導きの夢

あれ、、はね、ものすごく簡単にいうと『僕』だよ」
 開口一番、神崎は自分からそういった。詳細をきかずとも、その言葉が意味するものは明らかだった。
「ものすごくバカで、存在価値がないほうの『僕』。昔完全に消したはずだったんだけど、最近になって夢にでてくるようになったんだ。それで、なんとかして抹消しようとしてたんだよ」
 そう語る神崎の瞳は輝いていた。どう考えても喜びを感じられる話題ではないはずなのだが、当の本人は心から嬉しそうだった。あかりはその違和感について指摘しよいものか迷いつつ、とりあえず気になった点についての質問を開始した。
「昔の自分って、どういうこと? 小さい頃の神崎くんってこと?」
「まあ、だいたいそんな感じ」
「どうして自分を消そうとしていたの?」
「邪魔だから。迷惑だからだよ。母さんがぎゃあぎゃあうるさいのも、僕がたくさんの人に嫌われたのも、僕が世間で価値のない人間に落とされたのも、もとをたどれば全部あいつの存在が悪いんだ」
 さらさらと紡がれる彼の言葉は、快活でありながら、どこかほの暗い冷たさをもっていた。自分の話なのに、まるで別世界の人間の解説をしているような、人づてに聞いた噂話を説明しているような、不気味な距離感のようなものを感じる。これが、神崎遠也という人の本質なのだろうか。
 あかりには、いろいろと彼にききたいことがあった。しかし、その中核部分については、なんだか触れてはいけないような気がした。そこで、本当に気になっていることは少しさけ、できるだけ現実的な話をすることにした。
「昨日、帰ってから大丈夫だった?」
「ううん、結構大変だった」
 あいかわらず、神崎は笑顔だった。偽りの笑顔ではなく、心から会話を楽しんでいる様子だったが、それはそれで恐ろしかった。
「目がさめたら夜の七時くらいでさ。しかもめちゃくちゃ気分が悪いから起きあがれなくて。ひとりでひっくりかえって苦しんでたら家族に発見されて、救急車呼ばれたよ。過呼吸になってうめきながらボロボロ泣いてるから心配になったんだってさ」
「それ、大丈夫? かなり危ない状態じゃないの?」
「全然平気さ。病院でも検査したけど、重篤な異常はないってことですぐ返されたよ。母さんから今日は学校は休めっていわれたけど、こんなときに休めるわけないよね。で、まともにやりあっても時間の無駄だから、勝手に家をでてきたってわけ」
 あかりは心の底から、彼に連絡をさせておいてよかったと思った。冗談抜きで、警察に通報されかねない。それを神崎に伝えると、当の本人は涼しい顔で「今さらだよ」と笑った。
「母さんは僕がいなくなると、すぐ警察署にいくんだ。捜索願をだされたこともあるよ」
 あかりはもう、驚く気力すらなかった。当の本人はそれをポジティブな返事と受けとったらしく、さっそく嬉しそうに漫談を開始した。
「昔好きだった遊園地のアトラクションがなくなるってニュースがあってさ、ラストランにどうしても乗りたかったんだよ。でも家族がいると絶叫系には乗せてもらえないから、ひとりでいってこようと思ってたんだ。で、朝五時にこっそり家を抜けだして終電で帰ってきたら、途中の駅で補導されてさ。あとから聞いたんだけど、捜索願がだされてたみたい。それで親が呼ばれたんだけど、母さんは僕の顔をみるなり二発もビンタしてきたんだ。おまわりさんもドン引きしてたよ」
「もういい、もうやめて」
 あかりはたまらず神崎の話を遮り、今後、黙って家を抜けだしてこないように約束させた。しかし神崎は納得がいかないらしく、いつまでも長々と不服を唱えてばかりいた。あかりは神崎に、連絡というものの必要性、子供をとりまく社会的危険、警察に連絡がいった場合どれほどの迷惑がかかるかなどを具体的に説明してみせたが、残念ながら、彼にはまるで響かなかった。そこで、あかりは客観的な事実の提示をやめ、個人的な感情を持ちだして説得してみることにした。
「これ以上、お母さんや家族に心配かけるなら、もう神崎くんのこと信用できないよ。少なくとも学校の外では会えない」
 最後の最後にだしたそのメッセージは効果てきめんだった。神崎はぴたりと口答えをやめ、焦った様子であかりの腕をつかんだ。
「待って、待って。わかった、もうしないよ、約束するよ!」
 想定を超える速度と剣幕で神崎が心を入れかえてくれたので、あかりはその約束が確実であることを確認したのち、本題に入った。今ならきっと、本音を聞ける。
「『虹の国』って何?」
 一瞬、神崎の動きが止まった。彼はそっとあかりから目をそらし、遠く前方をみやった。
「正直、わからない」
 さっきまでとはうってかわり、神崎はあかりの顔をみようとしなかった。表情こそ違えど、その態度は初対面のときとそっくりだった。
「僕はずっと、あの場所を自分の妄想だと思っていたから。実在したことが信じられなくて……いや、実在といっても夢なんだけどさ。でも、君もあの場所を覚えてるってことは、少なくともどこかには存在してるんだと思うんだ」
 あかりは神崎の説明を聞いて、不思議に思った。普段の彼の言葉はわかりやすく、過激なまでにストレートな解説をしてくれる。だが、話が「虹の国」にさしかかると、突然その言葉は濁り、核心がみえなくなってしまう。よほど、あの場所のことをしゃべりたくないのだろう。だが、どうして彼は、それほどかたくなに「虹の国」を拒絶するのだろうか。
「あの場所、嫌いなの?」
「大嫌いだよ」
 間髪いれず、彼は答えた。今度は、はっきりとあかりの目をみていた。
「嫌いな理由、君になら話してもいい。何もかも話すって、約束したからね」
 あかりは息をのんだ。神崎の瞳に、覚悟の色を感じとったからだった。
「僕は昔、あの場所にいたんだよ。いつ、どうやっていったのかは知らない。どういうわけか、僕は気がついたらあの場所にいて、気がついたらあの場所を追いだされていたんだ」
「それは……いつ頃の話?」
「一番最初。僕の一番古い記憶は、虹の国の記憶なんだ。日本とか世界とか、親とか兄弟とか、そういうものを知るよりも前。今の家族と会ったのは、虹の国を追いだされたあとなんだ」
 意味がわからない、と口走りそうになったのを、あかりはぐっとこらえた。今になってようやく、彼が言葉を濁していた理由がわかった。これは、常人には理解できない領域の話なのだ。あの場所を直接目撃していなければ、まず真面目には聞けないだろう。彼はそれを悟っていたからこそ、あのような曖昧な表現を用いたのだ。
 ここで返答を間違えれば、彼はもう二度と「虹の国」の話などしてくれないだろう。あかりはゆっくりと、慎重に言葉を選びながら話した。
「つまり、生まれる前ってこと?」
「わからない。そうだとしたら、生まれたときの記憶も残ってるはずだけど、そんなのは全然ないんだ。いつからかはわからないけれど、とにかく僕は『虹の国』にいた。そこでずっと育った。だけどあるとき、僕はそこから突き落とされた。次に目がさめたとき、僕は知らない場所にいた。そこには大人がいっぱいいて、謎の言語で話しかけてきたんだ。身体も全然動かないし、あれは本気で怖かった。ずっとあとになって、そこが『病院』だってことがわかった……」
 あかりは、神崎の視線がだんだん下へと落ちていくことに気づいた。足どりも重くなり、また、初対面の姿へと戻っている。
 校舎まではあと少しだった。鞄につけている時計からすると、始業までにはまだ間がある。あかりは足をとめ、神崎が話すのを待った。
「最初、僕は虹の国のことを話した。あの場所へ帰るつもりだった」
 彼の声は震えていた。その震えが何を意味するのか、あかりはあえて考えないようにした。自分まで動揺してしまったら収拾がつかなくなる。
「大人たちはちゃんと聞いてくれた。でも、それは全部うわべの態度で、本当は僕の脳みそがどうおかしいのか観察していただけなんだ。きっと今頃、話のタネにして誰かに触れまわってるんだろうな。もちろん、同年代のやつははっきりと僕を馬鹿にしたよ。誰も本気で信じたりしなかった。兄貴には『そんなのはお前が勝手にみた夢だ』っていわれたよ。だから僕もそう理解した。虹の国は昏睡状態の自分がみた夢の話で、僕は頭がおかしくて、優しく話しかけてくる人間はみんな嘘つきなんだ、ってね」
 もはや声はまともには聞きとれないほどにかすれ、呼吸にはノイズが混じっていた。これは、語らせてはいけない話だったのかもしれない。
「ごめん、やっぱり今日は帰るよ。学校にいく気がなくなっちゃった」
 神崎は下をむいたまま、楽しそうに笑った。しかし、その呼吸は乱れたままだった。
「またクラスのやつが変な予定をたてても、君が知らせてくれるだろ? おかげで安心して休めるよ。じゃあね」
 神崎はあかりに背をむけ、こちらをみることなく走りさってしまった。あかりは何もいえず、ただ、黙ってその背中をみおくることしかできなかった。
 あの子供が何者なのか、なぜ神崎が子供を虐待していたのか、なぜ子供が消えては現れていたのか。ぼんやりとだが、あかりにもその答えがみえてきていた。
 学校へいこう。あかりは早足で校舎をめざした。どれほど気持ちが滅入っていても、絶対にいかなければいけない。
 彼女に会わなければ。すべてを把握し、すべてを悟っていた彼女に、話を聞かなければ。きっと、それが解決への道となるはずだ。
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