導きの夢

 ふたりはあてもなく星空の下を歩いた。はじめのうち、ふたりがいる地面は体育館くらい広い、円形のステージだった。ところが、円の端までいくと、そこからは細い道が三本に伸びていた。
 あかりは、身をかがめて道の下を覗きこんでみた。どうやらこの地面は宙に浮いているようで、板のような地面の下には、上空と同じ星空がみえた。キラキラと輝くホタルのような瞬きを除けば、この宇宙のような空間には何もない。落ちたら最後、一巻の終わりだろう。となると、この先に進むには、目の前の分かれ道から一本を選択するしかない。
「どの道がいいんだろう」
 無意識に、あかりは小声でつぶやいていた。すると、両腕で抱いていた子供の身体がぴくりと反応した。そして、神崎の動向をうかがいつつ、あかりにだけわかるよう、そっと一番左の道をさし、小さく口を動かした。その口の動きは「あっち」といっているようだった。
「わかるの?」
 子供は不安げな面持ちで神崎をみやった。先刻の件で、神崎を警戒しているのだろう。そこで、あかりは神崎にその場にとどまるようにいい、子供を連れて彼から距離をとった。神崎は明らかに何かいいたそうな瞳でこちらをみていたものの、おとなしく置き去りの刑を受けいれ、その場にじっと立っていた。
「あの道をいけば帰れるの?」
 神崎に背中をむけ、小声で尋ねると、子供はようやく声を発してくれた。
「『虹の国』に帰れるよ。だって『こっちだよ』って誰かいってるもん」
「虹の国? それ、何?」
「虹の国は女王様がいるよ。アンジュもいるよ。ほかにもたくさんいるよ。でも、あんまりおしゃべりはしてくれないよ」
「そんな場所にいっても困るよ。私は家に帰りたいのに」
 そのときだった。あかりの耳に、低く落ちついた、不気味なささやきが聞こえた。
 ──虹の国をめざすんだ。帰り道は女王にきけばいい。
 驚いたあかりはばねのように頭をあげ、すぐに声の主を探した。しかし、視界に映ったのはキョトンとした顔の子供と、不安げにこちらをうかがう神崎の二名のみだった。ほかに人影はみあたらない。あかりは子供に声が聞こえたか尋ねてみたが、彼はポカンとした表情で首をかしげるばかりだった。念のために神崎にも確認したが、まったく同様の返事を得ただけだった。
 そこで、あかりは声の主を探すのをやめた。こんなわけのわからない空間では、きっと音声の具合もおかしいのだろう。今は、そんなことに気をとられている場合ではない。ひとつたしかなのは、声の主は「虹の国」へいくことを推奨しているということだ。
 子供は「虹の国」なる場所への道筋を知っている。謎の声は「『虹の国』へいき、『女王』に帰り道をきけばよい」という。ならば、もう迷っている時間はない。その「虹の国」とやらへ着きさえすれば、声の主もおのずとはっきりするだろう。
「私、こっちにいくから」
 あかりは子供が示したとおり、一番左の道を選び、落ちないように気をつけながら渡りはじめた。なぜその道を選択したのかは、神崎には黙っていた。しかし、神崎はそのことを不思議がることもなく、また反発する様子もみせず、粛々と指示に従い、あかりの後ろからついてきた。先刻大騒ぎしたことを相当気にしていたのだろうか。
 はじめは問題なく道をたどっていたあかりだったが、やがて、その歩みはのろくなり、最後にはその場に立ちつくしたまま、動けなくなってしまった。
「どうしたの?」
 神崎から声をかけられたが、答える余裕などなかった。なぜなら、あかりの足の下には、延々と先のないプラネタリウムのような空間が広がっているのだ。地面のある展望台の景色すら直視できないあかりには、とても耐えられるような光景ではなかった。最初こそ理性で己を保っていたものの、やはり恐怖心には勝てない。
 ──こんなことをしてる場合じゃない。早くしないと。
 あかりは自分を奮い立たせ、もう一度歩きだそうとした。しかし、動揺した状態で足もとをみずに歩こうとしたために、思いきり足を踏み外し、子供を投げだす形で落下してしまった。
 あまりの恐怖で声をだすことすらできなかった。このまま落ちて、神崎とは離れ離れになるのだろうか。もう帰れないのだろうか。子供はどうなるのか──そんな考えが頭をよぎった瞬間、ぐっと片腕に強い握力と痛みを感じた。
 みると、子供があかりの腕をつかんでいた。子供の背中には、その身体を覆いつくすほど大きな翼があり、それによってふたりはかろうじて宙に浮いているようだった。子供にとってあかりの全体重はかなり重いらしく、彼は歯を食いしばって震えながらゆっくりとあかりを上へと引きあげていた。
 もといた道の付近まで戻ってくると、神崎が焦った様子で引きあげを手伝ってくれた。おかげで、ふたりは道の上まで戻ってくることができた。
「大丈夫?」
 神崎が心配そうに声をかけたが、あかりは過呼吸状態で座りこんだまま、ただ、頷くことしかできなかった。
「ごめん」
 なんとかその一言を絞りだしたが、自分でも驚くほど憔悴しきった、弱々しい声色だった。あかりの高所恐怖症は生まれつきのものだったが、こんなところで発動してしまうとは、あまりにも情けない。
 呼吸が落ちついたところで、ふと、反対側をみると、子供がこちらをじっとみていた。突然何もない場所に放りだされて、さぞ怖かっただろう。そう思ってあかりが謝罪すると、子供はこんなことをいった。
「ぼく、ここにいちゃだめ?」
「だめなことないよ。おかげで助かったよ」
 しかし、子供は反応しなかった。よくみると、子供はあかりではなく、その奥にいる神崎へと視線を送っていた。
「ぼく、ここにいちゃだめ?」
「助けられたのは認めるよ」
 神崎はそう答えた。が、子供は動かず、同じ質問をくりかえした。はっきりした答えが得られるまで、質問をやめないつもりらしい。神崎は気まずそうな表情で、あかりの顔色を伺いながら、ぼそりとつぶやいた。


「けど、いないほうが嬉しい。思いだしたくないんだよ」


 すると、子供は大きな目をみひらいて、今にも泣きだしそうな顔をした。それと同時に、彼の身体にはパキパキと硬いヒビが入った。それは、明らかに人体に入るような傷ではなかった。
「ぼく、ちゃんといるのに」
 突然、ガチャンというガラスが割れるような音がし、子供の身体は勢いよく砕け散った。砕けた破片は一瞬にして砂のように細かくなり、サラサラと宙を漂いながら果てなき空間のどこかへと落下していった。
 あかりは絶句して、その光景をみつめた。もはや悲しみも怒りも、何もでてこなかった。ただ、どうにもならない喪失感に、呆然としていた。
「君が僕をひどいやつだと思うのはわかるよ」
 はっとふりかえると、神崎は力なくうつむいていた。彼もまた、子供の消失を悲しんでいるようだった。
 あかりは直感した。神崎が子供にむけているのは、敵意だけではない。単なる憎しみ以上の何かが、彼の中にはある。
「どうして、あの子をそんなに嫌うの?」
 今度のはなじりではなく、純粋な疑問だった。
 神崎は答えに迷っているようだった。彼は長い間、足もとの星空をみおろしていたが、ついに意を決したらしく、しっかりとあかりの目をみて告げた。
「聞いてくれる気はある?」
「どういうこと?」
「あいつのことは心配しなくていい。偶然みえている、、、、、だけの存在だから。あれは、僕しか知らない存在やつなんだ。詳しく話したところで、きっと君は理解できないし、信じられないと思う」
 それは、とても難解な話だった。あかりは何度も神崎の言葉を脳内で反芻はんすうしてみたが、やはり核心はつかめなかった。ただひとつ、たしかなのは、神崎が子供とのあいだに何かただならぬ事情を秘めているということだ。あの凄まじい暴力や威嚇に憎悪意外の感情があるとしたら、それはいったいなんなのだろう。きっと自分は、彼らのことを何も知らない。知らないで、表面的な判断をくだしていたから、こんなにも話がややこしくなったのだ。
 まずは「知る」必要がある。あかりは覚悟を決めた。
「私、聞くよ。あの子は誰?」
 神崎は黙っていた。あかりの言葉が本気かどうか、みさだめているようだった。
「僕、これが全部自分の夢なんじゃないかって思ってるんだ」
 ぽつりと、神崎はそう漏らした。
「昔、似たようなことがあったんだ。ずっと現実だと思っていたことが全部夢で、実際の世界ではなかったこと、、、、、、にされていた。僕はそれに気づかずに、ひとりだけ夢と現実をごちゃごちゃにして変人扱いされていた。それで家族もおかしくなった。もう二度と、同じ過ちはくりかえしたくない」
 そして、座っていたあかりの手をとって立たせた。
「もし、無事に帰れたら──夢から覚めたら、もう一度、この場所の話を僕にして。そうしたら教えるよ。『あいつ』のことも、僕のことも、何もかも」
「今は教えてくれないの?」
「今は教えるのが怖い。ここにいる君が、普段学校にいる君じゃないかもしれないから。ごめんね」
 それから神崎は、ひょいとあかりをよけて、器用に道のむこう側へと移動した。これで、列の先頭は神崎になった。
「そのかわり、君が帰れるようにサポートするよ。高いところが怖いなら、目をとじていればいい。僕が案内するから」
 実際、これには大いに助けられた。あかりは神崎の両肩に手をおき、周囲の景色をみないまま、最後まで道を渡ることができた。
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