さよならイノセント
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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ゴポ、と吐き出した気泡が遠ざかっていく。
それを見て、ガロウは自分が水中にいるのだと気づいた。
それならば呼吸ができないはずだが、不思議と息苦しさはない。
――なんだこりゃ…妙な夢だな
水面は遥かに遠く、光の届かない冷たい海の底へとゆっくり沈んでいく。
体を動かそうとしてすぐさま無駄を悟った。四肢に力が入らないのだ。
端からじわじわと体温が奪われ、感覚がなくなっていく。
なぜだか、このまま沈んでいけば現実の自分も死ぬのだ、という予感があった。
冷たい深淵に潜む、何者かが呼んでいる。
しかし、ガロウにはもはやそれに抗おうとする意志はなかった。
――もういい加減、疲れたな
幼い日に経験した理不尽。闘争に次ぐ闘争の日々。
叶えられなかった望みと敗北。
もがき続けたこれまでの記憶が、空気の泡と共に水面へと昇っていく。
ひどく覇気を欠いた元師匠の拳も、おじさん逃げてと泣きじゃくる少年の声も、走馬灯のように駆け抜けていく。
どうして誰も彼も自分を生かそうとする。これ以上生きていても意味がないのだ。
多分、自分は最初から間違っていた。
それを心のどこかでわかっていながら、目を背け続けた。
意地を張り通した結果がこれだ。
でも、今となってはどうでもいい。
諦めと共に瞼を閉じる。コポコポという海中音だけが世界を満たした。
揺蕩うガロウの意識は水に融け出し希釈されていく。
自分が誰だったのかも、そのうちわからなくなるのかもしれない。
その刹那、不意に声が響いた。
『俺に負けたくらいで諦めるのかよ』
誰だ、と声の主を思い出そうとするが、記憶に靄がかかったようにうまくいかない。
そこへまた、二つの声が聞こえた。
『本当はヒーローになりたかったんだな』
『おじさんは本物のヒーローなんだよ』
男の声と少年の声。
異口同音に投げかけられた『ヒーロー』という言葉に、ガロウはにわかに意識を覚醒させた。
自分がなりたかったものは、本当にそれだったのだろうか。なぜだかしっくりこない気がした。
しかし、何者かになろうとしていたのは確かだった。
強烈な意志を以って目指すところがあった。
その正体を思い出せない。
焦りと共に、急激に生への未練、渇望が身のうちで湧き上がった。
まだだ。まだ死ぬわけにはいかない。
自分にはやるべきことがある。
動かない体を必死に捩って引力に抗う。
――俺の…俺の本当になりたかったものは、
そもそもの出発点はいったいどこだったのか。
喘ぐように開いた口から冷たい水が流れ込んだ。
息ができない。苦しい。
ガボ、と肺の中の空気をすべて吐き出すと同時に、視界が暗転した。
気が付くと、夕暮れ時の公園にガロウは立っていた。
目線がずいぶんと低い。
見下ろすと、頼りない脚の先に草臥れた運動靴を履いている。
『ヒーローごっこしようぜ。怪人役はガロウな』
あの記憶だ、とすぐにわかった。
忘れたくても心に刻みついて消えない痛み。結局はここへ戻ってきてしまった。
見る間に同じくらいの年頃の少年達に取り囲まれ、突き飛ばされた痩せっぽっちのガロウは、地面に這いつくばった。
背中をしたたかに蹴りつけられ、痛みに呻く。
『ジャスティスキック!怪人ガロウ退治!』
はやしたてるような笑い声と共に、亀のように丸くなったガロウを遊び半分の拳や蹴りが総攻撃する。
地面と腕の隙間から、公園の前を通り過ぎる人影が遠く見えた。
皆足早に家路を急ぐばかりで、気が付いていないのか、それとも単なる子どもの喧嘩だと思っているのか、こちらに関心を向ける者はいない。
誰も助けてはくれないのか。
弱い立場の人間は、結局こうやって誰にも気付かれず、独りで痛みに耐えるしかないのか。
失望と諦めが胸中を満たし始めた時、突然蜘蛛の子を散らすように少年達が四散していった。
恐る恐る顔をあげると、そこに一人の男が立っていた。
――誰…?
没む太陽を背にして、強い光の影になった顔はよく見えない。
男はガロウに手を差し伸べた。力強い、大人の男の手だ。
その手に掴まりながら、男の髪が夕陽を反射するのを見た。
鈍く光る、銀色の髪。驚きに目を見開いた――
ガロウは勢いよく体を起こした。
荒い呼吸をしながら辺りを見回すと、そこは元居た廃墟となった診療所だった。
既に日は暮れ、部屋の中は真っ暗だ。
ようやく現実に戻ったのだ、と理解すると共に、ガロウは大きく息を吐き出しながら目元を覆った。
とそこで、両手が自由に動かせることに気付いた。
試しに寝台から降りて軽く足踏みしてみると、脚も問題なく動く。
「どうなってんだ…」
なんだか拍子抜けしたような気持ちで立ち尽くす。
暫し呆けていたガロウは、不意に違和感を覚えた。
部屋の中に自分以外の人の気配がしない。
「ナマエ」
どこからも返事はない。
隣の寝台に近づくと、そこはもぬけの空だった。
そして、ナマエが隠し持っていた筈の無線機が電源を入れて置き去りにされている。
その光景を見てガロウは全てを理解した。
「あいつ…」
無鉄砲にも程がある。
夜の山はただでさえ危険だが、猛烈に嫌な予感がする。
最後に覚えているのは、まだ日が沈む前の記憶だ。
自分が倒れた後すぐにここを出発したのだとしたら、二時間は経っている。
夜空に昇る月の位置を見ながら考えた。
無事にナマエを見つけることができるだろうか。
山に慣れていないナマエがまともに下山できるとも思えない。どこかに迷い込んでいる可能性もある。
居場所を探すのは至難の業だ。
うまくいく確証はひとつもない。
しかしガロウは、迷いのない足取りで診療所の外へ向かった。
傷だらけでボロボロだが、手も脚もちゃんと動く。間違いなく自分自身の体だ。
(そんなら十分じゃねーか)
正義か、悪か。
他人が自分をどう定義しようが関係ない。
何者にもなれない、世界からはじき出されたガロウにも、成し得ることはあるのだ。
ろくに食べておらず体は弱っている筈なのに、身の内に不思議な活力が溢れていた。
診療所を出ると、湿りを帯びた空気が木々の間を吹き抜けていた。
山裾の方角へむけて、一迅の風が大きく地を蹴って走り出す。
その瞳の奥には、オレンジ色の残光が焼き付いていた。