タンザナイトの魔女

「なんだよ、あれ」
 引きかえす道すがら、ゲンはようやく、それだけをいった。あれからというもの、寒気がとまらず、全身が鉛のように重い。
「なんでしょうね」
 返ってきたのは、拍子抜けするほどそっけない反応だった。別に、それが何であれ構わないとでもいわんばかりの口調である。彼女はそのまま、ゲンの存在を忘れたかのように、ひとりでぺらぺらと喋りだした。
「ああいうタイプは珍しいわね。あの手合いは普通、うめいたり嘆いたりするのが関の山のはずだけれど。あんな暴力魔は初めてだわ」
 ノエルはゲンの質問には答えず、勝手にひとりで何かを分析していた。そこに怯えや動揺は一切感じられない。どうやら、彼女にとってあの黒い影は、せいぜい道端の雑草程度の価値しかないらしい。
「おまえさ、何かほかにいうことあるだろ」
 たまりかねたゲンは、手をのばしてノエルをつかんだ。
「俺、死ぬとこだったぞ。どういうつもりだよ!」
「うるさいわね」
 ノエルはふりかえることもせず、めんどくさそうにゲンの手をはらった。
「あんた、もういいわ。なんの役にも立たないみたいだし」
 その言葉と同時に、ノエルは握っていた杖をゲンにふりむけた。
「悪いけれど、あたし、もう降りる。あの子、、、のために頑張るつもりだったけど、やっぱり人間なんて嫌いだわ」
 その瞬間だった。
 大音量の謎のノイズが聞こえ、全身に電流のような衝撃が走った。ついで、やけどのような熱さと、凍えるような寒さが背筋を走り、視界は真っ白な霧で覆われた。
「やだ、どうして!?」
 どこからか、ノエルの叫び声が聞こえた。なぜか、さっきまでよりもずっと遠い。
「バレたの? どうして! だってエイイチ、、、、、あなたはたしかに」
 ノエルの声はそこでプツンと途切れた。かわりに、ささやくような小声が、何重もの音色で、歌うようにつぶやいた。
「魔女でない子供がいる。従者でない子供がいる。生きている子供がいる……」
 それは子守唄のように優しく、人間味を感じない恐ろしい声だった。その言葉たちに誘われるように、ゲンの意識は眠りにおちた。


 ふっと目がさめると、そこは柔らかい敷布団の上だった。そこは望月家の、はじめに案内された自分用の部屋だった。
 日はとうに傾き、夕方もいよいよ終わりにさしかかる頃だった。ゲンは目をしばたかせながら、廊下に漏れる明かりを頼りに、壁に手をついて居間へと移動した。
「あっ、やっと起きた!」
 瑠璃奈は帰宅していた。居間で絵本を広げていた彼女は勢いよくそれをとじ、いつもの怒り顔できいきいとわめきはじめた。
「あたしの部屋に誰を呼びこんだの? 勝手に人の部屋に入って、しかも中を荒らすなんて信じられない」
 聞くところによると、ゲンは瑠璃奈の部屋で眠っていたらしい。それを帰宅した瑠璃奈が発見し、彼女の通報を受けた父親が、ゲンを部屋に運んで布団に寝かせたとのことだった。
「あたしの部屋に、変な『力』が残ってたよ。あたしのとは全然違う」
 その後も彼女はなにごとかを説明していたが、ゲンにはなにがなんだかさっぱりわからなかった。
「ゲン、鏡を使ったでしょ。あのね、鏡をああいう風に使っちゃだめなんだよ。あたしでも、勝手にやらないように注意されてるのに。でも、どうやって鏡をひらいた、、、、の? あたしだって、簡単にはできないのに。おばあちゃんに譲ってもらった杖を使えばすぐにできるけど、杖がないときは特別な道具を用意して、すっごくややこしいやり方をしないと、できないはずなんだよ。でも、普通の人はそういうことを知らないはずだって、おばあちゃんはいってた。いったい、どうやったの?」
 ただでさえ寝ぼけ頭の上に、こうも甲高い大声で支離滅裂な理屈をこねられては、いい加減に神経がおかしくなりそうだ。不運にも、肝心の瑠璃奈の父は買い物にでかけており、この家で意思疎通ができるのは、このやかましい少女だけだった。
「うるさいから黙れ」
 今のゲンには、それだけいうのが精一杯だった。なぜか全身が地面に吸いつけられているかのように重だるく、頭もふらふらとして、とてつもなく調子が悪い。妙な時間に昼寝をしたからかもしれない。
 たしかにゲンは瑠璃奈の部屋に入った。彼女の父がそこでゲンを発見しているのだから間違いないだろう。でも、その先を説明できる人間はいない。
 もしも、鏡から少女がでてきて不思議な空間に迷いこんだ記憶が本当だとして、誰がそれを証明できるだろう? だったら、それらすべてを「夢」だということにしたほうが、話が早い。きっと、疲れてうっかり瑠璃奈の部屋に迷いこみ、その場で眠ってしまったのだ。そういうことにしたほうが、簡単に説明がつく。
「俺は何もしてない。疲れてたんだよ。ほっとけ」
「嘘。絶対何かあったでしょ!」
 その後も瑠璃奈は何事か騒いでいたが、ゲンはあえてすべてを無視し、自分用の部屋へと帰った。
 途中、何度もノエルの顔や黒い影の記憶が頭をかすめたが、その度にゲンは首をふってすべてを吹き飛ばした。
 考えてはいけない。あんな記憶を認めてはいけない。あんなことは常識的にありえない。
 もし、「あれ」を認めたら、自分はあの愚かな瑠璃奈と同類の存在に成りさがってしまう。
 ──あれは空想だ。気のせいだ。それか、『夢』に違いない。
 それが、ゲンがくだした結論だった。だから、夕食の最中も、寝るまでの間も、「あのこと」については一切話題にださないようにした。


 そう、あれは、「なかったこと」なのだ。


 翌日の早朝、ゲンはハッと目をさました。
 眼前にあったのは、古びた和室の壁紙と、黄ばんだ畳の景色だった。自宅ではない。おもむろに首を傾けると、五時をさしたアナログ時計と目があった。これも、見覚えのないものだった。
 ゲンはぼんやりと記憶をたどり、ようやく自分が従姉妹宅にいることを思いおこすと、よろよろと上半身を起こした。身体は眠気を訴えていたが、どうしても二度寝をしようとは思えなかった。
 「夢」だったのだろうか?
 ずっと、誰かに呼ばれていたような気がする。
 どういうわけか、「誰か」に名前を呼ばれていた記憶だけが脳裏にこびりついていた。朦朧とする意識の中で、長い時間やかましく誰かが叫んでいたのだ。
 おかげで、なんだか頭痛がするし、妙に気分が悪い。昨日妙な白昼夢をみたせいで、脳が混乱してヘンテコな夢をみてしまったのだろうか。
 最悪だ。
 ゲンは重い身体を引きずり、いつでもこの家をでられるよう、とっとと帰り支度をすませた。やっぱりこの家は苦手だ。朝食が終わったら、うまいこと言い訳をして自宅へ帰ろう。


 ところが、悪夢はその日だけで終わらなかった。おぞましい声は毎晩、ゲンが眠るたびに現れ、翌朝になると頭痛をもたらした。当然ながらぐっすり眠れるはずもなく、日を追うごとに体調は悪化した。
「嫌だわ、この歳で不眠症だなんて。何か悩みでもあるの?」
 ゲンの母は心配して、彼を小児科から睡眠外来、はては心療内科にまで連れていったが、解決には至らなかった。もちろん、ゲンにはこれといった悩みもないし、睡眠に支障がでるほどのストレスにも心あたりはなかった。
「そういうことなら、年末の旅行はやめにしよう。冬休みは家で過ごしたほうがよさそうだ。まあ、たまにはこんな正月もいいじゃないか」
「無責任なこといわないで。源司は成長期なのよ」
 父は楽観的だったが、母にはそれが癪に障るらしかった。当のゲンはというと、家族旅行が消えてしまったショックで打ちひしがれており、両親の会話などほとんど耳に入らなかった。
「こんなことなら、やっぱり望月さんのところなんていかせなきゃよかったわね」
 母は深いため息をつき、愚痴をこぼした。
「肝心の姉さんはいないし、瑠璃奈ちゃんはあんな子だし。望月さんはいい人だけど、やっぱりあのお家は気持ち悪いわ。次からは預け先を変えましょう」
 こうして、ゲンは瑠璃奈とは連絡をとらないまま、冬休みを終えることとなった。
 肝心の不眠症はまだ続いていた。
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