天空の物語

 ストラは何も知らなかった。自分と他人が別であることも、虹の国の外のことも、自分が虹の国に来た理由も、何ひとつ知識を持ちあわせていなかった。おまけに、アンジュの姿になる前の記憶はなく、自分は生まれつき虹の国にいるのだと思いこんでいるようだった。
 ストラはアンジュにそっくりだった。同じ顔に同じ声、同じ髪に同じ肌。どちらかがひとりでいると、それがストラなのかアンジュなのか、実際に声をかけてみるまでわからなかった。知識の差以外、彼らを見分ける方法はまったく存在せず、おかげで虹の住人は混乱した。
 アンジュはストラに虹の国について教えた。住人はみんな球体になっていること、自分たちも球体になれること。女王様の命令は絶対であること。門の外にはでられないこと。ごくたまに現れる門番がいること。定期的に新しい住人がやってくること。
 しかし、アンジュはそれ以上のことは教えなかった。都合の悪いことは教えたくなかったのだ。詳しいことを知れば、彼はアンジュを見捨ててしまうかもしれない。アンジュに歯向かうかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。
 また、アンジュはストラと自分が「お友達」であることも教えておいた。自分たちは特別な関係で、ほかの住人とは違うのだと。けれども、人間関係というものを知らないストラにはその概念も言葉も理解できず、何度教えても「友達」という単語をすぐに忘れてしまった。ただ、ストラは事あるごとにアンジュを頼っていたし、アンジュといつも一緒にいてくれた。アンジュはそれで満足だった。
 虹の国には新しい住人がたくさん来た。ストラは好奇心旺盛で、誰かが国に来るたびに、彼らと話をしようと駆けよっていった。しかし、どの人もすぐに球体になってしまい、ストラには話しかけてくれなかった。ときにはストラのように姿のない住人もやってきたが、彼らはストラと違って簡単に門をひらいてもらい、すぐに女王に連れられて、どこかへ行ってしまった。
「どうして誰もお話してくれないの?」
 ストラはそんな環境に不満をつのらせるようになった。そして、なんとか捕まえて話をしようと、球体の住人を追いかけまわすようになった。安らかな休息を妨害された住人は驚いて逃げまどい、しまいにはストラが近くを歩くだけで蜘蛛の子を散らすように逃げていくようになってしまった。
「わたしがいるんだからいいじゃない」
 アンジュはなんとか彼の関心を自分にむけようと苦心したが、まるで効果はなかった。ストラはだんだんと自我をもち、虹の国そのものに反発するようになった。
「どうして外にでちゃいけないの?」
 ストラが自分の意思で喋れば喋るほど、その声は少しずつ変化し、今では音域こそ似ているものの完全に別人の声になった。また、それと連動するように、彼の背丈はアンジュよりも低くなり、ようやく虹の国の住人はストラとアンジュを区別できるようになった。
「外には何があるの?」
「門の外の人はどこから来るの?」
 ストラ国の外に関心を示すたび、アンジュはあらゆる手を使って話題を変えて彼の気をそらした。というのも、彼はまだ虹の国の住人として不完全だった。
「その子はまだ住人ではありません。今はまだ、国の外に戻ることもできます。もちろん、彼がそれを望めばの話ですが」
 女王はアンジュにこのように説明した。それは彼がこの国から去る可能性を示唆していた。その恐ろしい事実にアンジュは震えあがった。せっかく自分と一緒にいてくれる存在を手に入れたのに、奪われてしまってはたまらない。アンジュは外の世界の情報からストラを遠ざけ、ほかの住人にも口止めした。彼を外の世界に戻してはならない。そんなことはあってはいけないのだ。
 しかし、そうした努力にも関わらず、ストラはときどき虹の国から消えてしまうことがあった。突然身体が透明になり、アンジュの目の前で消滅してしまうのだ。
 彼の姿が見えなくなると、アンジュは大急ぎで門まで行き、何度もストラの名を呼んだ。すると、ストラはもとの足だけ人間になって門のむこうからよたよたと歩いてくる。そして、門を越えてアンジュそっくりの姿になる。そうして、また何事もなかったかのようにアンジュと遊びはじめる。消滅してから帰ってくるまでの記憶は彼にはない。だから彼はいつも、自分が門の前まで移動していることを不思議がる。アンジュはすぐに話題を変えて、その事実を無かったことにする。いつもいつも、その繰りかえしだった。
 ストラは外の世界など知らない。アンジュはそう信じていた。ところがあるとき、ストラはこんな話をした。
「ときどき、白くて四角い変なところにいることがあるんだ。そこには見たことがない人がいて、面白い服を着てるんだよ。でも、気がついたらその四角い場所はなくなって、ちゃんと虹の国にいるんだ。これってなんなのかな?」
「気のせいよ。何か別のものを間違って記憶しているんだわ」
 アンジュはそう答えたが、内心は不安でたまらなかった。ストラは外の世界の景色を、おぼろげではあるが覚えているらしい。このままでは、ストラは本当に虹の国からでていってしまうかもしれない。あの醜くて恐ろしい外の世界へ戻ってしまうかもしれない。
 そんなアンジュの心配をよそに、ストラは「そっか」と納得し、いつもどおり門へと走っていった。彼は門が好きで、暇さえあれば門を訪れていた。新しい住人と話をすることを、まだ諦めていないのだ。
「見てよアンジュ。また誰かが来たよ!」
 どうやら、また新たな住人が来たらしい。だが、アンジュにはどうでもいいことだった。ストラというお友達がいる今、新しい住人になど興味はない。それでもストラからは離れたくないので、アンジュは渋々ストラの横に立ち、門の隙間から外を覗いた。
「何なの、あの人。自分で歩いてくればいいのに」
 それは、いつもとはちょっと違った光景だった。
 ひとりの少年が、誰かに手を引かれてこちらへと歩いてくる。少年はずっと後ろばかり見ていて、歩くのも随分とゆっくりだった。
「門番さん、連れてきましたよ」
 先に立って歩いていたほうが、そう声をかけた。すると、その声に呼応するように門番のフォッグが姿をみせた。
「ご苦労だった。戻っていいぞ」
 その人物を見て、アンジュはあっと声をあげた。門番と話していたのはほかでもない、あのパンチネロだった。
「何をしてるの?」
「やあ、ストラにアンジュか」
 パンチネロはカラカラと笑って、隣にいた少年を肘でさした。
「女王様たっての依頼でな、この坊やを回収してきた。ほんの少しの道のりだったけど、久しぶりに門の外へでたよ」
 少年は見たことのない人物だった。きっと、今から新しい住人になるのだろう。ストラは目を輝かせて彼を見あげていた。
 門がひらくと、パンチネロは少年の背中をポンと押した。
「ほら、入りな。こんなところであがいたって無駄だ。おまえさんはもう、ここの住人なんだよ」
 だが、少年は動かなかった。暗い表情でうつむいたまま、じっと地面ばかり見ていた。
「しかたのないやつだな。門番さん、手伝ってください」
 パンチネロとフォッグはふたりがかりで少年を抱えあげ、門の内側へと連行した。
「嫌だ!」
 少年はめちゃくちゃに暴れて抵抗したが、あっというまに持ちあげられ、門の内側へと降ろされてしまった。少年が片づくと、門は音をたててしまり、フォッグは消えてしまった。
「嫌だ、だしてくれ。僕を帰してくれ!」
 少年は何度もこぶしで門を叩き、そして膝から崩れ落ちて号泣した。
「ま、そっとしておくのが一番だな。じゃ、俺はこれで」
 パンチネロは肩をすくめて困ったように笑うと、いつもの球体に戻ってどこかへ行ってしまった。
「あの人、ずっと門から離れないね!」
 ストラは嬉しそうな顔でアンジュに言った。
「もしかしたら、お話できるかな?」
「やめといたほうがいいわよ」
 アンジュはストラの手首を掴んで、すぐにその場を離れた。泣きじゃくる少年に気をつかったのではない。ストラが彼に余計な質問をして、外の世界に興味を持つのを防ぐための行動だった。
 ──泣くほど外の世界が好きだなんて、幸せな人ね。
 ストラの手を引いて歩きながら、アンジュは心の奥で毒づいた。
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