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蝉の鳴き声も聞こえない暑さが私を茹でる。日傘を差していても射し込む光は眉間の皺を寄せるには十分で、コンクリートを弾く日も熱となってサンダルから覗く肌に纏わりついていた。
「あっつ〜……」
嘆いても変わらない環境を恨めしく思いながら歩き続ける。手には買い物袋を提げ、頭皮からは汗が止めどなく輪郭を伝って落ちてくる。この日、私は駅から徒歩五分の学生マンションへ向かっていた。たかが五分、されど五分。この時期の五分は地獄に違いない。のろのろとだらしない足取りで恋人の住むマンションへと辿り着くと、更に階段が待っていた。他の季節なら何てことない階段も今は腹立たしい。日傘を畳み、一つ溜息を吐いて上っては、該当の部屋のチャイムを鳴らした。
「貞ぁ、来たでぇ」
間延びした声で彼の登場を待つと、薄らと足音が耳に届いた。音が一瞬だけ途切れ、ガチャ、と開いた扉の向こう側から冷気と猫背の彼が私を迎える。
「いらっしゃい」
にこやかに口角を上げる彼に対して、私は肩をがっくりと落として買い物袋を押し付けた。二十歳を超えてから日光にめっきり弱くなってしまったように思う。
「暑~……はよ入れてぇ……」
受け取ってもらったのを確認して、ようやくサンダルを脱いだ。冷えたフローリングに足をつけた瞬間に安堵の溜息を吐く。数秒前にいた環境とは別世界のようだ。すぐさまぺたぺたと音を立てて彼の後ろを追い、更に冷えた空間へと足を踏み入れた。ワンルームの部屋は彼の部屋としては狭すぎるようで、荷物の量が合っていない。いくら整理整頓しようとも、溢れかえる資料や本はどうしたものか。遊びに来たものの、片付けた方が良いんじゃないかと思わせる。勿論彼の知識に蓄えられているのは知っているが見る度に圧倒されてしまう。
「そろそろ来るんじゃないかと思っていたところなんだ」
淡々と言いながら、買い物袋から食品を冷蔵庫の中へ入れていく。部屋を観察していた私は慌てて時計を確認した。針はお昼と言うには少し早い時刻を差している。
「ほんま? ほな、ピッタリやなぁ」
先程までの悪態はとっくのとうに消え去り、笑顔で答えた。ぐんと背伸びをして冷気を堪能すると、熱気から解放されたことを実感する。彼は冷蔵庫の中に食材を入れ終えたようで戸を閉めた。
「だから、」
ぐう、と腹の虫が鳴った。飼い主は言わずとも分かりきっているから声を出して笑ってしまった。
「あー、もう、分かった分かった」
フローリングに腰を下ろそうとしたけれど、すぐに止めた。先に餌を与えてやらねばならない。けらけらと笑いながら台所に立つと、彼は隣で気持ちの篭っていない謝罪を口にした。
「ごめん」
私にとっては今更だった。彼が料理出来ないことは知っていたし、作ったら人的被害が出ることも知った。初めは誇張表現だろうと思っていたけれど、実演されたときに卒倒しそうになったのは秘密だ。
「ほなちょい待っとって」
彼の腕を撫でるように触れ、大人しく待つように促した。彼は素直に頷くと、ベッドに腰掛けて私を見つめている。
彼はいつだって私の手料理を美味しい、美味しいと頬を綻ばせて食べてくれるから作り甲斐がある。元々テニス部ということもあってか、よく食べる。料理好きの私からしたら嬉しくて次を作りたくなってしまう。需要と供給が合っている、なんて言ったら情緒がないけれど、端的に言ってしまえば間違いではない。
冷蔵庫から卵を取り出しつつ、付き合う前のことを思い出す。共通の友人を介して、たまたま居酒屋で出くわしたのがきっかけだった。初めは好みでも何でもなかったのに話し上手なところに惹かれていた。理系だし、目の奥が見えない眼鏡だから偏屈な人なんだろうと思っていたけれど、蓋を開ければ全く違って初見で判断しようとした自分を恥じた。何よりも優しい彼が素敵だと思った。
それから少しして友人の家に大人数で集まったとき、貞と二回目の対面をした。私は友人に頼まれ、先におつまみを何品か作っていた。周囲が飲んだくれる中で料理が不足していることに気づき、私が再び台所を借りてつまみを作っていると彼は傍に来た。
「料理、得意なんだ」
指先がグラスを抱え、氷のぶつかる音が鳴った。彼の低音はガヤガヤと騒がしい周囲の声を潜って私の耳に確かに届いた。
「ん〜、好きやな。昔からよう手伝ってたし」
「へえ、」
心底意外そうに頷く彼はグラスから一口酒を煽る。
昔から両親が台所に立つと、お手伝いと称して肩を並べていた。そのお陰か、料理は好きでもあり得意でもあった。だから褒められることは嬉しかったけれど、彼の反応に不満を覚えてしまった私は素直な感情が口を衝いて出た。
「今、失礼なこと考えへんかった?」
「いいや? 君の恋人は幸せだろうと思って」
さらりと言ってのける彼のせいで顔に熱が集う。ふいに奪われた時間で私は彼を見つめていた。どういう意図の言葉なのか聞きたい。でも、それを聞いてしまうのは自身が落胆してしまうかもしれない恐れがあるからと喉が狭まる。
「……なんやそれ。生憎恋人はおらへんのよ。食べさせる人がおったら嬉しいねんけど」
すぐに目線を手元に戻した。その後も彼を見ないように目は下に落としたまま、目を動かさないように努めた。そして嘘は吐かずに本音を零せば、彼は変わらない調子で淡々と会話を続けた。
「さっきの美味しかったよ」
「ほんま?良かった」
やはり先程の言葉はリップサービスなのか。聞かなくて良かったと安堵しつつ、少しの落胆がまとわりついた。今度あんたの為だけに作ったろか、なんて言える勇気も余裕も今の私にはない。
すると、彼は持っていたグラスを一度だけ回した。中で氷がぶつかりながら踊っている。
「じゃあ今度、俺のために作ってくれないか」
「は?」
「お試しで、どう?」
ほんのりと赤みを帯びた頬で提案してくる。他の誰にも聞こえていないお誘いが甘く響いてしまった。思い描いた理想が呆気なく達成されてしまったために、目は泳ぎ、口もぱくぱくと言葉を探すばかり。どうやら期待は外れではないし、悪くは思われていない。むしろ、私と同じように想ってくれているんじゃないかと思考が一直線になってしまった私は、彼の誘いに頷いた。顔が熱いのはもちろんアルコールのせいではなく、目の前にいる彼のせい。
まんまと貞の策略に引っかかった私は彼と付き合うことになった。元々良いかも、と思ってたせいで簡単に転げ落ちた。それでも一年続いてるのは、順調である証拠なのだろう。
懐かしさを覚えながら手は止めない。薄焼きした卵を皿に取り、フライパンを流しに置いた。それにしても、コンロが一口しかないのが貞の台所の欠点だ。鍋でお湯を沸かしている間に具材を切る。きゅうり、ハム、トマト、卵。どこの一般家庭でも同じようなラインナップを揃えた。欠かせないタレを作ろうとボールに調味料を次々入れていくけれど、ゴマが見当たらない。
「なあ、貞」
「ん?」
「ゴマ無いん?」
「あー……ない」
罰が悪そうな答える彼だけれど、端から期待はしていなかった。あったらいいな程度の淡い期待は予想通りに散った。
「んー、まあええか。しゃあない」
「買ってこようか」
「ええよ。こんな暑い中、わざわざ行くほどちゃうし」
仕方ない、と沸いた鍋に麺を入れた。すると、いつの間に来たのか、貞は私の背後に立っていた。
「冷やし中華か。いいね」
そう言いながら、私を後ろから抱きしめる。彼は大きいから私はすっぽりと収まってしまう。中学生のときに百八十超えをしたと聞いたときは驚いた。しかし、それよりも成長痛最悪やったんやろうな、という同情の方が大きかった。あれ、めっちゃ痛いやん。
「座っといて、危ないから」
注意しながらも、ふいに甘えてくる彼が可愛い。嬉しくて、ふすふすと笑ってしまう。頭には彼の大きな手が置かれ、自然と髪を梳いていた。彼が機嫌がいいときの行動の一つでもある。
「待てなかったから」
「どっちが?」
「君のこと」
「はっず」
私がわざと聞いたことも彼には気付かれているんだろう。まあ、他人には聞かせられへんな、と思いつつ満更でもない感情なのは、私が大分毒されているせいなのだろうか。
その後、盛りつけた二人分の冷やし中華をテーブルに置いた。声を揃えて「いただきます」を言えば、つるつると麺を口に入れた。
「我ながら最高」
「うん。いつ食べても美味しい」
「ふはは、ありがとう」
敵役のような笑い方で照れ隠しをする。味覚は正常であるはずなのに、どうしてあんな乾汁を生み出すのか不思議で堪らない。
若干失礼である事実を再確認していると、彼は独り言のように呟いた。
「君と結婚したら幸せになれる確率百パーセントだな」
こちらを見ずに言ってのける彼に、私の箸は止まってしまった。付き合う前も似たような言葉を言われたせいで、気持ちが悶々とし始める。
「ほな、してくれんの?」
彼がどう返すのかが見たくて出た言葉だった。どのみち私達は学生だから先の話なのに、試すような言葉をかけてしまった。恥ずかしさから麺をすするけれど、今度は彼の箸が止まってしまった。
「っ、ふふ……ははは……」
彼は箸を置いて笑い始めた。それが妙に気持ち悪くて、つられて箸を置いて笑ってしまった。
「何その笑い方。きしょいわ」
腕を押すように触れれば、彼は眼鏡のブリッジを上げた。
「まさかプロポーズされるとは思わなくて」
はっきりと言語化されると恥ずかしくなってくる。かあ、と集う熱が私を虐める。
「私には貞以外の選択肢なかったんに。酷い」
わざと不機嫌になって見せると、彼は少し私に近づいた。
「ごめん。結婚なんてまだまだだと思ってたのに想像以上に嬉しくてね」
私は彼が口にした二文字。四文字の音を本気で捉え、彼の腕にそっと触れた。
「……貞は私でええの?」
微かに震えた声で尋ねると、彼は落ちついた様子でこちらを見つめた。
「君以外考えたことない」
不安が一気に弾けた。体の芯から温かいものが流れて、全身が熱くなる。そして、目の奥を鈍痛に襲われ、目頭を押さえた。
「……泣く」
喜びから生まれた涙が出ると宣言すれば、彼は面白いくらいに慌て始めた。
「えっ」
「えっ、ちゃうわ。嬉しいねん」
嬉しいときも涙は出るもんやろ。ぐす、と音を立てて鼻をすすった。
「ちゃんとお互い稼いで、生活に慣れたら結婚しよ」
「ああ。しようか」
簡単に肯定してくれたことが嬉しかった。まだ先なのだから、と有耶無耶にされなくて良かった。
滲んだ目元を指先で拭うと、長い腕が私を受け止める準備をしていた。素直に従うのは癪だったけれど、彼の言葉が嬉しくて腕の中に飛び込んだ。力強い腕が先程発してくれた言葉を更に肯定してくれる。
「……計画変更だな」
「なんの?」
目線を上げて尋ねると、彼は満足そうに笑っている。彼の思考に遅れを取ってしまった私は首を傾げた。
「結婚する時期。予定より早まりそうだから」
「前から考えてたん?」
「君の手料理を初めて食べた時からずっと」
初めてというと、まだ付き合う以前の話。私が意識する前からなんて、気が早いにも程がある。もしかしたら私の態度を見て勝算があるとでも思っていたのだろうか。私が振り向かなかったらどうするつもりだったんたろう。
でも、振り向いた私にとってはどうだっていい。本当にずっと想っていてくれる事実が涙腺を緩ませる。
「それは早いわぁ」
私のこと、めちゃくちゃ好きやん。嬉しさと照れ臭さを笑って誤魔化した。手に力を込め、彼の服に皺を寄せると、彼も私の背に回した腕を強くした。
「恋人になる方が骨が折れたかな」
言うて大したことしてへんやろ、と思いつつ、彼なりに計画を立てていてくれたのかなと当時の彼を想像した。
「結婚決まってもうたしな」
「そういうこと」
恋人になる時も大した時間はかからなかったけれど、結婚の約束はもっと早く決まってしまった。良いのか悪いのか分からないけど、今の私には良い事に違いない。それは私達の体温が物語っている。
彼は私の左手を掬い、指先をまじまじと見つめた。そして、左手薬指を包むように触れた。その様子があまりにも真剣だから、私はつい黙ってしまう。
「今度、予約でも買いに行く?」
大きな手が私の手をしっかりと握る。まさか彼からそんな言葉が出るとは思わなくて、歓喜が急上昇してしまった。
「高くても文句言わんといてな」
悪戯っ子のように口を横に開けて笑うと、彼は押し黙って眼鏡のブリッジを上げた。
「黙らんといて」
そっちから誘ったくせに、と頬を膨らませて彼の頬を抓った。
でも、別に指輪なんてどうでもええんよ。私には貞がおってくれたら、それでええから。この先を約束してくれる言葉だけで、お腹いっぱいやわ。
「あっつ〜……」
嘆いても変わらない環境を恨めしく思いながら歩き続ける。手には買い物袋を提げ、頭皮からは汗が止めどなく輪郭を伝って落ちてくる。この日、私は駅から徒歩五分の学生マンションへ向かっていた。たかが五分、されど五分。この時期の五分は地獄に違いない。のろのろとだらしない足取りで恋人の住むマンションへと辿り着くと、更に階段が待っていた。他の季節なら何てことない階段も今は腹立たしい。日傘を畳み、一つ溜息を吐いて上っては、該当の部屋のチャイムを鳴らした。
「貞ぁ、来たでぇ」
間延びした声で彼の登場を待つと、薄らと足音が耳に届いた。音が一瞬だけ途切れ、ガチャ、と開いた扉の向こう側から冷気と猫背の彼が私を迎える。
「いらっしゃい」
にこやかに口角を上げる彼に対して、私は肩をがっくりと落として買い物袋を押し付けた。二十歳を超えてから日光にめっきり弱くなってしまったように思う。
「暑~……はよ入れてぇ……」
受け取ってもらったのを確認して、ようやくサンダルを脱いだ。冷えたフローリングに足をつけた瞬間に安堵の溜息を吐く。数秒前にいた環境とは別世界のようだ。すぐさまぺたぺたと音を立てて彼の後ろを追い、更に冷えた空間へと足を踏み入れた。ワンルームの部屋は彼の部屋としては狭すぎるようで、荷物の量が合っていない。いくら整理整頓しようとも、溢れかえる資料や本はどうしたものか。遊びに来たものの、片付けた方が良いんじゃないかと思わせる。勿論彼の知識に蓄えられているのは知っているが見る度に圧倒されてしまう。
「そろそろ来るんじゃないかと思っていたところなんだ」
淡々と言いながら、買い物袋から食品を冷蔵庫の中へ入れていく。部屋を観察していた私は慌てて時計を確認した。針はお昼と言うには少し早い時刻を差している。
「ほんま? ほな、ピッタリやなぁ」
先程までの悪態はとっくのとうに消え去り、笑顔で答えた。ぐんと背伸びをして冷気を堪能すると、熱気から解放されたことを実感する。彼は冷蔵庫の中に食材を入れ終えたようで戸を閉めた。
「だから、」
ぐう、と腹の虫が鳴った。飼い主は言わずとも分かりきっているから声を出して笑ってしまった。
「あー、もう、分かった分かった」
フローリングに腰を下ろそうとしたけれど、すぐに止めた。先に餌を与えてやらねばならない。けらけらと笑いながら台所に立つと、彼は隣で気持ちの篭っていない謝罪を口にした。
「ごめん」
私にとっては今更だった。彼が料理出来ないことは知っていたし、作ったら人的被害が出ることも知った。初めは誇張表現だろうと思っていたけれど、実演されたときに卒倒しそうになったのは秘密だ。
「ほなちょい待っとって」
彼の腕を撫でるように触れ、大人しく待つように促した。彼は素直に頷くと、ベッドに腰掛けて私を見つめている。
彼はいつだって私の手料理を美味しい、美味しいと頬を綻ばせて食べてくれるから作り甲斐がある。元々テニス部ということもあってか、よく食べる。料理好きの私からしたら嬉しくて次を作りたくなってしまう。需要と供給が合っている、なんて言ったら情緒がないけれど、端的に言ってしまえば間違いではない。
冷蔵庫から卵を取り出しつつ、付き合う前のことを思い出す。共通の友人を介して、たまたま居酒屋で出くわしたのがきっかけだった。初めは好みでも何でもなかったのに話し上手なところに惹かれていた。理系だし、目の奥が見えない眼鏡だから偏屈な人なんだろうと思っていたけれど、蓋を開ければ全く違って初見で判断しようとした自分を恥じた。何よりも優しい彼が素敵だと思った。
それから少しして友人の家に大人数で集まったとき、貞と二回目の対面をした。私は友人に頼まれ、先におつまみを何品か作っていた。周囲が飲んだくれる中で料理が不足していることに気づき、私が再び台所を借りてつまみを作っていると彼は傍に来た。
「料理、得意なんだ」
指先がグラスを抱え、氷のぶつかる音が鳴った。彼の低音はガヤガヤと騒がしい周囲の声を潜って私の耳に確かに届いた。
「ん〜、好きやな。昔からよう手伝ってたし」
「へえ、」
心底意外そうに頷く彼はグラスから一口酒を煽る。
昔から両親が台所に立つと、お手伝いと称して肩を並べていた。そのお陰か、料理は好きでもあり得意でもあった。だから褒められることは嬉しかったけれど、彼の反応に不満を覚えてしまった私は素直な感情が口を衝いて出た。
「今、失礼なこと考えへんかった?」
「いいや? 君の恋人は幸せだろうと思って」
さらりと言ってのける彼のせいで顔に熱が集う。ふいに奪われた時間で私は彼を見つめていた。どういう意図の言葉なのか聞きたい。でも、それを聞いてしまうのは自身が落胆してしまうかもしれない恐れがあるからと喉が狭まる。
「……なんやそれ。生憎恋人はおらへんのよ。食べさせる人がおったら嬉しいねんけど」
すぐに目線を手元に戻した。その後も彼を見ないように目は下に落としたまま、目を動かさないように努めた。そして嘘は吐かずに本音を零せば、彼は変わらない調子で淡々と会話を続けた。
「さっきの美味しかったよ」
「ほんま?良かった」
やはり先程の言葉はリップサービスなのか。聞かなくて良かったと安堵しつつ、少しの落胆がまとわりついた。今度あんたの為だけに作ったろか、なんて言える勇気も余裕も今の私にはない。
すると、彼は持っていたグラスを一度だけ回した。中で氷がぶつかりながら踊っている。
「じゃあ今度、俺のために作ってくれないか」
「は?」
「お試しで、どう?」
ほんのりと赤みを帯びた頬で提案してくる。他の誰にも聞こえていないお誘いが甘く響いてしまった。思い描いた理想が呆気なく達成されてしまったために、目は泳ぎ、口もぱくぱくと言葉を探すばかり。どうやら期待は外れではないし、悪くは思われていない。むしろ、私と同じように想ってくれているんじゃないかと思考が一直線になってしまった私は、彼の誘いに頷いた。顔が熱いのはもちろんアルコールのせいではなく、目の前にいる彼のせい。
まんまと貞の策略に引っかかった私は彼と付き合うことになった。元々良いかも、と思ってたせいで簡単に転げ落ちた。それでも一年続いてるのは、順調である証拠なのだろう。
懐かしさを覚えながら手は止めない。薄焼きした卵を皿に取り、フライパンを流しに置いた。それにしても、コンロが一口しかないのが貞の台所の欠点だ。鍋でお湯を沸かしている間に具材を切る。きゅうり、ハム、トマト、卵。どこの一般家庭でも同じようなラインナップを揃えた。欠かせないタレを作ろうとボールに調味料を次々入れていくけれど、ゴマが見当たらない。
「なあ、貞」
「ん?」
「ゴマ無いん?」
「あー……ない」
罰が悪そうな答える彼だけれど、端から期待はしていなかった。あったらいいな程度の淡い期待は予想通りに散った。
「んー、まあええか。しゃあない」
「買ってこようか」
「ええよ。こんな暑い中、わざわざ行くほどちゃうし」
仕方ない、と沸いた鍋に麺を入れた。すると、いつの間に来たのか、貞は私の背後に立っていた。
「冷やし中華か。いいね」
そう言いながら、私を後ろから抱きしめる。彼は大きいから私はすっぽりと収まってしまう。中学生のときに百八十超えをしたと聞いたときは驚いた。しかし、それよりも成長痛最悪やったんやろうな、という同情の方が大きかった。あれ、めっちゃ痛いやん。
「座っといて、危ないから」
注意しながらも、ふいに甘えてくる彼が可愛い。嬉しくて、ふすふすと笑ってしまう。頭には彼の大きな手が置かれ、自然と髪を梳いていた。彼が機嫌がいいときの行動の一つでもある。
「待てなかったから」
「どっちが?」
「君のこと」
「はっず」
私がわざと聞いたことも彼には気付かれているんだろう。まあ、他人には聞かせられへんな、と思いつつ満更でもない感情なのは、私が大分毒されているせいなのだろうか。
その後、盛りつけた二人分の冷やし中華をテーブルに置いた。声を揃えて「いただきます」を言えば、つるつると麺を口に入れた。
「我ながら最高」
「うん。いつ食べても美味しい」
「ふはは、ありがとう」
敵役のような笑い方で照れ隠しをする。味覚は正常であるはずなのに、どうしてあんな乾汁を生み出すのか不思議で堪らない。
若干失礼である事実を再確認していると、彼は独り言のように呟いた。
「君と結婚したら幸せになれる確率百パーセントだな」
こちらを見ずに言ってのける彼に、私の箸は止まってしまった。付き合う前も似たような言葉を言われたせいで、気持ちが悶々とし始める。
「ほな、してくれんの?」
彼がどう返すのかが見たくて出た言葉だった。どのみち私達は学生だから先の話なのに、試すような言葉をかけてしまった。恥ずかしさから麺をすするけれど、今度は彼の箸が止まってしまった。
「っ、ふふ……ははは……」
彼は箸を置いて笑い始めた。それが妙に気持ち悪くて、つられて箸を置いて笑ってしまった。
「何その笑い方。きしょいわ」
腕を押すように触れれば、彼は眼鏡のブリッジを上げた。
「まさかプロポーズされるとは思わなくて」
はっきりと言語化されると恥ずかしくなってくる。かあ、と集う熱が私を虐める。
「私には貞以外の選択肢なかったんに。酷い」
わざと不機嫌になって見せると、彼は少し私に近づいた。
「ごめん。結婚なんてまだまだだと思ってたのに想像以上に嬉しくてね」
私は彼が口にした二文字。四文字の音を本気で捉え、彼の腕にそっと触れた。
「……貞は私でええの?」
微かに震えた声で尋ねると、彼は落ちついた様子でこちらを見つめた。
「君以外考えたことない」
不安が一気に弾けた。体の芯から温かいものが流れて、全身が熱くなる。そして、目の奥を鈍痛に襲われ、目頭を押さえた。
「……泣く」
喜びから生まれた涙が出ると宣言すれば、彼は面白いくらいに慌て始めた。
「えっ」
「えっ、ちゃうわ。嬉しいねん」
嬉しいときも涙は出るもんやろ。ぐす、と音を立てて鼻をすすった。
「ちゃんとお互い稼いで、生活に慣れたら結婚しよ」
「ああ。しようか」
簡単に肯定してくれたことが嬉しかった。まだ先なのだから、と有耶無耶にされなくて良かった。
滲んだ目元を指先で拭うと、長い腕が私を受け止める準備をしていた。素直に従うのは癪だったけれど、彼の言葉が嬉しくて腕の中に飛び込んだ。力強い腕が先程発してくれた言葉を更に肯定してくれる。
「……計画変更だな」
「なんの?」
目線を上げて尋ねると、彼は満足そうに笑っている。彼の思考に遅れを取ってしまった私は首を傾げた。
「結婚する時期。予定より早まりそうだから」
「前から考えてたん?」
「君の手料理を初めて食べた時からずっと」
初めてというと、まだ付き合う以前の話。私が意識する前からなんて、気が早いにも程がある。もしかしたら私の態度を見て勝算があるとでも思っていたのだろうか。私が振り向かなかったらどうするつもりだったんたろう。
でも、振り向いた私にとってはどうだっていい。本当にずっと想っていてくれる事実が涙腺を緩ませる。
「それは早いわぁ」
私のこと、めちゃくちゃ好きやん。嬉しさと照れ臭さを笑って誤魔化した。手に力を込め、彼の服に皺を寄せると、彼も私の背に回した腕を強くした。
「恋人になる方が骨が折れたかな」
言うて大したことしてへんやろ、と思いつつ、彼なりに計画を立てていてくれたのかなと当時の彼を想像した。
「結婚決まってもうたしな」
「そういうこと」
恋人になる時も大した時間はかからなかったけれど、結婚の約束はもっと早く決まってしまった。良いのか悪いのか分からないけど、今の私には良い事に違いない。それは私達の体温が物語っている。
彼は私の左手を掬い、指先をまじまじと見つめた。そして、左手薬指を包むように触れた。その様子があまりにも真剣だから、私はつい黙ってしまう。
「今度、予約でも買いに行く?」
大きな手が私の手をしっかりと握る。まさか彼からそんな言葉が出るとは思わなくて、歓喜が急上昇してしまった。
「高くても文句言わんといてな」
悪戯っ子のように口を横に開けて笑うと、彼は押し黙って眼鏡のブリッジを上げた。
「黙らんといて」
そっちから誘ったくせに、と頬を膨らませて彼の頬を抓った。
でも、別に指輪なんてどうでもええんよ。私には貞がおってくれたら、それでええから。この先を約束してくれる言葉だけで、お腹いっぱいやわ。