時の国の王女

 魔女の家をでたあとは簡単だった。ひとつ山を越え、麓の村の上空を抜けると、緑ばかりだった下の景色が少しずつ変化してきた。舗装された道路に石造りの頑丈な建物が並びはじめたかと思うと、建物の背丈はどんどん高くなり、ぎっしりと密集して建ちならぶようになった。人通りも多くなり、道路にはわらわらと多種多様な服装の人々が歩いていた。その面白い光景にストラは目を輝かせた。虹の国ではこんなにたくさんの人が揃うことはまずないし、こんな背の高い建物を見ることもない。さらに、ときおり道を行き交う馬車や自動車の存在もストラの好奇心をかきたてた。ストラはすっかり興奮し、もっと近くに行ってよく見ようと下降をはじめた。しかし、それに気づいたアンジュはすかさずストラの腕を掴んで注意した。
「あんまり低く飛んじゃだめ。見つかったら大変なことになるわ」
「どうして見つかったらだめなの?」
「下界の人間は空を飛べないの。わたしたちが空を飛べるとわかったら、珍しがって捕まえにくるに決まってるわ」
「そうなんだ。捕まっちゃだめなの?」
「だめよ。下界の人間ってとんでもないやつらなの。それに、余計なことに時間をとられたら虹の国を戻すことができないかもしれないわよ。それでもいいの?」
 ストラはあいかわらずアンジュの言葉をのみこめずにいたが、最後の「虹の国を戻せない」という部分だけはきちんと理解していたので、急いで大きく首を横に振った。
「わかった。見つからないようにする」
 ストラは今にもはちきれそうな好奇心を胸の中に押しこみ、おとなしくアンジュのあとについて飛行を続けた。やがて、似たような石と人間の光景にも飽きてきた頃、突然遠くのほうに一風変わった建物があらわれた。ストラが口を開くより早く、アンジュが地図を掲げて嬉しそうにこちらを振りかえった。
「あれだわ。あれが時の国のお城よ」
 それは細長い白い塔だった。街中のどの建物よりも背が高く、真珠のように美しいそれは、周囲の景色とはまったく噛みあっておらず、ごちゃついた都市の中心に不気味にそびえ立っていた。
「ここなら何かわかるかもしれないわ。入ってみましょう」
 ところが、この塔には窓がほとんどついていなかった。一番上には大きな鐘があり、その下には階段も見えていたが、見張り番らしき人間が突っ立って退屈そうに空を眺めている。ふたりは、見張り番に見つからないよう気をつけながら、高度を落として少ない窓たちを調べてみたものの、どの窓もしっかりと鍵がかかっており、入りこむ隙などなさそうだった。
 そうこうしているうちに、ふたりはとうとう一番下の地面に着地してしまった。地面に降りたつと翼が邪魔になったので、ふたりは翼をたたんでから、そっと辺りの様子を伺った。
「よかった、誰もいないわ」
 アンジュがほっと胸を撫でおろす一方、ストラは塔の周辺の景色に夢中になっていた。
「わあ、池から水が飛びだしてる。お花もおかしな咲きかたをしているよ。面白いな」
 それは中庭だった。中央の噴水からは水が絶え間なく噴きだし、ベールのように変形した水しぶきは踊るように落っこちて、真下の水面を波打たせている。その噴水は五つに区切られた花壇にぐるっと囲まれており、それぞれ赤、黄、青、紫、ピンクの花が規則正しく植えられていた。さらにその外側はきちんと刈りこまれた背の高い生垣が囲んでいる。中庭は静かで人の気配はなく、噴水が水を打つ音だけがこだましていた。
 中庭と塔の周囲には、ほかにも建物がいくつかあった。面白いことに、どれも正面を塔のほうを向けて建立されている。どれも途方もなく大きく立派な屋敷だったが、この塔ほどの美しさは持ちあわせていなかった。ほかの屋敷はくすんだ石造りの四角い建物で、高さも塔に比べるとずっと低い。趣こそあるものの、この塔のような魔的な美しさは微塵も感じられなかった。
 しばらくのあいだ、ふたりは言葉も交わさずにこの風変わりな景色に見とれていた。ようやく我に返ったストラが今後の予定をアンジュに尋ねようとしたとき、突然遠くから怒号のような男の声が飛んできた。ふたりは逃げようとしたが、相手はあっというまにふたりの前までやってくると、右手でアンジュの左腕を、左手でストラの右腕を乱暴に掴んだ。そしてふたりを引きずりよせると、鼻と鼻がくっつきそうなくらいに顔を近づけて、低い声で唸るように囁いた。
「こら、くそがきども。どこから入った?」
 ストラはどうしてよいかわからず、そっと隣のアンジュを見やった。
 アンジュは顔面蒼白になり、愕然と目を見開いたまま相手の男を見据えていた。その身体は見ているだけでもよくわかるほど震えている。何かを言おうと口を開いてはいたが、歯がカチカチと音を鳴らすだけで声はでていない。
 一方、ストラのほうは冷静だった。最初こそびっくりしたが、よく見れば相手は図体が大きいだけで、ストラたちと見た目はそれほど変わらない。ちょっと変わった服装をしているが、言葉も通じているのだから、うまく説得すれば怒りを鎮めてくれるかもしれない。そこでストラは魔女の忠告も忘れて、こんなことを口にした。
「おじさん、誰? どうして怒っているの?」
 すると意外にも、相手は落ちついたトーンの声でこう返してきた。
「この宮殿の衛兵だ。中庭の見回りをしていたのさ。まったく、こんな子供の侵入を許したとあっては我々の面子も丸つぶれだな。さあ、来い。上に報告しなければな」
 あんまりにも乱暴に腕を引っぱるので、ストラは怒って自由なほうの腕で衛兵の手首を掴んだ。
「痛いよ! そんなに引っぱらないでよ!」
「つべこべ言うな、いいから来い!」
 そうしてふたりが言いあらそっていると、生垣の向こうから誰かがやってきた。その人物もまた、衛兵と同じ服装をしていた。衛兵はその人物に気づくと、さっとふたりの手を離し、機敏な動きで敬礼をした。
「隊長……!」
「戻りが遅いぞ。何をしている」
 低くしゃがれた声のその男は、衛兵よりも幾分老けていた。彼はこちらに近づいてきてストラたちを目にとめると、眉根をよせて不機嫌そうな顔つきになった。
「なんだ、この子供は」
「たった今、自分が発見いたしました。侵入者です」
「侵入者だと?」
 隊長と呼ばれた男は、ストラとアンジュの身体を頭のてっぺんからつま先までじろじろと観察し、ふんと鼻を鳴らした。
「服はきれいだが、靴を履いていないな。どうせ教養のない貧乏人の子供が好奇心で入りこんだのだろう。つまみだしておけ」
「しかし隊長、無断侵入は重罪です。報告せねば……」
「必要ない」
 隊長はそう吐き捨て、アンジュをじろりと睨んだ。そこではじめてストラは、アンジュが肩を震わせて泣いていることに気がついた。
「この程度で泣きだすような子供のことを報告してどうする。我々の監視体制が甘いと発表しているようなものではないか。それに、今の城内は『例の事件』のせいで空気が張りつめている。下手に王女の怒りを買うようなことがあれば首が飛ぶぞ。さっさと追いだして、お前は自分の持ち場へ戻れ」
 こうして、ストラとアンジュは生垣を抜けた先の勝手口から追いだされ、ただちに城から離れるように言われた。どうしようもなく、ふたりは言われるがまま石造りの道路をとぼとぼと歩きはじめた。
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