時の国の王女

 魔女はアンジュが持ってきた手紙に目を通すと、深いため息をひとつついた。
「虹の国にまで影響がでているとはねえ。ことは想像以上に重大らしい。やはり時の力というのはあなどれないものだ」
「おばあさん、どうして虹の国がおかしくなっているか知っているの?」
 アンジュが身を乗りだすと、魔女は手紙を読むためにかけていた眼鏡をくいとあげて、手元に寄せていたランプをテーブルのまんなかに戻した。
「おまえたちが聞いてきたとおりだよ。時が止まっているんだ。正確には停滞していると言ったほうが正しい。このとおり、空は夕方のままで曇りっぱなしだ。これが、かれこれ一ヶ月も続いている。原因は時の国の城にあるのだろうが、その城の人間にも本当の原因はわからないらしい」
「ゆうがた?」
 話の中に聞きなれない言葉があったので繰りかえすと、アンジュがするどい目をしてこちらを睨んだ。
「もう、ストラがいるとちっとも話が進まないわ。夕方も知らないなんて!」
 あまりに厳しい叱責にストラは椅子の上で縮みあがった。どういうわけか、東の門をくぐって以降、アンジュはずっと機嫌が悪かった。いつもなら知らないことを質問しても、呆れたように笑いながら「もう、ストラったら」のひと言ですませてくれるのに。
「この虹の子は驚くほどものを知らないね。いったいいくつで虹の国に来たんだい?」
 魔女が興味深そうににやついた。その表情はなんだか意地悪く、罠にかかったネズミを観察するかのような目をしている。ストラは質問の意味がわからず、どぎまぎした。「いくつで来た」とは何を指すのだろうか。
「ストラはずっと虹の国にいるのよ。最初からずっとよ。だから、なんにも知らないの」
「へえ、それは珍しい。そういう子はたいてい、虹の国にはとどまらずに──」
「関係ない話はやめて。そんなことより、わたしたちは時の国に行きたいの。どこにあるか教えて」
 アンジュはいらだった様子で無理くり口を挟み、魔女の話を打ちきった。魔女はしばらく面喰らって肩をいからせたアンジュと恐怖で固まってしまったストラを観察していたが、何かを察した様子で息を吐いた。
「ここだって『時の国』だよ。一応、時の国の領地だ。だが、女王が言っているのは城下町あたりのことだろうな。なんせ、ここは人里離れた山の中だからね。何も調べようがない。まあ、城下町まではそれなりにかかる。まず山を越えて、そこからさらに歩かないといけない。馬車に乗せてもらうという手もあるが……まあ、おまえたちは飛べるのだから、山越えはには苦労しないだろう」
 そのとき、ランプの光が届かない暗がりから、ぬっと人影が現れた。小さなやかんを手にしたノエルだった。
「お湯が沸きました」
「おお、ありがとう。ちょうどいい、おまえが使っている地図を持ってきてくれ。何枚かスペアがあるだろう」
 ノエルは返事もせずにやかんを置いて、どこかへ行ってしまった。ノエルがいなくなると、魔女はひとりでカップを温め、茶葉と湯をポットに入れ、ポットから色のついた湯を注ぎだした。ストラはその様子をぼんやりと眺めながら、この液体について質問をしたらまたアンジュを怒らせてしまうだろうか、などと考えていた。
「どうぞ」
 先ほどと同じく、ノエルは突然現れた。そして地図を投げ捨てるように魔女の前に放ると、またすぐに消えてしまった。
「ご苦労さん。悪かったね」
 魔女はノエルの攻撃的な態度をまったく気にとめず、流れるような手つきで丸まっていた地図を広げた。
「いいかい、ここがあたしの家、つまり虹の国の入口だ。そこから山を越えた先に村があって、さらに北へ進んだら城下町にでる」
「そこへ行けばいいのね」
「まあ、ここよりはいい情報を得られるだろうよ。それ以上はあたしにもどうしようもないね。気がすんだら帰っといで。ま、せいぜい頑張りな」
「ありがとう、おばあさん。すぐに行くわ。わたしたち、二十四時間経つと他の人から見えなくなってしまうの」
 アンジュはすぐさま椅子から立ちあがった。身体は戸口のほうを向いていて、今にも外へ飛びでそうな勢いだ。何をそんなに急いでいるのかはわからないが、とにかく早く行きたいのだということはストラにもわかった。しかし、それは好奇心に満ちあふれた笑顔ではなく、どこか面倒くさそうな、焦っているような怒りの表情をともなっていた。
「ああ、それはよく知っているよ。虹の住人はみんなそうだ。大丈夫、身体がなくなってもあたしらにはちゃんと見えるから。虹の国を知る者には、ちゃんとおまえたちのことが見えるんだよ」
 魔女はノロノロと席を立って玄関のドアを開け、ふたりにでるように促した。
「人前では翼を見せるんじゃないよ。怪しまれて捕まったら大変だからね。それからそっちの子、ストラと言ったっけ? くれぐれも余計なことは喋るんじゃないよ。そっちの女の子に全部任せておきな」
 ストラはよくわからないながらも返事をし、アンジュとともに魔女に別れを告げると、アンジュの案内に従い、山頂へ向かって飛びたった。


 魔女の家を離れてしばらく経っても、下方の景色は変わらなかった。険しい山脈はどこまでも連なっており、岩肌と木々、そして緑の植物の他は何も見あたらない。ストラは前方のアンジュに目をやった。彼女はじっと地図を見ながら、自分の現在位置を把握していたのだが、ストラには彼女が何をしているのかさっぱりわからなかった。だから、彼女がずっと押し黙っているのはまだ怒りが治まっていないからだと勘違いして、びくびくしていた。
「ねえ、アンジュ。どうしてそんなに怒ってばかりいるの?」
 震える声で尋ねると、アンジュは空中で一旦停止し、地図をおろしてストラを振りかえり、いつもの明るい調子で「怒っていないわよ?」と不思議そうに答えた。ストラは彼女の機嫌が悪くないことに安堵し、思いきって聞いてみた。
「じゃあ、なんでさっきまで怒っていたの?」
「怒って……?」
 アンジュはしばらくその言葉の意味がわかっていない様子だったが、やがて、ハッと右手で自分の頬を押さえて俯いた。ここにきて初めて、彼女は自分の機嫌が悪くなっていたことを自覚したらしかった。
「ごめんなさい、気づかなかったわ。違うのよ。その……わたしは虹の国が好きなの。それで、虹の国の外は嫌いなのよ。だから、ちょっとおかしくなっているのかも」
「どうして? こんなに楽しいのに」
「ストラは何も知らないから、そんなことが言えるのよ。虹の国の外は恐ろしいのよ。怖いことばかりだし、ひどい人がたくさんいるわ。西も東も関係ない。下界なんて大っ嫌い」
 アンジュは自分に言い聞かせるように、早口でそうつぶやいた。その口ぶりはまるで、「下界」のありとあらゆることを知っているかのようだった。なぜ、アンジュは下界のことを知っているのだろう。自分は虹の国の中しか知らないのに。同じ小さな子供なのに、なぜアンジュだけが外の世界の事象に詳しいのだろう。ストラは少し悔しかった。自分は外のことを知りたくてたまらないのに、アンジュはその真逆のことを言っている。どういうことなのだろう? ストラは思わず、その疑問を本人にぶつけてしまった。
「どうしてアンジュはそんなに下界のことを知っているの? ぼくは知らないのに」
 するとアンジュは一瞬だけ暗い表情になり、いつもの調子からは考えられないほど低い声で、はっきりと言った。
「わたしも下界にいたからよ。ほんの少しだけね」
「えっ!」
 驚いたストラが質問を重ねようとすると、アンジュはすかさず大きな声で「もうやめましょう!」と遮った。
「とにかく、原因を探って帰らなきゃ。わたし、一刻も早く帰りたいの。虹の国にいないと落ちつかないのよ。さあ、急ぐわよ」
「うん……」
 その有無を言わせぬ声色に、ストラは渋々頷くしかなかった。
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