記憶黙殺
新しい場所での暮らしは、以前よりは自由だった。やることなすことすべてに「おかあさん」の監視がついていることを除けば、たいていのことは自分の好きなようにできた。
外へ連れていってもらうこともできるようになった。常に「おかあさん」に手を握られているので行動は制限されたが、自分の足で歩き、自分の目で直接見る外の世界は新鮮だった。
ここにアンジュがいればいいのに、とストラは思った。アンジュとなら簡単に意思疎通ができるし、同じ場所で暮らしていたから、新しい場所の感想も共有できるだろう。
ストラは寂しかった。自分の話を理解してくれる人が欲しかった。
この場所では、ストラは自分の伝えたいことを半分も伝えられなかった。あの天空にある、柵門で隔てられた小さな国のことも、あいかわらず誰にも話せていなかった。
話すことはできなくても、あの場所の情景は今でもはっきりと覚えていた。白く輝く光の城も、なだらかな丘も、七色にきらめくガラスのような花も、何もかも、色鮮やかな景色のまま、記憶の中に残っている。人間だってそうだ。アンジュのほかにも、白い顔をした女王様がいた。パンチネロという面白いおじさんもいたし、ミラという気まぐれなお姉さんがいた。
それから、もうひとり──誰かがいた。
この最後のひとりだけは、どういうわけか顔すらも思いだせなかった。まるで、この人物に関する情報へのアクセスを遮断されているかのように、この人物に関する記憶だけが綺麗に抜け落ちていた。ただひとつ、その人物はストラより年上で、ストラよりも背が高く、いろんな新しいことを教えてくれる存在だった。そう、ちょうど、今の家にいる「おにいちゃん」のように。
新しい「家」には、「おかあさん」「おとうさん」のほかに、「おにいちゃん」と称される子供がいた。彼はいつも陽がかたむく頃にやってきて、就寝時まではずっとそばにいてくれた。しかし、翌朝になると、必ずその姿は消えている。「おかあさん」はストラに「おにいちゃん」は「がっこう」に行っているのだと説明してくれたが、その内容は何度聞いてもストラにはちんぷんかんぷんだった。
「ただいま! 今日は何する?」
これが、夕方に彼が現れた際の決まり文句だった。彼はストラを気にいっているらしく、様々な遊びを教えてくれた。おかげで、ストラは室内にあるボードゲームとおもちゃの名前はすべて覚えてしまった。そのほか、日用品の名前や使い方、流行りのタレントや番組、漫画やゲームに至るまで、とにかく彼はいろんなことを教えてくれた。ストラはすぐにこの「おにいちゃん」を好きになり、毎日、彼の登場──もとい帰宅を待ちこがれるようになった。
彼と過ごす日々は楽しかった。それはまさに、かつてストラが虹の国で求めていた愉悦でもあった。灰色だった毎日は彼の魔法によって鮮やかに輝き、ストラはようやく今いる居場所に安らぎを感じることができるようになった。
「おにいちゃんは?」
いつしか、これはストラの口癖となっていた。ストラは隙あらば彼を探すようになり、彼がいないと不平をいってぐずりだすようになった。
「あなたたちは本当に仲がいいのね」
「おかあさん」はそんなストラの姿に満足している様子だった。
一方で、「おとうさん」はほとんど家にいなかった。実際はストラが眠っている間に帰宅し、起きる前に家を出発しているだけだったのだが、幼いストラがそんなことを知るはずもなく、「おとうさん」は休日にしか現れない稀有な存在として認知されていた。
こうして、ストラは新しい人々に囲まれて、新たな生活をおくることとなった。この生活は悪いものではなかった。やりたくないことを強要されることも多かったが、前よりも自由があり、楽しいことも多かった。
この頃、ストラは周囲からあだ名をつけられていることに気がついていた。虹の国の外にきてからというもの、ストラは一度もストラとは呼ばれず、いつも妙な単語を投げかけられていた。ストラは長い間それを、単なる二人称代名詞だと認識していた。しかし、言葉を習得するために観察を続けるうち、それが自分個人にむけられた「名前」であることを理解できるようになった。
──遠也 。
それが、彼につけられた「あだ名」だった。
外へ連れていってもらうこともできるようになった。常に「おかあさん」に手を握られているので行動は制限されたが、自分の足で歩き、自分の目で直接見る外の世界は新鮮だった。
ここにアンジュがいればいいのに、とストラは思った。アンジュとなら簡単に意思疎通ができるし、同じ場所で暮らしていたから、新しい場所の感想も共有できるだろう。
ストラは寂しかった。自分の話を理解してくれる人が欲しかった。
この場所では、ストラは自分の伝えたいことを半分も伝えられなかった。あの天空にある、柵門で隔てられた小さな国のことも、あいかわらず誰にも話せていなかった。
話すことはできなくても、あの場所の情景は今でもはっきりと覚えていた。白く輝く光の城も、なだらかな丘も、七色にきらめくガラスのような花も、何もかも、色鮮やかな景色のまま、記憶の中に残っている。人間だってそうだ。アンジュのほかにも、白い顔をした女王様がいた。パンチネロという面白いおじさんもいたし、ミラという気まぐれなお姉さんがいた。
それから、もうひとり──誰かがいた。
この最後のひとりだけは、どういうわけか顔すらも思いだせなかった。まるで、この人物に関する情報へのアクセスを遮断されているかのように、この人物に関する記憶だけが綺麗に抜け落ちていた。ただひとつ、その人物はストラより年上で、ストラよりも背が高く、いろんな新しいことを教えてくれる存在だった。そう、ちょうど、今の家にいる「おにいちゃん」のように。
新しい「家」には、「おかあさん」「おとうさん」のほかに、「おにいちゃん」と称される子供がいた。彼はいつも陽がかたむく頃にやってきて、就寝時まではずっとそばにいてくれた。しかし、翌朝になると、必ずその姿は消えている。「おかあさん」はストラに「おにいちゃん」は「がっこう」に行っているのだと説明してくれたが、その内容は何度聞いてもストラにはちんぷんかんぷんだった。
「ただいま! 今日は何する?」
これが、夕方に彼が現れた際の決まり文句だった。彼はストラを気にいっているらしく、様々な遊びを教えてくれた。おかげで、ストラは室内にあるボードゲームとおもちゃの名前はすべて覚えてしまった。そのほか、日用品の名前や使い方、流行りのタレントや番組、漫画やゲームに至るまで、とにかく彼はいろんなことを教えてくれた。ストラはすぐにこの「おにいちゃん」を好きになり、毎日、彼の登場──もとい帰宅を待ちこがれるようになった。
彼と過ごす日々は楽しかった。それはまさに、かつてストラが虹の国で求めていた愉悦でもあった。灰色だった毎日は彼の魔法によって鮮やかに輝き、ストラはようやく今いる居場所に安らぎを感じることができるようになった。
「おにいちゃんは?」
いつしか、これはストラの口癖となっていた。ストラは隙あらば彼を探すようになり、彼がいないと不平をいってぐずりだすようになった。
「あなたたちは本当に仲がいいのね」
「おかあさん」はそんなストラの姿に満足している様子だった。
一方で、「おとうさん」はほとんど家にいなかった。実際はストラが眠っている間に帰宅し、起きる前に家を出発しているだけだったのだが、幼いストラがそんなことを知るはずもなく、「おとうさん」は休日にしか現れない稀有な存在として認知されていた。
こうして、ストラは新しい人々に囲まれて、新たな生活をおくることとなった。この生活は悪いものではなかった。やりたくないことを強要されることも多かったが、前よりも自由があり、楽しいことも多かった。
この頃、ストラは周囲からあだ名をつけられていることに気がついていた。虹の国の外にきてからというもの、ストラは一度もストラとは呼ばれず、いつも妙な単語を投げかけられていた。ストラは長い間それを、単なる二人称代名詞だと認識していた。しかし、言葉を習得するために観察を続けるうち、それが自分個人にむけられた「名前」であることを理解できるようになった。
──
それが、彼につけられた「あだ名」だった。