閑話.雨の日も、晴れの日も
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「あ、雨降ってきた」
不意に聞こえてきた声にナマエが顔を上げると、パラパラという音と共に、オフィスの窓ガラスを伝う雨垂れが見えた。
「今日雨降るって言ってたっけ?傘ねーよ」
「予報は出てませんね。僕は折りたたみ持ってきましたけど」
「準備いいなお前」
窓際に寄り外の状況を眺めている群れの中から、青い顔をして抜け出した先輩が足早にナマエの隣の席に戻ってきた。
「やばい…洗濯物干しっぱだった!」
例によって定時内に業務が完遂せず、2人で残りに取りかかっていたところだった。
朝に確認した予報では、お天気は明日から下り坂、とのことだったが、大気の状態が不安定な為か前倒しで降り出したらしい。
今日降るって言ってなかったのに~と頭を抱えている先輩に、ナマエは思いついて話し掛けた。
「私残りやっておきましょうか、できることあんまりないですけど…」
「是非お願い!と言いたいとこだけどホントに大丈夫?ミョウジちゃん電車通勤でしょ。雨で遅れたりするんじゃない?」
気遣わしげに先輩に言われナマエは思案した。確かに電車の遅延の恐れはあるが、早めに切り上げれば大丈夫だろう。そう伝えると先輩は少し逡巡した後、じゃあお願いできるかな、と未処理のファイルを遠慮がちにナマエに手渡した。
「えーっと、急ぎのやつがこれとこれ…わかんなかったら無理にやらなくて良いからね!明日最終確認するから」
雨が酷くなる前に帰りなよ、という言葉と共に足早に退出した先輩を見送り、ナマエは頼まれた業務に手をつけた。
その後どうにかキリのいいところまで終わらせ再びナマエが顔をあげると、先ほどよりも雨脚が強まっているようだった。そろそろ帰った方が良さそうだと考え、パソコンの電源を落とし通勤鞄を開けた。折り畳み傘の存在をそこに確認し、持ってきといて良かった、と安堵の息をつく。梅雨時なので、天気予報に関わらず鞄に傘を入れておくようにしていた。
しかし、オフィスビルのエントランスに立つと、安堵は一気に不安へと変わった。
中にいるときはわからなかったが徐々に風が出てきたらしく、横殴りとはいかなくとも斜め方向に降り注ぐ雨に、軽さを重視して購入した華奢な折り畳み傘がひどく頼りなく見えた。オフィスビルから駅までは徒歩で15分、早足なら10分ほどで着く距離である。
短期決戦なら勝ち目はあるはず、と傘を斜めに構えナマエは歩き出した。
「おっとと、危なっ…セーフ」
風に翻弄され時々裏返りそうになる折り畳み傘の角度を調整しつつ、行程の中ほどまで来ていた。足元は濡れてしまったがこの調子でいけば無事たどり着ける、とナマエが油断した時だった。
「わっ!?…あ!ああ~!!」
突風に煽られ、為すすべもなく折り畳み傘の骨が全て裏返しになる。慌てて近くの軒先に避難し状態を確認すると、傘の骨は無惨にも折れてしまったようだった。復元を試みるも歪な形にしか広がらず、役に立ちそうもない。
「そんなぁ…」
壊れた傘を手にナマエは途方にくれた。ここから駅までなら走れば5分もかからないが、この雨ではずぶ濡れになるのは避けられそうもない。代わりの傘を買おうにもコンビニは駅前にしかなく、結局は同じことだった。
濡れた服のままで電車にのり、更に最寄り駅から家までのデンジャラスロードを歩くことを思うと気が滅入った。風邪をひいてしまうかもしれない。
ナマエが涙目で落ち込んでいると、不意に後ろから声をかけられた。
「もし、そこのお嬢さん。良かったらこの傘を使って下さい」
「えっ?」
振り向くと、ワイシャツにネクタイを締めた、サラリーマンらしき一人の中年男性がこちらに傘を差し出していた。年齢からすると中間管理職、係長や課長といったところだろうか。
「見ていましたよ、その傘はもう使えないでしょう。これをお使いなさい」
男性は躊躇いなく傘を譲り渡そうとしているが、他に自分が使う分は持っていないようだった。現に軒先からはみ出た寂しげな頭頂部が、雨に濡れて更に気の毒なことになっている。
「でも、それじゃおじさんの使う傘がないですよ」
「いいんですよ、そんなこと」
戸惑うナマエを余所に、男性は傘をやや強引に手渡し立ち去ろうとしている。
「あっ!ちょっと…」
「大丈夫ですよ、胃腸は弱いですが体は鍛えてますから。私はこれでもヒーローの端くれなんです」
「えっ」
思わずナマエは聞き返そうとしたが、引き止める間もなくサラリーマン風の男性は行ってしまった。よく見ていなかったが、そういえば手足にプロテクターのようなものを付けていた気もする。ただの優しいおじさんでは無かったらしい。
(良いのかな…)
ナマエは手渡された蝙蝠傘を見つめた。
『ヒーロー』という言葉に、先日怪人から助けてもらった隣人のことを思い浮かべる。先ほどの男性も、そして隣人もそうだが、ヒーローというのはちょっとどうかと思うくらい親切な人種らしい。
返そうにも持ち主の姿はもうどこにも見あたらず、ナマエは有り難くその傘を使わせてもらうことにした。
(この傘どうやって返そう)
あの後、造りのしっかりした蝙蝠傘に守られて駅に着いたナマエは、幸い電車の遅れもなく最寄り駅まで帰り着いていた。何という名前か聞き忘れたが、ヒーロー協会に問い合わせたらわかるだろうか、と考えながらホームから改札口への階段を上っていると、向かいの階段から見覚えのある人物が上ってくるのが見えた。向こうもこちらに気が付いたらしく、ゾンビマンは親しげに、おう、と片手を上げた。
「こんばんは、今帰りなんですか?」
「ああ。同じ電車だったみたいだな」
そのまま改札を抜け、並んで出口へ向かう。
先ほど電車の窓から見た時は小振りになっていたようだが、雨脚がどの程度か外の様子を窺いながら、ナマエは隣人に話し掛けた。
「まだ雨降ってますかね」
「※市から乗ってたがピークは過ぎただろ。しかしこんな時間に雨の中を帰宅とは、お前もついてないな」
同情するようにちょっと肩をすくめたゾンビマンに、ナマエは可笑しくなって笑った。
「それはゾンビマンさんもじゃないですか」
「俺は大体いつもそんなもんだ」
話しながら駅の階段を下りると、まだ止んではいなかったが雨脚はずいぶん弱まっていた。空模様を確認し、ゾンビマンはナマエをちらっと見やった。
「お前傘は…持ってるか」
手に持った蝙蝠傘にゾンビマンは安心したような表情になったが、じゃあ行くか、と歩き出した彼が丸腰なのを見てナマエは慌てた。
「えっ、ゾンビマンさんは傘無いんですか?」
「ああ…気にするな。これくらいなら大して濡れないだろう」
「でも、アパートまでけっこう距離あるし風邪引いちゃいますよ。良かったら入って下さい」
「いや、俺は」
傘を広げて差し掛けたナマエに、ゾンビマンは何事かを言いかけたらしかった。
しかし我に返ったように口を噤み、そしてその一瞬後、僅かに表情を緩めた。
「…何でもない。なら有り難く入れてもらうかな」
身長差を考慮してゾンビマンが持った蝙蝠傘の下、街灯に反射する水溜まりを慎重に避けながら、ナマエは危なっかしく歩いていた。
「この辺地面がでこぼこだから、水溜まりだらけですね」
「人がいないから道路整備も後回しにされてんだろ…そこにまた大きいのがあるぞ」
会社を出てから駅までの道中で、もう足元はほぼ濡れてしまっていたが、靴の中まで沁みてしまうのは避けたい。ゾンビマンの足元はブーツなので濡れても問題ないらしく、ナマエの足取りに合わせて歩いてくれている。
「よっ…と、す、すみません」
「大丈夫か」
小さな水溜まりを飛び越えた弾みにゾンビマンの体に軽くぶつかり、ナマエは急に距離の近さを実感した。よく考えたらこれは相合い傘という奴じゃないか、と今更気がつく。
(別にただのお隣さんだし…ゾンビマンさんだって何とも思ってないよね、きっと)
心なしか早まった鼓動を鎮めようとしていると、ゾンビマンが何かに気付いたように言った。
「…ずいぶん大きい傘だな、これ」
持ち手の太さからしても男物だと気が付いたらしい。それを聞いて浮ついていた思考は霧散し、ナマエは蝙蝠傘を入手した経緯を思い出した。
「この傘、ヒーローの人が貸してくれたんですよ。名前は聞きそびれたんですけど、サラリーマンみたいな格好のちょっと年配の方で…」
傘の持ち主の特徴を伝えると思い当たる人物がいたらしく、ゾンビマンは、ああ、と声をあげた。
「何ていったか、C級の…確か脱サラしてヒーローになった奴だ。退職金で装備品を揃えたらしい」
「脱サラして…すごいですね」
ナマエは傘の持ち主の姿を再度思い浮かべた。ちょうど父親くらいの年代だったが、安定した職を捨てヒーローを志すのは並大抵の覚悟ではなかったはずだ。
何か切欠があったのかと思いを馳せたところで、隣を歩くゾンビマンはどうなんだろう、とナマエは考えた。
不死身であることが彼の大きな武器になっていることは、ナマエ自身も目にして知っているが、何故自ら闘争の場に身を置いているんだろうか。
傷だらけになった姿を思い出してもの思いに沈んでいると、不意に大きな手で肩を抱き寄せられた。
「わっ!」
「もっとこっちに寄れ、はみ出てるぞ」
ぼんやりしているうちに、傘の下から出てしまっていたらしい。
また距離の近さを意識してしまう。何か別のことを考えようとしたナマエはふと、大き目の傘とはいえ、大人二人分の体を覆えるだけの面積があっただろうかと気が付いた。ゾンビマンの肩に目をやると、案の定傘からはみ出て雨に濡れている。コートの生地の変色具合からして、駅を出てからずっとその状態だったことが伺えた。
「ゾンビマンさんこそ傘からはみ出てるじゃないですか」
慌てて傘を反対側に押しやろうとするが、ゾンビマンは手の位置を動かそうとはしない。
「お前が持ってた傘なんだから遠慮するなよ」
厳密にはナマエではなく脱サラヒーローのものなのだが、そこは気にしないらしい。
びくともしない傘の位置に不満げなナマエを、ゾンビマンは可笑しそうに見ている。
少し拗ねたような心待ちになって、ナマエはぽつりと呟いた。
「…ヒーローの方は、みんな親切な人ばっかりですね」
それを聞いたゾンビマンは、少し考えるような表情になって言った。
「そうだな…ヒーローだから親切というよりも、そもそもお人好しじゃなきゃヒーローになんかならないだろう」
「お人好し、ですか」
現役ヒーローである彼が言うのなら、その見解は間違いないのだろうが、モテたいという不純な動機で試験を受けた知人がいたことを思い出し、ナマエは重ねて尋ねた。
「人気者になりたいからとか、そういう人はいないんですか?」
「まあ中にはそういう奴もいるが、それだけじゃ続かない。確かにプロヒーローになれば顔と名前は売れるが、実態は地味なもんだ」
人々の盾になって怪人や犯罪者に立ち向かう危険な日々。
確かに好きでなければやっていけない仕事だろう。
では、ゾンビマンが自分の特性をフルに活用して闘いに身を投じているのも、それが彼自身の望みということなのだろうか。
「あの、」
ゾンビマンさんも、と言おうとしたところで自宅アパートが見え、ナマエは口を噤んだ。敷地内に入り、ナマエの部屋の前までくるとゾンビマンはふぅ、と息をついた。
「雨が酷くならなくて良かったな」
「ほんとですね。あっその傘…」
「ああ、俺から持ち主に返しておく」
「お願いします。すごく助かったって伝えておいてもらえますか?」
「わかった」
先ほど言いかけてタイミングを見失ったことについて、言うべきか言うまいか迷っていると、不意にゾンビマンが手を伸ばしナマエの額に触れた。
「ぼんやりしてるな。冷えて体調崩したか」
「!?」
ひんやりとした感触にナマエが驚いてのけぞると、ゾンビマンも自らの行動にたった今気付いたかのように手を浮かせ、気まずそうに謝った。
「…すまない」
「あっ違うんです!嫌だったんじゃなくてちょっとびっくりしただけで、むしろかたじけないというか」
それを聞いてゾンビマンは、そうか、とほっとしたような表情を見せた。
とっさに武士のような言葉遣いになり、内心動転しているナマエを余所に、風邪ひかないように暖かくして寝ろよ、と言い残してゾンビマンは自室へと帰っていく。
その背中に慌てて挨拶を返し、ナマエは落ち着かない気持ちのまま部屋へ入った。
(…ヒーローなんだから、誰にでも親切で優しいのは当たり前)
そう自分に言い聞かせながらも、帰り道の間近くで感じた隣人の存在は、不思議な甘さを伴ってナマエの胸を焦がした。
早く寝て忘れよう。
彼の言う通り、体が冷えたせいで熱でもあるのかもしれない。
その後よく暖まって眠った翌朝には、心身共にいつも通りになっていたが、ナマエの心の奥底には秘かに、しかし確実に息づくものがあった。
その感情の名前は、まだナマエ自身にもわからない。
「なかなか、そう簡単には上がりませんね…」
携帯でヒーローランキングを確認しながら、アーマード係長は小さなため息をついた。
長年勤めた会社を辞め一念発起してヒーローになったは良かったが、デビュー以降特に華々しい活躍はしていない。地道に実績を積んではいるが体力は下り坂、近年凶悪さを増している怪人には歯が立たないことの方が多かった。
子どもは巣立ち、妻もヒーロー活動に理解は示してくれているがいつまでやれるか、と今後の人生に思いを馳せていると、そこへ場にそぐわない人物が現れた。
今日はC級ヒーロー向けの定期講習会で本部に来ており、待合室にいるのは同じランクの仲間ばかりである。協会内では良くも悪くも注目を集めている、規格外のランクに所属する彼がなぜここに、と思っていると、ゾンビマンはアーマード係長を見とめるや否やまっすぐに近づいてきた。
「あの…私に何か」
緊張から畏まっていると、ゾンビマンは咥え煙草を揉み消し、よう、と存外人懐っこい笑みを浮かべた。
そしてアーマード係長の眼前に、手に持っていた物を差し出した。
「おや、これは…」
見覚えのある蝙蝠傘は、通りすがりの女性に貸したものに間違いなかった。不思議に思って訊くと、先日の女性と彼は知り合いだという。
「とても助かったと言っていた。それに、おかげで俺も濡れずに済んだ」
礼を言うぜ、と言い残し去っていったゾンビマンに、アーマード係長は目をしばたいた。
彼はS級の面子の中でも話が通じやすい人物だとは、下級ヒーロー間の評判で知っていたが、それにしても意外なほど優しい表情をしていた。
(ん?おかげで濡れずに済んだ、ということは…)
年の功からくる勘でアーマード係長はなんとなくの事情を察したが、そこは同僚といえど個人のプライバシーに関わる問題である。詮索することは止めた。
それよりも、自分の些細な行いが確実に誰かの役に立ち、そしてそれを見ていてくれる人がいたということが、胸を満たしていた。
(私もまだまだ捨てたものじゃないですね)
やれるところまでやってやりますよ、と気合いを入れ、アーマード係長はネクタイを締め直した。