時の国の王女

 どれだけ長い時間見張っていても、時計は何の反応も見せなかった。そのうちストラたちは時計の観察に飽きてしまい、好き勝手にお喋りをしたり、部屋の調度品や書物を見せてもらったりして遊びはじめた。
「おふたりと話していても、違和感がありませんね。虹の国の言葉は私たちと変わらないのですか?」
 話題は虹の国へと移り、王女が興味深そうに質問をした。
「わたしたち、誰とでも話せるの。最初からそういう風にできているの」
 質問の意図すら掴めないストラを尻目に、アンジュが答えた。
「虹の国の人はいろんなところから来ているから言葉がバラバラで、もとのままじゃ会話なんてできないの。でも、虹の国へ来たらどんな言葉を話す人とでも必ずお喋りができるようになるんですって。女王様が教えてくれたわ」
「へえ、じゃあ自動翻訳してくれるのか。楽でいいなあ」
 ギルバートは関心のまなざしをストラとアンジュに向けた。だが、ストラにはわけがわからなかった。「言葉」という概念も、「翻訳」が何なのかも、「言葉がバラバラ」というのがどういうことなのかも、彼は何ひとつ理解していなかった。が、質問をすれば叱られることはわかっていたので、あえて何も言わなかった。
「本当に不思議なところですね、虹の国というのは。行くことができないのが非常に残念です」
「そうなの?」
 王女の意外なひとりごとに、ストラは目を丸くした。てっきり誰でも虹の国へは来られると思っていたのに。虹の国には、出るだけでなく入るのにも制限があるのだということを、ストラはこの場ではじめて知った。
「私たちは西の世界の人間ではありませんから。こちらにはこちらの規則ルールがあるのです。虹の国に関わったり、東西を自由に行き来できる存在があるとすれば、それは魔女くらいのものでしょう」
「魔女?」
 ストラはとっさにあの老婆の姿を思い浮かべた。あの口やかましいだけの皺だらけの女性がそんなにも特別な存在だという事実に、ストラはしばし困惑した。
「魔女は西の世界にも東の世界にもいるとされています。もっとも、会ったことはありませんが……いつか機会があれば会ってみたいものです。彼女たちは迫害を恐れているので、自身を魔女だと名乗ることは滅多にありません。今では存在自体を怪しむ者も多いのです」
 ストラは王女に「魔女を知っている」と言おうとしたが、すかさずアンジュが彼を突きとばし、ふたりの間に割って入った。
「そんなことより、その、どうしてわたしたちにこんなに親切なの? いくら虹の住人だからって、王女様のお部屋に呼んでくれるなんて」
 それから、ものすごく怖い顔でこちらをふり返り、小声で「それは言っちゃダメ」と釘を刺してきた。あまりに恐ろしい形相だったので、ストラは驚いて固まってしまい、どちらにしても何も言えなくなってしまった。
「そうですね……」
 王女はふたりのやりとりには気づいていない様子で、しばし考えこんだ。
「正直なところ、自分でもよくわかりません。ただ、あなたがたと過ごしていると、不思議と心が落ちつくのです。情けない話ですが、寂しかったのかもしれません」
「寂しかった?」
「はい。一週間ほど前に少し……端的に言えば、信じていた人に裏切られたので」
 その言葉に、アンジュとギルバートは同時に顔を歪めた。ふたりとも、王女の言葉に心あたりがあったのだ。
「あなたたちは虹の住人。いずれは虹の国へ帰るでしょう。そしてギルバート、あなたは──少なくとも、私の話を他人に言いふらすようなことはしないはずです。ですから、ここからは私の独白だと思って聞き流してください」
 王女は立ちあがって窓辺へ行き、代わり映えのしない曇り空とくすんだ夕方の景色を映している窓にむかって、ひとりごとのように語った。


 レイチェル王女とハロルド王子は、仲のよい姉弟だった。両親は優しく穏やかで、それは幸せだった。母は平民の出だったが、特にそれをひどく咎める者もなく、楽しく暮らしていた。
 ところが、母親である王妃は突然病気を発症し、看病の甲斐もなく死去してしまう。さらに、悲しみに暮れる家族に追い討ちをかけるように、とある事件が起きた。父王が書斎で探し物をしているとき、偶然先祖の残した手記がでてきたのだ。この手記をきっかけに、これまで王子が継ぐものとばかり思われてきた国王の地位は、王女のものになってしまった。王女は国王にふさわしい人間になるために厳しく教育されるようになり、王子は突然「価値のない人間」とされてしまった。
 父王は優しい人ではあったが、人間として強くはなかった。妻を亡くした上に子供たちの立場がひっくり返り、関係者が大騒ぎをする中、ストレスから体調を崩し、そのまま還らぬ人となった。
 王子は自分の立場を守ってくれなかった父王と、自分の立ち位置を奪った姉を憎み、自力で味方を集めて王女の王位継承を間違いだと主張するようになった。もともとこの国で女王を立てた前例はなく、王子がいるのに女王を立てることに不快感を示す者は多かった。王子はそうした人物を取りこみ、父王亡きあとも色々と難癖をつけては王女が戴冠式を受けられないように妨害工作を行った。そのくせ、公の場では王女に親しく接触し、姉を慕っているかのように振る舞った。
 そんな王子の狡猾な策により、王女に見切りをつけて王子の側につく者も多くいた。王女は人間不信に陥り、だんだん本当の自分を見失うようになっていった。
 そんな王女にも、ほんの少しだけ心を許せる人間がいた。彼はノア・ペンバートンといって王子とは犬猿の仲であり、王女にも優しい青年だった。
 周囲は他国の人間に権力を渡さないよう、ノアと王女の婚約をとり決めた。王女は戸惑いつつも、彼となら国を背負えるかもしれないと淡い期待を抱いた。
 しかし、どうしても周囲の好奇の目に晒されているため、王女は彼に対しても形式的な対応をとらざるを得ないことが多かった。また、父王亡きあとの彼女は公務に追われており、あまり彼と話す時間もとれなかった。
 そんな矢先、ノアはまったく別の女性と駆け落ちし、行方不明となってしまった。しがらみの多い王宮や王女を嫌ってのことだった。この話は秘匿されたものの、城内の関係者は誰もが知るところとなり、あちらこちらで噂がたち、王女は歩くだけで後ろ指をさされるようになってしまった。
 そんな状況の中、王女はいよいよ誰も信じられなくなり、「空の時間が止まる」という異常事態が起きているのを承知しながらも、しばらく休養することにした。
 そして今日、王女は七歳のときに両親から譲りうけた王冠を取りだした。王女はいつも、孤独を感じると王冠を取りだして眺めるのが癖になっていた。
 この王冠と、父王の肩身である金時計が揃えば晴れて戴冠式を行うことができるのだが、父王の時計は弟王子が所持しているため、現在はこっそりと片割れの王冠を眺めることくらいしかできない。
 ところがこの日はどういうわけか、王冠の様子がおかしく、突然暴発して部屋中に大風を起こしてしまった。強風に煽られて窓が開き、様々な書類や写真などが空中に舞いあがった。そして、その中にはちょうどアルバムからとりだしていた、かつての家族写真もあった。
 王女は窓の外に飛びだそうとしていた写真を慌てて掴んだものの、身を乗りだしすぎてバランスを崩してしまった。そんなとき、偶然助けてくれたのがストラだったのである。
「あなたたちと話していると、心が軽くなりました。誰かの前で笑ったのは、本当に久しぶりです。もちろん、私は王女ですから、この非常事態のさなかにいつまでも休んではいられません。けれど、もしも事件の調査としてもう少しあなたがたと過ごすことができたら……あのとき、そんなずるい考えが頭をよぎりました。ですから、これは私のわがままに過ぎないのです」
 三人とも、何も言えなかった。ただ、アンジュとギルバートは「どう声をかけていいかわからない」というのが理由だったのに対し、ストラは「話が難しすぎてどこから質問をすればいいのかわからない」から困っていただけだったので、両者にはだいぶ温度差があった。
 長い沈黙が流れる中、ストラはふと先ほどの帽子型時計に目をやり、あっと声をあげた。
「見て、時計がおかしくなってる!」
 その言葉に弾かれるように、一同は時計の周りに集合した。
 時計の針はめちゃくちゃに回転し、十二の数字は持ち場を離れて文字盤の上を好き勝手に踊っている。
 その破茶滅茶な様子が面白くてつい、ストラは時計の文字盤に手を伸ばしてしまった。その指先が時計に触れた瞬間、時計にバチバチと電撃が走り、いきなり部屋の中が真っ暗になった。
「きゃあ、何!?」
 叫ぶアンジュのすぐそばを、ギルバートらしき人物が窓へと駆けていく音が聞こえた。
「外も真っ暗だ。夜だよ、夜になってる!」
 ギルバートが叫んだ次の瞬間、ぽっと時計が暖かい金色の光を灯した。まるで蝋燭のようなその明かりは柔らかく部屋の中を照らし、四人はようやくお互いの顔が見えるようになった。
「何これ?」
「わかりません。こんな現象ははじめてです」
 混乱しているアンジュたちを尻目に、ストラはギルバートと一緒に窓の外を見てみた。すると、街灯ひとつ見あたらない闇に包まれた街の中に、ひとつ不気味な白い光の渦を見つけた。
「あれ、何だろう?」
 しかし、誰もその渦のことなど知らなかった。
 そこで一同は帽子の灯りを頼りに、一旦塔の外にでてみることにした。
18/25ページ
いいね