導きの夢

 あかりは子供を抱えたまま、あてもなく白い床を歩きはじめた。上空は黒みのかかった深い青をしていて、空というにはあまりにも不気味な表情を讃えていた。だが、あかりは手っ取り早く脱出口をみつけたかったので、そんな気味の悪い光景も気にせず、サクサク前方へと進んでいた。一方、神崎のほうはやる気のない、のろい足どりだった。
 一分ほど歩を進めた頃、突如、あかりの頭に何か、柔らかいものがぶつかった。驚いたあかりが頭のそばに手をやると、そこにはなんともいえない、ゼリーのような感覚があった。よく調べてみると、あかりの目の前の空間はすべて、弾力のあるドーム状の壁に阻まれていた。みれば、神崎も同じ現象に気づいたようで、ペタペタとあちこちを触って調査をしていた。
「だめだ。どこへいっても壁になってる。閉じこめられてるよ」
 それが、神崎のだした結論だった。なるほど、あかりが空だと思っていた青色は天井であり、壁だったのだ。まるい天井はテントのようにすっぽりと三人を覆っていて、どうやっても外にでられない構造になっているのだ。
「そんな、どうしよう」
 それまで左手だけで壁に触れていたあかりは、右腕に抱えていた子供をおろした。ここがどこかもわからないのに、一方的に閉じこめられるなんて、冗談じゃない。本当に、この壁に抜け道はないのだろうか? 両手できちんと調べてみる必要がある。あかりは右手と左手で、同時に「壁」を押してみた。
 すると、左手はなんともないのに、右手だけが、まるで壁など存在しないとでもいいたげにするりと「壁」を貫通し、そのままズブズブと全身を引っ張りはじめた。思わず悲鳴をあげると、それを聞きつけた神崎が走ってきて、「壁」に飲みこまれているあかりをみて、わあっと叫んだ。
「何これ。どうなってんの!?」
「わからない。止まらないの!」
 神崎は、慌ててあかりの左腕をつかんだ。しかし、右手の引力はとどまるところを知らず、とんでもない勢いで、ふたりまとめて「壁」の奥へと引っぱりこんでしまった。
 「壁」の中には何もなかった。青、青、青──同じ色の「何か」が眼前に広がり、生ぬるいジェル状の液体の中を漂うような、奇妙な感覚が全身の肌を覆った。神崎の姿はみえない。ただ、左手を誰かが強く握りしめている感触が伝わってくるばかりである。
 そうした世界に、どれくらい浸っていただろうか。
 突然、視界に明るい光が差しこんだ。あまりの眩しさに、あかりは目を強くとじて歯を食いしばった。
 数秒後、あかりは熱をもった硬い地面に叩きつけられた。その地面は妙にとげとげしていて、じんわりと熱をもっていた。
 両手で光から目を守りながら、薄目をあけて下をみると、そこにあったのはアスファルトの地面だった。アスファルトはかなり古いもののようで、表面は削れており、中の石が飛びだしている。少し視線をずらすと、神崎がうつぶせに倒れているのがみえた。
 どうやらそこは、山の中のようだった。いつのまにか、どこかの舗装された山道の上にふたりは移動していたらしい。道は車二台がかろうじてすれ違えるくらいの広さで、片側には石造りの法面、反対側にはガードレールと大量の木があった。よくみると、法面の上には小さな家があった。人が住んでいるのだろうか。そう思ったちょうどそのとき、
「まあ、まあ! なんの騒ぎ?」
 ひとりの女性がすっとんきょうな声をあげて、建物から飛びだしてきた。ロングスカートをはいた、初老と中年の間くらいの上品な見た目の老女だった。彼女はふたりをみると、さっと顔色を変えて法面の中に設けられた階段を転がるようにかけおりてきた。
「なんて格好をしているの。早くいらっしゃい」
 老女に腕をつかまれ、ふたりは何がなんだかわからないまま、小屋ような家の中に連れこまれてしまった。
 家の内装はきわめて独特だった。机には何かの原石らしき宝石の岩が置かれ、壁には大きな象形文字と図形が描かれたポスターが貼られ、床には机には星座表のような地図のようなヘンテコな図形を描いた紙や本が積まれていた。さらに、天井には明らかに家のサイズにみあっていない特大のシャンデリアが吊りさげられ、棚には様々な言語の本がぎっしりと詰まっている。
「妙な感覚がしたから、まさかとは思ったのよ。てっきりあの子、、、かと思ったんだけれど……どうしたらこんなことになるのかしら。こんなの、はじめてだわ……こんなことなら、は私が持っておけばよかった……本当にどうして……」
 老女はぶつぶつとつぶやきながら、せわしなく部屋の中を歩きまわっていた。こちらに語りかけているのか、それとも単なるひとりごとなのかはわからなかった。やがて、彼女は本棚から古びた書物とメモ書きのような紙を大量にとりだし、まっすぐに神崎の前へといった。あかりはそれにつられて神崎へと目をむけ、ヒッと息をのんだ。
 背中側からだと気づかなかったが、彼の身体の前側──具体的には、胸から太ももまでの部分が、ぼんやりと真っ黒に染まっていた。黒い絵の具で塗ったような黒さではない。すべてがただ「黒い」。いくら日光があたろうとも色が変わらず、皮膚や服の質感も感じられない。まるで、身体のまんなかに穴が空いているかのようだった。
「本当に、以前からおかしな流れは感じていたのよ。気をつけてはいたのだけれど、まさかこんな事態になるなんて」
 彼女はなおも、なにごとか口走りながら、ものすごい勢いで本のページをめくっていた。あかりはただ、呆然とその様を眺めることしかできなかった。訊きたいことは山ほどあったが、老女のあまりの剣幕に気圧され、その場から動くことすらできなかった。
 老女はしばらくの間、必死の形相で象形文字で書かれた本を調べつづけていたが、とうとう「だめだわ」とこぼし、諦めた様子で座りこんでしまった。
「あなた、自分自身をどこかに置いてきたでしょう。明らかに『足りない』もの。足りない部分は、私ではどうにもできない」
 彼女の言葉が何を指しているのか、あかりにはわからなかった。神崎のほうも同じだったようで、困りはてた表情のまま、自分の身体と老女の顔とを交互にみつめるばかりだった。
 すると、老女は我に返ったのか、今度はあかりの顔へと視線をむけた。
「あなたたち、どこからきたの。なぜ、こんなことになっているの?」
「えっ。あ、えっと」
 突然みつめられ、あかりは驚いて身をすくませ、反射的に両手を胸元へと持っていった。すると重力で袖がすべり落ち、右手首にはめていた腕輪がむきだしになった。そう、あかりは腕輪を右手、、つけていたのだ。
「それ……」
 腕輪を目にするやいなや、老女は血相を変えて立ちあがり、床に置いてあった箱や本の山につまづきながら、こちらに走りよってきた。
「どうしてそんなものを!? あれはまだ、誰にも」
 老女があかりの腕輪へと手を伸ばしたその瞬間、老女の姿が二重になった。続いて、うしろの部屋の風景がガタガタとぶれて、壊れたモニターの景色のようにカラフルな縦線に覆われた。
 そして、すべての「動き」がストップした。老女の姿は一時停止した動画のようにピタリと動くのをやめ、それまで聞こえていた風音や鳥の声すらも消えてしまった。そのまま、老女の姿は背景ごと真っ黒に染まり、ただの暗闇へと変貌してしまった。
 次の瞬間、あかりと神崎はふたたび、あの何もない空間へと戻っていた。しかし、空の色は濃い青ではなく、いつかみた、薄紫の星空だった。
 あかりは口がきけなかった。おかしい。自分たちはたしかに、普通の世界、、、、、にいたはずなのに。きちんと、まともな現実に帰ったはずだったのに。どうして、自分たちはまた、よくわからない空間に戻されているのだろう?
「あなたたち、聞こえる?」
 突如、金色の光球が出現し、焦燥を帯びた声がそこから発せられた。先ほどの老女の声だった。絶望の中に現れたかすかな希望に、あかりは飛びつくようにして叫んだ。
「聞こえます。ここはどこなんですか!?」
「今は、説明している時間がないわ」
 間髪入れずに、老女からの返事があった。こちらの声は聞こえているらしい。
「簡潔にまとめるわね。あなたたちが今いるのは、とても危険な場所。そして、男の子のほうはかなりの重症よ。これから、あなたたちがすべきことを教えるからよく聞いて。やり方を間違えると、永久に帰れなくなるから、慎重にね」
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