熱くて溶けそう
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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真剣な黒い瞳が、こちらを真っすぐに見つめている。
ごくりと喉を鳴らしたのがわかる程近くに、金属バットの顔がある。
掴まれた両肩が少し痛いのも忘れて、ナマエは息を潜めてじっとしていた。
「ナマエ、」
押し殺した声が名前を呼び、緊張を漲らせたまま、金属バットの顔が更に近づく。
高鳴る心音が緊張感と期待を煽る。
今日こそは。今度こそはついに。
もうそろそろ目を閉じた方が良いのかな、と思いつつじりじりと待つが、しかし彼はそこでぴたりと動きを止めてしまった。
そしてにらめっこをしたままたっぷり10秒が過ぎる頃には、あっこの流れはまずいのでは、と別の意味でナマエの心臓は鼓動を速めていた。
早く。早くしないとまた前回の二の舞になる。
と危惧したその時、軽快な着信音が沈黙を切り裂いて鳴響いた。
「あ、」
思わず間抜けな声をもらすと、目の前の金属バットも口を半開きにしている。
そして次にはつり上がった眉がぐっと寄り、剣呑な表情になった後、大きく息を吐いて脱力した。
すぐ近くにあった体が静かに離れていく。
「…わりぃ、ちょっと電話出てくるな」
「う、うん」
立ち上がり、影を背負ったまま部屋を出ていく彼を見送る。
そして居間の襖が閉じると、ナマエもまたずっと詰めていた息を吐き出した。
***
初めて『それ』に気付いたのは、ある日の放課後のことだった。
「なぁ、これどうやんだ?」
考査の3日前、空き教室で例によって金属バットの勉強をみつつ、自分も復習をしていた。
「こっちとおんなじやり方でやったらわけわかんねーことになったんだけどよ」
差し出された問題集を覗き込むと、その単元は自分のクラスでは前回の考査にやったところだった。
思い出そうとして、参考書を見た方が早いことに気付く。
「えーっと…なんだっけ。ちょっと確認するね」
「わりぃ」
「ううん、良いよ」
鞄から参考書を取り出し、該当の箇所を探す。
パラパラとページを捲っていると、不意に影がさした。
不思議に思って視線をあげ、すぐ近くにあった金属バットの顔にナマエは動きを止めた。
(えっ何だろう、これ…)
その近さにももちろん驚いたのだが、それ以上にナマエを戸惑わせたのはその異様な緊迫感を漂わせた表情だった。
まるでこれから闘いにでも臨むかのように、真剣な顔をしている。
何事かと尋ねようとして、くっきりとした鮮やかな黒目に意識を奪われた。
前に「ナマエちゃんの目って、キラキラしてお人形さんみたいで良いなぁ」とゼンコに言われたことがあるが、ナマエ自身はこの兄妹のきりりとした黒い瞳が綺麗で羨ましいと思っていた。
と、関係のないことを考えていると、いつの間にか両肩を掴まれている。
挟んで座った机越しに身を乗り出して、今にも顔がぶつかりそうだ。
「あ、えっと、」
もしかしてこれは「いつまで待たせんだテメー」という怒りの表明なんだろうか。
頭突きを決める寸前の間合いと威圧感に、つかの間そんな考えが過ぎった。
しかし、彼は短気なところはあるが、他人に理不尽な怒りをぶつけるタイプではないので、そんなわけはないとすぐに考え直す。
じゃあなんだろうと思ったところで、強い光を宿しているように見えた瞳が、僅かに揺らいでいることに気付いた。
よく見れば赤くなっているし、強張った表情は緊張しているようにもとれる。
それらの情報を統合して、やっとのことで気がついた。
(あっ、これってキス…)
ナマエがそう悟るのが早いか否か、ガラリと音を立てて教室の扉が開いた。
「うい〜忘れ物忘れも…の……」
反射的にそちらを見ると、このクラスの生徒らしき男子が立ち尽くしていた。
と思う間もなく、今度は目の前でガタン!と大きな音がした。
慌てて視線を戻すと、金属バットが脚の辺りを押さえて悶絶している。
「イテェ…脛打った」
「だ、大丈夫バッドくん!」
机を周りこみ、倒れた椅子の横で蹲る金属バットの側にしゃがみ込む。
その間に件の男子生徒は目的の物を回収したらしく、そそくさと出ていった。
暫くして痛みの収まった金属バットを助け起こし、元のように座るが、直前の記憶が蘇って顔を見ることができず、ナマエは広げたままの参考書に視線を落とした。
「な、なんか…ごめんな」
「ううん……あっあの、さっきの問題のやり方なんだけど」
「あ、おう…」
どこかぎこちない空気のまま、勉強会を再開する。
その後まもなくして金属バットにヒーロー協会から連絡が入り、有耶無耶なまま一人帰宅したその夜、ナマエはベッドに座って考え込んだ。
(あれってやっぱり…)
すぐ近くにあった真剣な顔つきに、今更になって心臓がうるさい音を立て始める。
無意識のうちに自分の唇に触れていたことに気付いて、一人で恥ずかしくなった。
付き合っているのだから当たり前のことだし、むしろ遅すぎるくらいだ。
ナマエ自身、彼と付き合うことになった当初は、いずれそういうこともするのかなと考えたりした。
しかし実際にお付き合いをしてみると、一緒に時間を過ごすだけで楽しくて、第三者に「それ彼氏っていうか友だちじゃない?」と指摘されて初めて、まだキスもしていないことに気が付く有り様だった。
でもそれはナマエの方だけで、金属バットはじれったい思いをしていたのだろうか。
熱っぽい瞳が、あの夏の日に痛いくらい抱きしめられたことを思い出させる。
彼のことは、ちゃんと異性として好きだと思う。
妹がいるからなのか、自分よりも力の弱い存在を守ろうとする行動が身にしみついているようで、気付いたら車道側を歩いてくれていたり、重いドアを開けてくれたりする度に、落ち着かない気持ちになった。
『イケメンヒーロー五本指』に数えられる鬼サイボーグは、確かに整った綺麗な顔立ちだと思うが、金属バットの顔も男らしくて負けないくらいかっこいいと思う。
友だちとの会話の中でうっかりそう主張してしまい、やれやれみたいな反応を返されたのは恥ずかしかったけど。
そうやってナマエが思うのと同じように、金属バットの方も異性として自分に好意を持ってくれているのだ。
(つまりその…キスしたり、触りたい、とか)
あらためて実感すると顔中が熱くなる。
しかし、同時に嬉しさで胸が高鳴っていることにも気付いていた。
金属バットへの気持ちを自覚する切欠になった、ゼンコの問いかけを思い出す。
あの時イメージした優しい雰囲気ではなく、実際にはなんというか『闘魂注入』っぽい気迫が漂っていたが、でもそんな彼に自分も触れてみたい、とナマエははっきり思った。
今日は偶然人が来て駄目だったけど、またその時が来たら必ず。
──そう密かに決心をしたのが、およそ半月前のことになる。
ふと柔らかいものが腕に触れ、見るとこの家の猫であるタマが頭を擦りつけていた。
フワフワした毛並みを撫でながら、ナマエはどうもおかしな具合になりつつある事態について一人考え込んだ。
あれから今までの間に、何度となく機会は訪れた。
クラスは違うが基本的に一緒に登下校しているし、休みの日も予定が合えば家に遊びにきている。
お互い初めてのことでいくら心の準備がいるといっても、ほんの数秒あれば済む行為である。
しかし、あっ今いけるんじゃないか、という時に限って、何の悲劇か見計らったように中断が入るのだった。
彼の家に居る時に、血相を変えたゼンコがゴキブリが出たと部屋に飛び込んできたり、下校中周りに誰もいないと思ったら、「俺はキープ扱いされた男たちの怨念から生まれた怪人“メルカリノヨンド”!お前達の仲も冷やして4℃にしてやる!」と奇妙な怪人が現れたり、まるで見えないなにかに邪魔されているかのようだった。
そして、それだけならば気長に機会を待てば良い話なのだが、何よりもまずいのが、そうして失敗を繰り返すごとに、どうも金属バットが自信を失くしつつあるらしいということだった。
『イップス』という症状がある。
以前精神的な不調で苦しんだ時、自分の状態を知りたくて読んだ本の中に書かれていた。
スポーツ選手や音楽家など、日常的に同じ動作を繰り返す人が、突然その動作をとれなくなるというものである。
根本的な原因は神経の疾患であり、正確には心の病ではないそうなのだが、そうやってミスを繰り返すことで二次的に精神不安を引き起こすのだという。
金属バットもそれに似た状態になりつつあるのではないか、というのがナマエの見解だった。
最初の時の勢いは徐々になくなり、近頃はさっきのようにガチガチに緊張して動作もぎこちない。
そしてそうこうしている内にまた邪魔が入り…という悪循環が出来上がりつつあった。
人並み外れて気丈な金属バットだが、ゼンコと言い合いをした翌日は目に見えて落ち込んでいたり、日常生活ではそれなりに気の弱いところもある。
恋愛事においてもそうで、そういった意外なナイーブさは彼の好きなところの一つだったが、この局面では悪い方向に相乗効果をもたらしていた。
更に言うと、メンタルが原因で調子を落とすことが滅多にないからこそ、どつぼにはまっているのではないか。
それならば、自分の方から何かアクションを起こした方がいいのか。
(つまり、私の方からキスを…む、無理。絶対に無理)
想像しただけでカッと顔中が熱くなった。
両手で頬を押さえたナマエをタマが不思議そうに見ている。
何せ自分だって恋をするのは初めてだ。
いきなりはちょっとハードルが高い。
もっと初心者向けのところからお願いしたかった。
でも初心者向けのキスって具体的に何だろう。
(まずほっぺたにしてみるとか…?それも結局顔が近いよ、無理だよ)
もっと撫でろ、と猫パンチで要求するタマそっちのけでぐるぐると悩んでいると、電話を終えた金属バットが戻ってきた。
「S級誰一人連絡つかねえってどーなってんだよ、ったく…」
憤懣やるかたないといった様子で携帯を片手に文句を言っている。
ナマエは慌てて平常心を装った。
「怪人駆除の依頼?」
「おう…悪いけどちょっと行ってくんな」
すまなそうな顔をした金属バットは、事が終わり次第戻ってくるつもりのようだったが、行き先を聞くと離れた市だったので、ずっと待たせてもらうのも悪いし、ナマエももう家に帰ることにした。
ゼンコも友だちの家にいるため、無人の家に戸締まりをして玄関を出る。
「なんかごめんな。送ってもやれなくて」
なにかいろいろな思いが込められた『ごめん』に、かぶりを振る。
「良いよそんなの。それよりも、あの…怪我しないでね」
本人はゴミ捨て場のカラスでも追っ払いにいくかのような調子だが、S級の金属バットに要請がくるということは普通に緊急事態だ。
彼の強さは知っているが、これから危地に向かうとなるとやはり心配だった。
ナマエの言葉を聞くと、なぜか金属バットは僅かに目を見開いて一瞬押し黙った。
不安が顔に出てしまったかと思ったが、こちらがなにか言う間もなく、彼は勢い込んで口を開いた。
「あのよ、ナマエ」
「な、何?」
「やっぱ今日、帰ってきたら一緒に、」
とそこで、バラバラバラという騒音が割り込み、言葉の続きはかき消された。
『あっ居た居た、金属バットさーん、ヒーロー協会の者でーす』
強い風が吹いてくる方を見上げると、上空にヘリらしき黒い影が浮かんでいる。
『現地まで輸送しますね、あーっ降りる場所がない…』
なにやら立ち往生している様子のヘリをぽかんと眺めていると、目の前から静かな怒気が漂ってくるのを感じた。
視線を戻すと青筋を立てプルプルと震えているキレ顔があり、ギョッとして動きを止める。
ナマエが見守る中、金属バットは静かに息を吸い込み、そしてヘリに向かって万感の思いを吐き出した。
「うるっっせええええ!!住宅街にそんな騒がしいもん持ってくんじゃねー!近所迷惑になんだろうが!!」
あまりの大音量に耳がキーンと遠くなる。
そしてそのまま「向こうに空き地があるからそこにしろ!!」と怒り心頭のままヘリと共にかけていく後ろ姿を見送ると、ナマエはまたひとつため息をついたのだった。
***
そんなことが何度か続いた後。
「バッドくん…なんか元気ないね」
ある休日、金属バット宅に遊びにきたナマエは遠慮がちにそう尋ねた。
幾度となく入る横入りに初めはカッカしていた金属バットだったが、近頃は無力感が生まれつつあるのか、それとも悟りの境地に達しつつあるのか、その表情は魂を抜かれたように悄然としている。
「そ、そうか?風邪でもひいたかなー。昨夜窓開けたまま寝ちまってよぉ…はは…」
懸命に取り繕っているが、空元気なのは見え見えだった。
うわの空のままお茶の入った湯呑みに口をつけ、あっつ!と声をあげている様子は明らかに重症だった。
やっぱり自分がなんとかした方が良いのだろうか。
そういう方向にもって行くくらいならなんとかできないか。
(こう、軽いノリで、「ちょっとキスしてみない?」みたいな…軽すぎるかな)
もっとかしこまった方が良いのか。
混迷した思考の中、スーツ姿のおじさんが「本日はお日柄もよく絶好の接吻日和となり…」とスピーチするへんてこな想像が浮かんで消えていく。
二人して浮かない表情でいると、そこに「オアアー」という声が割り込んできた。
トコトコと近づいてきたタマが、物欲しそうな顔で主人を見上げている。
「コラ、まだ晩メシの時間には早えぞ」
「ンンー」
ご飯の要求を素気なく退けられると、まるで「じゃあ代わりになでろ」と言うように、金属バットの膝元にゴロンと転げている。
しかたねえな、と腹を撫でられているタマを見て、その毛並みがいつも以上にフワフワとしていることに気がついた。
「なんかタマ、すごいフワフワだね」
「ん?あー、外で泥だらけになっちまったから、昨日風呂いれたんだよ」
その時に引っかかれた、と見せられた腕には、うっすらひっかき傷がある。
「こいつさぁ、相手みてやってんだぜ。爪きりもゼンコがやると我慢すんのに、俺がやると噛んでくるし」
「そういえば私も引っかかれたことないや」
手を伸ばし柔らかい腹毛を撫でると、タマはナマエの手を素早く捕まえたが、爪は収納されたままで痛くない。
「だろ?お客さん相手だから猫被ってんだよ」
「ふふ、猫が猫被ってる」
そうしてタマを構っていると、不意にお互いの肩がぶつかった。
顔をあげると、金属バットもこちらを見ており視線がかち合った。
近い。
ドクンと心臓が大きく打った。
金属バットの方も口を引き結んで、緊張しているのが伝わってくる。
今ゼンコは出掛けていて家にいない。
(――あともう少し近づけば、)
ドクンともう一度心臓が鼓動する。
しかし、金属バットはおもむろに身を引いた。
「…お、お茶のお代わりいるか?たしか戸棚に煎餅あったからそれも、」
離れていく黒い目の中にあったのは、不安と諦めだった。
気がついた時にはその腕をとり、強く引き止めていた。
「ちょっ、おい…!」
突然のことで力の入っていなかった体が大きく傾いだ。
驚いたタマが、短く鳴いて逃げていく。
ぐっと顔を近づけ、目を閉じた。
押し付けた唇に、少しかさついた感触と、半開きの口からもれ出た熱い呼気がかかる。
ドラマでみたキスシーンを思い出しながら、こうやって顔を傾けたら本当に鼻はぶつからないんだ、と妙に冷静な頭で考える。
実際にはほんの数秒だったのだろうが、永遠にも思えるようなその時間が終わると、ナマエはずっと止めていた息をついた。
顔が燃えているように熱く、心拍数が上がりすぎて苦しい。
クラクラする視界の中で、金属バットは目を見開いて固まっている。
「え…おま…今、キス、」
動揺のあまり単語の羅列しか出てこない様子だが、ナマエも似たようなものだった。
「うん、キス、した…」
機械仕掛けのようにぎこちなくうなずき返すと、金属バットは暫くぼう然としていた後、突然叫びながら頭を抱えた。
「あー!俺かっこわりいいい…!」
ギョッとして目を丸くする。
顔を真っ赤にしている様を見るに、恥ずかしがっているみたいだが、どうも恥ずかしがるポイントが微妙に違う気がする。
だっせえ、マジかよ、とひたすら悶えている金属バットに戸惑いつつ声をかける。
「そんな…かっこ悪くなんてないよ」
「いやかっこわりーだろ!こういうのって普通男の方からだろ…ビビり倒した上にお前に先越されるとかよぉ…」
別に早いもの勝ちの勝負ではないと思うけれど。
どうやら金属バットなりにこだわりがあったらしいが、こっちだってなけなしの勇気を振り絞ったのに、そんなに嘆かなくてもいいじゃないか。
と拗ねたような気持ちになり、ナマエは口を尖らせた。
「…だって私もしたかったから」
転がり出た本音に、金属バットは呆けたような顔で動きを止めた。
「え……したかったって、キスを?」
「う、うん…」
「お…俺と?」
他に誰がいるというのか。
顔を見ていられなくなり、俯きがちに小さく頷く。
「…多分、バッドくんが思ってるよりもずっと…私はバッドくんのことが好きだよ」
そう言い切ってしまうと、しんとした沈黙が落ちた。
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
顔は熱くてたまらないのに指先は緊張で冷たい。私の体どうなってるんだろう、と回らない頭で考えた。
「お、俺も」
不意にかすれた声がして、顔をあげる。
「俺も、好きだぜ、お前が、めちゃくちゃ」
不思議な文法でぎこちなく応えた金属バットは、今まで見たことがないほど真っ赤な顔をしている。
多分自分の顔も負けないくらい赤い。
恥ずかしくて死にそうだった。
心臓がいくつあっても足りそうにない。
――それでも、彼と一緒なら。
こわごわ伸ばされた手が頬に触れる。
「だからよ、今のもっかいしようぜ」
彼と一緒なら、この上がりすぎた心拍数も、みっともないくらい赤くなった顔も、そんなに悪くないと思えてしまうのだ。
ナマエは静かに目蓋を閉じて、二度目のキスを受け入れた。