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季節は春。四月。出会いの季節だと言うけれど、中小企業の中でも比較的大手に属する弊社は年度末の残りの業務に追われていた。複数の取引先の我儘……いや、突然の業務内容の変更にてんやわんやと忙しなく働けば、春だなんだと言う前に一日は勝手に過ぎていく。
新入社員と顔を合わせたのも、初めの一言、二言の挨拶だけ。皆の前で意気込みを初々しく語る姿を眩しく眺めていたのもつい先日の話。
入社して二年。これからは三年目。後輩は既にいるけれど、今年は少し違った。
私に同い年の後輩が出来た。見上げるほどの長身で、大学院卒の、絵に描いたような理系男子だった。黒縁の四角い眼鏡は目の奥が見えなくて、どこか怪しげに見える。真っ黒な髪も硬そうだ。そんな彼は「乾貞治」と名乗った。そして私はそんな乾くんの教育係に任命された。
デスクは勿論隣。デスクに座る彼の姿は、大きな図体には似合わない。長い足を持て余しているようにも見える。
「それじゃあ乾くん。今日からよろしくお願いします」
回転椅子に座ったまま、膝に手を置いて深々と一礼した。彼も揃えるように頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「まあ教育係って言っても名ばかりだから、いろんな先輩に聞いて回るといいよ。
その方が先輩達に可愛がってもらえるだろうし」
「そうですか。ですが、基本的には名字さんにお尋ねします」
「分かった。いつでも聞いてね」
乾くんは席を立つと、新入社員研修のために別室へと向かった。
周囲よりも頭一つ分以上抜けている身長は街中でよく目立つんだろうな、と誰でも思うようなことを考えていた。そして私は仕事へと戻った。
新入社員歓迎会。近くのホテルのパーティー会場を貸し切って催された。立食パーティーのような形で、皆自由に話している。
こういうとき、新入社員と話すべきなんだろうけれど、私にその積極性はない。
壁にもたれかかっては、全体を見渡す。カラリと持っていたグラスが回った。同期は同期同士で話していたり、新入社員の元へ行ったりと様々。一人なのは私だけだ。どうせなら先輩のところにでも行こうかな。そう思い、背を浮かせたときだった。
「名字さん」
「あ、乾くん」
「今、構いませんか」
「うん、大丈夫だよ」
私はまた壁にもたれかかって、グラスに口をつけた。くんは隣で同じように壁にもたれて私の方をじっと見ていた。私はすぐに反応し、乾くんの方に顔を向けた。
「名字さんはあの輪に入らないんですか?」
やはりそう来たか。私は一瞬だけ頬を膨らませては萎ませると、ああ、と唸るように声を満らした。
「あんまり得意じゃなくて。歓迎会とか」
私は昔を浮かせると、また元の位置に腰を当てた。熱を持った手が冷えた壁に触れる。
「そうは見えませんが」
「見栄張ってるだけだよ。見えてないなら万々歳だね」
「そうですか」
私達は同時に酒を煽った。今度は私から乾くんに声をかけた。
「あ、そうだ。敬語じゃなくていいよ。入ったのは私の方が先でも、同い年だし」
私がそう言うと、乾くんは顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。数秒すると、乾くんは、じゃあ、と私の顔を見た。
「二人のときだけで」
「うん。好きにしてね。話しやすい方が気にする事も減るでしょ」
「……そうするよ。ありがとう」
そう言って、乾くんはくすりと口角を上げた。騒音に紛れる低音が腹の奥をくすぐるようで、なぜか顔が熱くなった。
新入社員が入社して、数か月。忙しない業務に新入社員関係なく投入され始めた頃、気づいたことがある。隣の乾くんは仕事が出来る男だった。何事も正確でスピーディー。どこで培ったのだろうかと思うほどの知識量に頭の回転速度。上司や先輩からの評判も良く、流石と言ったところ。
「うわ、最悪」
ピピーッとコピー機が悲鳴を上げる。私はと言えば丁度コピー機のトナーが切れ、肩をがっくりと落としていた。面倒だけれど、トナーを別室まで取りに行かなければならない。ついでに用紙の量も確認すると、大部分が減っていた。これは用紙も入れておくべきだ。
私はそれまで印刷していた紙を近くのテーブルに避け、休憩室と倉庫が一緒になった別室へと向かった。しかし。
「な、ん、で、こんな高いところに……!」
どうして備品の並ぶ棚に向かって背伸びをしているかと言えば、コピー用紙が予想外に上に置かれていたから。あともう数センチ足りず、体が震える。飛べば到達するだろうが、ここはビルの中でも上の方だ。ぴょんぴょん飛び跳ねるとヒールの足が挫かれるか、ドシンと重量級の音が鳴って誰かに見られるのがオチだ。両方になれば恥ずかしくて穴を掘るだけでは済まない。仕方ない。休憩室から椅子を持ってきて乗るしかない。
勢いよく振り向いた瞬間。背後に壁があった。いや、正しく言えば、乾くんが壁になっていた。
「い、ぬいくん……!」
あまりの近距離に、心臓が眺ねる。ドッドッと早くなる鼓動を押さえていることも知らずに乾くんは私の背後に立っている。
「手伝うよ」
乾くんはそう言うと、手を伸ばした。高いところから物を取ってくれるシチュエーション。不覚にもときめいてしまっている自分がいる。
高い位置からの視線に気づき、見上げる。目が一瞬だけ合ったけれどもすぐに逸らされ、彼の目は棚の方に。そして手にしたコピー用紙を掴んで手に取った。
だが、コピー用紙は私の手には渡らず、乾くんが持っている。
「今日の夜、空いてるよね」
突然なんだ、と思った。彼は余裕をたっぷりと含んで確定的に聞いてくる。どうしてだろう。私は首を傾げた。
「どうして?」
質問に質問で返すと、彼は眼鏡のブリッジを上げた。
「俺の予想。確率で言えば、九十パーセント」
「……まあ、空いてるけど、」
まさか、と一つ予想したけれど、この男がスマートに誘う姿は想像できない。
ただ聞いただけ、とか、何か相談とか。でも仕事はそつなくこなすし、人間関係に悩んでそうにも見えない。うーん、どれもしっくりこない。
一人でに答えを導きだそうと頭を捻っていると、乾くんはぽん、とコピー用紙を片手で持ち、手の平の上でジャンプさせた。
「なら、俺と食事でも」
私は目が乾くかと思うほど目を開いていた。
「何か相談事?」
言葉にしてから日の水分を取り戻すように瞬きを繰り返すと、乾くんは首を横に振った。
「いや、俺があなたと過ごしたい」
少し微笑まれ、知らぬ動悸がする。
「まあ、うん。そっか。行こうか」
私は動揺していたからかなのか、何の気なしに了承した。断る理由もないし、乾くんのことは嫌いじゃなかったから構わないと思った。
それから彼は定期的に私を誘うようになり、生活スタイルに乾くんとの食事が入ることになった。
あまり料理が得意じゃないらしく、友人達に総じて嫌がられる話を聞いた。ずっとテニスをしていて、中学時代は全国優勝しただとか、アルコールが入ると知らない昔話を聞けば聞くほどしてくれた。また彼が説明上手で面白いからつい求めてしまうのは、彼自身が「面白い」人であるから。彼との時間が思っていたよりもずっと有意義で、純粋に楽しかった。
さらに数か月が経ち、新規の業務が立て続けに入ってきた。そうすれば当たり前に仕事が忙しくなり、次の約束が決められなくなった。決めてもどちらかが必ず残業になったり、お互い残業になったり、と二人の時間は清えていった。
だが、ようやく掴んだ二人の予定が入り、少しだけ朝に余裕を持たせた。少しだけメイクに気合を入れて、服装をパンツからスカートに変えて。らしくない、と自分を嘲笑しつつも、どこか楽しんでいる自分がいた。
昼休みが終わった途端、先輩が私のデスクに来た。何かミスをしただろうかと思ったが、そうではないらしい。
「えっ、変更ですか?」
「どうしても融通が利かないらしくて。突然で悪いんだけど、今日頼めるか?」
「わ、かりました……」
断る選択肢はない。だけれども、目に見えるほど自分が落胆していることに気付いてしまった。
起きてしまったことは仕方がない。これも社会人の定めだ。この会社に入った自分の責任でもある。私は気分転換に休憩室に逃げ込み、コーヒーを淹れた。そして近くの椅子に座った。
すると、一人の長身の男が入ってきた。乾くんだ。私は顔を見るなり、今日の予定の顛末を告げた。
「今日無理みたい」
「そうみたいだね」
乾くんはウォーターサーバーから水をマグカップに淹れ始めた。ゴポゴポと私達の間を水の呼吸が流れていく。
「だからまた今度……って言ってもいつになるか分かんないけど」
私は不貞腐れたように机に突っ伏した。滅多に穿かないスカートを穿いてきた意味を問いたい。
乾くんはマグカップに淹れ終えると、私の隣に座った。
「仕方ないさ。あと、俺も残るよ」
「乾くんはメンバーじゃないし、大丈夫だよ」
「でも出来ることはあるだろう?」
「それは、そうだけど……」
口をすぼめた。メンバーでない乾くんまで巻き込むのは気が引けた。いくら仕事とはいえ、まだ一年目だ。帰れるときは早く帰ってほしい。
だが、それを言う前に乾くんは席を立った。
「じゃあ先に戻ってるよ」
乾くんはそう言ってマグカップを持って立ち去った。
カツカツとヒールがアスファルトに怒りをぶつけ、風が吹き抜ければ足元にわりつく。少しのことが腹立たしい。
「やっぱりまた無理だろうね。お互い忙しいし」
何とか業務を終えた帰り道。暗い道に居酒屋の灯りがぽんぽんと点いている。
私は丁度同タイミングで業務を終えた乾くんと帰路についていた。本当ならどこかの店に入って語らっている最中だったろうに、先方を恨んでも恨み切れない。
すると、ぐん、と後ろに手が引っ張られた。大きな手が、私の手を包んでいる。
それはとても温かい。
「いぬい、くん……?」
足を止め、振り返った。何か落としただろうか。それとも歩くのが早かっただろうか。いや、ヒールの私と足の長い乾くんとじゃあ、比較するのは間違いだ。
乾くんは黙ったまま、一向に手を離すつもりはないようだ。ぎゅっと掴まれて動かない。
「どうしたの?疲れてる、よね?やっぱり早く帰った方が良かったんじゃ……」
自分でも早口になるのが分かった。ぐるぐるといろんなことが頭を駆け巡るが、それを口にはしたくないと喉まで出かかっている感情を飲み込んだ。
すると、乾くんは私の目を見ているだろう瞳で、こう言った。
「体調管理は万全、今日残ったのも計算の内だから。でも、ちょっと予定外かな」
予定外?何のことだ?取引先が急に予定を変更したことだろうか。
瞬きを繰り返して、彼の顔を見上げた。
「今日、君をここで逃したら、俺は後悔すると思って」
何を言っているのか分からなかった。ここから先、聞いてもいいのか。聞いたらいけないのか、疲弊していた私には分からない。
だが、乾くんは表情を変えず淡々と告げる。
「だから、帰らせたくない」
ごくり。喉が上下に動いた。何も飲み込めないカラカラの喉が悲鳴を上げている。
「どう、したいの」
手を繋いだまま尋ねた。捻り出せた言葉はこれぐらいだ。
「俺の傍にいて欲しい。俺はどうにも君が好きらしい」
「趣味悪……」
顔が染まっていくのが嫌でも分かってしまう。もっと可愛い発言は出来なかったんだろうか。悔やんでも遅い。
「そうかな。俺はいい趣味をしていると思っているんだけれど」
ちらりと窺うように上を向けば、にやにやといやらしい笑みを浮かべている。
ずるい、反則だ。
「どうかな」
「どうかなって……」
「引かせないよ」
彼の瞳の奥が見えてしまった。強い彼の手に、振り払うという選択肢はない。
私は引っ張られるがまま、彼の胸に飛び込んだ。
新入社員と顔を合わせたのも、初めの一言、二言の挨拶だけ。皆の前で意気込みを初々しく語る姿を眩しく眺めていたのもつい先日の話。
入社して二年。これからは三年目。後輩は既にいるけれど、今年は少し違った。
私に同い年の後輩が出来た。見上げるほどの長身で、大学院卒の、絵に描いたような理系男子だった。黒縁の四角い眼鏡は目の奥が見えなくて、どこか怪しげに見える。真っ黒な髪も硬そうだ。そんな彼は「乾貞治」と名乗った。そして私はそんな乾くんの教育係に任命された。
デスクは勿論隣。デスクに座る彼の姿は、大きな図体には似合わない。長い足を持て余しているようにも見える。
「それじゃあ乾くん。今日からよろしくお願いします」
回転椅子に座ったまま、膝に手を置いて深々と一礼した。彼も揃えるように頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「まあ教育係って言っても名ばかりだから、いろんな先輩に聞いて回るといいよ。
その方が先輩達に可愛がってもらえるだろうし」
「そうですか。ですが、基本的には名字さんにお尋ねします」
「分かった。いつでも聞いてね」
乾くんは席を立つと、新入社員研修のために別室へと向かった。
周囲よりも頭一つ分以上抜けている身長は街中でよく目立つんだろうな、と誰でも思うようなことを考えていた。そして私は仕事へと戻った。
新入社員歓迎会。近くのホテルのパーティー会場を貸し切って催された。立食パーティーのような形で、皆自由に話している。
こういうとき、新入社員と話すべきなんだろうけれど、私にその積極性はない。
壁にもたれかかっては、全体を見渡す。カラリと持っていたグラスが回った。同期は同期同士で話していたり、新入社員の元へ行ったりと様々。一人なのは私だけだ。どうせなら先輩のところにでも行こうかな。そう思い、背を浮かせたときだった。
「名字さん」
「あ、乾くん」
「今、構いませんか」
「うん、大丈夫だよ」
私はまた壁にもたれかかって、グラスに口をつけた。くんは隣で同じように壁にもたれて私の方をじっと見ていた。私はすぐに反応し、乾くんの方に顔を向けた。
「名字さんはあの輪に入らないんですか?」
やはりそう来たか。私は一瞬だけ頬を膨らませては萎ませると、ああ、と唸るように声を満らした。
「あんまり得意じゃなくて。歓迎会とか」
私は昔を浮かせると、また元の位置に腰を当てた。熱を持った手が冷えた壁に触れる。
「そうは見えませんが」
「見栄張ってるだけだよ。見えてないなら万々歳だね」
「そうですか」
私達は同時に酒を煽った。今度は私から乾くんに声をかけた。
「あ、そうだ。敬語じゃなくていいよ。入ったのは私の方が先でも、同い年だし」
私がそう言うと、乾くんは顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。数秒すると、乾くんは、じゃあ、と私の顔を見た。
「二人のときだけで」
「うん。好きにしてね。話しやすい方が気にする事も減るでしょ」
「……そうするよ。ありがとう」
そう言って、乾くんはくすりと口角を上げた。騒音に紛れる低音が腹の奥をくすぐるようで、なぜか顔が熱くなった。
新入社員が入社して、数か月。忙しない業務に新入社員関係なく投入され始めた頃、気づいたことがある。隣の乾くんは仕事が出来る男だった。何事も正確でスピーディー。どこで培ったのだろうかと思うほどの知識量に頭の回転速度。上司や先輩からの評判も良く、流石と言ったところ。
「うわ、最悪」
ピピーッとコピー機が悲鳴を上げる。私はと言えば丁度コピー機のトナーが切れ、肩をがっくりと落としていた。面倒だけれど、トナーを別室まで取りに行かなければならない。ついでに用紙の量も確認すると、大部分が減っていた。これは用紙も入れておくべきだ。
私はそれまで印刷していた紙を近くのテーブルに避け、休憩室と倉庫が一緒になった別室へと向かった。しかし。
「な、ん、で、こんな高いところに……!」
どうして備品の並ぶ棚に向かって背伸びをしているかと言えば、コピー用紙が予想外に上に置かれていたから。あともう数センチ足りず、体が震える。飛べば到達するだろうが、ここはビルの中でも上の方だ。ぴょんぴょん飛び跳ねるとヒールの足が挫かれるか、ドシンと重量級の音が鳴って誰かに見られるのがオチだ。両方になれば恥ずかしくて穴を掘るだけでは済まない。仕方ない。休憩室から椅子を持ってきて乗るしかない。
勢いよく振り向いた瞬間。背後に壁があった。いや、正しく言えば、乾くんが壁になっていた。
「い、ぬいくん……!」
あまりの近距離に、心臓が眺ねる。ドッドッと早くなる鼓動を押さえていることも知らずに乾くんは私の背後に立っている。
「手伝うよ」
乾くんはそう言うと、手を伸ばした。高いところから物を取ってくれるシチュエーション。不覚にもときめいてしまっている自分がいる。
高い位置からの視線に気づき、見上げる。目が一瞬だけ合ったけれどもすぐに逸らされ、彼の目は棚の方に。そして手にしたコピー用紙を掴んで手に取った。
だが、コピー用紙は私の手には渡らず、乾くんが持っている。
「今日の夜、空いてるよね」
突然なんだ、と思った。彼は余裕をたっぷりと含んで確定的に聞いてくる。どうしてだろう。私は首を傾げた。
「どうして?」
質問に質問で返すと、彼は眼鏡のブリッジを上げた。
「俺の予想。確率で言えば、九十パーセント」
「……まあ、空いてるけど、」
まさか、と一つ予想したけれど、この男がスマートに誘う姿は想像できない。
ただ聞いただけ、とか、何か相談とか。でも仕事はそつなくこなすし、人間関係に悩んでそうにも見えない。うーん、どれもしっくりこない。
一人でに答えを導きだそうと頭を捻っていると、乾くんはぽん、とコピー用紙を片手で持ち、手の平の上でジャンプさせた。
「なら、俺と食事でも」
私は目が乾くかと思うほど目を開いていた。
「何か相談事?」
言葉にしてから日の水分を取り戻すように瞬きを繰り返すと、乾くんは首を横に振った。
「いや、俺があなたと過ごしたい」
少し微笑まれ、知らぬ動悸がする。
「まあ、うん。そっか。行こうか」
私は動揺していたからかなのか、何の気なしに了承した。断る理由もないし、乾くんのことは嫌いじゃなかったから構わないと思った。
それから彼は定期的に私を誘うようになり、生活スタイルに乾くんとの食事が入ることになった。
あまり料理が得意じゃないらしく、友人達に総じて嫌がられる話を聞いた。ずっとテニスをしていて、中学時代は全国優勝しただとか、アルコールが入ると知らない昔話を聞けば聞くほどしてくれた。また彼が説明上手で面白いからつい求めてしまうのは、彼自身が「面白い」人であるから。彼との時間が思っていたよりもずっと有意義で、純粋に楽しかった。
さらに数か月が経ち、新規の業務が立て続けに入ってきた。そうすれば当たり前に仕事が忙しくなり、次の約束が決められなくなった。決めてもどちらかが必ず残業になったり、お互い残業になったり、と二人の時間は清えていった。
だが、ようやく掴んだ二人の予定が入り、少しだけ朝に余裕を持たせた。少しだけメイクに気合を入れて、服装をパンツからスカートに変えて。らしくない、と自分を嘲笑しつつも、どこか楽しんでいる自分がいた。
昼休みが終わった途端、先輩が私のデスクに来た。何かミスをしただろうかと思ったが、そうではないらしい。
「えっ、変更ですか?」
「どうしても融通が利かないらしくて。突然で悪いんだけど、今日頼めるか?」
「わ、かりました……」
断る選択肢はない。だけれども、目に見えるほど自分が落胆していることに気付いてしまった。
起きてしまったことは仕方がない。これも社会人の定めだ。この会社に入った自分の責任でもある。私は気分転換に休憩室に逃げ込み、コーヒーを淹れた。そして近くの椅子に座った。
すると、一人の長身の男が入ってきた。乾くんだ。私は顔を見るなり、今日の予定の顛末を告げた。
「今日無理みたい」
「そうみたいだね」
乾くんはウォーターサーバーから水をマグカップに淹れ始めた。ゴポゴポと私達の間を水の呼吸が流れていく。
「だからまた今度……って言ってもいつになるか分かんないけど」
私は不貞腐れたように机に突っ伏した。滅多に穿かないスカートを穿いてきた意味を問いたい。
乾くんはマグカップに淹れ終えると、私の隣に座った。
「仕方ないさ。あと、俺も残るよ」
「乾くんはメンバーじゃないし、大丈夫だよ」
「でも出来ることはあるだろう?」
「それは、そうだけど……」
口をすぼめた。メンバーでない乾くんまで巻き込むのは気が引けた。いくら仕事とはいえ、まだ一年目だ。帰れるときは早く帰ってほしい。
だが、それを言う前に乾くんは席を立った。
「じゃあ先に戻ってるよ」
乾くんはそう言ってマグカップを持って立ち去った。
カツカツとヒールがアスファルトに怒りをぶつけ、風が吹き抜ければ足元にわりつく。少しのことが腹立たしい。
「やっぱりまた無理だろうね。お互い忙しいし」
何とか業務を終えた帰り道。暗い道に居酒屋の灯りがぽんぽんと点いている。
私は丁度同タイミングで業務を終えた乾くんと帰路についていた。本当ならどこかの店に入って語らっている最中だったろうに、先方を恨んでも恨み切れない。
すると、ぐん、と後ろに手が引っ張られた。大きな手が、私の手を包んでいる。
それはとても温かい。
「いぬい、くん……?」
足を止め、振り返った。何か落としただろうか。それとも歩くのが早かっただろうか。いや、ヒールの私と足の長い乾くんとじゃあ、比較するのは間違いだ。
乾くんは黙ったまま、一向に手を離すつもりはないようだ。ぎゅっと掴まれて動かない。
「どうしたの?疲れてる、よね?やっぱり早く帰った方が良かったんじゃ……」
自分でも早口になるのが分かった。ぐるぐるといろんなことが頭を駆け巡るが、それを口にはしたくないと喉まで出かかっている感情を飲み込んだ。
すると、乾くんは私の目を見ているだろう瞳で、こう言った。
「体調管理は万全、今日残ったのも計算の内だから。でも、ちょっと予定外かな」
予定外?何のことだ?取引先が急に予定を変更したことだろうか。
瞬きを繰り返して、彼の顔を見上げた。
「今日、君をここで逃したら、俺は後悔すると思って」
何を言っているのか分からなかった。ここから先、聞いてもいいのか。聞いたらいけないのか、疲弊していた私には分からない。
だが、乾くんは表情を変えず淡々と告げる。
「だから、帰らせたくない」
ごくり。喉が上下に動いた。何も飲み込めないカラカラの喉が悲鳴を上げている。
「どう、したいの」
手を繋いだまま尋ねた。捻り出せた言葉はこれぐらいだ。
「俺の傍にいて欲しい。俺はどうにも君が好きらしい」
「趣味悪……」
顔が染まっていくのが嫌でも分かってしまう。もっと可愛い発言は出来なかったんだろうか。悔やんでも遅い。
「そうかな。俺はいい趣味をしていると思っているんだけれど」
ちらりと窺うように上を向けば、にやにやといやらしい笑みを浮かべている。
ずるい、反則だ。
「どうかな」
「どうかなって……」
「引かせないよ」
彼の瞳の奥が見えてしまった。強い彼の手に、振り払うという選択肢はない。
私は引っ張られるがまま、彼の胸に飛び込んだ。