導きの夢

 翌日、あかりは神崎の顔を直視できなかった。彼は明らかに何かをいいたそうにこちらの様子を伺っていたのだが、あかりはあえて隙をみせず、できるだけ教室の外で過ごし、下校時刻になるとすぐに荷物をまとめて校舎を飛びだした。
「なんでそんなに急いでるの?」
 ルリはやたらと支度の早いあかりに驚いていた。それもそのはず、普段であればルリのほうがあかりを引っぱって下校するのが常だったからだ。
「なんでもない」
 あかりは昨日の行動を後悔していた。これから当分、神崎の気まずい視線をよけながら生活するのかと思うとめまいがした。いったい自分はどうしてしまったのだろう。いつもの自分なら、もっと冷静に考えてから動くことができるのに。ほんの少しの同情心のおかげで、随分と面倒なことになってしまった。
「どうしたの? なんだか今日、すごく変だよ」
 ルリが心配そうに尋ねてきたが、あかりは「大丈夫」としか答えることができなかった。昨日、神崎遠也の自宅に押しかけてその家族に捕まりかけたうえ、本人の目の前から逃げだしただなんて、話せるわけがない。
 さいわい、ルリはそれ以上なにも質問をしてこなかった。こういうとき、ルリはあまりあかりのプライベートについて深掘りをしない。こうみえて、じつは結構空気の読める子なのだ。おかしな空想癖さえなければ、きっとクラスの子たちにも好かれていただろう。そう思うと、あかりはルリのことが可哀想でならなかった。彼女は、いまだに子供じみた嘘の世界から抜けだすことができずにいる、どうしようもなく幼稚な子供なのだ。


「おかえり。今日は図書室にいかなかったの?」
 母は、あかりがついた嘘を疑おうともしなかった。どうやら、ルリがうまく話をつくっていてくれたらしい。
「うん。思ったほど集中できなかったから」
 あかりはいつものとおりに母の指示で日課をすませ、自室に戻ると、ぼすんとベッドに倒れこんだ。今日はやたらと気疲れしてしまった。なにもやる気にならない。
 そういえば、昨日の礼をまだルリにいっていなかった。神崎に気をとられていたせいで、うっかり忘れていた。ルリは携帯電話も持っていないから、明日、直接伝えるしかない。今度こそは忘れないようにしなければ。
 ルリのことを考えていると、ふと、ルリに押しつけられたあの腕輪のことを思いだした。あかりはベッドから起きあがると、机のひきだしから腕輪を探しだして、手にとった。いい加減、これも返却しないといけない。
 どうして、ルリはこんなものを自分にくれたのだろう。にあうとでも思ったのだろうか?
 あかりは腕輪をながめ、思いきって手首にとおしてみた。しかし、大粒のごつごつしたシルエットの腕輪は、あかりの小さな手には不釣合いで、お世辞にもにあっているとはいえなかった。
 やっぱり、これは返そう。あかりがそう思って腕輪を外そうとしたとき、妙な声があかりの耳に飛びこんできた。
 ──あかり……
 あかりはぞっとして周囲をみまわし、背中を壁にくっつけた。両親の声とはまったく違う。この部屋に、誰かがいるのだろうか。しかし、室内に人影はない。にもかかわらず、あかりを呼ぶ声は続いていた。よくよく耳をすませてみると、それは、部屋の隅においている姿見から聞こえているようだった。あかりはこわごわ姿見に近づくと、いつも鏡の面にかけている布をとりはらった。
 そのときだった。
 いきなり、鏡面に映っていた景色がぐにゃりとゆがみ、ゆっくりと渦を巻きはじめた。まるで火にかけた鍋の中身をかきまわしたときのように、景色たちは渦の中で少しずつ溶けあい、徐々にまざって、元の姿を失っていった。そして、鏡の外側にある、本当の景色、、、、、もぐちゃぐちゃになり、なにもかもがひとつにまざりあって──
「え」
 どろどろに溶けた景色たちは、絵の具のようにお互いの色を飲みあって、とうとう真っ黒に染まってしまった。そして、あかり自身の姿以外のすべてが暗闇色の中に消えた瞬間、あかりは猛烈なめまいと浮遊感に襲われた。あまりの気持ち悪さに、あかりはとうとう立っていられなくなり、バランスを崩して転んでしまった。
「うっ」
 反射的に目をとじてしまったために視界は塞がれ、ついで、両腕と肩に鈍い痛みが走った。あかりはくらくらする頭をなんども振って、ようやく目をあけて起きあがり、そして、絶句した。


 そこに広がっていたのは、満天の星空だった。それも、普通の空ではない。意図的にライトアップされたかのような、薄気味悪いほどに綺麗な、紫色の空だった。また、映しだされている星の数も尋常ではない。大量の輝く粒で埋めつくされた空は、まるで、画用紙の上に砂金をばらまいたかのような景色だった。また、ばらまかれた星粒たちも、ただ黙って浮かんでいるのではない。絶えずイルミネーションのようにチラチラとまたたき、これでもかというくらいその存在を主張している。
 星は遠くにあるものもあれば、あかりのすぐそばで球体としてふわふわ浮かんでいるものもあった。それは、星というよりは、線香花火の中心部分を切りとったかのような、幻想的な「光の玉」に近い存在だった。
 あまりに突然のできごとに、あかりは立ちあがることができなかった。様々な疑問が頭をかけめぐり、消化されぬまま、次々と頭の中にたまっていくばかりだった。
 頭の中の騒ぎが鎮まると、あかりは自分の知識では問題を解決できないことを悟り、ようやく足をふんばって立ちあがった。消化不良の疑問たちは、とうとう解決されるのを諦めて脳内でグズグズに溶けてしまっていた。
 このまま座りこんでいても事態は進展しない。とにかく、この場所がなんなのかを把握しよう。あかりはそう割りきり、一歩、踏みだそうとした。ところが、踏みだした先に、地面はなかった。そう、あかりを支えていた黒い地面は半径一メートル程度の小さな円であり、その先にはなにもなかったのだ。
 悲鳴をあげる間もなく、あかりは、上下左右の区別がつかない輝く空間を、まっさかさまに落っこちていった。
 ところで、この「落ちる」という感覚は、あかりがこの世でもっとも嫌うもののひとつだった。あかりはとにかく高いところと、高いところから落とされるのが大嫌いだった。ジェットコースターはもちろん、飛行機に乗るのさえも怖くて足がすくむありさまで、たびたび両親やルリに笑われていたのだった。
 十数秒後、どこかの床に叩きつけられたとき、あかりはうめき声ひとつあげることはなかった。予告もなく現れた恐ろしい現象と、それに伴う凄まじい恐怖のショックでなにも考えられず、硬直したまま、その場に横たわりつづけていた。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 ぼんやりとしていた意識の中に、ふと、赤子のぐずり声のような音が響いてきた。あかりは驚いて身を起こし、首をひねって音のでどころを探し、はっと息をのんだ。
「あのときの子だ」
 音の主は、案外近くにいた。紫の染みでベトベトに汚れた、白い服の小さな子供。彼はひとりでうずくまり、なにごとかつぶやきながら、弱々しい声ですすり泣いていた。
 ──夢にでてきた子だ。ということは、これは夢なんだ。
 あかりは直感で、そう判断した。そして、思いきって立ちあがり、子供のほうへと歩を進めた。夢ならば、何をしても危険ではないだろう。
 しかし、二、三歩のところであかりは足を止めてしまった。子供の異変に気がついたからである。
 まず、頭がない。右耳からすぐ上の部分が、かじられたりんごのようにまるく切りとられている。不思議なことに、その断面は真っ黒で、石のようにつるっとしていた。うしろをむいているために顔はみえなかったが、おそらくは右目も失われているのだろう。
 右腕はまるごと消えていた。肩から先が切りおとされて、完全になくなっている。よくみると、膝から先の左足もない。どちらも、刃物でスッパリと切り落とされたかのような綺麗な断面になっていて、明らかに不自然な消えかたをしている。
 思わずあとずさると、あかりの足もとで、カラン、という音がした。足先がなにかを蹴ってしまったらしい。
 目線を落としてみると、そこには真っ黒いナイフが転がっていた。あかりはぎょっとしてその場から足をどけた。これは、終業式の夜に夢でみた、あの恐ろしいナイフに違いない。小さな子供を無差別に攻撃してズタズタにした、あの不気味な殺人ナイフに違いない。
 よくよく周囲をみまわすと、ナイフはそこらじゅうにいくつも散らばっていた。あかりはいよいよ恐ろしくなり、近くに落ちていたナイフを思いきり蹴りとばした。
 すると、足もとから「いたっ」という、くぐもった声が聞こえた。子供の声ではない。そこに転がっているナイフが口をきいたのだ。
 あかりはぞっとして、ものがいえなくなってしまった。逃げようにも、両足が震えてしまって、いうことを聞いてくれそうにない。そうこうするうちに、ナイフたちはカタカタといっせいに動きだし、ふわりと浮かんだかと思うと、あかりの目の前までやってきて集合し、ひとかたまりになった。そして、蒸気機関車のように勢いよく黒煙を吹きだし、あっというまに大きな黒いもやのかたまりに変わってしまった。
 もやは少しずつ薄くなり、ひとりでに消えていった。そして──消えたもやの中には、ひとりの人間がいた。それは、あかりがよく知った顔をしていた。
「神崎くん!?」
 あかりは反射的に叫んだ。相手は声に驚いたのか、びくりと肩を跳ねあげてから、ゆっくりとこちらをふりむいた。
「片町さん?」
 その声、その口調、その表情。なにもかもに覚えがあった。
 そこにいたのは紛れもなく、神崎遠也、その人だった。
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