導きの夢
道の先はぞっとするような暗がりだった。さっきまでの星空は消え、あたり一面を闇が包んでいる。しかし、そんな中でひとつだけ、ぽつんと明るい場所があった。ふたりは示しあわすわけでもなく、吸いよせられるようにその場所へと歩みよった。
そこにはふたりの身長より低い高さの、トンネルのようなドアがあった。ドアには文字の羅列が刻まれていたが、読むことはできなかった。
ところが、あかりが何気なく指を文字にあてると、ある概念が頭の中に流れこんできた。
──覚悟のある者のみ、この扉をあけることを許される。
あかりは驚き、そばにいた神崎にも文字を触るよう促した。
「頭に流れこんでくるって何?」
「いいから、やってみて」
神崎は不承不承ながら、指先を軽く文字へむけた。そして、その爪の先端が軽く文字に触れた瞬間──彼は、糸が切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
「この感覚、覚えてる」
神崎は呆然とした表情のまま、ひとりごとのようにつぶやいた。
「『覚えてる』って?」
声をかけたが無駄だった。彼はあかりをみようともせず、ただ両耳をふさぎ、ほとんど息のような薄い声でなにごとかつぶやくばかりだった。いくら先を促しても動こうとしないので、あかりはひとり、そっと扉を押してみた。取っ手のない扉は、いとも簡単に動いた。
「わあ……」
あかりは思わず喜びの声をあげかけた。扉の外には青空が広がっていたからである。しかし、それが本来帰りたかった場所ではないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
扉の先には、また道が続いていた。今度は透きとおったガラスのような材質で、幅の広い道だった。透明だったり虹色だったり、オーロラクリスタルのような不思議な色をしている。あいかわらず手すりのない橋のような危うい道で、道のほかに地面はなかった。さっきまでの星空と同じく、上にも下にも空らしき空間が続いている。ただ、色が紫から青に変わっただけのことだ。
道の先には雲のような白い物体がみえた。あちらまで歩けば、事態は進展するのだろうか。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ……」
突如、背後から神崎がやってきて、ふらふらと道を渡りはじめた。その目はうつろで、焦点があっていなかった。そして、二、三歩進んだところで立ちどまり、何かにとり憑かれたように走りだした。
「ちょっと待ってよ!」
あかりは自分が高いところにいるのも忘れて、慌てて神崎を追いかけた。さいわい、道幅が広いおかげで落ちる心配はなかった。また、神崎の足はあまり早くなかったので、むこう岸に着く直前に、あかりは彼をつかまえることができた。
「急に走らないでよ。どうしたの?」
神崎は答えなかった。その目は前方をみつめていて、あかりのことなど意識のうちに入っていない様子だった。
あかりが神崎の視点を追ってみると、そこには妙な形の柵らしき物体があった。ふたりの身長の何倍もの高さがある。
「これ、なんだろう」
「門だ。あのときの、虹の国の──」
神崎が質問に答えてくれたが、それは回答というより、偶然彼のひとりごとが質問の答えになっただけらしかった。彼はさっきから、ひとりごとばかりつぶやいている。あかりの声は聞こえていないようだ。
ふたりが近づいていくと、門は自動ドアのようにひとりでにひらいた。戸惑うあかりをよそに、神崎は迷うことなく、中へと入っていった。とり残されても困るので、あかりは彼を追って門をくぐった。
中にあったのはゴルフ場のような一面の草原だった。ところどころに低木や、紫陽花のように密集した花たちが生えている。植物たちはどれもガラスのように透きとおっていて、みる角度を変えるたびにキラキラと七色に輝いた。
あかりは話の通じそうな人間を探したが、門の中に人影はなかった。ただ、大量のシャボン玉が辺りを浮遊しているばかりである。それも、あかりが慣れ親しんだ石鹸水の膜とは違う、生き物のように自由に動く不気味な玉たちだった。指先で触れようとすると、怯えたようにつう、と逃げてしまう。彼らはあかりたちを認識しているらしい。
神崎はそれらの光景に目もくれず、ずんずん奥へと進んでいった。そして、ある地点までくると、ぴたりと歩みをとめてしまった。
そこには蛍光灯のように強く輝く白い建物があった。どんな技術を使っているのか、屋根の上から白い光がこぼれだしていて、綺麗に壁をつたい、噴水のように地面に着地して消えている。入口も窓もない、気味の悪い建造物だった。
そして、その建物の前には真っ白な人間が立っていた。色白なのではない。画用紙のように白い、石細工のような質感の肌をしている。強いていうなら、図画工作の時間にみた、石膏の彫像に近かった。長い白髪 をもち、直線的なシルエットの白い衣服をまとっている。
「ようこそ、虹の国へ」
相手は声を発したが、その唇部分は動いていなかった。
「魔女の使者 がここへくるとは、珍しいですね」
言葉の意味がわからず、あかりはしばらく硬直してしまった。魔女の使者とはなんだろう。魔女とは、絵本にでてくる大きな帽子の西洋魔女のことだろうか。それとも……そこまで考えて、あかりはぶんと頭を振った。唐突に、脳内にルリの顔が浮かんできたからである。今は、彼女のことを思いだしている場合ではない。
「私の許可を得ずに侵入したということは、手引きした者がいるのでしょうね。おおかた、見当はついていますが。まあ、魔女の使いを閉じこめるわけにもいきませんから、今回は多めにみましょう」
相手はあかりの様子など気にもとめず、勝手にぺらぺらと喋りつづけた。
「あなたがここを訪れるのは久しぶりですね、ストラ 」
彫像がその単語を口にした途端、神崎はびくりと全身を震わせた。そして、真下に首をむけたまま、ひどく震えた声で弱々しく言葉を紡いだ。
「いないと、思って……ずっと、僕がおかしいと、思って、だって」
「あなたは何の用できたのです。せっかく国をでられたのに、わざわざ戻ってきたのですか」
「虹の国なんてない、僕はストラじゃない、アンジュ だっていない」
「ずいぶんと自分を壊してしまったようですね。今頃は彼女 も後悔していることでしょう」
延々と理解できない会話を聞いているわけにもいかないので、あかりは思いきって彫像に話しかけた。
「あの、あなたは誰なんですか」
「私はこの国を統べる女王です」
女王。その言葉にあかりはハッとした。星空の中で聞いた囁きを思いだしたのである。その囁きはこういっていた。「帰り道は『女王』に聞け」と。
「あなたが虹の国の女王様なんですね。私、女王様に帰り道をききたくてここまできたんです」
「帰ることなどできません。虹の国というのは、一度入ったら外へはでられませんから」
「は?」
あかりはあいた口がふさがらなかった。話が違う。
「しかし、魔女の従者ならば帰ることも可能です。帰りたければ、自分の意思で帰ることです。もしくは、誰かに迎えにきてもらうことですね」
おかしい。「虹の国」の「女王」に帰り道をきけば、すべては終わるのではなかったのか。自分はあのささやき声に欺かれたのだろうか。そもそも、あの声は誰のものだったのだろうか?
いくつもの謎が一気に押しよせ、あかりの頭は混乱した。一方、神崎はいまだに自分の世界からでてこられないようで、こちらをみようともしなかった。
「女王様、この人誰?」
いきなり足もとから甲高い声が飛びだした。視線をおとすと、そこには小さな色黒の子供がいた。歳は二歳か三歳くらいで、白い服を着ていた。足は裸足だった。容姿こそ違ったものの、そのいでたちは先刻砕け散った、あの子供にそっくりだった。あかりは思わず子供に手を伸ばしたが、子供はびっくりした顔をすると、ふわりと全身を輝かせて、小さなシャボン玉になり、どこかへ飛んでいってしまった。
「あ、あの、あの子……」
あの子は何者なのか。そう尋ねようとしたが、動揺のあまり、まともにろれつが回らない。しかし、女王は質問の意図を汲みとったようだった。
「あの子は虹の住人です。まだ小さかった から、部外者が珍しかったのでしょう」
虹の住人。その言葉の意味はよくわからなかった。しかし、今はそんなことは問題ではなかった。
「わ、私たち、あの子みたいな小さな子と、ずっと一緒だったんです」
あかりは声を震わせながらも、懸命に砕け散った子供の話を女王に伝えた。自分でも情けなくなるほどつたない説明だったが、どういうわけか、相手はきちんと理解してくれたらしかった。
「虹の住人が外へいくことは考えられません。可能性があるとすれば、『彼』ではないでしょうか」
女王は、うつむいていた神崎の頭に手をかざした。そこでようやく、神崎は自分から顔をあげた。今までの話は聞いていなかったようで、何が起こったのか解せない様子だった。
「この姿は物理的な肉体の姿です。しかし、精神の姿は実態と大きく異なる場合があります」
女王がそう告げた瞬間だった。
突然、神崎の身体のあちこちに亀裂が走り、水風船が裂けたかのような音がしたかと思うと、数多の傷口から勢いよく鮮血が吹きだした。
「キャアア!」
殺人現場のようなおびただしい血の量に、あかりはこれまでの人生でだしたことのない音量の悲鳴をあげた。
「彼の精神の姿には多数欠落があるようです。欠落、つまり穴が空いているから、中身がでてきてしまうのでしょう」
「あの、血が、血が」
こんなに出血している人間はドラマでしかみたことがないが、常識的に考えて、このまま放置すればとりかえしのつかない事態になる。何かしなければとは思うものの、心が焦るばかりで、肝心の身体は一ミリも動かない。
「これは肉体における血液ではありません。手当てしたところで、どうにもなりません」
女王はさっきまでと変わらず、ゆったりと言葉を紡いだ。
「気になるのなら、あなたの腕輪で見た目を改善することができますよ」
女王はあかりの右手、つまり腕輪をつけているほうの手をとって、神崎の身体に押しつけた。すると、真紅の血液は、またたく間に濃い紫に変色し、キラキラと銀の光を放ちながら消えていった。
あとに残ったのは、呆然と立ちつくす、紫に汚れた服を着た小さな子供だけだった。
頭部は削れ、片腕はなく、足先は裂けている。傷口には新しい紫の血がじんわりとにじんでいた。それは、あかりが一番最初にであった子供の姿だった。
「どうして。どうして、この子がここに? 神崎くんがいたはずなのに、まさか」
まさか、あの子供の正体は神崎だったのだろうか。しかし、進んで子供を傷つけて罵倒していたのも神崎である。これでは、神崎がふたり存在することになってしまう。あかりの頭は混乱のあまり、今にも弾けとびそうだった。
「これでわかりやすくなりましたね。ごらんなさい、いくつも記憶を削って捨てた跡がついているでしょう」
女王はあかりを無視して、どこかの遺跡でも解説するかのように、神崎の傷をひとつひとつ指さした。当の神崎は自分の小さな身体に仰天しているのか、胸もとに目をおとしたまま、驚愕の表情でじっと固まっていた。
「ここも、ここも……彼についた傷は、すべて無理やり『過去の自分』を削った跡なのですよ。傷をふさぎたいのなら、この捨てた記憶を戻す必要があります」
「記憶?」
それは、あの老女もいっていた。神崎には欠けている部分がある。鍵になるのは「記憶」だと。
「何が欠けているんですか?」
「欠けている記憶は限定的です。すべて『虹の国』に関するもの」
女王はそれだけ告げると、大きな音で両手を打った。
「どうやら、迎えがきたようです。そろそろ帰ってもらいましょう」
すると、女王は一瞬にして消え、ふたりは最初の門のすぐ手前まで飛ばされてしまった。
「門の前に迎えがきているので、あなたたちを帰しましょう。ただし、外にでられるのは一度だけです。すみやかにでていきなさい。それでは、また会う日まで」
いったいどこから話しかけているのか、女王の声だけが頭の上から降りそそいでいた。あかりはとりあえず天を仰いで女王に別れの挨拶をいい、あいかわらず小さいままの神崎を連れて、門の外へとでた。
外には、たしかに誰かがいた。その人物をみたとき、あかりは自分の両目が信じられなかった。
「あかり?」
門の先の、何もない空色の空間のどまんなかで待ちかまえていたのは──あろうことか、幼馴染のルリだった。
そこにはふたりの身長より低い高さの、トンネルのようなドアがあった。ドアには文字の羅列が刻まれていたが、読むことはできなかった。
ところが、あかりが何気なく指を文字にあてると、ある概念が頭の中に流れこんできた。
──覚悟のある者のみ、この扉をあけることを許される。
あかりは驚き、そばにいた神崎にも文字を触るよう促した。
「頭に流れこんでくるって何?」
「いいから、やってみて」
神崎は不承不承ながら、指先を軽く文字へむけた。そして、その爪の先端が軽く文字に触れた瞬間──彼は、糸が切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
「この感覚、覚えてる」
神崎は呆然とした表情のまま、ひとりごとのようにつぶやいた。
「『覚えてる』って?」
声をかけたが無駄だった。彼はあかりをみようともせず、ただ両耳をふさぎ、ほとんど息のような薄い声でなにごとかつぶやくばかりだった。いくら先を促しても動こうとしないので、あかりはひとり、そっと扉を押してみた。取っ手のない扉は、いとも簡単に動いた。
「わあ……」
あかりは思わず喜びの声をあげかけた。扉の外には青空が広がっていたからである。しかし、それが本来帰りたかった場所ではないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
扉の先には、また道が続いていた。今度は透きとおったガラスのような材質で、幅の広い道だった。透明だったり虹色だったり、オーロラクリスタルのような不思議な色をしている。あいかわらず手すりのない橋のような危うい道で、道のほかに地面はなかった。さっきまでの星空と同じく、上にも下にも空らしき空間が続いている。ただ、色が紫から青に変わっただけのことだ。
道の先には雲のような白い物体がみえた。あちらまで歩けば、事態は進展するのだろうか。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ……」
突如、背後から神崎がやってきて、ふらふらと道を渡りはじめた。その目はうつろで、焦点があっていなかった。そして、二、三歩進んだところで立ちどまり、何かにとり憑かれたように走りだした。
「ちょっと待ってよ!」
あかりは自分が高いところにいるのも忘れて、慌てて神崎を追いかけた。さいわい、道幅が広いおかげで落ちる心配はなかった。また、神崎の足はあまり早くなかったので、むこう岸に着く直前に、あかりは彼をつかまえることができた。
「急に走らないでよ。どうしたの?」
神崎は答えなかった。その目は前方をみつめていて、あかりのことなど意識のうちに入っていない様子だった。
あかりが神崎の視点を追ってみると、そこには妙な形の柵らしき物体があった。ふたりの身長の何倍もの高さがある。
「これ、なんだろう」
「門だ。あのときの、虹の国の──」
神崎が質問に答えてくれたが、それは回答というより、偶然彼のひとりごとが質問の答えになっただけらしかった。彼はさっきから、ひとりごとばかりつぶやいている。あかりの声は聞こえていないようだ。
ふたりが近づいていくと、門は自動ドアのようにひとりでにひらいた。戸惑うあかりをよそに、神崎は迷うことなく、中へと入っていった。とり残されても困るので、あかりは彼を追って門をくぐった。
中にあったのはゴルフ場のような一面の草原だった。ところどころに低木や、紫陽花のように密集した花たちが生えている。植物たちはどれもガラスのように透きとおっていて、みる角度を変えるたびにキラキラと七色に輝いた。
あかりは話の通じそうな人間を探したが、門の中に人影はなかった。ただ、大量のシャボン玉が辺りを浮遊しているばかりである。それも、あかりが慣れ親しんだ石鹸水の膜とは違う、生き物のように自由に動く不気味な玉たちだった。指先で触れようとすると、怯えたようにつう、と逃げてしまう。彼らはあかりたちを認識しているらしい。
神崎はそれらの光景に目もくれず、ずんずん奥へと進んでいった。そして、ある地点までくると、ぴたりと歩みをとめてしまった。
そこには蛍光灯のように強く輝く白い建物があった。どんな技術を使っているのか、屋根の上から白い光がこぼれだしていて、綺麗に壁をつたい、噴水のように地面に着地して消えている。入口も窓もない、気味の悪い建造物だった。
そして、その建物の前には真っ白な人間が立っていた。色白なのではない。画用紙のように白い、石細工のような質感の肌をしている。強いていうなら、図画工作の時間にみた、石膏の彫像に近かった。長い
「ようこそ、虹の国へ」
相手は声を発したが、その唇部分は動いていなかった。
「
言葉の意味がわからず、あかりはしばらく硬直してしまった。魔女の使者とはなんだろう。魔女とは、絵本にでてくる大きな帽子の西洋魔女のことだろうか。それとも……そこまで考えて、あかりはぶんと頭を振った。唐突に、脳内にルリの顔が浮かんできたからである。今は、彼女のことを思いだしている場合ではない。
「私の許可を得ずに侵入したということは、手引きした者がいるのでしょうね。おおかた、見当はついていますが。まあ、魔女の使いを閉じこめるわけにもいきませんから、今回は多めにみましょう」
相手はあかりの様子など気にもとめず、勝手にぺらぺらと喋りつづけた。
「あなたがここを訪れるのは久しぶりですね、
彫像がその単語を口にした途端、神崎はびくりと全身を震わせた。そして、真下に首をむけたまま、ひどく震えた声で弱々しく言葉を紡いだ。
「いないと、思って……ずっと、僕がおかしいと、思って、だって」
「あなたは何の用できたのです。せっかく国をでられたのに、わざわざ戻ってきたのですか」
「虹の国なんてない、僕はストラじゃない、
「ずいぶんと自分を壊してしまったようですね。今頃は
延々と理解できない会話を聞いているわけにもいかないので、あかりは思いきって彫像に話しかけた。
「あの、あなたは誰なんですか」
「私はこの国を統べる女王です」
女王。その言葉にあかりはハッとした。星空の中で聞いた囁きを思いだしたのである。その囁きはこういっていた。「帰り道は『女王』に聞け」と。
「あなたが虹の国の女王様なんですね。私、女王様に帰り道をききたくてここまできたんです」
「帰ることなどできません。虹の国というのは、一度入ったら外へはでられませんから」
「は?」
あかりはあいた口がふさがらなかった。話が違う。
「しかし、魔女の従者ならば帰ることも可能です。帰りたければ、自分の意思で帰ることです。もしくは、誰かに迎えにきてもらうことですね」
おかしい。「虹の国」の「女王」に帰り道をきけば、すべては終わるのではなかったのか。自分はあのささやき声に欺かれたのだろうか。そもそも、あの声は誰のものだったのだろうか?
いくつもの謎が一気に押しよせ、あかりの頭は混乱した。一方、神崎はいまだに自分の世界からでてこられないようで、こちらをみようともしなかった。
「女王様、この人誰?」
いきなり足もとから甲高い声が飛びだした。視線をおとすと、そこには小さな色黒の子供がいた。歳は二歳か三歳くらいで、白い服を着ていた。足は裸足だった。容姿こそ違ったものの、そのいでたちは先刻砕け散った、あの子供にそっくりだった。あかりは思わず子供に手を伸ばしたが、子供はびっくりした顔をすると、ふわりと全身を輝かせて、小さなシャボン玉になり、どこかへ飛んでいってしまった。
「あ、あの、あの子……」
あの子は何者なのか。そう尋ねようとしたが、動揺のあまり、まともにろれつが回らない。しかし、女王は質問の意図を汲みとったようだった。
「あの子は虹の住人です。まだ小さ
虹の住人。その言葉の意味はよくわからなかった。しかし、今はそんなことは問題ではなかった。
「わ、私たち、あの子みたいな小さな子と、ずっと一緒だったんです」
あかりは声を震わせながらも、懸命に砕け散った子供の話を女王に伝えた。自分でも情けなくなるほどつたない説明だったが、どういうわけか、相手はきちんと理解してくれたらしかった。
「虹の住人が外へいくことは考えられません。可能性があるとすれば、『彼』ではないでしょうか」
女王は、うつむいていた神崎の頭に手をかざした。そこでようやく、神崎は自分から顔をあげた。今までの話は聞いていなかったようで、何が起こったのか解せない様子だった。
「この姿は物理的な肉体の姿です。しかし、精神の姿は実態と大きく異なる場合があります」
女王がそう告げた瞬間だった。
突然、神崎の身体のあちこちに亀裂が走り、水風船が裂けたかのような音がしたかと思うと、数多の傷口から勢いよく鮮血が吹きだした。
「キャアア!」
殺人現場のようなおびただしい血の量に、あかりはこれまでの人生でだしたことのない音量の悲鳴をあげた。
「彼の精神の姿には多数欠落があるようです。欠落、つまり穴が空いているから、中身がでてきてしまうのでしょう」
「あの、血が、血が」
こんなに出血している人間はドラマでしかみたことがないが、常識的に考えて、このまま放置すればとりかえしのつかない事態になる。何かしなければとは思うものの、心が焦るばかりで、肝心の身体は一ミリも動かない。
「これは肉体における血液ではありません。手当てしたところで、どうにもなりません」
女王はさっきまでと変わらず、ゆったりと言葉を紡いだ。
「気になるのなら、あなたの腕輪で見た目を改善することができますよ」
女王はあかりの右手、つまり腕輪をつけているほうの手をとって、神崎の身体に押しつけた。すると、真紅の血液は、またたく間に濃い紫に変色し、キラキラと銀の光を放ちながら消えていった。
あとに残ったのは、呆然と立ちつくす、紫に汚れた服を着た小さな子供だけだった。
頭部は削れ、片腕はなく、足先は裂けている。傷口には新しい紫の血がじんわりとにじんでいた。それは、あかりが一番最初にであった子供の姿だった。
「どうして。どうして、この子がここに? 神崎くんがいたはずなのに、まさか」
まさか、あの子供の正体は神崎だったのだろうか。しかし、進んで子供を傷つけて罵倒していたのも神崎である。これでは、神崎がふたり存在することになってしまう。あかりの頭は混乱のあまり、今にも弾けとびそうだった。
「これでわかりやすくなりましたね。ごらんなさい、いくつも記憶を削って捨てた跡がついているでしょう」
女王はあかりを無視して、どこかの遺跡でも解説するかのように、神崎の傷をひとつひとつ指さした。当の神崎は自分の小さな身体に仰天しているのか、胸もとに目をおとしたまま、驚愕の表情でじっと固まっていた。
「ここも、ここも……彼についた傷は、すべて無理やり『過去の自分』を削った跡なのですよ。傷をふさぎたいのなら、この捨てた記憶を戻す必要があります」
「記憶?」
それは、あの老女もいっていた。神崎には欠けている部分がある。鍵になるのは「記憶」だと。
「何が欠けているんですか?」
「欠けている記憶は限定的です。すべて『虹の国』に関するもの」
女王はそれだけ告げると、大きな音で両手を打った。
「どうやら、迎えがきたようです。そろそろ帰ってもらいましょう」
すると、女王は一瞬にして消え、ふたりは最初の門のすぐ手前まで飛ばされてしまった。
「門の前に迎えがきているので、あなたたちを帰しましょう。ただし、外にでられるのは一度だけです。すみやかにでていきなさい。それでは、また会う日まで」
いったいどこから話しかけているのか、女王の声だけが頭の上から降りそそいでいた。あかりはとりあえず天を仰いで女王に別れの挨拶をいい、あいかわらず小さいままの神崎を連れて、門の外へとでた。
外には、たしかに誰かがいた。その人物をみたとき、あかりは自分の両目が信じられなかった。
「あかり?」
門の先の、何もない空色の空間のどまんなかで待ちかまえていたのは──あろうことか、幼馴染のルリだった。