導きの夢
あかりの名前は「片町 燈 」。しかし、これまでのクラスでとなりあっていた「『菅野 』さん」や「『木田 』くん」は、あかりたちのさらに後ろに座っていた。ということは、おそらく、この「神崎くん」とは今回はじめて同じクラスになったのだろう。
しかし、あかりの学校の生徒数はそれほど多くない。三年間もあれば、同学年の顔と名前くらいはなんとなく知っているものだ。
にもかかわらず、あかりはこの人物を知らなかった。みかけた覚えすらなかった。
「えっ。あかり、神崎くん知らないの?」
始業式が終わったあと、あかりは廊下で友人のナミに神崎のことを尋ねてみた。聞けば、彼女は前年、神崎と同じクラスにいたのだという。
「なんで? 去年の四月に転入してきたの覚えてないの?」
そういえば昨年の春、隣のクラスに新しい生徒が入ったという噂が流れていた。全校集会で紹介されたのも覚えている。しかし、その人物の名や顔までは記憶していなかった。どうでもよすぎて忘れていたのだろう。
「ああ、そうだったかもね。ちょっと覚えてる」
実際はまったくもって記憶になかったのだが、あかりはその件については曖昧に濁しておき、まずは神崎という人物の特徴を訊いてみた。
「べつに、普通の子だよ。どうって聞かれてもなあ」
ナミは困ったように髪の毛をいじりながら、眉をよせて宙を睨んでいた。思いだすことが困難なほど、特徴のない生徒らしい。
「そうだ、体育のときはつらそうかな。なんか、身体が弱いらしいよ。しょっちゅう風邪ひいて休むし、水泳の授業はほとんど見学してるし。それで、男子たちが『ずるしてる』って騒いで、問題になったっけ」
「へえ」
たしかに、彼は不健康そうな見た目をしていた。印象どおり、運動の類 は苦手なのだろう。毎日のように暴れ倒している元気な男子たちとは相容れなさそうだ。
あかりが納得して礼をいおうとすると、隣にいたルリがあっと声をあげた。そう、彼女はいつもあかりの隣にいるのだ。
「思いだした! 去年、運動会のリレーでアンカーやらされた子でしょ。足が遅いから最後ひとりぼっちになっちゃって、先生や放送部に応援されてたから覚えてる」
「そうだっけ?」
あかりは急いで去年の秋の記憶をたぐってみた。たしかに、昨年は学年の生徒が全員走るリレーの種目があった。最後にやたらと応援されていた走者がいたような気もする。しかし、その人物の顔など、どうでもよすぎて、まるで覚えていない。
「まあ、存在感のない子だもんね。でも大丈夫だよ。悪いことはしないと思うし。あたしの隣なんて、佐藤だよ? 朝からずーっとちょっかいだしてくんの。もう最悪なんだから!」
こうして話題は移りかわり、神崎の話は終わった。
翌日、あかりはこっそり神崎を観察してみた。ナミの言葉どおり、彼はさして問題のある生徒ではなかった。授業態度もまじめで、休み時間はずっと読書をしていた。
彼はとても無愛想で口数が少なかった。そして、常に下をむいて図鑑や百科事典を読んでいた。本は本でも、ストーリーのないものを好んでいるようだった。
クラスにはおとなしい男子がほかにもいたが、誰ひとり神崎には声をかけなかった。その理由は、あかりにもなんとなくわかった。彼はいつも不機嫌そうな顔で、誰かが話しかけると、きまってその相手を睨みつけている。これでは、なかよくなりようがない。
その日の授業中、神崎の机から消しゴムが落下した。偶然、足もとに転がってきたので、あかりはそれを拾いあげ、神崎の机に置いてあげた。
「落ちたよ」
すると、神崎は無表情で消しゴムを目にとめ、それから、あかりの顔をみた。彼がはっきりとこちらをみたのは、これがはじめてだった。
彼は、あかりのほうをむいた瞬間、ビクッと肩をゆらして、丸い目をさらに大きくみひらき、なにごとか言葉を発した。
「な、なに?」
あかりがどぎまぎしていると、神崎は慌てて消しゴムをひったくり、胸の前でそれを握ったまま、そっぽをむいてしまった。
「なんでもない。拾ってくれてありがと」
これが、ふたりがかわした、はじめての会話だった。しかし、それきり神崎があかりに話しかけることはなかった。
その次の日、学校へいくと、神崎は欠席していた。学校を休みがちだというのは本当らしい。
「ねえ、音楽の先生が結婚するって話、聞いた?」
「知ってる! 音楽の授業があるのは明日だよね」
昼休み、数人のクラスメイトが教壇に集まって、こんなことを相談していた。
「じゃあ、サプライズでお祝いしよう」
「特別な感じにしようよ。明日、クラス全員制服にするのはどう?」
「それいいね。賛成!」
その輪の中にいるのは、クラスの中心的な人物ばかりだった。彼らは勝手な相談を終えたあと、座席のほうをむき、あたりまえのように大きな声で叫んだ。
「みんな、明日制服着てきてね。決まりだから!」
「ほかのクラスの人にもバラさないでね。先生たちにもいわないでよ」
こうして、あかりたち二組の生徒は余計な秘密と余計な服装規定を背負わされるはめになった。
「勝手すぎ。お祝いしたいんなら、自分たちだけでやればいいのに」
ルリはぷりぷりしながら文句をいっていた。
「うん……」
あかりは、神崎のことが気がかりだった。授業中にでた課題については、きっと家に連絡がいくだろう。しかし、この一件についてはサプライズのため、担任教師すら知らないところで決められている。当然、彼のもとにこの情報はいかない。このままでは明日、彼がみじめな思いをするのは避けられない。
どうにかして、情報を伝える方法はないだろうか?
放課後まで悩んだあげく、あかりはルリが席を外したタイミングをみはからって、ナミに話しかけ、つまらない世間話をしつつ、それとなく神崎の住所を尋ねてみた。すると、ナミはあっさりと答えてくれた。
「あたしと同じ、『坂瑞口 』だよ。駅までは一緒になることあるもん。そこから先は知らないけどね。徒歩で帰っているから、駅からは近いんじゃないかな。でも、それがどうかしたの?」
「別に。近所に住んでるのかなあと思っただけ」
そういってごまかすと、あかりはナミと別れて席に戻り、ノートの切れ端を用意した。そして、内々に決められたサプライズの話を簡潔にしたため、こっそりとポケットに入れた。
もしも彼の家をみつけられたら、ポストにこの紙を投函しておこう。無理ならば諦めて帰ればいい。
しかし、ひとつ大きな問題があった。それは、彼の住んでいる場所が遠すぎるということだった。
坂瑞口 は、学校から離れた場所にある町だ。とても徒歩で移動できる距離ではない。かといって、自転車を使おうとすれば母親に用途を訊かれてしまうだろう。そうなるとやっかいだ。
あかりはなるべく、誰にも知られずに坂瑞口 へいきたかった。となると、手段はひとつしかない。家へ帰る前に直接駅へいき、電車で移動して帰ってくるのだ。そうすれば、帰宅が遅くても「学校で自習していた」といういいわけができる。
「あかり、お待たせ。早く帰ろう!」
用事を終えたルリが、鞄を抱えてやってきた。その無邪気な瞳に、あかりは少しためらったものの、意を決して口をひらいた。
「ねえ、今から私、図書室で勉強していたことにしてくれない?」
あえて嘘はつかなかった。もし「残って勉強する」といえば、ルリはそれに付き添おうとするだろう。だったら、はじめから本当の意図を伝えたほうが早い。
ルリは面食らったようだった。が、それは一瞬のことで、ぱっといつもの笑顔に戻ると、軽い調子で言葉を返した。
「あっ、わかった。『ママ対策』でしょ! いいよ、もしあかりのママから電話があったらそういっとく。じゃーね」
それ以上の詮索はせず、ルリは嬉しそうに右手を振って、先に帰ってしまった。あかりはほっと息をつき、ものわかりのいい彼女に心底感謝した。ときどき、どうしても母の監視から逃れたいとき、あかりはこうしてルリに協力を頼むことがあった。そんなとき、彼女はいつも何も訊かずに承諾し、完璧に口裏を合わせてくれていた。
こんな芸当ができるのはルリだけだった。そしてこれが、あかりがルリを突きはなせない理由でもあった。彼女は変わりものではあるが、それなりにいいところもちゃんとあるのだ。
しかし、あかりの学校の生徒数はそれほど多くない。三年間もあれば、同学年の顔と名前くらいはなんとなく知っているものだ。
にもかかわらず、あかりはこの人物を知らなかった。みかけた覚えすらなかった。
「えっ。あかり、神崎くん知らないの?」
始業式が終わったあと、あかりは廊下で友人のナミに神崎のことを尋ねてみた。聞けば、彼女は前年、神崎と同じクラスにいたのだという。
「なんで? 去年の四月に転入してきたの覚えてないの?」
そういえば昨年の春、隣のクラスに新しい生徒が入ったという噂が流れていた。全校集会で紹介されたのも覚えている。しかし、その人物の名や顔までは記憶していなかった。どうでもよすぎて忘れていたのだろう。
「ああ、そうだったかもね。ちょっと覚えてる」
実際はまったくもって記憶になかったのだが、あかりはその件については曖昧に濁しておき、まずは神崎という人物の特徴を訊いてみた。
「べつに、普通の子だよ。どうって聞かれてもなあ」
ナミは困ったように髪の毛をいじりながら、眉をよせて宙を睨んでいた。思いだすことが困難なほど、特徴のない生徒らしい。
「そうだ、体育のときはつらそうかな。なんか、身体が弱いらしいよ。しょっちゅう風邪ひいて休むし、水泳の授業はほとんど見学してるし。それで、男子たちが『ずるしてる』って騒いで、問題になったっけ」
「へえ」
たしかに、彼は不健康そうな見た目をしていた。印象どおり、運動の
あかりが納得して礼をいおうとすると、隣にいたルリがあっと声をあげた。そう、彼女はいつもあかりの隣にいるのだ。
「思いだした! 去年、運動会のリレーでアンカーやらされた子でしょ。足が遅いから最後ひとりぼっちになっちゃって、先生や放送部に応援されてたから覚えてる」
「そうだっけ?」
あかりは急いで去年の秋の記憶をたぐってみた。たしかに、昨年は学年の生徒が全員走るリレーの種目があった。最後にやたらと応援されていた走者がいたような気もする。しかし、その人物の顔など、どうでもよすぎて、まるで覚えていない。
「まあ、存在感のない子だもんね。でも大丈夫だよ。悪いことはしないと思うし。あたしの隣なんて、佐藤だよ? 朝からずーっとちょっかいだしてくんの。もう最悪なんだから!」
こうして話題は移りかわり、神崎の話は終わった。
翌日、あかりはこっそり神崎を観察してみた。ナミの言葉どおり、彼はさして問題のある生徒ではなかった。授業態度もまじめで、休み時間はずっと読書をしていた。
彼はとても無愛想で口数が少なかった。そして、常に下をむいて図鑑や百科事典を読んでいた。本は本でも、ストーリーのないものを好んでいるようだった。
クラスにはおとなしい男子がほかにもいたが、誰ひとり神崎には声をかけなかった。その理由は、あかりにもなんとなくわかった。彼はいつも不機嫌そうな顔で、誰かが話しかけると、きまってその相手を睨みつけている。これでは、なかよくなりようがない。
その日の授業中、神崎の机から消しゴムが落下した。偶然、足もとに転がってきたので、あかりはそれを拾いあげ、神崎の机に置いてあげた。
「落ちたよ」
すると、神崎は無表情で消しゴムを目にとめ、それから、あかりの顔をみた。彼がはっきりとこちらをみたのは、これがはじめてだった。
彼は、あかりのほうをむいた瞬間、ビクッと肩をゆらして、丸い目をさらに大きくみひらき、なにごとか言葉を発した。
「な、なに?」
あかりがどぎまぎしていると、神崎は慌てて消しゴムをひったくり、胸の前でそれを握ったまま、そっぽをむいてしまった。
「なんでもない。拾ってくれてありがと」
これが、ふたりがかわした、はじめての会話だった。しかし、それきり神崎があかりに話しかけることはなかった。
その次の日、学校へいくと、神崎は欠席していた。学校を休みがちだというのは本当らしい。
「ねえ、音楽の先生が結婚するって話、聞いた?」
「知ってる! 音楽の授業があるのは明日だよね」
昼休み、数人のクラスメイトが教壇に集まって、こんなことを相談していた。
「じゃあ、サプライズでお祝いしよう」
「特別な感じにしようよ。明日、クラス全員制服にするのはどう?」
「それいいね。賛成!」
その輪の中にいるのは、クラスの中心的な人物ばかりだった。彼らは勝手な相談を終えたあと、座席のほうをむき、あたりまえのように大きな声で叫んだ。
「みんな、明日制服着てきてね。決まりだから!」
「ほかのクラスの人にもバラさないでね。先生たちにもいわないでよ」
こうして、あかりたち二組の生徒は余計な秘密と余計な服装規定を背負わされるはめになった。
「勝手すぎ。お祝いしたいんなら、自分たちだけでやればいいのに」
ルリはぷりぷりしながら文句をいっていた。
「うん……」
あかりは、神崎のことが気がかりだった。授業中にでた課題については、きっと家に連絡がいくだろう。しかし、この一件についてはサプライズのため、担任教師すら知らないところで決められている。当然、彼のもとにこの情報はいかない。このままでは明日、彼がみじめな思いをするのは避けられない。
どうにかして、情報を伝える方法はないだろうか?
放課後まで悩んだあげく、あかりはルリが席を外したタイミングをみはからって、ナミに話しかけ、つまらない世間話をしつつ、それとなく神崎の住所を尋ねてみた。すると、ナミはあっさりと答えてくれた。
「あたしと同じ、『
「別に。近所に住んでるのかなあと思っただけ」
そういってごまかすと、あかりはナミと別れて席に戻り、ノートの切れ端を用意した。そして、内々に決められたサプライズの話を簡潔にしたため、こっそりとポケットに入れた。
もしも彼の家をみつけられたら、ポストにこの紙を投函しておこう。無理ならば諦めて帰ればいい。
しかし、ひとつ大きな問題があった。それは、彼の住んでいる場所が遠すぎるということだった。
あかりはなるべく、誰にも知られずに
「あかり、お待たせ。早く帰ろう!」
用事を終えたルリが、鞄を抱えてやってきた。その無邪気な瞳に、あかりは少しためらったものの、意を決して口をひらいた。
「ねえ、今から私、図書室で勉強していたことにしてくれない?」
あえて嘘はつかなかった。もし「残って勉強する」といえば、ルリはそれに付き添おうとするだろう。だったら、はじめから本当の意図を伝えたほうが早い。
ルリは面食らったようだった。が、それは一瞬のことで、ぱっといつもの笑顔に戻ると、軽い調子で言葉を返した。
「あっ、わかった。『ママ対策』でしょ! いいよ、もしあかりのママから電話があったらそういっとく。じゃーね」
それ以上の詮索はせず、ルリは嬉しそうに右手を振って、先に帰ってしまった。あかりはほっと息をつき、ものわかりのいい彼女に心底感謝した。ときどき、どうしても母の監視から逃れたいとき、あかりはこうしてルリに協力を頼むことがあった。そんなとき、彼女はいつも何も訊かずに承諾し、完璧に口裏を合わせてくれていた。
こんな芸当ができるのはルリだけだった。そしてこれが、あかりがルリを突きはなせない理由でもあった。彼女は変わりものではあるが、それなりにいいところもちゃんとあるのだ。