第5話

 結局、遠也は昼休みを待たずに早退してしまった。幸いなことに重要な伝達事項もなかったので、あかりはいつもどおり、ルリとふたりで家路についた。
「あかりのママって、明日からもくるの?」
「どうにかして、やめてもらう。ルリがいるんだから必要ないよ」
 あかりの母は心配性だった。とにかくあかりが外にでることを不安がり、少しでも約束の時間を過ぎると大騒ぎをする。これは昔からのことだったが、父親がいうには、昔の母はもっと楽観的な性格の持ち主だったらしい。
「よかった。せっかく去年からふたりで登校できるようになったんだもんね」
 そう、あかりが自由に通学できるようになったのは、ルリの功績だった。母はルリのことを信用しており、かならずふたりで行動すること、寄り道をしないことを条件に、子供だけで登下校することをようやく許可してくれた。
 制約は厳しいが、母のいない通学路は解放感があった。だからこそ、今回のことはあかりにとって大事件でもあった。
 せっかく得た自由をこんな形で手放すなんて、考えたくもない。あかりは語気を強めた。
「もう、余計なことはいわないでおくつもり。あの音だって、きっと気のせいだと思うから」
「『あの音』って、窓から聞こえていたっていうやつ?」
 ルリは面白そうに身を乗りだしてきた。こういう話題は、彼女の得意分野だった。
「ねえ、もしまた同じ音が聞こえたら教えてよ。今度はあたしが調べてみるから」
「いいけど、もうないと思うよ。きっと空耳だったんだと思う」
 あかりは心からそう思っていた。あれだけ両親が徹底的に調べても、何の問題もみつからなかったのだ。どうせ自分が寝ぼけていたのだろう。もしも「音」が実際にあったとしても、野良猫か何かのいたずらに違いない。


 帰宅後、あかりは明日の時間割を確認して、荷物を整頓した。帰宅後は宿題と当日の復習をするのがルーティンになっている。そこで、必要な教材を机に並べ、本棚からいくつか参考書を抜きだした。


 カタ……


 不意に、窓枠が動くような音がした。
 あかりは驚き、反射的にふりかえった。


 ガタ。
 ガタ、ガタ、ガタ。


 あかりは、この音に聞き覚えがあった。
 うっかり鍵をかけたまま窓をあけようとすると、この音が鳴る。
 窓の鍵部分に目をやると、たしかに鍵がかかっていた。


 ぺち。


 やがて、音が変わった。
 窓ガラスを叩くような音がする。
 そのまま、今度は窓がカタカタと揺れはじめた。あかりは息をのんだ。
 時刻は午後四時。外はまだ明るい。
 だが、窓の外には何もみえなかった。
 あかりは、意を決して窓へと近づいた。
 この音の原因を突きとめれば、昨晩の謎も解けるはずだ。
 そっと窓へとしのびより、ガラス越しに外を覗いてみたが、怪しいものはみあたらない。


 バン! バン!


「うわあ!」
 突然、音が大きくなった。
 何者かが強い力で窓を叩いている。
 これは、昨日と全く同じ現象だった。
「いい加減にして!」
 あかりは窓の鍵を外し、力任せに窓を引きあけた。
 今はもう、恐怖よりも怒りがまさっていた。
 外には誰もいない。はずだった。
 少なくとも、窓越しにみたときはそうだった。
 ところが、窓をあけたとたん、目の前に「ある存在」が現れた。
 それは、あかりが過去に会ったことのある人物だった。
「あかり!」
 その人物はあかりの姿をみると、屈託のない笑顔で両手をこちらにさしだした。
「あそぼ!」
 あかりは驚きのあまり口がきけず、呆然と立ちつくしていた。
 それから我に返り、そっと窓をしめてみた。
 窓ガラスを通した瞬間、その人物の姿は消え、景色だけになる。しかし、窓をあけると「彼」の姿がくっきりとみえた。まるで、手品のようだ。
 あかりは戸惑いながらも、その人物に声をかけてみた。
「なんでここにいるの? ……遠也くん」
 それは、神崎かんざき遠也とおやだった。
 普段、会って話をしている遠也ではない。彼よりもずっと小さくて、白い服を着、翡翠色の不思議な目をした、幼児姿の「遠也」だった。
「あそぼ」
 小さな遠也は、なおも両手をこちらにむけ、嬉しそうに笑っていた。あかりが動揺していることには気づいていないらしい。
「いや、遊ぼうじゃなくて。そんなところにいたら危ないよ! ここ二階だよ。どうやってのぼったの? その姿でここまできたの?」
 すると遠也はキョトンとして、こちらをみつめた。あかりはなおも質問を続けた。
「どうしてまた小さくなったの? 体調は大丈夫なの? それとも、何かあったの?」
 だが、返事はない。遠也は困ったような顔で口をポカンとあけたまま、こちらをみあげるばかりである。
「お願い、何かいってよ。このままじゃ怖いよ」
 あまりにも反応がないので、あかりは遠也の顔の前で手を振ってみた。遠也はあかりの手に反応すると、しばらく考えて、それからまた両手をこちらにむけた。
「あげて」
「え?」
「あげて!」
 彼は無邪気に笑っていた。あかりの話など、まるで聞いていないかのようだった。
「『あげて』って、何をあげるの?」
「ぼく!」
 そういいながら、遠也は窓枠に手をかけた。今の彼の身長では、窓枠に手をのばすのが精一杯のようで、ひとりでは中に入ることができないらしい。
「『持ちあげて部屋に入れて』ってこと?」
 あかりは遠也を持ちあげてみた。いつかのときと同じように、彼の身体は風船のごとく簡単に持ちあがった。
「キャー!」
 抱きあげられるのがよほど楽しいのか、遠也は金切り声で歓声をあげて笑った。その仕草は、本当にただの赤子のようだった。
 あかりは少し不安になった。あかりの知る神崎遠也なら、間違ってもこんな反応はしないからだ。
「ねえ、あなた遠也くんだよね?」
「あのね、ちがうよ。『ストラ』だよ」
 地面におろされた彼は、ケラケラ笑いながらそう答え、ものめずらしそうに部屋の中をきょろきょろとみまわし、遠慮なく物色をはじめた。
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