天空の物語
アンジュが城にたどり着くと、戸口には女王が立っていた。まるで、彼女がやって来るのを待ちかまえていたようだった。
しかし、アンジュはそのことについてとくに驚きはしなかった。女王はすべてお見通しなのだ。この虹の国に、女王が知らないできごと など存在しないのである。アンジュはいてもたってもいられず、女王にすがるようにして助けを求めた。
「わたしはどうしたらいいの?」
「連れてきたのがあなたなら、追いだすのもあなたの役目です」
女王は眉ひとつ動かさず、普段と変わらぬ声で淡々と答えた。女王はいつだって同じ表情をしている。何が起ころうと、誰がどうなろうと、女王が感情を高ぶらせることはない。女王とはそういう存在なのだ。
「それで、ストラは幸せになれると思う? 虹の国を追いだされたら、ストラはあの場所 に戻るんでしょう。門の外の──『下界』に」
そう、この国の門をでたところで、その先には何もない。ほんの少し、雲の形をとった狭い土地がわずかに広がっているだけだ。そのほかは「空」そっくりの無限の空間が上下問わずどこまでも広がっているだけで、そこには天体も生物もいない。アンジュが過度に恐れ、ストラがやたらと興味を示している「外の世界」とは、虹の国のはるか下方、絶対に虹の国とは繋がりえない遠い場所のことを指している。血のかよった肉体をもつ生物が多数暮らすその場所を、虹の国では「下にある場所」という意味をこめて、俗に「下界」と呼んでいた。
「ストラの境遇を知りたいのなら、ため池に行ってごらんなさい。あなたの望むものが見られるでしょう」
アンジュははっとした。そうだ、国のはずれにある小さな池。普段は水がたまっているだけなので、せいぜい鏡のかわりにするくらいしか使い道がない。だが、じつはこの池には不思議な力が備わっており、住人が望みさえすれば、下界の様子を映しだしてくれるのだ。
アンジュが池へと走りだそうとすると、女王は「ただし」と強い口調で、ある警告をつけ加えた。
「彼はあなたの導きによって、すでに虹の国を知り、住人として暮らしをはじめています。それを今さら追いだすというのなら、あなたにも相応の罰が待っているでしょう。よいですね」
アンジュが池へ着くと、そこには先客がいた。さっき大喧嘩したばかりのエイイチだった。彼は池のほとりで膝をかかえ、思いつめた表情で水面を見つめている。
最悪のタイミングで鉢あわせてしまった。今はやめておくべきだろうか。迷ったアンジュが後ずさりをはじめた矢先、エイイチがこちらに気づいてふと顔をあげた。
「アンジュ。君もここへ来るんだね」
その顔つきに、先ほどの敵意の名残はない。エイイチははじめてこの国に来たときと同じ、空虚な瞳でこちらを見るのみだった。彼の眼 はアンジュを捉えているようでいて、実際には何も映していない。彼の意識はすでに、手の届かぬ遠い世界へと飛んでいってしまっているようだった。
「怒っていないの?」
そのあまりにも虚ろな表情に、アンジュは怯えながらも話しかけた。なんの感情も宿していない彼の面貌は、なまじの怒りや敵対心よりもずっと怖かった。
「怒っていたよ、さっきまではね。でも、もうやめた。この場所で怒っても泣いても、なんの意味もない。その先に繋がるものがないのだから」
そう言うとエイイチはまた、池へと視線を落としてしまった。
やることがなくなってしまったので、アンジュは興味本位で池に近づき、中を覗いてみた。どうせ、一度に複数の景色を見ることはできない。だから、アンジュが目的を果たすには、今ここにいる彼がこの場所からどくのを待つしかない。だったら、彼がどんな情景を見ているのかを知っておいたほうが、今後の予定もたてやすいだろう。その程度の動機だった。
「あれは僕の妹だよ」
近づいていたアンジュの気配を感じとったのか、エイイチは池に目をやったまま、水面を指さして説明してくれた。見ると、よちよちと頼りない足どりで赤ん坊が歩いている姿が映しだされている。まだ足を使うことに慣れていないようで、数歩進むごとに両手を地面について休憩をしている。身なりからして、女児のようだった。
「もう、僕のことは覚えていないだろうな。自分にきょうだいがいることすら知らないかもしれない」
虚ろだった彼の声色に、ほんの少しだけ悲哀の感情が混ざりこんだのがわかった。それを聞いてようやくアンジュは、彼がこの小さな生き物に強い想いをむけていることを悟った。
「よっぽどあの子のことが好きなのね」
その言葉にエイイチは意表を突かれたようだった。彼は目をまるくして顔をあげ、まるで異界の生物を見るかのようなまなざしでアンジュを見つめた。
「そりゃ、そうだよ。『家族』なんだから」
「そう。家族のことが好きなのね」
「君は? 虹の国の外に会いたい人はいないの?」
「いないわ。二度と会いたくない」
間髪いれずにそう答えると、エイイチはこわばっていた表情をゆるめて息をつき、「そっか」とだけつぶやいた。
「君と話があわない理由がわかったよ。僕と君は、まったく違う人間なんだね」
どうりで池の付近で君を見かけないわけだ、とエイイチは自嘲気味に笑った。怒ったかと思えば無感情になり、そして今はなぜか笑みを浮かべている。アンジュはどうすればよいかわからず、ただ、戸惑うばかりだった。
「アンジュ、君はどうしてここに来たの?」
正直、答えたくない質問だった。けれども、すべてのきっかけをつくったのはほかでもない、このエイイチである。ほかの住人ならともかく、このエイイチにだけは話しておく義務があるだろう。
「確かめにきたの。あなたの言っていたことが本当に正しいのかをね」
アンジュは平静を装ってエイイチの隣へ行き、池のふちに腰かけた。そして、女王に会って助言をもらったことをなんでもなさそうに 話して聞かせ、最後に「そういうわけで、ここへ来たの」と締めくくった。
「それは名案だ。ストラのためにも、一番いいと思う」
エイイチは顔をほころばせ、身を乗りだして池の水面を覗きこんだ。
「僕も見てみたいな。ストラがどこで、誰と暮らしているのか」
それからアンジュを見あげ、いいよ、と言わんばかりにうなずいてみせた。彼の目からメッセージを読みとったアンジュは、おずおずと池にむかって語りかけた。
「ストラを見せて。あの子は今どこで、どうしているの?」
しかし、アンジュはそのことについてとくに驚きはしなかった。女王はすべてお見通しなのだ。この虹の国に、女王が知らない
「わたしはどうしたらいいの?」
「連れてきたのがあなたなら、追いだすのもあなたの役目です」
女王は眉ひとつ動かさず、普段と変わらぬ声で淡々と答えた。女王はいつだって同じ表情をしている。何が起ころうと、誰がどうなろうと、女王が感情を高ぶらせることはない。女王とはそういう存在なのだ。
「それで、ストラは幸せになれると思う? 虹の国を追いだされたら、ストラは
そう、この国の門をでたところで、その先には何もない。ほんの少し、雲の形をとった狭い土地がわずかに広がっているだけだ。そのほかは「空」そっくりの無限の空間が上下問わずどこまでも広がっているだけで、そこには天体も生物もいない。アンジュが過度に恐れ、ストラがやたらと興味を示している「外の世界」とは、虹の国のはるか下方、絶対に虹の国とは繋がりえない遠い場所のことを指している。血のかよった肉体をもつ生物が多数暮らすその場所を、虹の国では「下にある場所」という意味をこめて、俗に「下界」と呼んでいた。
「ストラの境遇を知りたいのなら、ため池に行ってごらんなさい。あなたの望むものが見られるでしょう」
アンジュははっとした。そうだ、国のはずれにある小さな池。普段は水がたまっているだけなので、せいぜい鏡のかわりにするくらいしか使い道がない。だが、じつはこの池には不思議な力が備わっており、住人が望みさえすれば、下界の様子を映しだしてくれるのだ。
アンジュが池へと走りだそうとすると、女王は「ただし」と強い口調で、ある警告をつけ加えた。
「彼はあなたの導きによって、すでに虹の国を知り、住人として暮らしをはじめています。それを今さら追いだすというのなら、あなたにも相応の罰が待っているでしょう。よいですね」
アンジュが池へ着くと、そこには先客がいた。さっき大喧嘩したばかりのエイイチだった。彼は池のほとりで膝をかかえ、思いつめた表情で水面を見つめている。
最悪のタイミングで鉢あわせてしまった。今はやめておくべきだろうか。迷ったアンジュが後ずさりをはじめた矢先、エイイチがこちらに気づいてふと顔をあげた。
「アンジュ。君もここへ来るんだね」
その顔つきに、先ほどの敵意の名残はない。エイイチははじめてこの国に来たときと同じ、空虚な瞳でこちらを見るのみだった。彼の
「怒っていないの?」
そのあまりにも虚ろな表情に、アンジュは怯えながらも話しかけた。なんの感情も宿していない彼の面貌は、なまじの怒りや敵対心よりもずっと怖かった。
「怒っていたよ、さっきまではね。でも、もうやめた。この場所で怒っても泣いても、なんの意味もない。その先に繋がるものがないのだから」
そう言うとエイイチはまた、池へと視線を落としてしまった。
やることがなくなってしまったので、アンジュは興味本位で池に近づき、中を覗いてみた。どうせ、一度に複数の景色を見ることはできない。だから、アンジュが目的を果たすには、今ここにいる彼がこの場所からどくのを待つしかない。だったら、彼がどんな情景を見ているのかを知っておいたほうが、今後の予定もたてやすいだろう。その程度の動機だった。
「あれは僕の妹だよ」
近づいていたアンジュの気配を感じとったのか、エイイチは池に目をやったまま、水面を指さして説明してくれた。見ると、よちよちと頼りない足どりで赤ん坊が歩いている姿が映しだされている。まだ足を使うことに慣れていないようで、数歩進むごとに両手を地面について休憩をしている。身なりからして、女児のようだった。
「もう、僕のことは覚えていないだろうな。自分にきょうだいがいることすら知らないかもしれない」
虚ろだった彼の声色に、ほんの少しだけ悲哀の感情が混ざりこんだのがわかった。それを聞いてようやくアンジュは、彼がこの小さな生き物に強い想いをむけていることを悟った。
「よっぽどあの子のことが好きなのね」
その言葉にエイイチは意表を突かれたようだった。彼は目をまるくして顔をあげ、まるで異界の生物を見るかのようなまなざしでアンジュを見つめた。
「そりゃ、そうだよ。『家族』なんだから」
「そう。家族のことが好きなのね」
「君は? 虹の国の外に会いたい人はいないの?」
「いないわ。二度と会いたくない」
間髪いれずにそう答えると、エイイチはこわばっていた表情をゆるめて息をつき、「そっか」とだけつぶやいた。
「君と話があわない理由がわかったよ。僕と君は、まったく違う人間なんだね」
どうりで池の付近で君を見かけないわけだ、とエイイチは自嘲気味に笑った。怒ったかと思えば無感情になり、そして今はなぜか笑みを浮かべている。アンジュはどうすればよいかわからず、ただ、戸惑うばかりだった。
「アンジュ、君はどうしてここに来たの?」
正直、答えたくない質問だった。けれども、すべてのきっかけをつくったのはほかでもない、このエイイチである。ほかの住人ならともかく、このエイイチにだけは話しておく義務があるだろう。
「確かめにきたの。あなたの言っていたことが本当に正しいのかをね」
アンジュは平静を装ってエイイチの隣へ行き、池のふちに腰かけた。そして、女王に会って助言をもらったことを
「それは名案だ。ストラのためにも、一番いいと思う」
エイイチは顔をほころばせ、身を乗りだして池の水面を覗きこんだ。
「僕も見てみたいな。ストラがどこで、誰と暮らしているのか」
それからアンジュを見あげ、いいよ、と言わんばかりにうなずいてみせた。彼の目からメッセージを読みとったアンジュは、おずおずと池にむかって語りかけた。
「ストラを見せて。あの子は今どこで、どうしているの?」