もうひとりの魔女
ほかに行くあてもない。ゲンはひとり、子供の示した方向の道を進んでみた。しかし、その先には何も現れない。それなのに、周囲の星空はどんどんと暗くなっていく。星空ですら怖かったのに、その星の瞬きすらも失われていくのだ。気づくと、あたりは真っ暗だった。音もない。そこはただ、ただ暗い闇の中だ。
おかしい。
正しい道ならば、こんな不気味で恐ろしい闇の中を歩く羽目になどなるはずがない。
ゲンは途中で足を止めて思案した。そもそも、あの子供は信用に値する人物だっただろうか。明らかに小さくて未熟で、まともな会話もできなかったではないか。おまけに、話の途中でゲンをおいてどこかへ消えてしまった。そんな存在を信じて進むのは正しいのだろうか?
──やめておこう。
そう決意するがはやいか、ゲンは踵をかえして、そろそろときた道を戻った。道はほかにもある。ほかの道を試してから結論をだしても遅くはない。
最初の分岐点まで戻ると、空にも地面の下にも、もとの明るい紫の星空が広がっていた。同じ不気味な空間でも、闇よりは星空のほうがよほど安心できる。
ゲンはとりあえず、子供が示した道の右隣を試してみることにした。どれが正しいのか、そもそも正解などあるのかはわからないが、危険を感じたタイミングで戻ってこればいい。ここでじっとしているよりはましだろう。
さいわい、道はきちんと床として機能していた。ゲンは一歩ずつ、足もとを確認しながらゆっくりと歩を進めた。
この道の先には、建物の「影」があった。三角屋根の家の「影」、高層ビルの「影」、大型マンションの「影」。黒い建物のシルエットが道の両脇に並んでいる。しかし、それはただの黒いシルエットでしかなかった。扉も窓もないし、感触もつるりとしていて気味が悪い。
だが、紫の星空は健在だった。星空の下に真っ黒の街並み、そして中央には白い細道。それは幻想的でありつつも、どこか拭えない気味の悪さがあった。
「またきたの?」
どこからか、か細い声がした。ゲンは反射的に足をとめ、うしろを振りかえった。が、人影らしきものはない。周囲をざっと見渡してみたが、やはり何も見あたらなかった。
「あれから、『あの子』の悲しい声が聞こえなくなったわ……あなたが助けてくれたのね。お礼をいうことはもう叶わないと思っていたけれど、また会えて嬉しいわ」
よくよく耳を澄ますと、声は黒いビル群の遠い一角から聞こえていた。ゲンは息をのみ、しばらくその場に立ちつくした。この声が危険ではないか、反応しても大丈夫なものなのか、判断がつかなかった。
「これでわたしの心残りはひとつなくなった。あとはどうなったのかしら」
ゲンは忍びで、声のするほうに近づいていった。黒いシルエットだけのビルのひとつに、ゲンの身長くらいの四角い穴があいていた。しかし、それは黒い鉄格子 で覆われている。鉄格子 の奥は真っ暗だった。ゲン自身の足もと、身体、空や地面の様子ははっきりとみえるのに、鉄格子 の奥へはなぜか光が差しこんでいない。
それはまるで、動物園の檻 を模したブラックボックスのようだった。なんと気味の悪いところだろう。
やはり逃げよう。ゲンはそっと、音をたてないようにうしろへ足を踏みだした。そのとき、声の主はこんなことをいった。
「ねえあなた、ノエルという魔女に会っていない?」
「ノエルだって!?」
突然、今もっとも関心のある人物の名をだされ、ゲンは思わず声をだしてしまった。あとから慌てて口を押さえたが、もう遅い。相手はゲンの声にびっくりしたらしく、息を吸いこんだまま黙ってしまった。
「あなた、誰? 知らない人ね」
数秒の沈黙のあと、先程よりも震えた声で返事がきた。相手もまた、ゲンの存在に怯えているらしい。
ゲンは困惑した。今更そんなことをいわれても、どう答えればよいのかわからない。そんな彼をよそに、檻 の声は少しずつ調子をとりもどしていった。
「いえ、協力してくれるのなら誰だっていいわ。あなたの名前を教えて。それと、わたしのことは」
なぜか相手はそこで言葉を切り、何拍かおいて「ソランジュでいいわ」とつけ加えた。これが、声の主の名前なのだろう。
「名前、は、日澤 源司 」
ゲンはおそるおそる答えた。本当は何も話したくなかったが、少なくとも危険な相手ではなさそうだ。ノエルのことを知っているなら、きっと助けになってくれるに違いない。
声の主、ソランジュはすぐに返事をしなかった。彼女はなにか考えごとをしているようで、ゆっくりと言葉を切りながら話を続けた。
「あなたも、前の子 と近しいところからきたのね。ノエルが同じところから呼んだのかしら。ねえ、あなたはノエルに呼ばれたの?」
「呼ばれたというか、連れていかれたっていうか」
ゲンは髪の毛をひっぱりながら、たどたどしく答えた。明確な回答は持ち合わせていない。自分の状況だってよくわかっていないのだから。
「そもそも、ここ、どこなんですか。俺、何も知らないんですよ。ノエルにも会えてないし」
混乱、困惑、苛立ちでパンクしそうな頭をなんとか制御しつつ、ゲンはどうにか冷静に言葉を紡いだ。
「というより、ノエルを知っているんですか? そもそもノエルって、あいつ、なんなんですか?」
「知らないでここへきたの? ノエルは『魔女』よ」
ゲンはぎょっとして固まった。その言葉はノエルとは別の、あの口やかましい小さな従姉妹を連想させた。
「彼女は偶然、ここへ迷いこんできたの。こんな隔離された寂しい場所、普通は誰もこられないのだけれど……彼女は孤独で退屈で、気づいたらこんな最下層まできてしまったそうよ。彼女がきたときは嬉しかったわ。ここには誰もいないし、何もないのだもの。わたしと彼女は似ていたわ。人間が嫌いで、物質が嫌いで、怖がりで、何も信用できなくて……とにかく、こんなに話のあう人ははじめてだったの。彼女はわたしに、なぜ檻 に入っているのかと尋ねたわ。だから、わたしは理由を教えたの」
そういえば、とゲンはあらためて鉄柵のついた大窓を眺めた。なぜ、このソランジュという人はこんなところにいるのだろう。
おかしい。
正しい道ならば、こんな不気味で恐ろしい闇の中を歩く羽目になどなるはずがない。
ゲンは途中で足を止めて思案した。そもそも、あの子供は信用に値する人物だっただろうか。明らかに小さくて未熟で、まともな会話もできなかったではないか。おまけに、話の途中でゲンをおいてどこかへ消えてしまった。そんな存在を信じて進むのは正しいのだろうか?
──やめておこう。
そう決意するがはやいか、ゲンは踵をかえして、そろそろときた道を戻った。道はほかにもある。ほかの道を試してから結論をだしても遅くはない。
最初の分岐点まで戻ると、空にも地面の下にも、もとの明るい紫の星空が広がっていた。同じ不気味な空間でも、闇よりは星空のほうがよほど安心できる。
ゲンはとりあえず、子供が示した道の右隣を試してみることにした。どれが正しいのか、そもそも正解などあるのかはわからないが、危険を感じたタイミングで戻ってこればいい。ここでじっとしているよりはましだろう。
さいわい、道はきちんと床として機能していた。ゲンは一歩ずつ、足もとを確認しながらゆっくりと歩を進めた。
この道の先には、建物の「影」があった。三角屋根の家の「影」、高層ビルの「影」、大型マンションの「影」。黒い建物のシルエットが道の両脇に並んでいる。しかし、それはただの黒いシルエットでしかなかった。扉も窓もないし、感触もつるりとしていて気味が悪い。
だが、紫の星空は健在だった。星空の下に真っ黒の街並み、そして中央には白い細道。それは幻想的でありつつも、どこか拭えない気味の悪さがあった。
「またきたの?」
どこからか、か細い声がした。ゲンは反射的に足をとめ、うしろを振りかえった。が、人影らしきものはない。周囲をざっと見渡してみたが、やはり何も見あたらなかった。
「あれから、『あの子』の悲しい声が聞こえなくなったわ……あなたが助けてくれたのね。お礼をいうことはもう叶わないと思っていたけれど、また会えて嬉しいわ」
よくよく耳を澄ますと、声は黒いビル群の遠い一角から聞こえていた。ゲンは息をのみ、しばらくその場に立ちつくした。この声が危険ではないか、反応しても大丈夫なものなのか、判断がつかなかった。
「これでわたしの心残りはひとつなくなった。あとはどうなったのかしら」
ゲンは忍びで、声のするほうに近づいていった。黒いシルエットだけのビルのひとつに、ゲンの身長くらいの四角い穴があいていた。しかし、それは黒い
それはまるで、動物園の
やはり逃げよう。ゲンはそっと、音をたてないようにうしろへ足を踏みだした。そのとき、声の主はこんなことをいった。
「ねえあなた、ノエルという魔女に会っていない?」
「ノエルだって!?」
突然、今もっとも関心のある人物の名をだされ、ゲンは思わず声をだしてしまった。あとから慌てて口を押さえたが、もう遅い。相手はゲンの声にびっくりしたらしく、息を吸いこんだまま黙ってしまった。
「あなた、誰? 知らない人ね」
数秒の沈黙のあと、先程よりも震えた声で返事がきた。相手もまた、ゲンの存在に怯えているらしい。
ゲンは困惑した。今更そんなことをいわれても、どう答えればよいのかわからない。そんな彼をよそに、
「いえ、協力してくれるのなら誰だっていいわ。あなたの名前を教えて。それと、わたしのことは」
なぜか相手はそこで言葉を切り、何拍かおいて「ソランジュでいいわ」とつけ加えた。これが、声の主の名前なのだろう。
「名前、は、
ゲンはおそるおそる答えた。本当は何も話したくなかったが、少なくとも危険な相手ではなさそうだ。ノエルのことを知っているなら、きっと助けになってくれるに違いない。
声の主、ソランジュはすぐに返事をしなかった。彼女はなにか考えごとをしているようで、ゆっくりと言葉を切りながら話を続けた。
「あなたも、
「呼ばれたというか、連れていかれたっていうか」
ゲンは髪の毛をひっぱりながら、たどたどしく答えた。明確な回答は持ち合わせていない。自分の状況だってよくわかっていないのだから。
「そもそも、ここ、どこなんですか。俺、何も知らないんですよ。ノエルにも会えてないし」
混乱、困惑、苛立ちでパンクしそうな頭をなんとか制御しつつ、ゲンはどうにか冷静に言葉を紡いだ。
「というより、ノエルを知っているんですか? そもそもノエルって、あいつ、なんなんですか?」
「知らないでここへきたの? ノエルは『魔女』よ」
ゲンはぎょっとして固まった。その言葉はノエルとは別の、あの口やかましい小さな従姉妹を連想させた。
「彼女は偶然、ここへ迷いこんできたの。こんな隔離された寂しい場所、普通は誰もこられないのだけれど……彼女は孤独で退屈で、気づいたらこんな最下層まできてしまったそうよ。彼女がきたときは嬉しかったわ。ここには誰もいないし、何もないのだもの。わたしと彼女は似ていたわ。人間が嫌いで、物質が嫌いで、怖がりで、何も信用できなくて……とにかく、こんなに話のあう人ははじめてだったの。彼女はわたしに、なぜ
そういえば、とゲンはあらためて鉄柵のついた大窓を眺めた。なぜ、このソランジュという人はこんなところにいるのだろう。
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