さよならイノセント
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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さわさわと小雨の降る音でナマエは目を覚ました。
破れたカーテンのかかった窓の外は仄かに明るい。明け方であるらしかった。
雨が運んできた冷んやりとした空気が肌を撫で、ぶるりと身を震わせた。
その弾みに肩から柔らかな感触が滑り落ち、今の自分が長椅子に寝かされていることに気付いた。見覚えのないブランケットもかけられている。
目をぼんやり開いたまま、あいまいな記憶を曖昧に辿る。
確かガロウをこの建物に運んだあと、限界がきて崩れ落ちるように意識をなくしたはずだが――
(そうだ、ガロウくんは)
はっと息をのんだ瞬間、暗闇の中から声がした。
「よう、起きたかよ」
窓際の暗がりにじっと控えるようにしている人影があった。
外を見張っているのだろうか、いつからそうしていたのか、よりかかるようにして長椅子に座っているのが、ぼんやりと見えた。
もう体は大丈夫なのか、と尋ねようとしてナマエは口を噤んだ。
違う。本当に聞きたいのはそんなことじゃないはずだ。
眠りにつく前に考えたこと。
聞かなくちゃいけない。確かめなくちゃいけない。
返事をしないナマエをどう思っているのか、ガロウは黙ったままだ。
ナマエは震える唇で声を発した。
「あの、さ…噂話で聞いたんだけど、」
ガロウが僅かに身じろぎしたのがわかった。
表情は暗くてよく見えない。
自分を勇気付けるように、ブランケットをぎゅっと握りしめる。
「…ヒーローの人が襲われる事件があって、それで、無免ライダーとか、他にも何人も怪我させられてるって、友だちが言ってて」
逸る気持ちに思考がついていかない。
「それで…その犯人は『ヒーロー狩り』って呼ばれてる、って」
そこまでろくに息継ぎもしなかったから、苦しくなり大きく息を吸い込んだ。
支離滅裂な言葉は、ナマエの胸中をそのまま表しているかのようだった。
こんな話はしたくない。
目を背けていられるのならそうしたかった。
でも本当のことを知りたい。
一度芽生えた疑心をそのままにはしておけなかった。
宙ぶらりんに途切れた言葉は、清かな雨音に吸い込まれ、あとには沈黙が落ちた。
息を潜めて答えを待つナマエの耳に、ぼそりとつぶやくような、しかしはっきりとした声が聞こえた。
「俺がやった」
ほとんど確信していたにも関わらず、頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。
どくんどくんと自分の心臓が激しく鳴っているのが聴こえる。
追い打ちをかけるように、ガロウは続けた。
「道場を出てからプロヒーローばかりを狙って襲った。『ヒーロー狩り』は俺のことだ」
なんで。どうして。
動揺と混乱のあまりキンと耳鳴りがした。
鼓動は速さを増し、知らず呼吸が乱れる。
(なんで…なんでそんなに冷静でいられるの)
告白の内容よりも、あまりにも平坦なその声がナマエを打ちのめした。
何も感じていないのか。
自分が理不尽に傷付けた相手のことなど、道端の石ころ程度にしか思っていないのか。
だからそんなことができるのか。
そうして自分の命の価値すら、わからなくなってしまったのか。
闇の向こうから、あの時と同じ洞穴のように真っ暗な瞳が、こっちを見ている気がした。
今対峙しているのは、本当に自分の知っているガロウなのだろうか。
なにかに操られるように震える唇を開く。
「ガロウくん、人を殺したの?」
もしも肯定の返事がかえってきたら。
それをきいてしまったら、もう。
わかっているのに、ナマエはそうせずにはいられなかった。
細かい雨が降りそそぐ囁きに似た音だけが、辺りを満たしている。
ナマエは瞬きもせず闇を見つめていた。
実際には数十秒ほどだったのか、永遠にも思える沈黙のあと、かき消えてしまいそうなほど小さな声が答えた。
「…殺してはいない」
詰めていた息を吐き出す間もなく、次の言葉が続いた。
「けど死んでもおかしくねえ怪我はさせた」
凍りつくナマエの耳に、絞り出すような声が告悔する。
「…それに、俺のやったことが元で助からなかった奴はいるかもしれない」
ガロウの声音は相変わらず感情を含んでいなかった。
しかし、その奥にある確かな苦悩をナマエは感じ取っていた。
自らの行いに対する、深い、深い悔恨の念。
頭で理解するよりも先に、涙が溢れていた。
ガロウは、ナマエのよく知るガロウのままだった。
痛みや悲しみ、淋しさを知っている彼のままだった。
なのに、あの日ナマエの背中を撫でたのと同じ手で、殴り、打ち、傷付けたのだ。
一体どうして。わからない。
食いしばった歯の隙間から、堪えきれない嗚咽が漏れる。
ずっと友達でいるから、と二年前にした無邪気な約束が脳裏に蘇った。
きっとナマエは、心のどこかではわかっていた。
ガロウの見据える先には、命の取り合いすら躊躇しない、恐ろしい世界が待ち受けていることを。
約束することで自分を安心させたかったのだろうか。
結局そんなもの、何の役にも立ちはしなかった。
ブランケットを頭から被り、声を押し殺して寝た振りをした。
あまり意味があるとは思えなかったけれど。
雨音が誤魔化してくれるのが、今はありがたかった。
***
次にナマエの意識が浮上した時、まず知覚したのは激しい喉の渇きだった。
飲まず食わずで山の中を彷徨い、それに明け方大泣きしたせいで体中から水分が失われている。
口の中がカラカラだ。
「み…水…」
起き上がる気力もなく、遭難者のように呻いていると、なにか重量のあるものを床に置いたような音がした。
驚いて目を見開くと、ガロウがこちらを見下ろしているのが視界に入った。
「飲めよ」
「へ…」
意味がわからず示されるまま床の上に目をやると、見慣れた2リットルサイズのペットボトルがそこに鎮座している――中の透明な液体がちゃぷり、と揺れた。
水だ、と認識するが早いか、ナマエは跳ね起きるように身体を起こした。
震える手で蓋を開け、溢れた水が首筋を伝うのも構わず、重いボトルを必死に持ちあげて喉を潤した。
ガロウは腕を組んで、黙ってその様子を見下ろしている。
「あー生き返ったー」
四分の一ほどを飲み干し、長椅子に座って人心地ついていたナマエは、そこでやっと重大な事実に気が付いた。
「えっ…水って…これ、どうしたの?」
ペットボトル容器も中身も綺麗で、明らかに市販されている飲用水と同じものだ。
寝る時くるまっていたブランケットといい、どこから調達したのだろう。
ガロウを見上げると、彼はおもむろに踵を返し着いてくるよう促した。
「来てみろよ」
訳がわからないまま立ち上がり、早足なその背中を追うと、彼は建物の奥へ向かった。
建物の内部はさっきのところよりは荒れていなかったものの、埃っぽく人の出入りが絶えて久しいようだった。
診察室らしき小さなスペースを横目に廊下を進み、ガロウが入った部屋に続けて踏み込んだナマエは目を丸くした。
「うわっ何これ…地下室?」
ごく狭い空間の中央、床が跳ね上げ扉となって口を開いている。
こわごわ中を覗き込んでいると、ガロウは慣れた様子で階段を降りていく。
慌ててナマエも後を追うと、そこは貯蔵庫のようになっていた。
所狭しとダンボールが積み上げられ、かと思いきや奥には簡易なベッドやテーブルなど居住スペースもある。
突如現れた謎の空間をぽかんとして見回していると、ダンボールの一つをごそごそ探りながらガロウが説明した。
「多分個人所有のシェルターだろ。少し離れたところに無人の集落跡があった。ここが病院兼緊急避難場所だったらしい」
そういえば、ニュースなどでちらっと見たことがあるのをナマエは思い出した。
ヒーロー協会が発足し、大規模なシェルターが整備される以前は、怪人災害発生時も通常の災害と同じく、学校や公の施設が避難場所になっていた。
しかし、過疎地域に住む人達にはそういった場所がなく、代わりにお金を出し合って簡易なシェルターを造るところもあったという。
やがて住めなくなった土地を捨て、住人が逃げ出した後も物資がそのままになっていたようだ。
「非常食で良いならしばらく食うには困らねえぜ。美味くはないだろうけどな」
そう言ってガロウは振り返り、ダンボールから取り出したパウチパックを差し出した。
パッケージに書かれた『エビピラフ』という文字を見て初めて、自分がどれだけ空腹だったのかナマエは気がついた。
一も二もなく「食べる」と声をあげ、遅めの朝食を摂ることになった。
地下室は埃っぽかったので、比較的荒れていない診察室の隣の部屋に食べものを持ち込んだ。
寝台のへりに腰掛け、プラスチックのスプーンで冷えたピラフを掬ってたべる。
確かに美味しい食事とは言い難かったが、食べものにありつけるだけ有難かった。
ガロウも隣の寝台に座って、味気なさそうに固形食を水で流し込んでいる。
ピラフを食べ終わり、ビスケットの入った缶を開けようとしていると、おもむろにガロウが口を開いた。
「で、お前はどうすんだよ」
言葉の意味を図りかねて顔をあげると、ガロウは静かにこちらを見ていた。
「俺は犯罪者なわけだが、どうするよ。手錠でもかけるか?」
投げやりな口調で放たれた『犯罪者』という言葉の生々しさに、ナマエは視線を落とした。
昨夜の会話は夢なんかではない。
ガロウが追われているのは、れっきとした理由があってのことなのだ。
窓から降りそそぐ朝日が、寒々しくリノリウムの床を照らしている。
「…ガロウくん、今怪我してるでしょ。体が治ったら山を降りて警察に連れてくから」
そう口にしながら、これは逃げだ、と自分で思った。
ガロウの体の状態が万全ならば、いやそうでなくとも、ナマエから逃れることなど造作もない。
連れていくなどと息巻いたところで、ガロウが従わなければナマエにはどうすることもできないのだ。
それ以前に、一人では無事山を降りられるかどうかすら覚束ない。
ガロウを取り巻くこの状況において、ナマエはひどく無力だった。
そんな浅はかな欺瞞をガロウは当然見抜いただろうが、彼は何も言わず食事を再開した。
しばらくもさもさと固形食を齧る音だけがしていたが、ナマエは思い切って口を開いた。
「あのさ、ひとつ聞いてもいい」
相変わらず何の感情も示さないガロウの顔を見ながら、ずっとわだかまっていた疑問を口にする。
「なんでそんなことしたの?」
ガロウは一瞬咀嚼する動きを止め、そしてゆっくり口の中のものを飲み下し、ペットボトルを置いた後ぼそりと呟いた。
「わかんねぇよ」
自分の足元を見つめている眼差しは、どこか遠いところを見ているかのようだった。
「言ったってわかんねぇ」
それは、ナマエだからわからないというよりも、他の誰に言っても理解できないのだ、と言っている気がしたから、それ以上はなにも聞かなかった。
もしかしたら、本当のところはガロウ自身にもわかっていないのかもしれなかった。
朝食を終えると、ナマエは建物の外に出てみた。
夜の間に降った雨に洗われて、木々の葉が輝いている。
明るい光の中でみる山は恐ろしくはなく、清々しい空気の中で深呼吸した。
診療所のある森の端から少し下ったところに、ガロウの言っていた集落跡らしき建物群があった。
「ね、あそこにいけばもっと食べものとか見つかるんじゃない?」
いつの間にか外に出てきていたガロウに聞いてみたが、彼は首を横に振った。
「夜の内にざっと見回ってみたがどれも廃屋だった。それにあんまり外をうろつかねぇ方が良い」
「なんで?」
尋ねると、ガロウは僅かに表情を険しくした。
「昨夜襲ってきたあいつら…怪人どもが新しく徒党を組んでるとか言ってたが、そんな話きいたこともなかった。多分人目につかねぇ所にずっと潜んでやがったんだろ。この辺もあいつらの縄張りじゃないとは限らねぇ」
小さな虫が寄り集まった異様な姿を思い出し、ナマエはぶるりと身を震わせた。
「あの怪人たちは、なんでガロウくんを襲ってきたの?」
そう聞くと、ガロウはうんざりしたように顔を顰めた。
「こっちが聞きてぇよ…とにかくその辺歩き回んじゃねーぞ」
それだけ言い残すとポケットに手を突っ込んで、建物の中へ入っていく。
その後ろ姿を見ながら、ナマエは闇の中で聞いた彼の苦しげな本心を思い出していた。
(違うんだ。ガロウくんは身勝手に人を傷付ける怪人なんかとは違う)
今のガロウはもう誰かに無闇に危害を加えたりはしない。それだけは確かだ。
ナマエは踵を返し、後を追うように診療所に入った。
建物の中には医療品も残されていたので、二人は傷の治療をすることにした。
と言っても、軽い切り傷、打ち身程度のナマエとは違い、全身傷だらけのガロウの手当てが中心だったが。
ナマエも手伝って、手が届きにくい箇所の傷を手当てする。
鋭利なもので斬られた跡に消毒液をたっぷり含ませたガーゼをあてると、ガロウはびくりとしてうめき声をあげた。
「いっってぇ…!」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねーよ、どんだけ消毒液つけてんだ」
顔を覗き込むとぎろりと睨まれ、ナマエは肩をすくめた。
「だっていっぱいつけた方が早く治るかなって…」
そう言い訳すると、彼は露骨に呆れ顔を作った。
「ハァァー?消毒しただけで傷が治るわけねーだろ。お前の頭には脳みその代わりにおがくずでも詰まってんのか」
怪我の具合を心配していたが、少なくとも嫌味をいう元気はあるようだ。
カチンときて消毒液でタプタプのガーゼを別な傷に押し当てると、筋骨隆々とした体が陸に揚がった魚のように跳ねた。
悶絶しているガロウを後目に、わざとらしくそっぽを向いて誰に言うともなくぼやいてみせる。
「あーあ、なんかガロウくん思ったより元気そうだから、優しくしようという気持ちがなくなってきちゃったなー」
棒読みでそう言うと、このクソガキ、とガロウは恨めしそうに毒づいた。
その後も文句を言われたり言ったりしながらどうにか手当てを終えてみると、幸い骨折などもなく、一番深い脇腹の怪我以外は、安静にしていればすぐ良くなるだろうと思われた。
「熱は?まだあるの?」
額に手を伸ばして触れてみると、かなり下がっていたもののまだじんわりと熱い。
ガロウはナマエの手をうるさそうに押しのけた。
「二、三日すれば下がるだろ。まだダリぃから俺は寝る」
そして、邪魔すんなよ、と言ってブランケットをかぶり、寝台にごろりと横になり背を向けた。
よほど疲れていたのか、身じろぎもせずそのまま寝入ってしまった。
差し込む日の光から陰になった寝台の上で、広い背中が急にしんとして生気をなくして見えた。
「ガロウくん」
不意に不安に襲われ、寝台に身を乗り出してそっと覗き込むと、ガロウは体をやや丸めた姿勢で、ごく安らかな寝息をたてていた。
気性の烈しさを思わせる瞳が閉じられているためか、まるで幼い子どものように無防備な寝顔だった。
唐突に、ナマエは自分たちの置かれた状況を思って途方に暮れた。
ガロウも、そしてナマエもまだほんの子どもだ。
身の回りのごく狭い世界の中で生きてきた。
未熟な正義感で裁くには、ガロウの抱えている問題はあまりに大き過ぎる。
もしも大人しくガロウが従ったとして、自分はその時本当に彼を咎人として突き出すことができるのだろうか?
――わからないよ…どうすれば良いの
じっと立ち尽くすナマエの視線の先で、ガロウはただ静かに眠っている。