ぐ見つめた。
「キスより先を拒む理由、教えて欲しいです」
強請った瞬間、空気が嫌なほど静まり返った。静かなはずなのに、シンと張り詰める空気が居心地を悪くさせる。耳を塞ぎたくなるほど静けさが煩く感じた。だが、俺はそれに負けるつもりはないと更に言葉を重ねた。止まらぬ言葉が彼女を追い詰めるんじゃないか、という不安を募らせる間もなく、次へと向かって突き進んだ。
「体の調子があかんのやったら正直に言われたいです。過去に嫌なことがあるんやったら聞きません。でも、何も知らんままなのも辛い」
俺はまだ彼女自身のことを知れていないから、見当はずれのことを言っているかもしれない。だが、このままでは、俺自身が阻まれているような気がして怖い。好きな人には曇りない笑顔でおって欲しい。
すると、名前さんは目を彷徨わせながら一度だけ口を開けてはすぐに閉じた。その間に繰り返した瞬きの回数は極端に多かった。
「蔵ノ介くんが想像するような、悲しい過去があるわけとちゃうよ」
酷く、優しい声色だった。思い出語りが始まりそうな穏やかな口調が、俺の緊張の糸を爪で引っ掻くように弾いた。
「ほな、なんで、」
答えを催促すれば、彼女は額に手のひらを当てて顔を俯かせた。丸く稜線を描く彼女の肩がいつになく弱く、小さく見える。
「……三年って、あっという間に思えて随分と長いと思わへん?」
徐に上げた顔には不快感にも似た嫌悪と、自嘲するかのような微妙な笑いが張り付いていた。予定外の彼女の表情と言葉が俺の調子を狂わせ、反応がいくつか遅れた。だが、それを気にする素振りを見せず、彼女は微笑んだ。
「少し、聞いてくれる?」
名前さんの願いに、俺は黙ったまま頷いた。すると、彼女は一度だけ足を伸ばし、また斜めに折り畳んだ。ふう、と一息吐いて、頭頂部から手櫛を通しては首までを撫で下ろした。
「東京の高校行く言うて離れた三年間。ほんまに待ち遠しくて、ほんまに戻ってくるんやろかって不安やった。帰ってきても、私のところには来うへん。私のことはなかったことにされてるんやって強がってても、結局は期待しとった。せやないと、引っ越しもせんと、同じ場所で待たれへん。ずっと、私はこの家で待ってた」
放られていた手が拳を作った。初めに作った笑顔はとうに姿を消している。
「嬉しかった。今こうして蔵ノ介くんと過ごせるのも幸せやなって思ってる。私には勿体ないくらいの幸福やと思ってる。でもな、」
ぐっと言葉が止まった。背筋を伸ばしながら震えた息が深呼吸を始め、目を大きく見開いて何度も瞬きを繰り返していた。そして一度だけ長い瞬き、数秒目を閉じた彼女はゆっくりと目を開けた。
「怖いねん。蔵ノ介くんのことが、やなくて、私の気持ちが怯えてる。蔵ノ介くんが未成年やからとか、まだ学生やからとか、いろいろあるけど……私の気持ちがどうにもならへん。私の中の蔵ノ介くんが三年前のまんまで止まってる」
今にも破裂してしまいそうな膜がキラリと光った。俺は無意識に彼女が作った拳を上から自らの手のひらで覆い、優しく、強く握った。
「ただの我儘やよ。三年が大きすぎて、全部知られることに抵抗が出来てしもた。頭があの時から何も変わってへん。頭では分かってんのに、成長した蔵ノ介くんを受け入れられてない。私に待っててって言うた蔵ノ介くんが残ってる。好きなのに制御し続ける自分がおる。もう阻むもんはない思うても、キスの度に罪悪感が残んねん。回数を重ねたら消えていくんかなって思うても、消えへんくて……何が正しいんか分からへん……」
消えゆく声に、俺は初めてキスをした日を思い出した。俺の経験不足と、彼女の意識の迷いから生まれた「ごめんなあ」という謝罪。ようやく彼女の言葉を聞いて自覚した。帰結するのは俺の行い、俺のせいではないか、と。
「ほんまはこんなこと言いたない。虚勢張って、大人ぶって、しっかりせなあかんって思ってた、のに……」
再び俯いた頭が鼻をすすった。
俺は恋人失格だ。目の前のことしか考えられず、彼女の見据える先とは全く違うものを見ている。あまりにも自分が情けなくなった。元々自信はあったわけではないが、彼女がこうして惑うのは紛れもなく俺が原因であるとまざまざと突きつけられている。
「こないに人の事好きになったの初めてやから分からへん。どないして振舞ったらええのか、正解が分からへん。しょうもない見栄のせいで、ごめん」
俺は反省すべきであるのに、心は完全に浮かれていた。名前さんは悲しく眉をひそめているというのに、彼女の想いに喜んでは鼓動が激しさを増す。作られた感情が悲哀であれど元の感情が好意であるならば、俺はそれを愛だと声を大にして伝えたかった。経験のない俺が称してしまうのは、おかしな話かもしれない。だが、俺にはそうしか思えなかった。俺はどこまで彼女のことを好きになってしまうんだろう。これ以上好きにさせられて、俺はどうなってしまうんだろうか。底のない深淵と、広がる青天井に彼女との未来を重ね合わせた。
「謝らんといてください。二人の問題やないですか」
俺が声の明度を上げて言えば、名前さんはきょと、と目を丸くさせた。そして、俺は彼女の手の甲を親指で擦るように撫でた。彼女の存在を確かめるかの如く、さりげなく。
「言うてくれて、おおきに」
俺は感謝を伝えてから笑って見せた。上手く笑えているかなんて知るところではないが、彼女の勇気と決意に対しての喜びは確かに存在していた。
「名前さんが躊躇うってことは、俺が名前さんに見合う男になってへんってことやと思います。せやから、俺に責任があります」
表情を変えずにつらつらと俺の弱点を言えば、名前さんは首を横に振った。
「っ、ちゃう、これは、私の……!」
俺は咄嗟に彼女の言葉を遮るように抱きしめ、頭を撫でた。これ以上は話させたくないという俺の我儘から出た行為だった。名前さんは優しいから、俺のために何度も悩んで悩み抜いたんだろう。ただ好きでいてくれる。それだけでも貴重なことであるのに、名前さんの俺への接し方は高価過ぎる。
「俺らのペースで行きましょ」
髪の毛を梳くように撫でていた手を、大きく収縮する背中に移動させた。ゆっくりと背中を擦れば、彼女は小さく「ありがとう」と言葉にした。
本来ならば俺が謝るべき立場であるのに、俺はまた彼女に甘えてしまった。俺が謝れば、彼女は私が悪いのだと言って聞かなくなりそうで言えなかった。こんな弱い俺やけど、名前さんは許してくれるかな。早く頼れる男になるから、今だけは許してほしい。
「それで、その……一つ提案やねんけど、」
ゆっくりと身体を起こした名前さんは俺の腕に触れたまま、言いづらそうに俺から目を逸らした。俺はその目を追いかけつつ、彼女の細腕に触れた。
「何です?」
幼子に尋ねるように聞き返すと、名前さんは唇を口内に丸め込んでから口を開いた。
「期限を設けようかと、思ってて」
「期限って?」
オウム返しで聞けば、彼女は一度だけ首を縦に振った。
「私は私でちゃんと今の蔵ノ介くんと向き合いたい。せやから……それまでに心積もりをさせて欲しい」
力の籠った瞳が俺を見据えた。心積もり、というのは、俺とそういうことをするにあたってということで間違いないのだろうか。
何も反応出来ず、自ら答えを出す前に名前さんが先に解答を出してしまった。
「ちゃんと成人したら……そのときは、お願いします」
おずおずと頭を下げる名前さん。俺は自然と腕に触れていた手に力が入った。
「……名前さんはそれでええの?」
俯きがちの名前さんにそう言えば、彼女の肩はぴくりと跳ねた。顔を覗き込もうと首を傾げ下から眺めれば、名前さんは両の手のひらを使って俺の視界を奪う。何だか可愛らしい予感がした俺はすぐさま彼女の手首を掴むと、力なく睨みつけられた。だが、その顔は見たことない程赤く染まり、ぷるぷると震えている。
「抱かれたないわけやない、から……頼んでる」
「ッ、」
俺は掴んでいた手首を引っ張り、名前さんを自分の胸に飛び込ませた。バランスを崩した彼女を受け止めるのは容易で、すぐに腰を抱いた。そして腕を引っ張り上げ、赤い顔を俺の方に向かせては、唇を奪った。溢れる想いが俺をそうさせたのだ。
「ッ、あ……ぅン、ふッ……」
溢れ返る欲で彼女の口内を犯した。唾液を奪い合うように絡む舌は野性的で、何かが外れた気がした。だが、それに気づけるほど俺は大人でも、理性的でもなかった。ただ、目の前にいる自分の好きな人に出来る行動を無意識に起こしていた。
俺の服に深い皺が刻み込まれ、漸く唇を離す。繋がった銀糸を切るために軽い口づけをしてやれば、名前さんの瞳は溶け切っていた。腕の中で俺の身体に縋る彼女に力は入っていない。だらしなく開いた口が必死に酸素を求め、肩が上下運動を繰り返している。俺はそんな彼女の輪郭をなぞりながら上を向かせた。そして、もう一度触れるだけのキスをした。
「覚えとって。何も考えられへんほど、俺でいっぱいにしたるから」
「くら、のすけ……」
「なんてな。煽り上手に釘差しただけやで」
沸き起こる情欲を堪え、赤みを帯びた彼女の頬を擦った。そして、もう一度強く抱きしめれば、細腕が俺の背中に回った。
嫌われたんやなくて、良かった。安堵を腕に任せた俺は、彼女の身体をより強く抱きしめた。