時の国の王女

 翼の勢いは想像以上だった。少し翼を動かすだけで、何メートルも進むことができる。
「『つばさ』ってすごいね! 何もしなくても、ずっと空に浮かんでいられるよ」
 じつは、ふたりが浮かんでいる空にはまったく風が吹いていなかった。にもかかわらず、ふたりが翼の動きを止めても、その身体はきちんと空中に静止していた。そう、彼らの翼は鳥類の持つそれとは違い、あくまでも「前に進む」ための道具に過ぎなかった。「翼」が背中に生えているかぎり、ストラたちは何もしなくても、その気になれば永久に空に浮かんでいることもできるのだ。
 しかし、重力や揚力の概念を知らないふたりには、それが特別なことだということがわからなかった。そもそも虹の国には鳥などの動物は存在していなかったので、「翼」というものを見たのもはじめてだった。よって、ふたりにとって「翼」とは「だしていれば浮いていられる道具」という認識になっていたのだ。
 たわいのないお喋りをしつつ、緩やかに羽ばたいて空を進んでいくと、ものの数分で「東側」の雲にたどりついた。
 そこは、随分と小さな雲の島だった。小さなストラの足でさえ、三分もあれば一周してこられる程度の広さで、国というよりは「広場」というべき大きさである。西側のような柵はなく、植物もない。地面に草は生えておらず、どこもかしこもふわふわの雲のままだった。
「思ったより狭いね」
 足元の不安定さに驚きつつ、ストラは雲の上に着地し、周囲をぐるっと見渡した。雲の上には驚くほど何もなかったが、少し向こうのほうに、ただひとつ、アーチ型のゲートが見える。
「あれが門かしら。行ってみましょう」
 アンジュは翼をたたみ、何食わぬ顔で歩きだした。ストラはこのままもう少し飛ぼうかとも思ったが、どのみちたいした距離ではなかったので彼女にあわせることにした。こうして行動に迷ったとき、ストラはいつもアンジュを参考にする癖があった。アンジュはストラよりも物知りなので、何事もアンジュの真似をするとうまくいくことが多かったのだ。
 ふたりがトランポリンのように跳ねる地面を踏みしめて歩いていくと、黒いイバラが絡みついたトンネルのような門がだんだんと見えてきた。
「あそこに誰かいるわ。きっと東の門番ね」
 アンジュが指さす方向をむいて目をこらすと、門の前に人影が見えた。ストラは嬉しくなってわあっと声をあげた。長い間虹の国に閉じこめられていたので、初対面の人物に会うのは久しぶりだったのだ。
 すると、その声に反応するかのように、門の前にいる人物がこちらを振りかえった。
「あら、ずいぶんかわいらしい御使みつかいさんね」
 そこにいたのは小柄な少女であった。西の門番と同じ、水色の縁飾りがついた白いガウンをまとい、水色のブーツを履き、水色の丸いボーラーハットをかぶっていた。さらに、西の門番と同じくそばかすだらけの顔をしていて、透きとおる空色の瞳を持ち、女王そっくりの銀髪をしている。ただ、西の門番は短髪なのに対し、こちらの門番は腰までとどく長髪で、その長い髪は耳の下でふたつに結われていた。
「あなたが東の門番なの?」
 アンジュが尋ねると、門番はにこりと微笑んで頷いた。
「私はミスト。東の門の番をしているわ」
「女の人なんだ。西の門番さんと違うね」
 ストラはもうひとりの屈強な門番を思いだしながら言った。西の門番は切れ長の鋭い目をしていて、口は固く引きむすんであり、いかにも近寄りがたい雰囲気をした背の高い男性である。一方、このミストは服装こそ同じであるものの、優しい雰囲気の少女という感じの女性である。なまじ見た目が似ているだけに、一見するとまるで兄妹のようであった。
「西の門番? ああ、それは『フォッグ』のことね」
 ミストは左手に長い柄のついた槍を持ったまま、右手に髪の毛を巻きつけていじりはじめた。その幼い仕草は、とても重要な飛び地に派遣されている守護者には見えない。
「彼とはときどき、情報交換のために会うことがあるの。そういえば彼から、『双子みたいな子供たち』が虹の国にいると聞いたことがあるわ。きっと、あなたたちのことね。それで、何か用?」
 アンジュが女王から受けとった手紙を渡すと、ミストはそれにさっと目を通し、手紙とストラたちを交互に眺めて、面倒くさそうにため息をついた。
「なるほど、事情はわかったわ。じゃ、あなたたちがアンジュとストラなの? どっちがどっち?」
「こっちがストラで、アンジュはわたしよ」
「へえ」
 ミストは眉根を寄せて、じろじろとふたりを観察した。
「本当、あなたたちってそっくりね。けど、双子とは思えないし。もしかして、どちらかがどちらかの真似をしてるんじゃない?」
 ミストの指摘通り、ストラとアンジュの顔は同じだった。同じ目に同じ鼻筋の顔立ちで同じ肌の色、そして同じ髪色と髪型。その姿は鏡に映したように瓜ふたつだった。
 ただ、ストラとアンジュが並ぶと、アンジュのほうが少しだけ背が高い。それに、ふたりは顔は同じでも声は全然違った。だから虹の住人は背の高さと声だけでふたりを区別していたのだ。
「ストラよ」
 アンジュは憤然として腕を組んだ。
「ストラは自分の姿がわからないから、私の姿を真似してるの。女王様がそう言ってたわ。おかげでわたし、たまにストラに間違われるの」
 ストラはキョトンとした顔でアンジュを見あげた。
「そうなの?」
「そうよ! おかげで結構迷惑してるのよ」
 そんな話は初耳だった。そもそも、自分がアンジュと同じ見た目をしていることにも長い間気づいておらず、それを指摘されても何が問題なのかさっぱりわかっていなかった。もちろん、「真似をした」覚えなどない。ストラは物心ついたときから今までずっと、ありのままの姿で過ごしてきたはずだ。
 第一、虹の国で自分の容姿を確認することができるのは、国の外れにある小さな池の水面くらいしかない。だから、その気になってわざわざ池に赴かない限り、自分の姿を見ることはない。つまり、普段ストラは自分の姿が見えない環境で過ごしているのだ。ストラにとっては目に見える世界こそがすべてであり、見えないもののことをわざわざ考えたりはしない。したがって、自分の見た目のことなど知るわけがないのである。
「ストラだって、たまに間違われているでしょう? おかしいと思ったことはなかったの?」
「ぼく……そんなこと、考えたこともなかった」
 ストラはおどおどしながら、やっとのことでそう答えた。そう、ストラは「自分の顔」というものを意識したことがなかった。というより、「自分」を意識したことがなかった。ただ、「ストラ」という言葉が自分を示している、というくらいの認識しかなかったのだ。
「それじゃ困るわね」
 ミストはやれやれ、というように首を振った。目の前のストラとアンジュのやりとりには興味がないようだった。
「自分の姿がわからない人には『仮の身体』を与えられないわ。しかたがないから、ちょっと調べてみましょう。面倒だけど、女王様のご命令だしね」
5/25ページ
いいね