タンザナイトの魔女

 ゲンは呆然と天を仰いだまま、口がきけなかった。
 自分は今、瑠璃奈の部屋にいたはずだ。それなのに、なぜ、眼前には広大なプラネタリウムのような景色が存在しているのだろう?
 周囲は星だけだ。何もない。当然のように人間はいない。
 足元に視線を落とすと、そこには小さな円形の地面があった。直径一メートルもない、白い板切れのような地面だった。念のため、足を少しだしてみたが、歩けそうな感触はない。つまり、ほかに地面として機能する場所はないということだ。
「マジかよ」
 ゲンは脳内の記憶という記憶をさぐり、この場で何をすべきか考えた。夢だの現実だのという厄介なものの境界線については、この際脇においておいた。とにかく、こんな気味の悪い場所からはすぐに脱出しなければならない。
「おい、誰か……『ノエル』、いないのか?」
 返事はない。
 辺りは静寂に包まれている。ゲンのなけなしの大声も、この空間のどこかに吸いとられてしまったらしい。
 ふと、手をみると、そこには腕輪が握られていた。ここにくる直前、うっかり掴んだまま、持ってきてしまったのだろう。心なしか、腕輪はさっきまでよりも青味を増し、少しばかりきらめいているように感じた。
 ──今の声は、君だね。日澤ひざわ源司げんじ。そうだろう?
 すぐ耳元で誰かの声がした。ゲンはばっと顔をあげ、すぐに周りを確認した。が、人影らしきものはひとつもなかった。
「おい、誰だ。どこにいるんだよ。変なことすんな!」
 怒りと困惑に任せて叫ぶと、相手は困ったような安堵したような、腹立たしい含み笑いの吐息とともに、返事をよこしてきた。
 ──ああ、返事が聞けて安心したよ。どれだけ話しかけても君に届かなくて、諦めていたんだ。僕は、君と一度会っているよ。ほら、ノエルと一緒にきてくれたときに……僕自身について何も教えていないから、記憶しておくのは難しいかもしれないけれどね。君がきてくれて助かったよ。いろいろあって、ノエルも僕も身動きがとれないんだ。こうやって君に直接話しかけるのは、今後は難しいだろうね。
 ゲンは言葉を発せなかった。この声、この声には聞き覚えがある。ノエルと会ったときに聞こえた声。一切素性を明かさないのに、やたらと何かを頼んできた声。
 しかし、相手が何者かなど、この際どうでもいい。ゲンはあらんかぎりの力で叫んだ。
「俺を帰してくれ! ここから動けないんだ。俺、これから、どうすればいいんだよ!?」
 相手はしばらく返事をしなかった。数秒後、淡々とした答えが返ってきた。
 ──「虹の国」へくる、、んだ。そうすれば、ノエルの居場所もきっとわかる。僕の声が届いているということは、君は今「魔女の力」を持っているということだ。それに従えば、どうにかなる。
「何が魔女だよ。俺、変な腕輪しか持ってないのに」
 ──それに違いない。ノエルがいっていた「魔女の腕輪」というやつだよ。それさえあれば……
 相手はそこで言葉を切り、突然慌てたように早口でまくし立てた。
 ──これ以上は話せない。悪いけどここまでだ。頑張って。
「おい、ちょっと待てよ。おいってば! 返事しろ!」
 ゲンは慌てて何度も相手に呼びかけた。しかし、何十回呼びかけても応答はなかった。


 あれから何時間たっただろう。
 ゲンは狭い地面に座りこんだまま、考えを巡らせていた。
 結局、あれ以来、例の声は一切の応答をしなかった。まともな説明もなく、身動きもできない場所に事実上閉じこめられ、動けない。最悪の状況だ。
 下には、果てのない宇宙のような空間が広がっている。星のような瞬きはあるが、それ以外は何もない。ここに足を踏みだす勇気はなかった。
「あ、いた!」
 いきなり背後から甲高い声が飛んできたので、ゲンは驚いて跳ねあがった。
 ふりかえると、白い服を着た小さな子供が嬉しそうにこちらをみていた……が、ゲンの顔を認識すると、たちまち困惑した表情になった。
「だれ?」
「こっちが知りてえよ」
 あからさまに嫌そうな顔をされたのには腹がたったが、多少は言葉の通じそうな存在が現れたことに、ゲンは安堵した。ひとまず、人間のいるところには帰れるかもしれない。
「おまえ、どうやってここにきたんだ?」
 しかし、子供は答えなかった。不気味に光るライトグリーンの目でじっとこちらをみたまま、怪訝な表情で何かを考えているようだった。そして、おもむろにこちらに背を向けると──ばさりと背中から翼を召喚し、その場から飛びたとうとした。
「うわっ!」
 ゲンは慌てて子供の翼を掴んだ。このままでは逃げられてしまう。子供は金切り声で叫んで抵抗したが、それどころではなかった。
「待てよ、暴れるなって。なんだよその羽! おまえ、飛べるんだな?」
 何を話しかけても、子供はずっと騒いでいた。とにかくゲンのもとを離れたくて仕方ないらしい。しかし、他に連絡手段もない以上、こちらも引きさがるわけにはいかない。
「俺、帰りたいんだよ。突然こんなところに連れてこられて、わけわかんなくてさ」
 子供は話を聞こうとしない。いつまでも大声で暴れている。それでも、ゲンは根気強く声をかけつづけた。というより、それ以外にできることなどなかった。
「それもこれも、ノエルっていう魔女のせいなんだ。とにかく、あいつに会えればどうにかなるんだよ」
 すると、子供の動きがぴたりと止まった。「魔女」という単語に反応したらしかった。
 特定の単語にだけ、子供を引きとめる力があるらしい。ゲンは脳内の記憶を総動員して、過去に聞いた単語を引っぱりだした。
「あと……なんだっけ、『虹の国』ってとこにこいっていわれてるんだ。わかるか?」
「にじのくに?」
 子供は抵抗をやめて、大きな翼を背中にしまい、ゲンにむきなおった。心あたりがあるようだった。
「『虹の国』って何なのか、わかるのか?」
「あのね、帰ったことあるよ」
 会話がいまひとつ成立していないが、今はそこに着目している場合ではない。ゲンはとにかく情報を得ようと、再度問いかけた。
「どこにあるんだ?」
「あっち。でも、もう帰らないよ」
 子供はとある方角を指さした。だが、そこには何もない。ただ、星空が広がっているだけである。
「どうやってそこにいくんだよ?」
 子供は不思議そうな顔をした。そして、何もない空間を、小さな裸足でペタペタと歩きはじめた。そして立ちどまり、真顔でこちらをじっとみた。
 子供の足もとには何もなく、まるで地面に浮いているかのようにみえた。
 ゲンが呆然と立ちつくしていると、子供はペタペタと帰ってきて、それから首を曲げて、ゲンが乗っている白い地面の一部分をみた。つられてそこに目をやると、真っ青な腕輪が落ちていた。子供を取り押さえる際、うっかり落としたのだろう。
「うわ。やべっ……」
 これをなくしたら瑠璃奈に何をいわれるかわからない。ゲンは慌てて腕輪を拾いあげ、とりあえず左手首にはめた。そうして目線をあげると、先ほどとは景色が変わっていることに気づいた。
「なんだこれ。道……?」
 ゲンのいる地面から、数本の白い道が伸びていた。かつてノエルに導かれたときよりも、どっしりとして道幅も広く、頑丈そうな道だった。
「嘘だろ、こんなのさっきまでなかったのに」
 ゲンは子供が指した方角の道を足で踏んでみた。きちんと踏みごたえがある。これなら移動にも問題ないだろう。しかし、なぜ突然このような道が出現したのかは、謎のままだった。
 あの子供なら事情がわかるだろう。そう思い、ゲンは背後の子供に声をかけようとした。
 ところが、子供はいなかった。声をかけても、応答はない。きっと、目を離した隙に、あの羽を利用してどこかへ飛んでいってしまったのだろう。
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