第5話

 自室に戻ったあかりは、ふと、部屋の隅に四角い何かが置かれていることに気づいた。拾いあげてみると、それは折りたたまれたオセロゲームのボードだった。
 家にオセロゲームはない。これは、遠也の忘れものだ。
 あかりはとりあえず、このオセロゲームを棚の上へあげておいた。遠也がものを忘れるのはよくあることだった。彼は頻繁にいろんな私物をもってくるので、それだけ忘れて帰ることも多いのだ。
 どうせ数日もたたないうちに、彼はまたこの家へやってくる。
 きっと次に来訪したとき、彼はこのオセロゲームをすぐにみつけ、そして恥ずかしそうに笑いながらそそくさと回収していくのだろう。


 その夜、あかりがいつもどおりに就寝していると、ふと、ガタガタという妙な音が窓辺から聞こえた。はじめは風が窓を揺らしているのかと思ったが、音はだんだん大きくなり、明らかに不自然な物音になった。
 うるさくて眠れないので、あかりは目をあけて首を回し、寝ぼけまなこで窓を観察した。窓は小刻みに動いていた。明らかに自然現象ではない、なんらかの力で揺らされている。
 その奇妙な現象はしばらく続いたが、やがて音はぴたりとやんだ。あかりはほっとして、もう一度眠ろうとまぶたをとじた。
 そのときだった。
 バン! という大きな音が窓から鳴った。
 あかりは仰天してとびおきたが、音は鳴りやまない。外には何もみえないのに、バン! バン! という何かを叩く音と、窓が窓枠にぶつかってきしむ音だけが室内に響きわたっている。
 その動きはまるで、誰かが力まかせに窓を叩いているかのようだった。
「ひっ」
 恐ろしすぎて、まともに声をだすこともできない。あかりは恐怖に震えながら、無我夢中で部屋のドアをあけ、両親のいるリビングへと駆けおりていった。


「念のため近所の道路も全部チェックしたけど、誰もいなかったよ」
 父は玄関で靴を脱ぎながらそういった。
 あかりの訴えを聞いてすぐ、母は窓を、父は不審者の存在を疑って庭を確認しにいった。しかし、窓に異常はなく、庭を含めた家の外にも人影はみあたらないということだった。
「ねえ、すぐに通報しましょう。何かあってからじゃ遅いわ」
 母は顔面蒼白だった。あかりの母はいつも大げさで、とくにあかりの周囲で不審なことがあると、血相を変えてとりみだすのがお約束だった。
「でも、音だけだからなあ。今夜は様子をみて、明日警察に相談しよう」
「そんな悠長なこといって、この子に何かあったらどうするのよ」
「なんの証拠もないんだから、しかたないだろう。ほらこれ、武器になると思って、高枝切りバサミをもってきたんだ。これを玄関においておくから」
「でも、万一があったら」
 父と母は数分にわたって口論を続けていたが、論理的な父の意見に母は諦め、あかりの肩を抱きすくめた。
「あかり、今日はお母さんと寝ましょう。明日、近所の人にも聞いてみるわ」
 あかりはうなずいた。母と寝るのは正直嫌だったが、気味の悪い音をたてる部屋にひとりで戻る勇気もなかった。


 結局、朝になるまで家の中では何も起こらなかった。
 あかりはいつもと違う部屋で朝を迎え、不本意ではあったが、学校まで母親に付き添われて登校した。
「緑のおじさんとおばさんがいるし、ふたりだけで大丈夫ですよ?」
 なぜ母親がついてくるのか不思議そうなルリに、母は切々と昨夜のできごとを大げさに話して聞かせた。
「そういうわけで、今日は一緒にきたの。ルリちゃんも変な人には気をつけてね」
「それ、本当に人のしわざですか? ポルターガイスト現象かもしれませんよ」
「いいえ、絶対に不審者よ。世の中には想像もつかないほど恐ろしい人だっているんだから」
 はじめのうち、ルリは不審者の存在を頑なに認めなかったが、あかりの母があまりにもしつこく防犯の話をしてくるために、とうとう折れて、不服そうに話を打ち切った。
「わかりました。怪しい人がいたら気をつけます」
 こんなことなら、物音のことは両親に黙っておけばよかった。あかりはただただルリに申し訳なく、黙ってうつむくことしかできなかった。


「ルリ、ごめんね」
 昇降口でルリに声をかけると、ルリは「慣れてるよ」と首を振った。
「それより、音のほうが気になるかな。そういう事例は世界中にあって、原因はいろいろ考えられるんだけどね」
「ああ、気にしないで。多分、私が寝ぼけてたの」
 あかりはもう、昨晩のことは考えないことにした。
 不審者なんていないし、物音も気のせいだ。少なくとも、ここまでの大ごとにする必要はない。それよりも、今からはじまる授業のほうに集中したかった。


 教室に到着すると、遠也は自席でぼーっと窓の外を眺めていた。
「おはよう」
 後頭部に挨拶をすると、遠也は顔をゆっくりとこちらにむけた。
 なんだか、今日の彼は生気がない。動きも鈍いし、まるで人形のようだ。
「どうかしたの? 元気ないね」
 率直に突っこむと、彼は意外にもすんなりと応答した。
「うん。ちょっと眠くて……おはよう」
 たしかに、目元が普段よりもぼんやりしている。様子がおかしいのは眠気のせいだろう。
「寝不足?」
「たぶん」
「夜ふかしでもしたの?」
「いつもどおりに寝たよ。でも、なんか……うまく眠れなかったというか、夢見が悪かったというか」
「大丈夫?」
「うん、変な夢をみただけ」
 それだけいうと、彼は机に突っ伏してしまった。
「先生がくるまで、ちょっと寝るよ。ずっと寝てたら起こして」
 あかりはその言葉に従い、彼をそっとしておいた。そして、遠方の席で不安げに自分の鞄を漁っているルリのもとへいき、声をかけた。
「何してるの」
「筆箱を入れてきたはずなのに、どこかにいっちゃった」
 あかりはため息をついて、ルリの机のひきだしをあけた。そこには小さくて安っぽい、布製の筆箱が入っていた。
「いつものほうは、また家に忘れたんでしょ。だから先週、予備をこっちに入れといたのに、それももう忘れたの?」
「あ、そっか。こっちにも入れといたんだっけ!」
 ルリは無邪気に笑った。忘れものをしたことよりも、自分の文房具が存在していたことのほうが大きかったらしい。
 ここしばらく忘れものの話題が多いな、とあかりは思った。しかし、そんな些細なことはどうでもいい。あかりはルリに本題を振った。
「ねえルリ。遠也くん、うまく眠れてないんだって」
「へえ?」
 ルリは立ちあがって、机で睡眠をとっている遠也をじっくりと観察し、おかしそうに笑った。
「遠也が机で寝るなんて珍しいね」
「笑いごとじゃないよ、疲れてるのかも。変な夢をみたんだって」
「変な夢?」
 案の定、彼女は「夢」という言葉に反応した。あかりは声をひそめて続けた。
「遠也くんがちゃんと眠れるように、できることってある? ルリは夢に詳しいでしょ」
「そうはいってもなあ」
 ルリは特別驚くこともなく、すとんと椅子に座りなおした。
「いろんな原因があるし、簡単に解決できるものじゃないよ。直接遠也の夢を調べれば、手がかりくらいはつかめるかもしれないけど。でも、あたし今、夢空間の出入りは全面禁止されてるんだよね。よかったら、おばあちゃんに相談してみようか?」
「うん、できるなら」
 あかりは自室の物音よりも、今は遠也が気がかりだった。
 もちろん、不眠の原因は様々だし、医学的な解決方法もある。しかし、ここ最近の遠也は間違いなく元気そうだった。それだけに、一晩にして弱りはててしまった遠也の姿には違和感がある。
 話が「夢」に絡むなら、ルリの助けを得るのは間違いではないだろう。
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