タンザナイトの魔女

 調子がでない。
 ゲンは校庭でひとり、歯ぎしりしていた。
 昼休みは主にサッカーに時間を費やすのが彼の常だったが、例の不眠のせいで何もかもがうまくいかず、イライラがつのるばかりだった。
「どうしたんだよ。ミスばっかじゃねえか」
 いらだっているのは周りの人間も同じだった。ゲンのせいで、さっきからボールを奪われてばかりなのだ。しかし、怒りの感情が強くなったところでコントロール力があがるはずもなく、力任せに蹴ったボールはあらぬ方向へと吹っ飛んでいった。
「あっ」
「ゲッ」
 その場にいたチームメイト達は全員苦い顔をした。ボールが飛びだしたからではない。そのボールが、校庭脇を歩いていた人間の頭部に直撃したのだ。相手は衝撃でバランスを崩し、砂利だらけの地面にすっ転んだ。ボールは勢いを失いつつ、てんてんと転がっていった。
 周囲の冷たい視線を感じつつ、ボールを追うと、転んでいた相手がゆっくりと起きあがった。眉間にしわをよせ、殺意に満ちた顔でこちらを睨みあげている。それをみた瞬間、ゲンは顔をしかめた。相手が、瑠璃奈を除いた同学年の中で、一番会いたくない人間だからだった。
 そそくさとボールをとって戻ろうとすると、低く冷たい声で相手がつぶやいた。
「ボールぶつけといて謝りもしないなんて、人としてどうなんだよ。やっぱり最低だな」
 ゲンは聞こえないふりをした。この人物──神崎かんざき遠也とおやと口をきくと、ろくな目にあわないのを知っているからだった。


 こうして彼は睡眠不足に悩まされ続けていたが、不思議なことに、それはあるとき突然治まった。それは幸運にも、春休みの初日の夜だった。あのやかましい声はさっぱり消え、余計な夢をみることもなく、久しぶりに夜じゅうぐっすりと眠ることができたのだ。
 自分は健康に問題を抱えていたのだ、とゲンは結論づけた。そして毎日の睡眠時間を二時間増やし、健康活動の名のもとに、運動の時間も少々増やした。これは家での勉強を回避するための策でもあったが、ありがたいことに、誰にも文句をつけられることはなかった。
 体調も生活ももとに戻り、ゲンはもう、過去にであった少女の存在などとうに忘れてしまっていた。瑠璃奈の家にいったことすらほとんど記憶から抜けおちており、それよりも新学期のクラス分けや、課せられた宿題や、休みのあいだ会えていない友人のことで頭がいっぱいだった。
 すべては終わった。そう、終わったはずだった。


 新学期は、何事も順調だった。あまりクラスメイトとも引き離されずにすんだし、担任は去年と同じだった。大きなトラブルもなく、ゲンは久しぶりに学校生活を満喫した。
 変わったことといえば、いとこの瑠璃奈とクラスが同じになったことだろう。もともと苗字も異なるため、定期的に同じクラスになることはあった。だからといって、こちらから話しかけることもないし、むこうも話しかけてはこない。そもそも、瑠璃奈のような奇人と関わる人間はきわめてまれだった。唯一、片町かたまちあかりという少女だけが、この組織の中で彼女の話し相手をしていた。片町は瑠璃奈ともゲンとも幼馴染で、ゲンとは疎遠になっているが、瑠璃奈とはふしぎと仲がよかった。


 さて、ゲンはもともと鍵っ子で、帰宅したときはひとりで自宅の鍵をあけるのが常だった。だから五月のこの日も、いつもどおりに玄関から無人の家へと入った。そして、自室へいこうと洗面所の前まできたときだった。
「やっとみつけたわ」
 小さな声がした。小さく発声した声ではない。録音した大きな声の音量さげて再生したかのような、不気味な小ささの声だった。だから、はじめのうち、ゲンはこの声のでどころを機械だと考え、きょろきょろと洗面所の中をみまわした。しかし、それらしき音声機器はどこにもなかった。だが、不意に洗面台に近づいてみると、声はクリアに、はっきりと聞こえた。声は洗面台の、鏡の中から聞こえているようだった。
「あの力、あんたとは関係なさそうね。ここでは何も感じないもの……ずいぶん探したのよ。まともに応答してくれたのは、あんたくらいのものだもの……魔女の力を受信して、なおかつあたしの力を弾かない人間というのは、なかなかいないものなのよ……」
 声の主は疲れているようだった。しかし、その声色と独特の話しかたには覚えがある。ゲンはぞっとして鏡から距離をとった。そんなはずはない。あれは「なかったこと」なのだ。存在を認めず、記憶から切り捨てたできごとなのだ。ありえない。
 ゲンは懸命に音声機器を探した。もう、幻聴だの夢だのといった非現実的なものに振り回されるのはまっぴらだ。どうか何かの間違いであってほしい。
「そっちからはあたしがみえていないのね……無理もないわ……もう力が限界だもの……時間が惜しいから単刀直入にいうわ。今……とても厄介なことになっているの……」
 そんな彼の思いとは裏腹に、聞き覚えのある声はなおも話しつづけていた。相変わらず、どこか覇気のない声色だった。
「女王にあたしたちの計画がばれたわ……あたしは特別に逃がしてもらえたけど……女王に目をつけられたから、もう何もできない……」
 ここで相手に返事をすれば、ゲンはそれらの存在を「認めた」ことになる。ようやく返ってきた日常の平穏を手放すことになる。今聞こえている声だって、何かの音を勘違いしただけの空耳かもしれない。
「だから……もう一度あんたに協力を依頼するわ。こちら側、、、、にきて……いい、あたしとあんたがはじめに会った場所……あそこには強力な魔力が渦巻いてる。魔女か、それに準ずる人間がいるはずよ……だから、『杖』か『腕輪』を探してみて。夢空間、、、へ入れる魔女なら持っているはずなのよ……それがあれば…… こちら側、、、、にこられるはず……今、は……ほかに……誰も頼れ、ないの……」
 声はだんだん、電波が悪い通話のように途切れはじめた。そして、最後はガリガリというノイズだけになり、ぷつっと消えてしまった。どれだけ洗面台を叩いても、もうなんの音もしなかった。
 ゲンはずるずると洗面所にへたりこみ、必死に自分にいいきかせた。これはただの空耳だ。気にする必要はない。疲れているか、そうでなければ病気だ。病院にいく必要はあっても、話の内容を記憶する必要はない。
 けれども、脳はきちんと鏡の声の話を聞いていたようで、彼の記憶には鏡の声も話の内容も、嫌というほど鮮明にこびりついていた。
 計画がばれたって? 協力を依頼するって? なんの計画が? なんの協力を?
 それからは、どうやって一日を過ごしていたか覚えていない。気づけば夜になっていて、たいして運動もしていないのに疲れはて、気絶するように眠って、翌朝を迎えていた。


 ──「杖」か「腕輪」を探してみて。


 記憶に残っている言葉の中でも、この部分がもっとも謎だった。
 杖とはなんだろう。腕輪とはどういう形状のものを指すのだろう。それがみつかったとして、どうなるというのだろう。そんなアバウトな指示では、行動のしようがない。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ。学校行ける?」
 朝起きて自室をでると、母は開口一番そういった。不眠の一件があってから、母はゲンの体調に敏感になっていた。
「別に普通。大丈夫」
 そう、大丈夫だ。
 おかしいのは、こんな話をいつまでも気にしている自分なのだ。忘れさえすれば、すべてが元通りになるのに。


 ──あたしとあんたがはじめに会った場所……


 学校にいても、あの声が頭から離れなかった。
 早く忘れて、授業に集中しなければ。
 そう思っているはずなのに、なぜか、気になってしかたなかった。
 従姉妹の家でみた夢、そのあと長期間続いた悪夢、そして今回の「声」。本当にすべて偶然だろうか。本当に、「なかったこと」なのだろうか。
 そうだ、確かめてみよう。
 確かめてみて、証明しよう。すべては単なる偶然なのだと。そしてすっきりして、またもとの日常に戻ろう。決してあの言葉を信じるわけじゃない。ただ、確かめるだけだ。
 放課後、ゲンはすぐさま席を立ち、クラスメイトたちの誘いをすべて断り、「はじめに会った場所」──望月瑠璃奈の家へ、足早にむかった。
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