小さな囚人
はっと目が覚めた。日光が俺の顔をあぶっている。ああ、昨夜うっかりカーテンを閉めるのを忘れていた。俺はゆっくりと身をおこし、ぐっと両腕を伸ばした。
さて、今日は予定が入るのだろうか。
制服に着替え、軽く髪を整える。朝の身支度はこれだけだ。
最近は、もう何も食べなくなった。ここへ来てすぐの頃は食べていたが、人間とは怠慢なもので、必要のないものにはすぐに執着しなくなる。食べなくなると、老廃物もでなくなる。したがって排泄も入浴も必要なくなる。おかげで毎日、気楽なもんだ。
今日は午後の掃除当番なので、午前はすることがない。こういうとき、俺は決まって図書室へ行く。図書室はこの施設で最も大きな部屋で、いたるところに本棚が設置され、その全てに面白い本がぎっしりと並んでいる。そして、毎月のように新しい本が増えていくのだ。
「おはようございます」
図書室の入り口で聞きなれた声がした。ふと足を止めて声がした方を見ると、そこにはショウイチがいた。図書室のカウンター席に座っている。彼は図書委員をやっていて、週に何日かは決まってカウンターにいるのだ。図書委員は仕事ではなく有志のボランティアで、読書好きの物静かな人が多い。
「朝からトオルさんに会うなんて珍しいですね。今日はお休みですか?」
トオルというのは、俺の名前だ。しかし本名ではない。ここの職員は本名を名乗ることを許されず、お互いにニックネームで呼びあっている。
ここへ来て間もない頃、ショウイチは自分の生い立ちを少しだけ話してくれたことがある。彼も太平洋戦争で家族を失っており、家族を蘇らせた代償としてここへ来たという。ショウイチというのは、彼の長男の名前をもらったそうだ。その話を聞いて、俺も息子の名を名乗ることにした。勝手に名前を借りて申し訳ないと思いつつも、一から名前を考えるよりも楽だったし、何より、他人に呼ばれることに抵抗がない。今では本名のほうを忘れそうなくらいだ。
「おはようございます。そうなんですよ。掃除当番でもないし、事務仕事も終わったし、今のところは『命令』もないし、読書でもしようかと思いまして。ショウイチさんこそ、珍しいじゃないですか。普段は午後のシフトなのに」
「ああ、これは朝の図書委員が『外働き』に行くことになったので、その穴埋めなんです」
俺は驚いた。図書委員をやるようなおとなしい人が、外働きへ行くことなど、めったにないからだ。
「朝の担当って、ミズキリさんですか? あんな内気な人が、なんでまた命令もなしに外に。よっぽど欲しいものでもあるんでしょうか」
「いえ、どうしても行きたい場所があるので、貯金をしたいのだそうです。彼の寿命は、残り五年しかありませんから」
「なるほど、いいなあ。俺はまだまだ外には出られないので、うらやましいです」
「外」とは、文字通り施設の外のことだ。この場所で一定期間過ごし、会える肉親が死に絶えた職員は、申請さえすれば外で働くことを許される。身体は二十歳前後の姿になり、架空の経歴を書いた履歴書を用意される。つける仕事は低賃金のアルバイトのみだが、それでも外の空気を吸いたい者は喜んで行くらしい。あとは、好きなものを食べたり、旅行したりする機会に備えて貯金をしたい者もいるそうだ。一部の好奇心旺盛な者は、貯めた現金で外部の書物やデジタルの情報を集めて回っており、それらを善意で図書室に寄贈してくれることもある。
ちなみに、この施設内にいる限り、現金は必要ない。筆記用具だろうと、壁掛け時計だろうと、食事だろうと、すべて必要な日の前日までに「申請」さえすれば、必ず望んだものが枕元に支給される。ちなみに、自分で何かを書きあげて「申請」すると、翌日にはそれが一冊の本になって返ってくる。その本は新書として図書館の目立つコーナーに置かれ、他の職員がそれを読みに来ることもある。職員の中には、この出版を楽しみに生きている者もいるらしい。
それらがどのような経緯で用意されるのかはわからない。それを知る者はこの施設の中にも存在しない。ただ、昔から「そういうもの」だったのだ。
ただし、食事や消耗品の種類はあらかじめ決められており、レパートリーも極めて少ない。それで、自由に欲しいものを手に入れるために「外働き」によって現金を得ようとする者が一定数いるのだ。もっとも、食事に関しては生存に必要ないため、よほどの変わり者以外はあまり欲しがらない。食べてしまうと、排泄の必要があって面倒なので、皆嫌がるのだ。
俺たちの身体は気味の悪いつくりで、睡眠以外は何も必要としない。食事は不要だし、性欲も存在しない。そして、どんな怪我を負っても死なないようにできている。ただ、痛覚だけはきちんとあるので、日々の生活には気をつけなければならない。水に溺れても、大岩の下敷きになっても意識が飛ばず、苦しみ続ける羽目になるからだ。
そういうわけで、ここの住人は毎日、職員としての「仕事」をし、空き時間には本を読んだり、あるいは書いたり、時には絵を描いてのんびりと過ごしている。欲望という生きるための本能を失った俺たちに争いの理由はない。施設の中は、常に平穏そのものだった。
「ところでトオルさん、その本は返却されるんですか?」
俺はあっと声をあげて、脇に抱えていた本をカウンターに置いた。あやうく忘れるところだった。
「すみません、お願いします」
ショウイチはその厚い布張りの本を手にとり、ちょっと驚いた様子でその題名を指でなでた。
「これは『上』についての研究論文ですね。こういうのも読まれるんですか」
「ええ。最近ちょっと興味がありまして」
さて、今日は予定が入るのだろうか。
制服に着替え、軽く髪を整える。朝の身支度はこれだけだ。
最近は、もう何も食べなくなった。ここへ来てすぐの頃は食べていたが、人間とは怠慢なもので、必要のないものにはすぐに執着しなくなる。食べなくなると、老廃物もでなくなる。したがって排泄も入浴も必要なくなる。おかげで毎日、気楽なもんだ。
今日は午後の掃除当番なので、午前はすることがない。こういうとき、俺は決まって図書室へ行く。図書室はこの施設で最も大きな部屋で、いたるところに本棚が設置され、その全てに面白い本がぎっしりと並んでいる。そして、毎月のように新しい本が増えていくのだ。
「おはようございます」
図書室の入り口で聞きなれた声がした。ふと足を止めて声がした方を見ると、そこにはショウイチがいた。図書室のカウンター席に座っている。彼は図書委員をやっていて、週に何日かは決まってカウンターにいるのだ。図書委員は仕事ではなく有志のボランティアで、読書好きの物静かな人が多い。
「朝からトオルさんに会うなんて珍しいですね。今日はお休みですか?」
トオルというのは、俺の名前だ。しかし本名ではない。ここの職員は本名を名乗ることを許されず、お互いにニックネームで呼びあっている。
ここへ来て間もない頃、ショウイチは自分の生い立ちを少しだけ話してくれたことがある。彼も太平洋戦争で家族を失っており、家族を蘇らせた代償としてここへ来たという。ショウイチというのは、彼の長男の名前をもらったそうだ。その話を聞いて、俺も息子の名を名乗ることにした。勝手に名前を借りて申し訳ないと思いつつも、一から名前を考えるよりも楽だったし、何より、他人に呼ばれることに抵抗がない。今では本名のほうを忘れそうなくらいだ。
「おはようございます。そうなんですよ。掃除当番でもないし、事務仕事も終わったし、今のところは『命令』もないし、読書でもしようかと思いまして。ショウイチさんこそ、珍しいじゃないですか。普段は午後のシフトなのに」
「ああ、これは朝の図書委員が『外働き』に行くことになったので、その穴埋めなんです」
俺は驚いた。図書委員をやるようなおとなしい人が、外働きへ行くことなど、めったにないからだ。
「朝の担当って、ミズキリさんですか? あんな内気な人が、なんでまた命令もなしに外に。よっぽど欲しいものでもあるんでしょうか」
「いえ、どうしても行きたい場所があるので、貯金をしたいのだそうです。彼の寿命は、残り五年しかありませんから」
「なるほど、いいなあ。俺はまだまだ外には出られないので、うらやましいです」
「外」とは、文字通り施設の外のことだ。この場所で一定期間過ごし、会える肉親が死に絶えた職員は、申請さえすれば外で働くことを許される。身体は二十歳前後の姿になり、架空の経歴を書いた履歴書を用意される。つける仕事は低賃金のアルバイトのみだが、それでも外の空気を吸いたい者は喜んで行くらしい。あとは、好きなものを食べたり、旅行したりする機会に備えて貯金をしたい者もいるそうだ。一部の好奇心旺盛な者は、貯めた現金で外部の書物やデジタルの情報を集めて回っており、それらを善意で図書室に寄贈してくれることもある。
ちなみに、この施設内にいる限り、現金は必要ない。筆記用具だろうと、壁掛け時計だろうと、食事だろうと、すべて必要な日の前日までに「申請」さえすれば、必ず望んだものが枕元に支給される。ちなみに、自分で何かを書きあげて「申請」すると、翌日にはそれが一冊の本になって返ってくる。その本は新書として図書館の目立つコーナーに置かれ、他の職員がそれを読みに来ることもある。職員の中には、この出版を楽しみに生きている者もいるらしい。
それらがどのような経緯で用意されるのかはわからない。それを知る者はこの施設の中にも存在しない。ただ、昔から「そういうもの」だったのだ。
ただし、食事や消耗品の種類はあらかじめ決められており、レパートリーも極めて少ない。それで、自由に欲しいものを手に入れるために「外働き」によって現金を得ようとする者が一定数いるのだ。もっとも、食事に関しては生存に必要ないため、よほどの変わり者以外はあまり欲しがらない。食べてしまうと、排泄の必要があって面倒なので、皆嫌がるのだ。
俺たちの身体は気味の悪いつくりで、睡眠以外は何も必要としない。食事は不要だし、性欲も存在しない。そして、どんな怪我を負っても死なないようにできている。ただ、痛覚だけはきちんとあるので、日々の生活には気をつけなければならない。水に溺れても、大岩の下敷きになっても意識が飛ばず、苦しみ続ける羽目になるからだ。
そういうわけで、ここの住人は毎日、職員としての「仕事」をし、空き時間には本を読んだり、あるいは書いたり、時には絵を描いてのんびりと過ごしている。欲望という生きるための本能を失った俺たちに争いの理由はない。施設の中は、常に平穏そのものだった。
「ところでトオルさん、その本は返却されるんですか?」
俺はあっと声をあげて、脇に抱えていた本をカウンターに置いた。あやうく忘れるところだった。
「すみません、お願いします」
ショウイチはその厚い布張りの本を手にとり、ちょっと驚いた様子でその題名を指でなでた。
「これは『上』についての研究論文ですね。こういうのも読まれるんですか」
「ええ。最近ちょっと興味がありまして」