記憶黙殺

 あるとき、ストラはおかあさんに呼ばれ、服を着せられた。それは、今までみたことのない新品の服だった。
「うん、ぴったりね。これなら大丈夫」
 そのときは、すぐに服は脱がしてもらえた。ところが数週間後、ストラは朝早くにたたき起され、ふたたびその服を着せられるはめになった。そして、家とは別の、知らない建物へと連行された。
「あなたが遠也くんね。今日からよろしくね」
 そこは病院とも少し違う、奇妙な場所だった。おかあさんはこともあろうにストラをその場に置き去りにすると、そのまま姿を消してしまった。かわりに、別の大人の女性がストラの手を握り、たくさんの色紙いろがみで装飾された大きな部屋へと案内してくれた。
 その部屋にはストラと同じくらいの背丈の子供が、同じ服を着て座っていた。彼らはみな、ストラが入ってくると一斉にこちらをみあげた。ストラを連れてきた女性は声をあげてみんなの注意を引くと、ストラの背中を前に押しだして紹介した。
「今日からみんなのお友達になる、神崎かんざき遠也とおやくんです。仲よくしてね」


 結論からいうと、部屋にいた子供たちはストラと仲よく、、、はしてくれなかった。
 はじめのうちは親切に話しかけてくれる子もいたが、ストラが自分の話をはじめると、たちまち喧嘩に発展してしまった。ストラの名前がストラであることも、虹の国のことも、女王様やアンジュのことも、彼らは片っ端から否定した。それも、おかあさんのようなやんわりとした拒否ではなく、こちらに恨みでもあるのかと疑うレベルの全力否定だった。
「違うよ、何変なこといってんの」
「そんなの嘘だ。ほんとのことじゃないよ」
 ストラと他の子供たちとの主張はまるで食いあわず、議論は常に平行線のままだった。そして、相手の子供は泣きだしたり、怒って殴りかかってきたり、絶叫して大人を呼びつけたりした。
 それでもストラはひるまなかった。だって、自分は本当のことをいっているのだ。相手がただ、自分の無知を棚にあげてこちらを攻撃してきているだけなのだ。だから、否定の言葉には否定の言葉を返したし、殴りかかってくるやつは殴りかえした。ところが、最終的に悪者に仕立てあげられ、謝罪を要求されるのはきまってストラのほうだった。
「遠也、先生から聞いたわよ。幼稚園で喧嘩ばかりしているんですって?」
 ある日、おかあさんは難しい顔をしてストラの目の前に座った。
「どうしてお友達に怒鳴ったりするの。それに、叩いたりもしているそうじゃない。そういうことをしてはいけないって、教えたはずよ」
「だって、あっちが悪いんだもん」
「そういう考えはよくないわ。とにかく、暴力はいけません。大きな声をだすのもだめ。いいわね」
 この「幼稚園」と呼ばれる場所において、ストラの味方はひとりもいなかった。幼稚園はストラにとって苦しい場所になった。誰も自分と遊んではくれないし、話を聞いてくれようとしない。先生と呼ばれる大人たちもまた、明らかにストラを嫌っている様子だった。
 誰にも認めてもらえないことに不満を感じるようになったストラは、やがて、誰彼構わずつっかかるようになり、毎日のようにトラブルを起こした。
 そしてある日、ストラは病院に連れていかれた。しかし、そこはかつて住んでいた病院とは違うものだった。ストラはそこで、幼稚園の先生そっくりな大人の女性と話をし、いくつかの紙を見せられ、質問に答えた。幸いなことに、針を刺されることはなかった。
 それらが終わると、ストラは別室に放置された。ソファに座って、机に置かれていた絵本をめくっていると、隣の部屋から男性の渋い声と、嗚咽するおかあさんの声が聞こえた。
「言語発達がやや遅れぎみなのと、歳のわりに知識が少ないようには感じますが、知能には問題ありませんね。しかし、空想癖が強い。おそらく、ストレスが原因でしょう。お話を伺ったところ、もともと同年代の子供との交流も少なかったようですから、そのあたりも関係しているのかもしれません。きっと、寂しいんですよ」
「私が悪いんです。あの子、生まれてからずっと病院にいたんです。何も教えてあげられなかった。もっと私がしっかりしていれば……」
 幼いストラには、会話の内容まではわからなかった。しかし、話の主題が自分であることと、そのことでおかあさんが泣いていることだけは把握できた。
 その日以来、おかあさんはことあるごとに泣くようになった。とくに、ストラが虹の国の話をしたときの表情は深刻だった。だから、ストラはおかあさんのいるところではその話をしなくなった。もちろん、幼稚園でもしなかった。「虹の国の話は嫌がられる」──それが、ストラが集団生活の中で導きだした結論だった。
 唯一の救いは、家に遥がいることだった。遥だけはストラの話をちゃんと聞いてくれていた。そして、ストラがアンジュたちに会えない寂しさを吐露すると、「会えるといいな」といってなぐさめてくれた。
 ストラが信用できる人間は、遥だけだった。
7/9ページ
いいね