時の国の王女

 相変わらず、草原には淡い虹色の玉が飛びかっていた。この玉はいずれも虹の国の住人なのだが、この状態の彼らに話しかけても無駄であることは、ストラもよくわかっていた。このシャボン玉の姿は「話しかけないで」「放っておいて」のサインであり、ストラが草原を踏みしめて近づいていくと、どの玉もすいっとストラを避けてどこかへ行ってしまう。
 ああ、また退屈になってしまった。
 ストラが肩を落としていると、ふいにひとつのシャボン玉がこちらに近づいてきた。
「やあ、浮かない顔だな。片割れと喧嘩でもしたのか」
 その玉はストラの目の前までやってくると、一瞬にして褐色の肌をした男に変化へんげし、目尻にくっきりと皺をよせていたずらっぽく微笑んだ。
「パンチネロ!」
 ストラはちょっと嬉しくなって、男の足に抱きついた。パンチネロというのは彼の名前だ。といっても本当の名前は別にあるらしい。しかし、ストラにとってはそんなことどうでもよかった。彼が自分をパンチネロと名乗ったのだから、彼はパンチネロなのだ。
「ぼく、喧嘩はしてないよ。でも、アンジュと遊ぶのはつまらないからやめた。だから、とっても暇なんだ」
 するとパンチネロは愉快そうにケラケラと笑い、ストラのふっくらとした頰を撫でた。
その声は、、、、ストラだな。お前さんは遊ぶのが好きだなあ。まったくもって虹の国の住人らしくない」
「パンチネロは遊ぶの嫌いなの? ふわふわ浮かんでるだけじゃつまらないのに」
 するとパンチネロは少し考えてから、ストラを柔らかな草の上に座らせ、自身も足を投げだして腰をおろし、澄んだ青い空を見あげて目を細めた。
「いいや、嫌いなんじゃない。ただ、俺たちはもう、そういう刺激的な体験はしつくしてきているのさ。ここは本来、ストラのような好奇心のある子供がくるようなところじゃない。遊びはもちろん、あらゆる喜びや苦しみを経験した人間が、ゆっくり羽を休める場所なんだ」
 彼の話は難しすぎて、小さなストラにはよくわからなかった。パンチネロのほうも、ぽかんと口をあけたままこちらを見あげるストラを見てそれを察したのか、ひひひと妙な引き笑いをして彼を抱きよせた。
「悪い悪い、おちびさんには難しすぎたか。まあ、そんなに退屈しているのなら相手をしてやろう。俺はサーカスにいたから、他人ひとを楽しませることには自信があるんだ。さて、何をして遊ぶかな。ジャグリングでも見るか?」
 言うか早いか、彼はどこからともなくボウリングピンのような形をしたクラブを四つも召喚し、器用にそれらを投げあげはじめた。
「さて、どこまで増やそうか」
 彼がそうつぶやくと、いつの間にかクラブは五つになり、そこからストラがまばたきもしないうちに六つに増えた。ストラは歓声をあげて拍手した。娯楽など皆無に等しいこの虹の国において、彼のジャグリングはストラにとって最高級のエンターテイメントだった。
「あら、楽しそうね」
 もうひとつ、小さなシャボン玉がすーっとすべるようにこちらへ近づいてきた。
「ミラ!」
 その玉はストラたちの少し手前で止まると、すらりとした黒髪の女性に変わった。彼女は明るく子供好きで、頻繁にストラの話し相手にもなってくれる。しかし、彼女は大変な気分屋で、いっときは楽しく遊んでくれても、飽きて興味がなくなると、さっさとどこかへ行ってしまう。だから、ミラが自らストラに話しかけてくれるというのは、とても運のいいことなのだ。
「あら、その声は、、、、ストラね。珍しいわね、あなただけなんて。アンジュはどうしたの?」
「ずるして隠れるから、置いてきちゃった」
 ストラがことの次第を話すと、ミラは鼻息を荒くして口角をあげ、心底嬉しそうな面持ちで、ストラの背丈にあわせるように屈みこんだ。彼女の長い黒髪が揺れて肩からすべり落ち、ストラの鼻先を撫ぜる。日焼けした黄金色の肌に浮かぶ表情は、いつもどおりの勝ち気な笑顔だった。
「それじゃ、こうしない? あのね……」
 ところが、ミラの言葉はそこで切れてしまった。
「ミラ?」
 ストラが話しかけても、反応はなかった。彼女はそれ以上は何も喋らず、目を見ひらいたまま、ゆっくりと草の上に伏し、そのままぴくりとも動かなくなってしまった。
 突然のできごとに小さなストラは対応できず、とっさにパンチネロのほうを振りかえったが、こちらも同じだった。クラブは草の上に転がり、パンチネロ本人は足を組んで座ったままの格好で、後ろにひっくりかえっていた。
 声をかけても揺さぶっても、彼らの身体は固まったまま動かない。ストラはだんだん怖くなった。
「ストラー!」
 ふいに、上空から聞きなれた声がした。見あげると、そこにはまたひとつ、いつものシャボン玉があった。そのシャボン玉は彼の真上で金髪の少女に姿を変えると、勢いよくストラのすぐ隣に降ってきた。
「アンジュ!」
 突如現れた救いの神に、ストラは先刻の喧嘩のことなどすっかり忘れ、今にも泣きそうな顔でアンジュの腕にすがりついた。
「どうしよう。ミラとパンチネロが突然寝ちゃって、起きてくれないんだ」
 アンジュは特に驚きもせず、黙って倒れこんでいるふたりを一瞥すると、ため息をついた。
「ミラとパンチネロもなのね……じつは、わたしも同じことを伝えに来たのよ。みんな急に動かなくなっちゃったの。それも全員よ。ついさっきまで、『小さな姿』で浮かんでいたのに、一斉に人の姿になって寝転んでしまったの」
 ふたりは虹の国をあちこち巡ってみたが、ストラとアンジュのふたりを除いて、無事に動ける者はいなかった。いつもなら玉の姿で漂っているはずの住人が、誰もかれも人の姿のまま黙って草の上に横たわり、どんなに声をかけても指先ひとつ動かなかった。ごろごろと人間が転がっている異様な光景に、ストラは怖気づいた。
「どうしよう、みんなおかしくなっちゃった。どうしよう」
 わけもわからず半べそをかいて怯えるストラに、アンジュは困ったように言った。
「しかたないわ、女王様のところに行きましょう。女王様ならどうすればいいのか教えてくれるかも」
2/25ページ
いいね