記憶黙殺

 ストラは再三、自分の名前がストラであることを伝えていたが、その主張に耳をかたむけてくれる人間はまるでいなかった。
 「おかあさん」はストラの話をひととおり聞いてはくれたが、「そうなのね」以上のことはいわず、彼のことを遠也とおやと呼びつづけた。「おとうさん」は、そもそもストラの話を聞こうとはしない。ストラが話そうとすると、きまってそれを遮り、よくわからないお説教をはじめてしまう。また、家の外を歩いている人たちは、ストラが話しかけると笑顔にはなるものの、やはり話の中身には興味がないようで、すぐに「おかあさん」と別の話をはじめてしまった。
 唯一、「おにいちゃん」だけは、ストラの話を真剣に聞いてくれていた。「おにいちゃん」はストラの名前の話を興味深そうに聞き、それから、ある耳よりな情報を教えてくれた。
「でも、おまえは遠也だよ。母さん、おまえのことは生まれる前から『遠也』って名前にするって決めていたんだぜ。だからきっと、その別の名前があだ名なんだよ。遠也が俺のこと『おにいちゃん』って呼んでいるみたいにさ」
 そう、「おにいちゃん」というのは名前ではなかった。彼は本当は「はるか」といって、ストラ以外の人物はみな、その名で彼を識別していた。どうやら、この「おにいちゃん」という称号はストラから彼を呼ぶときのみ適用される呼称らしい。
 要するに、ひとりの人物の名前がひとつとは限らないのだ。ようやくストラは納得した。それなら、自分が本名で呼ばれないことも理解できる。だからストラは名前の件については何もいわなくなった。どうせ、ここには長くいない。いずれ自分は虹の国への帰り道を見つけて、この場所を去るのだ。それまでは、なんと呼ばれようと気にすることはない。


 ある日、ストラは一度だけ、「こうえん」と称される広場に連れていかれた。そこにはストラと同じ背丈の子供が大勢いて、奇声をあげながら元気に走りまわっていた。ストラはこの子供たちから「虹の国」の情報を得ようと考え、必死に話しかけてみたのだが、誰もかれも、ストラが話しはじめるやいなや、首をかしげてどこかへ行ってしまった。ストラからすれば、自分に関心をむけてくれない人間などどうでもよかったのだが、その様子をみていた「おかあさん」はたいそう心配して、すぐにストラをその場から連れだしてしまった。
「かわいそうに。今までずっとひとりだったから、友達のつくりかたがわからないのね」
 「おかあさん」はいつもこういって、ストラを抱きしめてくれた。でも、ストラにはその言葉と行動の意味がさっぱりわからなかった。


 「こうえん」での経験のおかげで、ストラは、家の外にいる人間、つまり他人に「虹の国」を理解させることは難しいのだと学習した。そこで、家の中にいる「おかあさん」に対して、延々と虹の国の話をするようになった。「おかあさん」は、はじめは笑顔で聞いてくれていた。が、何日かたつと、だんだんその話を嫌がるようになった。
「遠也。もう、その話はやめましょう」
「でもぼく、帰らなくちゃいけないんだよ」
「やめて。お空に帰るだなんて、縁起でもない。そうだわ、ちょうど今日届いたDVDがあるの。一緒に観ましょう」
 ストラは悲しかった。「おかあさん」までもが、自分の話を聞いてくれなくなってしまった。自分が虹の国へ帰るためには、協力者が不可欠なのに。
 こうして、ストラの存在を知っている、、、、、のは「おにいちゃん」こと、はるかだけになってしまった。ストラははるかに、自分が覚えていることすべてを話した。クレヨンで絵を描き、アンジュや女王様についても説明した。はるかはいつも、それをまじめな顔で聞いてくれた。
 ストラは、はるかのことを信用していた。何があっても、彼だけはストラの味方でいてくれるだろう。いつか、無事に帰れる日がきたら、彼のことを虹の国へ招待してあげよう。それから、アンジュや女王様のことも紹介しよう。きっと彼は、驚くだろう──虹の国の狭さや、植物の美しさや、女王様の無機質さに。そしてストラは彼を、背の高い黒門や、光り輝く女王の城や、小さなため池に案内してあげるのだ。そうすれば、はるかはかならず、ストラのことをみなおすだろう。けして何も知らないだけの子供ではないことに気がつくだろう。そして、一目おいてくれるに違いない。
 ストラはいつも、その日が楽しみでならなかった。
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