記憶黙殺

 不可解なことに、周囲の人々は誰ひとり、「虹の国」のことを話題にださなかった。そこでストラは覚えたての「ことば」を使い、会う人会う人に虹の国についての話をしてみた。けれども、彼のつたない言葉では言いたいことの半分も伝わらず、結局、情報は得られないままだった。
 きっと、この場所では、虹の国について話すことを禁じられているのだろう。ストラはそう解釈した。本当はみんな虹の国を知っているけれど、事情があって知らないふりをさせられているのだろう。それがこの場所の常識なのだろう。というわけで、ストラはしばらく虹の国の話は控え、この不自由な空間からの脱出方法を考えることに専念した。
 そのようにして暮らすうち、ストラは様々なことを覚えていった。この牢獄のように小さな空間は「びょうしつ」と呼ばれていること。その外側は「びょういん」というこれまた壁に囲われた場所で、「びょういん」から外へでることは難しいということ。上方にある壁は「てんじょう」と呼ぶことも最近知った。
 そのほか、明るい「ひる」と暗い「よる」があること、「ひる」は起きていなければならず、「よる」は寝ていなければならないこと、「おいしゃさん」と「かんごしさん」は敵ではないこと、決まった「じかん」に「ごはん」を口から入れなければいけないこと……覚えなければならないことは、いくらでもあった。どれもこれも、虹の国には存在すらしない概念ばかりで、ストラには新鮮だった。しかし、その新鮮さは嬉しいものではなかった。
 やがて、ストラは壁づたいにならひとりで歩けるようになった。はじめは大量につけられていた「ひも」──これは正確には「管」と呼ぶべき太いチューブのことだったが、ストラはこれを「紐」と認識していた──も、今では一本だけになっていた。
 そこでストラは外に行ってみることにした。昼間は人間がたくさんいて、ストラが部屋の外にでようものなら、あっというまに連れもどされてしまう。しかたがないので、ストラは夜に脱走することにした。痛みをこらえて手首のチューブを引き抜き、裸足で廊下へでて、階段へと移動し、一段ずつゆっくりと階段を降りていった。
 くるくる回る階段を何周かした頃、突然、胸部から全身へと激痛が走った。同時に、景色がぐるぐる渦をまき、ストラはそのまま階段の踊り場に倒れ伏してしまった。
 次に目をあけたとき、ストラはもとの病室に戻されていた。手首には包帯が巻かれ、身体には普段よりもたくさんの管をつけられていた。
「なんてことをしたの! あと少し発見が遅れていたら、どうなっていたか」
 その後、ストラは両目を真っ赤にした「おかあさん」と「かんごしさん」に長時間こっぴどく説教され、これまでよりも厳重に部屋に閉じこめられるようになってしまった。
 けれども、ストラは諦めなかった。外にでれば、帰り道のヒントが掴めるかもしれない。そう思い、大人の目を盗んではちょくちょく脱走をくりかえし、そのたびに捕まっては叱られ、しまいには一日中見張られるようになってしまった。
「ごめんね。外にでたい気持ちはわかるわ」
 「おかあさん」は困ったようにストラを抱きしめた。
「お医者さんがいうには、驚くほど病気は快方にむかっているそうなの。もう少し我慢しましょうね。そうすれば、きっとお家に帰れる、、、はずだから」
 帰れる、、、。それは、思ってもみない情報だった。ストラは顔をあげ、「ほんと?」と念を押した。
「本当よ。早くきちんと歩けるようになりましょうね。そうしたら家で暮らせるし、毎日好きなだけお外へ行ける、、、、、、わ」
 帰れる。外へ行ける。その言葉は、ストラにとって何よりの励みになった。その日以来、ストラは脱走を図ることもなく、文句をいうこともなく、周囲に指示されるままに過ごした。案の定、大人たちは「偉い」だの「おりこう」だのと薄っぺらい褒め言葉をかけてくれたが、ストラは意に介さなかった。
 歩行訓練は苦しく、針は何度刺されても痛かった。それでもストラは黙って耐えた。頑張れば、いつか外にでられる。でられれば、虹の国へ帰れる。アンジュや女王にまた会える。あの頃に戻って楽しく暮らせる。
 その希望を胸に、ストラはこの地獄を耐えぬいた。
 長い時間が流れ、数えきれないほどたくさんの昼と夜がくりかえされたのち、とうとう、ストラは「びょういん」から解放されることになった。
 見たことのない綺麗な花束と、優しい笑顔の人々に見送られながら、ストラははじめて、外の世界へと足を踏みだした。
 ストラはてっきり、ひとりで外へ行くものだとばかり思っていた。ところが、「おかあさん」はずっとストラの手を握って離してくれなかった。しかたなく彼女に誘導されるままについていくと、ストラの身長の何倍もある巨大な怪物が、大きな唸り声をあげてやってきた。それは、これまで幾度となく紙面や画面を通してみていた乗り物だった。
「『くるま』?」
「そうよ。お家に帰りましょうね」
 指をさして確認すると、「おかあさん」はあっさりと肯定した。ストラはそれまで、本物の自動車をみたことがなかった。驚きと興奮で目を白黒させるストラをよそに、彼女はストラを抱きあげて中にあった柔らかい椅子──俗にいうチャイルドシートのことである──に座らせ、拘束具をつけた。ストラは困惑はしたものの、とくに抵抗はしなかった。「びょうしつ」での暮らしの中で、拘束されることには慣れてしまっていた。
 中には、さっき別れたばっかりの「おとうさん」と「おにいちゃん」が乗っていた。もちろん、ふたりは一時的に離れただけだったのだが、ストラにはそれが理解できず、てっきり今生の別れをしたものだと思いこんでいた。


 はじめて目にした外の景色は、一言でいうなら、まったくわけがわからなかった。つまるところ、目に映るものひとつひとつが、いったいなんのために、どういうしくみで動いているのか、何ひとつ理解できないのだ。だからストラは何も喋らなかった。この膨大な情報を目に焼きつけることに精一杯だったのだ。
 乗車してから、どれくらいの時間がたっただろうか。突然、後部座席のドアがあけられ、ストラは地面に降ろされた。そして、小さな建物の中に案内された。
「さあ、帰ってきたわ。ここがあなたのお家よ」
 ストラはぽかんとして「おかあさん」をみあげた。ここは知らない場所である。ストラはただ、知らない場所から知らない場所へ連れてこられただけである。それがどうして、「帰ってきた」なのだろう?
「違うよ」
「あら、どうして?」
「だって、知らないもん」
 これが、当時のストラにできた精一杯の説明だった。ストラはなんとかして、ここが自分の知る故郷ではないこと、記憶の中にある国とは違うことを伝えようとしたが、彼の語彙ではそうした複雑な事情を表現することができず、ただ、「違う」「知らない」しかいえなかった。
「そうよね、知らないわよね。あなたがここへくるのは、生まれてはじめてだもの。でも、ここはあなたのお家なのよ」
 「おかあさん」は、ストラの言葉を都合よく曲解して納得すると、強引にストラを建物の中に連れこんだ。ストラはどうすればよいのかわからないまま、とりあえず彼女の指示に従うことにした。これまでの生活の中で、彼女が自分に敵意を持っていないことは充分にわかっていたし、ここを飛びだしたところで、行き先が決まっているわけでもない。
 今はおとなしくしておこう。そして、隙をみて虹の国を探そう。
 ストラはまだ、虹の国に帰ることを諦めていなかった。
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