第4話

 紫の星空の中には、まっすぐな一本道が敷かれていた。道といっても宙に浮かぶ、白くて細い、頼りない道だ。ゲンは足もとに気をつけつつ、早足でノエルの背を追った。
 ノエルは黙ったままだった。こちらをふりかえろうともしない。おきざりにされるわけにはいかず、かといって引きかえすこともできない。なすすべなく、無言の歩行が続くばかりだった。自分は今、何をやらされているのだろう? ゲンはとうとうしびれを切らし、星空の静寂を破ってノエルに話しかけた。
「なあ、俺たち、どこにいこうとしてんだよ?」
「『夢』よ」
 こちらに背をむけたまま、ノエルはさらりと答えた。
「といっても、健康な人間のお気楽な夢じゃないわ。あれは、まあまあの重症よ。『夢』は人間の『心』の姿を映しだす。だから、心がおかしい人間は、夢の様子もおかしくなるってわけ」
「なんだよそれ」
 あいかわらず、彼女の話は理解が難しかった。ゲンはいらだちをノエルの首もとにぶつけた。
「もっと、わかるように説明しろよ!」
「これ以上ないくらい、わかりやすく説明しているわ。理解できないあなたの知識に問題があるだけよ」
「ふざけんな!」
 ゲンは声を荒げたが、ノエルは意に介さなかった。
「堪え性のない人間ね。着けばわかるわよ。その元気はここよりも、現地で使ってほしいわね」


 それから、どのくらいの時間が経過しただろうか。
 ある地点を境に、代わり映えのしなかった星空の景色に変化が起きた。
 突然、眼前に、群青とも瑠璃ともつかない濃い青の球があらわれた。その大きさは尋常でなく、ゲンの身長の十倍はあった。
 そんな特大の球の中にまで、白い道は入りこんでいた。ノエルが球の前までたどりつくと、球はノエルをよけるように溶け、トンネル型の穴をあけた。ノエルはすばやく穴をくぐると、ゲンをふりかえり、手招きをした。
「早く入って。あたしの力じゃ、穴をあけるのが精一杯なのよ」
 球の中は、広い空間だった。だだっ広い白色の床の上に、ドーム型の濃い青の空が広がっている。ほかには何もない。
 ところが、よくよく目をこらすと、遠くのほうに、紫色をした何かが転がっているのがみえた。床の白にまぎれてわかりづらいが、紫の服を着た人間が寝転んでいるようだった。
「おい、誰かいるぞ」
「そうよ。あれが、あたしたちの目的」
 目の色ひとつ変えず、ノエルはその人間のもとへとゲンを案内した。ところが、目的の数メートル前まできたとたん、ゲンはぎょっとして足をとめた。
「おい、なんか変じゃないか?」
「『変』って?」
「こいつ、汚れてるじゃないか。なんか、羽みたいなのもいっぱいあるし……しかも、子供じゃないか?」
 そう、ごろりと床に転がっているのは幼児だった。それも、自立歩行をはじめて日の浅いであろう、小さな小さな子供だった。子供は白い服を着ていたが、どういうわけか、紫色のベタベタした液体にまみれて汚れていた。おまけに、周囲には白い羽がこれまた紫の液体に染められて散らばっていた。その光景は、およそ普通ではなかった。
「なんだよこれ、気持ち悪すぎるだろ。戻ろうぜ」
「だめよ。いったでしょう、これがあたしたちの目的だって」
 ノエルはゲンの腕をぐいと掴み、強制的に子供の前に引きずっていった。
「この子の怪我を治して、もとに戻しなさい。それがあんたの使命よ」
「はあ?」
 そういわれ、至近距離で子供を覗きこむと、たしかに子供は怪我をしていた。両足は皮膚が裂け、紫の液体が流れだしている。おそらく、これが子供の血液なのだろう。腕も足も青いあざが大きく浮いており、激しい暴力の跡がみられた。
 ゲンはぞっとして、ノエルの腕をふりほどいた。
「助けるって、どうやるんだよ!? 俺、怪我の手当てなんてしたことないし、救急車を呼んだこともないし」
「そんな物理的な話じゃないわ。ただ、この人間の『夢』に影響を与えればいいの。話しかけるなり、叩き起こすなり、何かしてちょうだい」
 そうはいっても、相手は血を流している。残念ながら、そんな人間に触れる勇気など、ゲンは持ちあわせていなかった。せめて、普通の怪我人なら思いきって行動を起こせたかもしれないが、相手は紫の血をした、人間かどうかも怪しい不気味な存在だ。恐ろしくて、近づくのすらも躊躇してしまう。
「冗談じゃねえよ、気色悪い!」
 ゲンは恐怖感と不甲斐なさから、必要以上に大声で反抗した。
「そもそも、なんで俺なんだよ。おまえがやれよ!」
「嫌よ。あたし、他人の夢なんかに干渉したくない」
「んな無茶苦茶な! そもそも、こいつもう、駄目なんじゃ……」
 子供はぴくりとも動かなかった。大量の出血とその反応のなさから、ゲンはすでに、最悪の事態を想定していた。そんな彼を、ノエルは冷めた目でみおろした。
「いい加減、姿かたちで判別するのをやめてくれる? ここはそういう場所じゃないのよ。ここにいるのは、本物の怪我人じゃないのよ。おそらく……」
 そのとき、ふたりの周囲に、黒いもやが漂いはじめた。
 もやは、ふたりを観察するかのように渦巻いていたが、やがて離れていくと、遠くの一点に集中し、一瞬にして大きな手の形に変貌した。
「まずい!」
 ノエルは手の影をみるやいなや、ふたたびゲンの腕を引っぱり、その場を早足で離れた。黒い手は煙を吐きながらうごめき、何かを探すようなそぶりをみせていた。
「一旦、退きましょう。危険だわ」
 ゲンは黙ってうなずいた。わざわざ指示されずとも、本能が全身に「逃げろ」という信号を送っていた。
 ふたりはどちらともなく、出口にむかって駆けだした。
 しかし、遅かった。黒い手はふたりの足音に反応すると、すごい勢いで迫ってきた。そして、ゲンの背後でにぎりこぶしをつくると、容赦無く叩きつぶそうと落っこちてきた。ゲンが悲鳴をあげて飛びのくと、こぶしは白い床をゲンのかわりに殴った。意外なことに、床はびくともしなかった。
「おい、冗談じゃねえよ。殺される!」
「とにかく走りなさい。『夢』の外にでるのよ!」
 ゲンはとにかく出口──もとい、「穴」へと全速力で走り、穴の外へと転がりでた。外側が細い道しかなかったのを忘れていたせいで、危うく落ちるところだったが、すんでのところでノエルが引きとめてくれた。
「もう大丈夫。外側までは追いかけてこないわ」
 その言葉どおり、黒い手は穴の外にいるふたりに気づいていないようだった。そして、しばらくあたりをうろついたあと、もとの「もや」に戻り、そして消えてしまった。
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