タンザナイトの魔女

「あたし、今ちょっと頼まれごとをしているのよ。でも、あたしは『夢空間』から、でたくないの。というわけで、この場所での任務はあんたに頼むことにするわ」
「何の話だよ。さっきから勝手なことばかりいいやがって。早くどっかいけよ。警察呼ぶぞ」
 すると、ノエルは心底呆れたような、害虫でもみるかのような目でこちらを見、ため息をついた。
「あんたって、あたしが一番嫌いなタイプの人間だわ。決められた範囲の、決められたルールでしか動けない、頭の固い馬鹿。かつて、あたしを迫害した連中と同じ。最悪だわ。ああ、本当に情けない。こんな奴に、協力を頼むはめになるなんて!」
 これには、さすがのゲンも、頭に血がのぼった。この女は、さっきから一方的にこちらを罵ってばかりである。しかも、その罵倒の内容はずっと意味不明だ。こんな奴にまともな対応をしても仕方がない。瑠璃奈の父に報告して、とっとと通報してもらおう。ゲンは口論をやめ、部屋の外にでようとした。ところが、ノエルはそんなゲンの動きに気づいたようだった。
「駄目よ、いかせないわ」
 ノエルは、ぴっと人差し指を横にふった。その瞬間、部屋の戸口に何本もの鎖が生え、ゲンの行く手をはばんでしまった。
「実際にあんたを必要としてるのは、あたしじゃないの。直接紹介するわ。ついてきて」
 そういって彼女は杖をゲンにむけた。その瞬間、ゲンの身体は磁石のように杖へと吸いよせられた。
「なんだよこれ!」
 ゲンは抵抗したが、ノエルは聞く耳を持たなかった。彼女はそのまま鏡の中へと入りこみ、ゲンもまた鏡の世界に引きずりこまれた。



 鏡の中は宇宙のようだった。どこまでも続く明るい紫の空に無数の銀の星が散りばめられ、さっきから呼応するようにチイチイと光っている。音はなく、不気味なまでの静寂がふたりを包んでいた。ゲンは驚きと恐ろしさで口がきけなかった。
「さあ、協力者を連れてきたわ。残念ながら、ろくでもないやつだけれど。とにかく、これで約束をひとつ果たしたわよ。ねえ、そこにいるんでしょうね? 聞こえたら返事をして」
 ノエルは紫の星空をみあげ、あてもなく話しかけた。すると、どこからともなく声が返ってきた。
 ──ありがとう。誰かがいるのは感じるよ。けど、ここからじゃみえない。声を聞かせてくれないかな?
 突然、耳もとで誰かの声がした。ゲンはぎょっとしてあたりをみた。しかし、星空の中に人影はなかった。
「無駄よ。ここにはいない。彼は動けないの」
 ゲンの心を読んだのか、ノエルが冷ややかにいいはなった。
「あたしが動かせるのは彼の『音』だけ。だから声しか聞こえないの。当然、彼にもあたしたちの声しか届いていないはずよ」
 電話みたいなものか、とゲンはぼんやりとした意識の中で思った。もう、何が起きているのか尋ねる気力もなかった。
「俺に、どうしろっていうんだよ」
 ノエルは答えなかった。かわりに、さっきの声が答えた。
 ──君のこと、教えてよ。彼女の読みが正しければ、君はかつて僕がいた場所の近くの人のはずだ。
「どういう意味だよ。そもそも、おまえ誰だよ」
 ゲンは首をぐるぐる回しながら応対した。誰もいないのに、誰かがすぐ隣でささやいているようで、気味が悪い。
 ──名前は教えられない。教えるとルール違反になって、罰を受けてしまうから。罰を受けると、僕はもう誰とも喋ることができなくなる。すべてが終わるまでは、罰せられるわけにはいかないんだ。
 彼の説明は難解かつ抽象的で、何をいっているのかさっぱりわからなかった。しかし、具体的な説明を求めても、相手はため息をつくばかりだった。
 ──できることなら、僕だってそうしたい。だけど、それはとても危険なことなんだ。今、こうやって君と話しているのも、本当なら許されないことなのさ。ノエルの力を借りて、ばれないようにやっているだけで……いや、本当はばれているのかもしれないけどね。とにかく、核心に触れる話だけはできないんだ。許してほしい。
 許しを請われたところで、事情がわからなければ対処のしようがない。わけのわからない場所に、わけのわからない少女、そして、わけのわからない声。ゲンはもう、我慢の限界だった。
「なんなんだよ。俺をもといたところへ帰せよ!」
 ──怒らないで聞いてくれ。君に頼みたいことがある。とにかく、ノエルの案内に従ってくれ。無茶なお願いをしてるのはわかってるさ。だけど、君の助けを借りるほかに方法がないんだ。
 切羽詰まった声色でそう諭され、ゲンはおとなしく口をつぐんだ。なんだかわからないが、相手はゲンを帰す気などさらさらないようだ。
「わかったよ。いうことを聞けばいいんだろ。早く命令でもなんでもしろよ」
 ──よかった。
 謎の声は心底嬉しそうに息をつき、謝礼の言葉とともに、次のような質問をした。
 ──君の名前を教えてよ。ちゃんと覚えておきたいからさ。
 ゲンはぶっきらぼうに自分のフルネームを教えた。名前も姿もあらわさない人間に一方的に本名を教えるのは、なんだかしゃくだった。しかし、自力でもといた場所に帰れない以上は、相手の言葉を無視するわけにもいかなかった。
 ──源司、ノエルの案内にしたがって、「ある人」のところへいってほしい。その人は長い間、問題を抱えている。とにかく、彼を助けてくれ。僕からいえることは、それだけだ。
 こうしてゲンは、帰るどころかノエルの導きで、星空の中を奥へ奥へと進んでいくことになった。
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