第5話

「ちょっと待って。遠也くんじゃないの!? じゃあ、あなた、一体どこからきたの?」
「あのね、『にじのくに』だよ」
「えっ。『虹の国』?」
 あかりはその単語に心当たりがあった。
 「虹の国」というのは、過去に遠也といった場所だ。そして、遠也と関わりの深い場所でもある。
 この子が遠也でないにしても、きっと何らかの関係はあるだろう──あかりはそう考え、とにかく質問を続けることにした。
「ええと、まず、あなたは『虹の国』からきたんだね。それで、遠也くんじゃないんだね」
「うん、『ストラ』だよ」
「『ストラ』? それが名前なの?」
 それははじめて聞くような、どこかで聞いたことのあるような、不思議な名前だった。ひとついえるのは、これが非常に珍しい名前であるということだ。
 しかし、聞き違いがないかもう一度確認すると、目の前の彼はこちらをふりかえって「うん」と肯定した。
「アンジュが『ストラ』だっていったから、ストラなんだよ。それでね、アンジュがぼくをおとしたんだよ。ぼく、かえらなくちゃなんだけど、もうかえったから、いまはかえらないんだよ。それとね、さがさなきゃいけないんだよ」
「うん……?」
 あかりはしばし考えこんだ。この「ストラ」という人物の話は、どれもこれも、まるで謎かけのような内容ばかりである。何かを伝えようとする意図は感じるものの、言葉がつたなすぎて何ひとつ理解ができない。
「ねえ、歳はいくつ?」
 あかりは質問を続けた。おそらく、この子供は見た目相応の知能しかなく、まともな受け答えはできないのだろう。
 なら、とにかく今は、彼の素性を明らかにして対処法を考えるしかない。
「いく、つ……」
 ストラはたどたどしく、質問をくりかえした。それ以上の回答は望めなさそうだった。あかりはしかたなく、別の質問を試してみた。
「私のことは知ってるの?」
「うん。あかり!」
 彼は嬉しそうにあかりを指さした。
 あかりは混乱した。遠也ではない存在なのに、「あかりを知っている」とはどういうことなのだろう?
 そうこうしているうち、あかりはふと、床に本が散らばっていることに気がついた。
 あかりが質問を考えているあいだ、なんとストラは本棚から一冊ずつ雑誌を抜きだし、表紙を眺めては床に捨て、また新しい本を抜きだす、という遊びをはじめていた。
 気づいたときにはもう、本棚の下段は空になっていた。いくつかの冊子は、雑に投げられたためにページの一部に折り目がついていた。
「ちょっと。何してるの!」
 あかりは大慌てで彼を本棚から引きはがした。さいわい、下段に入れていたのは雑誌ばかりで被害は少なかったが、ほんの数分で部屋の床はめちゃくちゃに散らかってしまった。
「勝手に触らないでよ。それから散らかさないで」
 雑誌のナンバーを確認しながら棚に戻していると、今度はガタガタという音が聞こえた。みると、ストラは机のひきだしをあけ、勝手に中を覗きこんでいた。
「勝手に触らないでってば。いい加減にして!」
 しかし、ストラは不思議そうにあかりの顔をみて、目をぱちくりさせるばかりだった。自分が何をしたのか、なぜあかりが怒っているのか、理解できていない様子だった。
「あのね。ひとのものを勝手に触っちゃだめなんだよ。わかる?」
 あかりはしゃがみこんで、彼と目線をあわせた。これは、あかりの両親が幼い頃のあかりを叱るときの仕草でもあった。
「ひとのもの?」
「そうだよ。これは私の部屋のものなんだから」
 あかりはつとめて冷静に話をしようと試みた。けれども、ストラはぼんやりとした瞳であかりをみつめ、それから部屋の中をあちこち観察して、とある一点を指し示した。
「あれ、なあに?」
「なんの話? 『あれ』って?」
「あれ!」
 彼の視線の先には、遠也が忘れていったオセロゲームがあった。
 ここまでくると、さすがのあかりも憤りを覚えた。こちらは真面目にルールの話をしているのに、なんという不真面目な回答だろう。
「ひとの話、聞いてる?」
 しかし、ストラは答えなかった。勝手にオセロがある棚へ走りより、オセロをとろうと手を伸ばして奮闘しはじめた。
 この棚は背が低く、あかりの胸下くらいの高さだったが、小さな彼には難関らしく、届きそうで届かないオセロとの闘いがはじまっていた。
 ところで、この棚には、ほこりをよけるためにカバー用の布をかけてあった。布は、オセロと格闘するストラの動きに合わせて、少しずつ動いていき、そして──
「あっ!」
 布に巻きこまれるようにして、オセロは床に落下した。一緒にのせていた小物入れも落下し、轟音とともにオセロの駒、ヘアピン、キーホルダー、缶バッジが床中に散乱した。
 ストラは困りはてたような、悲しみをたたえた瞳であかりをみあげた。ようやく、自分のおこないが悪いものであることを理解したようだった。
「帰って」
 あかりはさっと窓をあけた。彼が何者だろうと、どこから来ようと、もはやどうでもいい。これ以上部屋を破壊されてはたまらない。
「ぼく、ちがう……あれ、とりたかったから……」
 ストラは泣きそうな顔で、許しを請おうとしていた。だが、あかりはひるまなかった。
「いいから、外にでて」
 少し罪悪感を覚えつつ、あかりは彼の背中を押して窓の前まで誘導した。
「窓からきたのなら、窓から帰れるでしょ?」
 すると、ストラは自分から窓枠に手をかけた。あかりが彼を持ちあげると、彼はみずから外へとでた。この二階の窓にはベランダやバルコニーはなく、彼はたまたま窓のすぐ下にあった下屋げやに足をのせていた。
 あかりはしばらく、彼を観察していた。どうやって帰るのかが気になったからだ。
 ストラはしばらく狼狽ろうばいしていたが、やがて、窓辺にいるあかりにむけて、小さくつぶやいた。
「きらい?」
 不安そうな表情をみるに、彼は自分が嫌われていると勘違いしているようだった。
 あかりは、嫌いじゃないよ、とだけ告げた。正直、家にくるのは勘弁してほしかったが、彼が無礼なのは年齢の低さゆえのことだろう。成長すれば、きっと話が通じる人間になるに違いない。
 ストラは安堵した様子だった。そして、そのまま何もいわず、あかりに背をむけると──ばさりと白い、きわめて大きな翼を召喚した。
「えっ」
 あかりが言葉を発する前に、彼は遠い空の彼方へと飛びたっていった。
 その姿は、さながら「天使」のようだった。
 そして、あかりはその翼の存在に心当たりがあった。
「遠也くん?」
 本人は否定していたが、あの姿は間違いなく過去に会った「遠也」のひとりだ。
 あかりはとっさに記憶をさぐった。小さな容姿、翼、あどけない声。それから、おぼつかない言動……先刻の彼は少々幼すぎたような気もするが、とにかく彼は神崎遠也に関係する人物で間違いない。
 窓枠から顔をだし、「彼」がいないことを確認したのち、あかりは窓をしめて鍵をかけた。
 放課後である現在、自分にできることは限られている。どうせ遠也は体調を崩しているし、自分は部屋を片付けて課題を終わらせなければいけない。
 今回の事件に緊急性はないのだから、解決は明日に回しても問題ないだろう。
 とはいえ、部屋の被害は甚大だった。部屋中の床という床に、小さくて平たいものが大量に転がっている光景は、みているだけでめまいをひきおこした。
 あかりは深く息をつき、手あたりしだいにオセロやヘアピンを拾いはじめた。犯人はいなくなってしまったので、怒りのやり場もない。あるのはただ、虚しさだけだった。
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