導きの夢

「お、起きてるの?」
 おそるおそる話しかけると、子供は真顔のまま首を右にねじり、左にねじり、それからもう一度あかりにむきなおると、よろよろと立ちあがろうとした。しかし、両方の足先が裂けているために、うまく立てないのか、べしゃりと前方にこけてしまった。それでも子供はうめき声ひとつあげなかった。
「大丈夫!?」
 あかりは慌てて子供にかけよった。意識があるのならば、とりあえずは問題ないだろう。
「その怪我はどうしたの。何があったの?」
 ところが、子供は答えなかった。無言のまま、ただ、怯えた目であかりをみあげるばかりだった。
「ここ、電話とかなさそうなの。私、どうしたらいい?」
 助け起こそうと手をだすと、子供はひっと息をのんで、倒れ伏したまま、ほふく前進で逃げようとした。腕をつかもうとすると、手を払いのけられた。とにかく彼は、あかりに近よられたくないようだった。あかりは途方にくれてしまった。助けようにも、こんな風に拒まれていては、何もすることができない。その間も、子供は喋らず、ただ荒い呼吸をくりかえすばかりだった。
「だめ」
 しばらくすると、ノイズのような息の音にまじって、か細い声が聞こえた。
「みちゃだめ。ぼく、ここにいない。いないのに、いちゃだめ。ぼく、消えなきゃ。早く消えなきゃ」
 そのとき、一瞬だけ、地面が大きく揺れた。それは地震というより、衝撃波に近いものだった。その衝撃波が収まった瞬間、ギャアッという子供の声が聞こえた。それは悲鳴ですらなく、強制的に喉を押しつぶされたかのような「音」だった。その音と同時に、子供の背中からは紫の液体が噴きだし、汚れた洋服の生地に濃い染みをつくった。
 あまりのことに、あかりは口がきけなかった。身体も動かず、ただ両足が小刻みに震えるばかりだった。
 やがて、どこからともなく黒いもやが湧いてきて、大きな手の形になった。そして、ぐったりとして動かない子供を抱えあげ、天高く持ちあげたかと思うと、ボール遊びでもするかのように地面に叩きつけた。子供は鈍い音とともに勢いよく落下し、床には紫の液体が飛びちった。にもかかわらず、黒い手は落ちた子供を拾いあげ、そのまま何度も子供を床に打ちつけつづけた。投げつけられるたびに子供は小さくうめき声をあげ、痛みに耐えるかのように指先を小刻みに動かした。
 とうとう、子供が力つきて声を発さなくなると、黒い手はいくつかに分裂し、それぞれが小さなナイフの形になった。そして子供をとりかこみ、よってたかってその身体にやいばを突きたてた。子供はもう、息すらしておらず、黙って地面にひっくりかえったまま、全身から紫の血を流しつづけていた。さらに、ナイフたちは子供からを抜くと、今度はいくつもの黒い拳銃に姿を変え、一斉に子供へと銃口をむけた。
「やめて、やめてよ!」
 みるにたえない凄惨な光景に、あかりは思わず子供の前にでて、かばうように両手を広げた。飛びだしてからすぐ「撃たれるかもしれない」という恐怖に襲われたが、時すでに遅しだった。
 すると、あかりの存在に気づいた黒い拳銃たちは一斉にぴたりと動きを止め、ふたたび、ひとつの大きな霧の塊に戻った。そして、そのままするすると縮小し、あかりと同じくらいの人型になった。人型の霧は、しばらくその場に立ちつくしていたが、やがて、当惑するかのように揺らめいたあと、すうっと煙のように消えてしまった。
 あかりはほっとして、後ろをふりかえった。ところが、そこに子供の姿はなく、散らばっていた羽一枚すらもみあたらなかった。
 何もない空間で呆然と立ちつくすあかりの耳に、ジリリリという妙な音が飛びこんできた。それは、聞きなじみのあるめざまし時計のアラームだった。
 気づくと、そこにはいつもの天井と、見慣れた照明器具があった。
 春の日の朝、あかりはいつもどおり、自室のベッドに横たわっていた。枕もとでは、七時を指した時計がうるさくわめいていた。昨晩、いつもの癖でうっかりアラーム設定をしてしまっていたらしい。
「よかった」
 あかりは生まれてはじめて、この時計のやかましさに感謝の念を覚えた。あんな不気味な夢の世界にこれ以上いたら、頭がおかしくなってしまう。それにしても、なんという恐ろしい夢だったのだろう。


 その日の午前中、あかりはなぜかあくびが止まらず、昼食後にうたた寝をしてしまった。あんな夢をみていたせいか、昨晩は寝つきが悪かったらしい。だから、今晩は早めにベッドに入ることにした。
「あ」
 布団をかぶってさっさと消灯しようとしたそのとき、ふと枕をみると、そこにはあの「腕輪」があった。そういえば、昨日母から受けとったあと、枕元に置きっぱなしにしてしまっていた。あかりはその腕輪を二本の指でつまむと、なくさないよう、机のひきだしにしまった。
 その夜、あかりはなんの夢もみなかった。その次も、さらに次の夜も、夢に子供がでてくることはなかった。やがて誕生日が巡ってきたが、ルリから奇妙な柄のバースデーカードが届いたくらいで、たいして変わったことは起きなかった。
 こうして、あかりの春休みは無事に終わった。


 新学期の日、あかりは制服を着て家をでた。普段は私服でも構わないのだが、今日は始業式があるので、制服を着る必要があった。
「おはよう、久しぶり!」
 玄関ではルリが待っていた。母の方針で、あかりは毎日ルリと登校させられていた。もちろん、朝からルリにまとわりつかれるのは負担だったが、母親に学校までついてこられるよりはましだった。
「ね、あたしの手紙届いた?」
「ちゃんと届いたよ、ありがとう」
 ルリは、腕輪の話は何ひとつしてこなかった。だから、あかりも腕輪のことは何もいわなかった。正直、あかりはあの腕輪を気にいっていなかったので、そのまま忘れさってほしいとすら思っていた。腕輪そのものは、あとでルリの父にでも返却すればいい。


 校舎に入って廊下を進むと、毎年のことながら、新しいクラスと担任教師の名が大きな紙に印刷して発表されていた。
 その結果をみて、あかりは愕然とした。今年もルリと同じクラスだ。少なくともこれから一年は、これまでどおり彼女にひっつかれて過ごすことになる。
「やったね、あかり! 離れなくて本当によかったあ」
 能天気に喜びの声をあげるルリをよそに、あかりは陰鬱な気持ちで教室に入り、座席表に示された机へとむかった。
 あかりの机は一番窓際だった。新学期の席は出席番号順と決まっていて、窓のある左壁からふたりずつ着席していくように手配されている。
 あかりは自分の席に鞄を置こうとして、ふと右隣の席をみた。
 そこには小柄な男の子が座っていた。みたことのない顔だった。
 彼はあかりが隣にきても微動だにせず、目線を下に落としたまま、小型の図鑑をじっと読んでいた。
 あかりはとっさに、黒板に貼りだされた座席表に目をやった。
 あかりの名前の隣には、「神崎かんざき遠也とおや」と書いてあった。聞いたことのない名前だった。
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