lunacy

 最近は、空をみない。
 朝に天気予報をチラ見して、ようやく雨雲の存在を知るくらいだ。
 学校には常に置き傘をしているし、鞄にも折りたたみの傘が入っている。この時期には必需品だ。九月は、天気が変わりやすいから。
 ──本日は中秋の名月ですが、残念ながら雲に隠れてしまいそうです。
 天気予報にありがちな、少しだけ感情をこめた棒読みのコメントを聞き流し、私はさっさと玄関で靴をはいた。時計の針は、いつもの出発時刻ぎりぎりを示していた。


「お月見なんて、もう概念でしかないよね」
 昼休み、友人のリリがコンビニの袋を漁りながら、ぽつりといった。その手には精算時に店員が入れたのであろう、月見にちなんだ商品の宣伝チラシをつまんでいた。
「そうそう、夜になっても冷房必須だし、普通に寝苦しいし」
 隣にいたユノがハンディファンのスイッチを入れながらへらへらと笑った。この日の最高気温は三十二度で、当たり前のように真夏日だった。それでも、夏休みの苦しみに比べればよほど涼しい。
「でもあたし、帰りに月見タルト買おうかな。今日、一緒に帰るでしょ?」
 リリがみせてくれたチラシには、ところせましとお月見スイーツの写真が並んでいた。ユノはハンディファンをほうりだしてチラシをのぞきこんだ。
「あたし、うさぎ団子にする! どうせ今日は曇ってるし、気分だけでも月見ってことで」
 その後、彼女は私にもチラシをよこし、スイーツをひとつ選ぶようにいった。私は色の濃いソースがまるく載せられたプリンを選択し、本日の放課後は三人でコンビニに寄り道することとなった。


 最寄り駅につくと、あたりはもう真っ暗だった。部活のあと、のんびり買い食いを楽しんで会話にあけくれていたせいで、すっかり遅くなってしまった。
 首を上に傾けてみたが、月も星もない。天気予報は大当たりで、どんよりとした黒い空が、ただ、煌々と無機質な街灯に照らされているだけだった。


 私の通学路には小さい公園があり、いつもは公園をまがって細いわき道を歩く。これが自宅のある住宅街への最短コースだからだ。
 しかしこの日、私は公園の前で足をとめると、向きを変え、公園の中へと入ると、まっすぐ公園を横切り、反対側の大通りへと進んだ。
 なぜ、そうしたのかはわからない。
 意識は家に帰ろうとしているのに、どういうわけか身体からだがいうことをきかなかった。
 私はただ、もくもくとあてのない道を歩みはじめた。現在時刻が門限ぎりぎりであることも、このままでは避けられないであろう両親からの叱責のことも、もはや頭にはなかった。
 私はただ、命令信号を受けたロボットのように、規則的に足だけを動かしつづけた。


 大通りを少し進むと、まもなく大規模な交差点があらわれた。片道三車線の、交通量の多いところで、歩行者用の信号はおそろしく時間が短い。
 信号待ちのあいだ、暗闇の中を金色のヘッドライトと赤いテールランプが次々と駆けぬけてゆくのが見えた。それは、見慣れた光景でありながら、どこか幻想的で、どこか淋しさを覚える景色だった。
 交差点を抜けると、そこからほどなくして繁華街に辿り着いた。といっても、ここは繁華街のはずれのほうだ。
 中心部から離れているこの場所は、平日の昼間はほとんど人気がない、静かな場所だ。だが、夜はそこかしこに若い男女が歩いていて、少々いかがわしい雰囲気が漂っている。
 ここはあまり土地柄のよい場所ではない。夜間にはひとりで立ち入らないようにと、親からも強く注意されているエリアだ。実際、歩道や車道には無数の酔っ払いが座りこんでいた。酔いつぶれるには少し時間が早すぎるような気もするが、この場所ではこれが常なのだろう。ほかにも寝転がったり、煙草を吹かしていたりする派手な風貌の若者もいた。
 私はそういった連中には目もくれず、疲れた足を引きずって、とろとろと通りを進んだ。目的もないのに、なぜか進まずにはいられなかった。


 ここは飲み屋か多い場所で、通りに沿ってたくさんの居酒屋が並んでいる。
 その中に、怪しげな蛍光色の看板をかかげた、古びたテナントビルがあった。私はなぜかそのビルに惹かれ、狭い入り口から非常階段を上って二階を目指した。
 理由は自分でもわからない。今となっても、当時の自分が何を考えていたのかは、うまく思いだせない。ただ、頭のどこかに「そうしなくてはならない」という強い意思が存在していたのはたしかだ。


 店は、二階に上がるとすぐにあった。看板には〈BAR〉とあるだけでメニューも何も書いていない。ガラス扉の隙間から覗くと、数人の男性が酒を酌み交わしながら談笑しているのがわかった。
「あら、悪い子がいるね。夜遊び? 入るなら早く入りな」
 ガラスごしに私の姿がみえたらしく、初老の女性が扉をあけ、私に手招きをした。その立ち居振る舞いからして、彼女はいわゆる「スナックのママ」というやつだろう。ただ、漫画やドラマにあるようなパーティー風の衣装は身に着けていない。かわりに、大胆な花柄のチュニック、細身の黒ズボン、サンダル、それに異様に大きな丸いピアスという風変わりないでたちをしていた。
「それとも、うちの子の友達かな。制服を見るかぎり、そんなところかね。ねえ?」
 女性ははりのあるハスキーボイスでとうとうと話しかけてきた。私は怖気づき、うわの空で「はい」とだけ答えた。ほかに説明できる理由もないので、それ以外に返答のしようがなかった。だが、女性はそれを素直に肯定の返事ととり、けらけらと笑った。
「こんなところまで若い女の子を呼ぶなんて、あの子もどうかしてるよ」
 女性は扉をぐいと広げ、私の背中を押して店に押しこんだ。私はされるがまま、店内に入室した。
 入口のそばにはカウンターがあって、寡黙そうな初老男性がロックグラスを手に、じっと何かを考えていた。奥にはテーブル席が三つあり、左端のテーブルにはスーツを着たグループが着席していた。酔いがそうとう回っているのか、全員がのけぞって爆笑している。店内は彼らの笑い声でにぎやかだった。
「さあ、今日は常連さんしかいないから、隅っこに座ってるといいよ。ほら、うちのマサヤはあそこにいるから」
 そういって女性が指さした先には、見覚えのある男子制服を着た人物がいた。私はぎょっとして後ずさり、相手は相手で目を見ひらいたまま、こちらを凝視していた。相当驚いているらしい。
「い……井口いぐちくん」
 そこにいたのは、同じ学校の井口真哉いぐちまさやだった。大人しく、いつも黙々と机に向かっているタイプの地味な人で、一対一で話をしたことなんてない。
「な、なんでここにいるの」
 どうにか声を絞りだすと、「井口くん」は持っていたゲーム機をテーブルに置き、三秒ほど間をおいてから「こっちの台詞だよ」と返答した。
 そこから先、会話はなかった。「井口くん」きわめていぶかしげな表情で私を眺め、なにか考えこんでいる様子だった。そのあからさまに不機嫌な顔と気まずい空気に耐えられず、私は覚悟をきめ、大声ですべてを笑い飛ばすことにした。ここまできたら、何をしても結果は同じだ。
「私はただの偶然だよ。家に帰りたくなくてフラフラ歩いてたら、ここに来ちゃった」
 私はすべてを白状することにした。どうせ気まずい結果になるのなら、せめて明るく乗りきったほうが傷は浅くすむだろう。
 ところが、井口くんは話を聞いても無言のままだった。彼は黙って私の意味不明な話をしまいまで聞き、最後の最後にぽつりとこうつぶやいた。
「ああ。今日、満月か」
「は?」
 嚙みあわない返事に困惑する私をよそに、彼は今日が旧暦の八月十五日で今夜が「中秋の名月」であること、そしてその月が満月であること、これは意外と珍しいことを教えてくれた。
「非科学的でばかばかしいけれど、満月の光にはちょっと特殊な力があるといわれているんだよ。だから君も、こんなところ、、、、、、まで来てしまったんだ。けど、ここから帰るのも面倒だろう?」
 彼はすっと立ちあがり、近くの窓をぐいと押しあけた。砂埃すなぼこりだらけのサッシが軋み、甲高い音をたてたが、気に留める人間はいなかった。
「僕が君の家まで送るよ。大丈夫、何事もなく終わるさ」
 いうが早いか、彼は躊躇なく窓の外に飛びだした。もちろんここは二階だ。しかし、彼の身体は落下せずにその場に浮いていた。彼はみえない床をしっかり踏みしめ、その場に立っていた、、、、、
 彼は黙ってこちらに手を差しだした。誰にいわれるとでもなく、私は彼の手をとって、同じように窓の外へでた。身体は宙に浮いていて、足はみえない地面についていた。地面には硬さがあり、しっかり重力を感じた。実際の地面との違いはただひとつ──目にみえるかみえないか、だけだ。
 両足の隙間からは、小さな街灯や屋根がみえる。街灯は先刻の寝転がった酔っ払いや、歩き回る野良猫などを照らしていた。夜闇の中に浮かびあがる彼らの姿はなんとも幻想的で、ある意味では美しいものだった。
 彼は無言でみえない地を進んだ。私もそれにならった。疑問はない。不快感もない。すべては「そういうもの」と認知されている。そこに私の意思はない。すべてが「なんとなく」で進行する──それはまさに、私が駅から夜道をたどったあのときと同じ感覚だった。


 空中散歩は短い時間で終わってしまった。気づくと、私は自宅のすぐ手前まで来ていた。身体は少しずつ下降し、門前に着くころには、両足が本物の地面に吸いついていた。
 私は門限のことを思いだし、慌てて腕時計に目をやった。現在時刻は──最後に電車を降りたときの時刻だった。
 そんなはずはない。時計が壊れているのだろうか?
「気をつけて帰るんだよ。明日も早いんだから」
 頭上から井口くんの声が降ってきた。顔をあげると、そこには──私よりも頭ひとつ分背の高い井口くんがいた。制服は着ていない。今の彼は、水色シャツに紺のジャケットを羽織い、ラフなベージュのパンツを履いている。しかし、不思議とさっきまで見ていた制服姿よりもずっとしっくりくる。なぜだろう?
 いや。
 私は思わず頭を振った。なぜ気づかなかったのだろう?
 「井口くん」ではない。私の学校にいたのは井口くんではない。あれは同級生ではない。あれは、あの人は──
「井口、先生」
 そう口にだしてから、私は口もとを右手で押さえた。
 そうだ。この人は。
「また明日」
 井口「先生」は目を細め、先生らしく偉そうな顔をしてにやりと笑った。


 次に気づいたとき、私は家の戸口に立っていた。
 鞄に手を突っこんでスマートフォンを探して電源を入れてみたが、時刻はやはり、電車を降りたときの時刻だった。
 私は帰宅するやいなや自室に駆けこみ、記憶を頼りに、さっきのビルを調べてみた。しかし、繁華街や近所の施設の名前はヒットするものの、あの店もあのビルも、それに繋がる道筋も、何ひとつみつけることができなかった。


 翌朝、私は少し早く登校し、意を決して職員室のドアをあけてみた。
 井口先生はいた。そして、私をみて、昨夜と同じ顔でにやりと笑った。
「昨日は楽しかった?」
 それは、明らかに知っている、、、、、者の反応だった。私は尋ねた。
「あれは、どういうことなんですか?」
 すると井口先生はあいかわらずの笑みで、愉快そうに答えた。
「月のしわざだよ。満月の光にあてられた、、、、、のさ」
(終)
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