小さな囚人

 「上」とは、俺たちの支配者のことである。何者なのかはわからない。少なくとも人間ではないだろう。俺を含め、職員が「上」について知っているのは、声だけだ。この場所にこんな建物を造ったのも、俺たちを他者の寿命と引き換えにここへ連れてきたのも、消耗品や食事を供給してくれるのも、この「上」と呼ばれる存在だとされている。職員の中には、この「上」の正体について、真剣に研究を続けている者も多く、図書室に行くと、彼らによって書かれた興味深い研究論文を読むことができる。
 そんな「上」の声をどうして俺たちが知っているかというと、彼が声によって俺たちに命令を届けるからである。
 彼──まあ彼女かもしれないが、とにかく彼は、ある日突然、脳内に語りかけてくるのだ。それは絶対の命令で、俺たちはその指示に従わなくてはならない。
 たまに、「上」の支配を嫌がって施設を出ていく者もあるが、彼らはたいてい二度と戻ってこない。いったいどこでどうして生きているのか、知る者はいなかった。この施設を出れば職員から「浮浪児」となり、「上」に支配されることはなくなる。しかし、それと同時に「上」の庇護を受けることもできなくなるのだ。いくら自由でも、庇護のない状態で、こんな子供の身体で、まともに生活ができるとはとても思えない。少なくとも、俺はここを出るつもりはなかった。ここでの暮らしは悪くないし、自由で幸せな人生はもう充分に堪能していたからだ。
「い……っ!」
 いきなりキン、とこめかみに痛みが走った。俺は痛みに顔を歪め、目尻のあたりを押さえた。間違いない。これは……
「トオルさん、まさか緊急命令ですか!?」
「はい、多分……」
 そう、この痛みは緊急命令の合図だ。
 普段なら実行する日の前日までに「命令」があるのだが、ごく稀にそうではない場合がある。それが「緊急命令」だ。読んで字のごとく、何の前触れもなく突然命令がやってくるのだ。
 ショウイチも俺に緊急命令が来たことを悟ったのか、黙ってこちらを心配そうに見ている。俺はその場でしゃがみこみ、目を閉じて、頭の中に語りかけてくる低い声に集中した。低い声は、俺にある行動を命じると、頭痛とともにすうっと消えていった。
「すみません、俺、ちょっと」
 急いで立ちあがると、ショウイチはにこりと笑って、先ほどの本を掲げた。
「ええ、大丈夫です。本の返却処理は終わったので、元の位置に戻しておきますね。気をつけて」


 俺は掃除用具の倉庫に行き、大きな屋外用の箒を引っ張りだしてきた。幸い、今日は遠くへ行く必要はないようだ。
 戸口から外へ出る前に、ふと、いつものワープゾーンのほうを見た。ワープゾーンとは白い線で丸く囲まれたマンホールくらいの大きさの床で、使う必要があるときは白く光っているのだ。命令によっては、このワープゾーンを通じて見知らぬ場所へ行き、訳もわからぬまま命令に従って誰かに手紙を渡したり、誰かと話をすることもある。だが、今日はワープは必要ないようだ。
 どういうわけか、建物の外を掃除するよう命令がくだったので、俺は箒をかついで大きな門を少しだけ開け、外に出てその辺の落ち葉を集めはじめた。ここは大木だらけの山の中で、今は十一月だ。集めても集めても、木枯しが吹いて新たな葉をよこしてくる。
「こんな作業に意味あるのか?」
 俺はぽつりと呟いた。ここの職員は命令がない限り建物の外へは出ない。命令に従った外出にはワープを使うので、玄関を通ることもほとんどない。ましてや門の外なんて、危険すぎて出ようにも出られない。勝手に外出すると「浮浪児」と見なされて職員の資格を剥奪されてしまうので、皆建物の中に引きこもっているのだ。だから、門の外を掃除する必要など、全くないのである。
「あの……」
 二十分ほど掃除を続けていると、突然誰かのか細い声が聞こえた。コートを着た二十歳くらいの女性が、よろめきながらこっちへやってくる。
「ああ、人だ! よかったあ。私、車でここまで来たんだけど、道に迷っちゃって。誰か大人の人はいないかな?」
 相手は俺を子供だと勘違いしているらしく、やたらと馴れ馴れしく話しかけてきた。それから彼女は、俺のすぐ後ろにある施設のほうに目をやった。
「ねえ、これ学校? それとも病院かな」
 ──ああ、そういうことか。
 俺はひとり、納得した。この人には「見える」のだ。
 この施設は深い山奥にあるが、近くに県道がある関係で、ときどき誰かが迷いこんでくる。この場所と、それを示す看板は本来、一般人には見えないようにできているらしいが、たまにこうして「見える」人間がいる。そして、そういう人間はのちに「契約」をする可能性が高いのだ。
 この人も大切な人を一度失うのか。可哀想に。
 俺は彼女を哀れみつつ、無表情を装って尋ねた。
「行き先は?」
 彼女は困惑の表情で俺の顔を覗きこんだ。まあ、さっきの質問の答えではなく、こんな意味不明なことを言われれば、誰だってこんな顔になる。しかし、俺はそれ以外のことは言えない。この手の迷い人は、行き先だけを聞いてすぐに送りかえすのがルールなのだ。
 なんとか行き先だけを聞きだすと、俺は施設に戻った。中では、他の職員がすでに紙コップを持って待機していた。彼もまた、緊急命令に従ったのだろう。
「迷い人ですか?」
「ええ。行き先も聞きました。車です」
「承知しました。どうせ、いつもの場所で乗り捨てているのでしょう。すでに別の者が向かっています」
 俺はコップを受けとると、女性のもとに戻った。白い紙コップに入っているのは麦茶だ。季節にあわせて温度を変えているので、今の時期は湯気がたっている。俺はコップを差しだし、脳内で指示された通りの言葉を、一語一句間違えないようにくりかえした。
「この道に詳しい者が、案内するそうです。今、地図を探しているところなので、もうしばらくお待ちいただけますか」
「わあ、ありがとう」
 女性は麦茶をひとくち飲むと、そのままパタンと倒れてしまった。完全に意識が飛んでいることを確認すると、俺はポケットから白墨を取りだし、彼女の周りをぐるりと一本の線で囲んだ。ここは山の中腹なので、本来なら線など描ける土壌ではないのだが、「上」にもらった専用の白墨を使うと、綺麗に線が引けるのだ。
 彼女の周りを線で囲ってしまうと、彼女の身体はぱっと白く光り、そして一瞬にして消えてしまった。今頃、彼女の車も含めて目的地に到着している頃だろう。眠りから覚めたら、この施設のことは夢だと思うに違いない。
 ああ、そういえば。俺も、はじめてここへ来たのは車でだった。
 俺は思わず空を仰いで目を細めた。ちょうど今くらいの、肌寒い時期だった。あの頃は若くて、怖いもの知らずで、人生で一番自由だったような気がする。
「俺が自由に外に出られるようになるまで、あと何年だったかなあ」
 木枯らしが吹いて、新たな木葉を散らしていく。早く戻らなければ。あまり長く外にいると、施設を出たと見なされて浮浪児にされてしまう。俺はため息をついて、踵を返した。

(終)
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