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人間生きていれば、何かしらに恐怖を覚えるものだと思う。私もたった十数年と言えど、多かれ少なかれ身の縮むような恐怖体験をしてきた。昔を思えば、その数は多かっただろうけれど、成長すると共に大概のものに対しては何となく馴化してきたに違いない。しかし現状、その対象が目に見えない相手では格闘のしようもない。
放課後の人気のない靴箱で、私はひっそりと佇んでいた。最近めっきり寒くなったせいか、皆の帰路に着く足取りは早くなっていた。それだけじゃない。部活を引退したという肝心なところを忘れてはならない。いつもなら私もその内の一人であったのに、今日ばかりは帰れなかった。校舎を出れば敵が潜んでいるから、時間をずらすことで逃れようとしたのに、呆気なく計画は散ったのだ。策と言うほどのものではないけれど、どうやら溺れてしまったようだ。
私の言う敵である、恐怖というのは、現在進行形で強さを増す風だった。台風の時期は過ぎたというのに、近年の天候はそれを崩す。台風でなくても低気圧の発達は控えていて欲しい。ひゅるひゅると不安を掻き立てる音に心がざわつき、何年、何十年とかけて成長した木々を易々と揺さぶっている。当たれば全てを失いそうになる不穏な動き。兎にも角にも、風に吹かれると一段と臆病になってしまう自分がいた。
風が怖いなんて、園児かよ。
何度目か分からない悪態を自分自身についても、風が弱まることはない。とうとう冷え切った廊下に直に座るのも慣れてしまった。お尻の部分だけ体温で暖められている箇所が、いつか溶け出さないかと思わせるほど熱くなっている。
はあ、と溜息を吐いたと同時に、スカートのポケットから小さな紙を取り出した。今日渡された、校内実力テストの簡易版の結果だった。思うように点数が伸びなくて、自分の力の無さを痛感した。少し努力したぐらいで結果がつくなんて思ってない。思ってなくても、成長を期待してしまうのは仕方のないことなんじゃないだろうか。
他の高校に進学する予定はないけれど、勉強に励む理由は他にあった。他人に言えば首を傾げられてしまうだろうけれど、私にはそれを一つの足掛かりにしたかった。ただ自分を肯定したい。少しでも苦手なものを克服することで自分に自信が欲しかったのだ。
私はずっと、部活に取り組んだり、勉強に励んでいたり、と努力する友人達をどこか冷めた目で見ていた。そんな必死になって、と嘲笑していた自分が最近になって恥ずかしくなってしまったのだ。自分の手には何もないことに気付き、もう少し頑張っていればよかったかなと薄い後悔に覆われたのだ。とどのつまり、楽しかったけれど、これといった思い出のない生活が急に空しく思えた。皆を羨むのは自分を無へと誘い、明るい気持ちを蝕むだけだと分かっているのに、考えれば考えるほど自分には何もないんじゃないかと不安に襲われている。青春なのは、学校名だけじゃないか。
「帰りたくないなあ」
膝を抱え、顔を埋めたと同時に、手にしていた結果をぐしゃぐしゃに握り潰した。
もう誰もいないだろうから泣いたっていいかな。見られたって構やしないかな。全てがどうでもよくなってしまいそうで、ぐらぐらと密かに揺れていると、気配なく隣から低音が語りかけてきた。
「俺は帰りたいな。今すぐにでも」
聞き馴染みのある声が突然鼓膜を震わせるから、お尻が何ミリか浮いた、気がする。
「びっ……くりした……」
驚いた拍子に顔を上げると、悪びれた様子一つせず私の顔を覗き込む男がいた。胸の奥をぐっと掴まれたような痛みに襲われた私は胸元を撫でる。隣に座った男は、でかい図体を私と同じように膝を抱えながら丸めた。
「その割に顔に出ていないようだけど」
「失礼な」
隣の男は、クラスメイトの乾。私に数学を教えてくれる人でもあった。頻繁に世話になったからこそ、私は結果を早く出したかったのもしょげる理由の一つだった。それにしてもまだ学校にいるなんて、乾も乾で暇人なのだろうか。
「それで、帰るのを躊躇う理由は?」
何の気なしに問いを向ける乾に、私の唇は尖った。乾には無関係の悩みだろうから、私の身体は余計に縮こまる。
「……大したことじゃない。早く帰りたいなら帰ったら」
起伏のない声が淡々と可愛げのない言葉を紡ぐと、乾は溜息交じりに返事かそうでないのかよく分からない声を漏らした。
ああ、ほら、困らせてしまった。
可愛げがないのはいつもの事だけれど、今日ばかりは自分の中の何かが擦り減っているような、何となく気分が余計に落ちた。乾は何も悪くないのに。私が悪いだけなのに。こんなんだから私はダメなんだ。じわりと視界が滲み始めた瞬間、隣から変わりない調子で答えが返ってきた。
「優先順位が変わった」
「何と?」
「何だろうね」
わざとらしく首を傾げる男に奇妙な感情を覚えた。本当何なんだこの男は。話す度にクイズを出されているようで、会話が不明瞭だと身体がむず痒くなる。
「それで、答えは?」
聞くまで帰るつもりがないのだろうか。先程口にした優先順位と関係あるのだろうか。レンズ越しであっても私から目を逸らすつもりのない気概が感じられた。
「ああ……結局聞くのか」
「うん」
叫び声のような風の音を二、三度聞き逃した後、乾の質問に一度口を開いたけれど、また閉じた。嫌いな椎茸を食べたときのような、飲み込めない違和感が口内に留まっている。乾は、笑わないだろうか。そんなことで?と馬鹿にしないだろうか。一抹の不安が過るけれど、すぐに掻き消した。私の知っている乾はそんな奴じゃない。私は口内で転がしていた不安を半ば無理矢理飲み込んでから、靴箱で二の足を踏む理由の一つを口にした。
「数学の結果がいまいちだった」
「今日返されたやつか」
「そう。乾に教えてもらったのに」
ダメだった。最後まで口にしようとしたのに、声が消えた。きちんと伝える事さえできなくなってしまった。言えば、乾のこれまでの好意を無碍にしてしまったようで、体の中身が一つ減ったように思えた。
「前と比較してどうだった?」
下がり調子の私とは対照的に、変わらぬ調子で質問を続ける。
「それは……上がった」
「ならいいじゃないか」
ピンと張っていた糸を切ったように、乾の口元は柔らかくなった。初めて見る乾の弧の描き方に足元がそわそわと落ち着かない。
「もっと上がってて欲しかった」
「それだけ周りも努力してるからね。でも、その中で上がってるなら……もう少し自分を褒めてやってもいいんじゃないか」
じんわりと目頭が熱くなった。変に慰めるわけでもなく、現実に則した言葉をくれる。私を熟知した声のかけ方だ。他人をよく見ている。私とは違って勉強も部活も一生懸命頑張っていて、それでいて性格も良いって何が悪いんだ。神様は不公平だ。
「……帰んないの?」
自分の心が貧しく思えた私は乾に帰宅を催促した。質問には答えたのだから、と少し落ち着いた様子で尋ねたけれど、乾は腰を上げようとしなかった。すると、乾は眼鏡のブリッジを上げ、私の心に踏み込んできた。
「理由はそれだけじゃないと踏んでいてね」
「それだけって、」
「結果が悪かっただけじゃなく、帰らない理由は他にあるだろうってこと」
乾の指摘に、分かりやすく動揺した。瞬きが増え、黒目は右往左往として焦点が定まらない。
「当たったかな」
満足そうに微笑む乾に対して、私は笑えなかった。どうしてそこまで見透かせてしまうのか。そして、どうしてそこまで私に疑問を持ち、問うのか。不可解で仕方がなかった。私も乾と同じように目の前の人間に深い興味を持ってしまった。
「笑わない?」
乾の目を覗き込もうとしながら首を傾げた。すると、乾はほくそ笑んだ後、意地悪く疑問符で返した。
「笑って欲しいなら笑おうか」
「いらない」
「じゃあ笑わない」
スン、と表情を変えた乾はレンズ越しに私を見つめた。確かに乾は嘘を吐く男ではないし、変に期待を膨らませる男でもない。誠実な男であることは普段接することで明確だった。
私は急に黙られると、と思いながらも、呼吸を整えてから口を開いた。一つ一つ確かめるように、ゆっくりと。
「……風が、怖いんだよね」
言葉を発してから、一秒、二秒と数えた。確実に延びていく待ち時間が心臓の音を増幅させた。しかし、乾は言葉のどこに引っかかるわけでもなく、納得してしまっていた。
「ほう、初耳だな」
「言ったことないし」
「言わなくても見ていて分かる事もあるからね」
そうだった。こいつはそういう奴だった。何気なく発する言葉に期待させるのは止めて欲しい。恥ずかしい奴だな、と思いつつ、私の頬はお尻が生んだ熱と似た温度で赤く染まっていた。
「理由を聞いても?」
「飛ばされそうで、怖い……から」
「もう一声」
「私には何もないから、少しでも強い風に曝されると吹き飛ばされそうで無性につらくなる」
「ふむ」
「物理的な話じゃなくて精神的な話で、私が弱いから立っていられなくなる」
気付けば、口が勝手に動いていた。もっといろんなことに挑戦すればよかった。面倒だからと思っていたけれど、実際は失敗したくないからという逃げの理由がほとんどを占めていた。結局、後悔という失敗をしてしまっているのは、私がどうしようもない馬鹿だったから。
「いつか、手が足になってしまいそう」
そのまま立ち上がれなくなって、動けなくなる。何か一つでいい。自信の持てる何かがあれば、二本足で立てるんじゃないかって。一度何かに努力出来れば、次、そのまた次、と続けられるんじゃないかって。
すると、乾は黙り込んでしまった。沈黙の時間が延びれば延びるほど、言ってしまったという後悔が募る。今からでも「嘘でした」とお道化た方が良いのか、乾が何か行動を起こすまで待つべきなのか。私には正解が分からなければ、どちらを選択するかも分からなくて、ついには消極的に後者を選んでいた。
「なら、俺を盾にすればいいんじゃないかな」
妙案だと言うような乾の提案に首を傾げた。朗々とした声は私の首の角度をより大きくさせる。時々突拍子もないことを言うところには付いていけない。
「物理的な話じゃないって言った」
「少しでも不安が煽られるなら、俺を盾にしたらいい。体躯には恵まれてるしね」
「……聞いてる?」
「うん。俺が傍に居るから、頼って欲しいってこと」
最初からそう言ってよ。それぐらいの軽口を叩きたかったのに、出来なかった。ただ乾の言葉が嬉しくて、気持ちが溢れてしまいそうで、口を一文字に結んでいた。唯一出来たのは、震える手で乾の制服の裾を小さく握る事だけ。乾は私の手の行き先を追いかけて、終着点を見届けたけれど、何も口にはしなかった。
「……一生離れてやんないよ」
やっとの思いで絞り出した声はあまりにも老いぼれていた。私は情けない。でも、こうして隣に座ってくれている乾の存在が何よりもありがたかった。
「その方が都合いい。俺にとってはね」
「時々馬鹿だよなあ」
私が小さく笑うと、乾も満足そうに笑っていた。ガラスの向こう側の瞳は分からないけれど、奥まで笑っているんだろうと明確な理由もなく断定していた。
「帰ろうか」
先に立ち上がった乾から差し出された手が目の前に伸びる。広い面積には信頼が乗っかっているように見えた。私はその上に手を重ね、握る。強く握り返された体温に支えられ、ようやく立ち上がった。本当、頼もしい奴だよ。
二人で校舎を出ると、風はほとんど止んでいた。曇りで覆われた空はまだ灰色だけれど、ほんの少しの雲の切れ間から一筋の光が零れている。その微かに差し込む陽が、私達の道を照らしてくれているような気がして、私は繋いだ手に力を込めたのだった。
放課後の人気のない靴箱で、私はひっそりと佇んでいた。最近めっきり寒くなったせいか、皆の帰路に着く足取りは早くなっていた。それだけじゃない。部活を引退したという肝心なところを忘れてはならない。いつもなら私もその内の一人であったのに、今日ばかりは帰れなかった。校舎を出れば敵が潜んでいるから、時間をずらすことで逃れようとしたのに、呆気なく計画は散ったのだ。策と言うほどのものではないけれど、どうやら溺れてしまったようだ。
私の言う敵である、恐怖というのは、現在進行形で強さを増す風だった。台風の時期は過ぎたというのに、近年の天候はそれを崩す。台風でなくても低気圧の発達は控えていて欲しい。ひゅるひゅると不安を掻き立てる音に心がざわつき、何年、何十年とかけて成長した木々を易々と揺さぶっている。当たれば全てを失いそうになる不穏な動き。兎にも角にも、風に吹かれると一段と臆病になってしまう自分がいた。
風が怖いなんて、園児かよ。
何度目か分からない悪態を自分自身についても、風が弱まることはない。とうとう冷え切った廊下に直に座るのも慣れてしまった。お尻の部分だけ体温で暖められている箇所が、いつか溶け出さないかと思わせるほど熱くなっている。
はあ、と溜息を吐いたと同時に、スカートのポケットから小さな紙を取り出した。今日渡された、校内実力テストの簡易版の結果だった。思うように点数が伸びなくて、自分の力の無さを痛感した。少し努力したぐらいで結果がつくなんて思ってない。思ってなくても、成長を期待してしまうのは仕方のないことなんじゃないだろうか。
他の高校に進学する予定はないけれど、勉強に励む理由は他にあった。他人に言えば首を傾げられてしまうだろうけれど、私にはそれを一つの足掛かりにしたかった。ただ自分を肯定したい。少しでも苦手なものを克服することで自分に自信が欲しかったのだ。
私はずっと、部活に取り組んだり、勉強に励んでいたり、と努力する友人達をどこか冷めた目で見ていた。そんな必死になって、と嘲笑していた自分が最近になって恥ずかしくなってしまったのだ。自分の手には何もないことに気付き、もう少し頑張っていればよかったかなと薄い後悔に覆われたのだ。とどのつまり、楽しかったけれど、これといった思い出のない生活が急に空しく思えた。皆を羨むのは自分を無へと誘い、明るい気持ちを蝕むだけだと分かっているのに、考えれば考えるほど自分には何もないんじゃないかと不安に襲われている。青春なのは、学校名だけじゃないか。
「帰りたくないなあ」
膝を抱え、顔を埋めたと同時に、手にしていた結果をぐしゃぐしゃに握り潰した。
もう誰もいないだろうから泣いたっていいかな。見られたって構やしないかな。全てがどうでもよくなってしまいそうで、ぐらぐらと密かに揺れていると、気配なく隣から低音が語りかけてきた。
「俺は帰りたいな。今すぐにでも」
聞き馴染みのある声が突然鼓膜を震わせるから、お尻が何ミリか浮いた、気がする。
「びっ……くりした……」
驚いた拍子に顔を上げると、悪びれた様子一つせず私の顔を覗き込む男がいた。胸の奥をぐっと掴まれたような痛みに襲われた私は胸元を撫でる。隣に座った男は、でかい図体を私と同じように膝を抱えながら丸めた。
「その割に顔に出ていないようだけど」
「失礼な」
隣の男は、クラスメイトの乾。私に数学を教えてくれる人でもあった。頻繁に世話になったからこそ、私は結果を早く出したかったのもしょげる理由の一つだった。それにしてもまだ学校にいるなんて、乾も乾で暇人なのだろうか。
「それで、帰るのを躊躇う理由は?」
何の気なしに問いを向ける乾に、私の唇は尖った。乾には無関係の悩みだろうから、私の身体は余計に縮こまる。
「……大したことじゃない。早く帰りたいなら帰ったら」
起伏のない声が淡々と可愛げのない言葉を紡ぐと、乾は溜息交じりに返事かそうでないのかよく分からない声を漏らした。
ああ、ほら、困らせてしまった。
可愛げがないのはいつもの事だけれど、今日ばかりは自分の中の何かが擦り減っているような、何となく気分が余計に落ちた。乾は何も悪くないのに。私が悪いだけなのに。こんなんだから私はダメなんだ。じわりと視界が滲み始めた瞬間、隣から変わりない調子で答えが返ってきた。
「優先順位が変わった」
「何と?」
「何だろうね」
わざとらしく首を傾げる男に奇妙な感情を覚えた。本当何なんだこの男は。話す度にクイズを出されているようで、会話が不明瞭だと身体がむず痒くなる。
「それで、答えは?」
聞くまで帰るつもりがないのだろうか。先程口にした優先順位と関係あるのだろうか。レンズ越しであっても私から目を逸らすつもりのない気概が感じられた。
「ああ……結局聞くのか」
「うん」
叫び声のような風の音を二、三度聞き逃した後、乾の質問に一度口を開いたけれど、また閉じた。嫌いな椎茸を食べたときのような、飲み込めない違和感が口内に留まっている。乾は、笑わないだろうか。そんなことで?と馬鹿にしないだろうか。一抹の不安が過るけれど、すぐに掻き消した。私の知っている乾はそんな奴じゃない。私は口内で転がしていた不安を半ば無理矢理飲み込んでから、靴箱で二の足を踏む理由の一つを口にした。
「数学の結果がいまいちだった」
「今日返されたやつか」
「そう。乾に教えてもらったのに」
ダメだった。最後まで口にしようとしたのに、声が消えた。きちんと伝える事さえできなくなってしまった。言えば、乾のこれまでの好意を無碍にしてしまったようで、体の中身が一つ減ったように思えた。
「前と比較してどうだった?」
下がり調子の私とは対照的に、変わらぬ調子で質問を続ける。
「それは……上がった」
「ならいいじゃないか」
ピンと張っていた糸を切ったように、乾の口元は柔らかくなった。初めて見る乾の弧の描き方に足元がそわそわと落ち着かない。
「もっと上がってて欲しかった」
「それだけ周りも努力してるからね。でも、その中で上がってるなら……もう少し自分を褒めてやってもいいんじゃないか」
じんわりと目頭が熱くなった。変に慰めるわけでもなく、現実に則した言葉をくれる。私を熟知した声のかけ方だ。他人をよく見ている。私とは違って勉強も部活も一生懸命頑張っていて、それでいて性格も良いって何が悪いんだ。神様は不公平だ。
「……帰んないの?」
自分の心が貧しく思えた私は乾に帰宅を催促した。質問には答えたのだから、と少し落ち着いた様子で尋ねたけれど、乾は腰を上げようとしなかった。すると、乾は眼鏡のブリッジを上げ、私の心に踏み込んできた。
「理由はそれだけじゃないと踏んでいてね」
「それだけって、」
「結果が悪かっただけじゃなく、帰らない理由は他にあるだろうってこと」
乾の指摘に、分かりやすく動揺した。瞬きが増え、黒目は右往左往として焦点が定まらない。
「当たったかな」
満足そうに微笑む乾に対して、私は笑えなかった。どうしてそこまで見透かせてしまうのか。そして、どうしてそこまで私に疑問を持ち、問うのか。不可解で仕方がなかった。私も乾と同じように目の前の人間に深い興味を持ってしまった。
「笑わない?」
乾の目を覗き込もうとしながら首を傾げた。すると、乾はほくそ笑んだ後、意地悪く疑問符で返した。
「笑って欲しいなら笑おうか」
「いらない」
「じゃあ笑わない」
スン、と表情を変えた乾はレンズ越しに私を見つめた。確かに乾は嘘を吐く男ではないし、変に期待を膨らませる男でもない。誠実な男であることは普段接することで明確だった。
私は急に黙られると、と思いながらも、呼吸を整えてから口を開いた。一つ一つ確かめるように、ゆっくりと。
「……風が、怖いんだよね」
言葉を発してから、一秒、二秒と数えた。確実に延びていく待ち時間が心臓の音を増幅させた。しかし、乾は言葉のどこに引っかかるわけでもなく、納得してしまっていた。
「ほう、初耳だな」
「言ったことないし」
「言わなくても見ていて分かる事もあるからね」
そうだった。こいつはそういう奴だった。何気なく発する言葉に期待させるのは止めて欲しい。恥ずかしい奴だな、と思いつつ、私の頬はお尻が生んだ熱と似た温度で赤く染まっていた。
「理由を聞いても?」
「飛ばされそうで、怖い……から」
「もう一声」
「私には何もないから、少しでも強い風に曝されると吹き飛ばされそうで無性につらくなる」
「ふむ」
「物理的な話じゃなくて精神的な話で、私が弱いから立っていられなくなる」
気付けば、口が勝手に動いていた。もっといろんなことに挑戦すればよかった。面倒だからと思っていたけれど、実際は失敗したくないからという逃げの理由がほとんどを占めていた。結局、後悔という失敗をしてしまっているのは、私がどうしようもない馬鹿だったから。
「いつか、手が足になってしまいそう」
そのまま立ち上がれなくなって、動けなくなる。何か一つでいい。自信の持てる何かがあれば、二本足で立てるんじゃないかって。一度何かに努力出来れば、次、そのまた次、と続けられるんじゃないかって。
すると、乾は黙り込んでしまった。沈黙の時間が延びれば延びるほど、言ってしまったという後悔が募る。今からでも「嘘でした」とお道化た方が良いのか、乾が何か行動を起こすまで待つべきなのか。私には正解が分からなければ、どちらを選択するかも分からなくて、ついには消極的に後者を選んでいた。
「なら、俺を盾にすればいいんじゃないかな」
妙案だと言うような乾の提案に首を傾げた。朗々とした声は私の首の角度をより大きくさせる。時々突拍子もないことを言うところには付いていけない。
「物理的な話じゃないって言った」
「少しでも不安が煽られるなら、俺を盾にしたらいい。体躯には恵まれてるしね」
「……聞いてる?」
「うん。俺が傍に居るから、頼って欲しいってこと」
最初からそう言ってよ。それぐらいの軽口を叩きたかったのに、出来なかった。ただ乾の言葉が嬉しくて、気持ちが溢れてしまいそうで、口を一文字に結んでいた。唯一出来たのは、震える手で乾の制服の裾を小さく握る事だけ。乾は私の手の行き先を追いかけて、終着点を見届けたけれど、何も口にはしなかった。
「……一生離れてやんないよ」
やっとの思いで絞り出した声はあまりにも老いぼれていた。私は情けない。でも、こうして隣に座ってくれている乾の存在が何よりもありがたかった。
「その方が都合いい。俺にとってはね」
「時々馬鹿だよなあ」
私が小さく笑うと、乾も満足そうに笑っていた。ガラスの向こう側の瞳は分からないけれど、奥まで笑っているんだろうと明確な理由もなく断定していた。
「帰ろうか」
先に立ち上がった乾から差し出された手が目の前に伸びる。広い面積には信頼が乗っかっているように見えた。私はその上に手を重ね、握る。強く握り返された体温に支えられ、ようやく立ち上がった。本当、頼もしい奴だよ。
二人で校舎を出ると、風はほとんど止んでいた。曇りで覆われた空はまだ灰色だけれど、ほんの少しの雲の切れ間から一筋の光が零れている。その微かに差し込む陽が、私達の道を照らしてくれているような気がして、私は繋いだ手に力を込めたのだった。