記憶黙殺

 ある日、いつもの時間になっても遥が帰ってこなかった。おかあさんに尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「今日はお友達の家に行っているから、帰りが遅いのよ」
 しかたがないので、ストラはひとりで遊ぶことにした。リビングにおもちゃを広げると叱られるので、家にある人形やフィギュアを隣の和室に運び、大規模なバトルをくりひろげて楽しんだ。そのうち、疲れて身体が重たくなってきたので、畳に寝転がることにした。ところが、寝転ぶと今度はまぶたが重くなった。そこで、ほんの少しだけまぶたをとじてみた。
 次に目をあけたとき、あたりは真っ暗だった。ストラはベッドに寝かされ、布団をかけられていた。どうやら、いつのまにか眠りこんでいたらしい。ストラは慌てて起きあがると、廊下から差しこむ電気を頼りに部屋からでて、リビングへとむかった。リビングまてあと数歩というところで、リビングの扉から聞き慣れた声がした。
「なあ、母さん。遠也はいつまでああなんだよ」
 それは、遥の声だった。ストラが寝ているうちに、帰ってきていたのだ。なんの話をしているのだろう。些細な好奇心がわき、ストラは部屋に入るのをやめて聞き耳をたてた。
「あら、どういうこと?」
「空の上に住んでるとか、空の上には友達がいるとか、いつもおかしなことをいっているんだよ。自分のことを変な名前で呼ぶし。えっと、ス……スターだっけ? とにかくさ、もう遠也の変な話につきあうのはうんざりなんだよ」
「遠也は空想が好きな子なのよ。我慢してあげて」
「ずっと我慢してきたよ。大きくなったらまともになるだろうと思って、今だけは話をあわせてやっていたんだ。けどさ、もう五歳だろ? 近所の五歳の子は、もっとまともに話が通じるぜ。遠也は幼稚園でも問題起こしてるし、やっぱりあいつ、おかしいんだよ」
 ストラはその場に凍りついてしまった。この声は本当にあの「おにいちゃん」のものなのだろうか。優しくストラに笑いかけてくれていた、あの「おにいちゃん」なのだろうか?
 そんなストラの思いをよそに、声の主はヒートアップし、早口でこのようにたたみかけた。
「あいつ、ばかなんだ。空のことも人間のことも、何も知らない。だから、おかしな話から抜けだせないんだよ。だから俺、そろそろ遠也に本当のことを教えてあげようと思うんだ。遠也の話はありえない話なんだって」
 ストラは足音を忍ばせ、そっとその場を離れた。そして、ベッドのある寝室まで戻ると、壁に背をつけて座りこんでしまった。
 今の話はなんだったのだろう。あの声は誰の声なのだろう。
 「おにいちゃん」があんなことを言うはずがない。きっと、似た声をした違う人だろう。「おにいちゃん」はストラのことをわかっている。虹の国のことだって、知っている。ほかの子供たちのように否定だってしない。それが「おにいちゃん」のはずだ。
 ストラは頭を振って、この件をなかったことにしようとした。しかし、夕食を食べているときも、お風呂に入っているときも、眠るときも、ずっと心にはリビングの会話が引っかかっていた。
 ストラはとうとう我慢ができなくなり、翌日の夕方、リビングに遥だけがいるタイミングをみはからって声をかけた。おかあさんは二階の掃除をしており、遥はテーブルでジュースを飲んでいた。
「ねえ、どういうこと?」
「うん? なんだよ急に」
 遥はいつもの調子で、椅子に腰かけたまま不思議そうにこちらをふりかえった。
「ぼくのこと、ばかだと思ってたの?」
「なんの話だよ?」
 そこで、ストラは途切れ途切れに、昨夜のことを話した。ストラは、遥は「知らない」と答えるか、焦って否定をするかのどちらかだろうと考えていた。ところが、遥はストラの話を聞くとケラケラと笑いだした。
「なあんだ、聞いてたのか!」
 遥は悪びれる様子もなく、笑顔で椅子に座りなおした。
「そうだよ。いい加減、はっきり説明してあげようと思ってたんだ。あのな、空の上に国なんかない。宇宙ステーションになら人は住んでるけど、雲の上に国なんかないんだよ。つまり、おまえの話は嘘。アンジュなんて人もいない。全部、遠也の作り話なんだよ」
 ストラは頭が真っ白になった。なんということだろう。昨日、立ち聞きした声の主は、やはり遥だったのだ。唯一ストラのことを認め、ストラの話を聞いてくれていたはずの、「おにいちゃん」の声だったのだ。
「違うよ、本当のことだよ」
 ストラは声を震わせながら反論した。幼稚園では、どんなに自分の話を否定されても平気だった。でも、「おにいちゃん」に否定されることにだけは耐えられなかった。今までのあの笑顔はなんだったのだろう。あの優しい言葉はなんだったのだろう。
「だったら、そういう夢でもみてたんだろ」
「違うよ、本当だよ……」
「しつこいな」
 遥は舌打ちして吐き捨てるようにいい、不快感を隠すことなく続けた。
「じゃあ、証拠でもあるのか? 空には飛行機もロケットも飛んでいるのに、そんな国をみつけた人なんていない。どこにあるっていうんだよ。そのアンジュや女王様って人を紹介してみろよ。どこにいるっていうんだよ? その人たちはな、おまえの頭の中にしかいないんだよ」
 ストラはもう、何もいえなかった。
 自分は今、誰と話をしているのだろう。
 そこにいるのは、毎日会うことを焦がれた、優しい「おにいちゃん」ではなかった。
 ストラは怒りを覚えた。けれど、その怒りを彼にぶつけることはできなかった。
 そうだ、この世界には雲より上まで行ける乗り物がある。空に関する、たくさんの知識や情報もある。それなのになぜ、「あの場所」はみつけられないのだろう?
 もしも、彼のいうとおりだとしたら? すべての世界は、ストラの頭の中にあって、雲の上で暮らす夢をみていただけだということになる。アンジュや女王様も、ストラの頭の中だけの存在になる。
 じゃあ、「ストラ」は? アンジュに名を呼ばれていた、あの「ストラ」は? あれはいったい誰なんだろう? あれも頭の中の存在なのだろうか。じゃあ、ここにいるのは誰だろう。アンジュとの再会を待ちわびて、虹の国を探していた、「ストラ」という子供は誰なんだろう?
「ああ……あああ……ああああああああ!」
 その瞬間、遠也、、はすべてを理解した。
 誰もいない。どこにもない。何もかも、存在しない。すべては幻想であり、妄想であり、嘘だったのだ。
 虹の国など存在しない。帰ろうたって、帰れるわけがない。幼稚園の子たちの主張は正しかった。や遥は、遠也を哀れんでいただけだ。遠也を気づかって何もいわずにいただけなのだ。知らないのは、遠也ひとりだったのだ。
 今までの苦労はなんだったのだろう。なんのために、こんなに必死になっていたのだろう。なんのために周囲に疎まれ、喧嘩をし、母を泣かせていたのだろう。なんのために。いったい、なんのために。
 への怒りと、絶望と、悲しみが急激に混ざりあい、遠也の心はぐちゃぐちゃになった。そして、目の前にいる人物がまとっている「優しい理解者」の幻影を打ち砕こうと、言葉にならない声をあげながら、手あたりしだいにテーブルの上のものを投げはじめた。
「おい、やめろよ!」
 ポップコーンの袋、文庫本、手帳、油性ペン、タオル、ティッシュ箱──あらゆるものが遠也の両手で交互に掴みあげられ、容赦なく遥の顔面へと飛んでいった。遥はそれらを避けたり、手で払ったりしながら、何度も静止を呼びかけた。
「やめろって、本当に危ない──」
 その言葉は、鈍い衝撃音と同時にぴたりと止まった。遠也はその瞬間我に返り、はじめて目の前の人物の頭に、水入りの花瓶がめりこんでいることに気がついた。兄はそのまま声もなく、椅子から転がり落ちて床に倒れ伏した。続いて、花瓶が床に叩きつけられ、鋭い音をたてて割れた。水はこぼれて床に広がり、花はばらばらになって散らばった。
 床には血が二、三滴飛び散っていた。出どころは、兄のこめかみだった。兄は床に横倒しになったまま、ピクリとも動かなかった。
「何やってるの!」
 騒ぎを聞きつけて、母親が飛んできた。そして、頭から血を流して倒れている遥をみつけると悲鳴をあげ、「しっかりして」「救急車」などと叫びながら部屋の中を駆けまわりはじめた。
 あとのことは覚えていない。


 兄はずっと、家へ帰ってこなかった。
 母は、遠也に話しかけなくなった。そして、毎日泣いていた。
 父は、仕事から帰ってくると、ずっと遠也を監視するようになった。その目は鋭く、遠也を責めたてるかのようだった。
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