天空の物語

「隠してなんかいないわ」
 アンジュはもうエイイチに視線をむけなかった。この人といると調子が狂う。彼だけは、ほかの住人があえて触れずにいる彼女のセンシティブな部分にも容赦なく踏みこんでくる。空気が読めないのか、アンジュのことが気にくわないのか、はたまたその両方なのか。アンジュはいまだに彼のことが理解できなかった。
「ストラはたまに夢を見るらしい」
 エイイチはアンジュの態度など気に介さず、話を続けた。よっぽどストラのことが気にかかっているのだろう。
「ストラは何も知らない。自分ははじめから虹の国にいたと言っている。それなのに、彼が夢で見ている世界は『僕が知っている場所』にとても似ていた。奇妙だろう? だから、女王様にストラについて訊いてみた。でも、きちんとした答えは得られなかった。『ストラはまだ不完全』だけど、『ルール違反ではないから問題ない』って。ただ、それだけ」
 エイイチはそこで一度言葉を切り、語気を強めて問いかけた。
「『不完全』って、どういう意味だろうね? アンジュ、君はそのことを知っているんじゃないか?」
 しかし、アンジュは返事をしなかった。どうせ、彼はすべてを知っている。ならば、わざわざ説明をしてやる必要はない。
「答えないのなら、僕が言うよ」
 案の定、エイイチはアンジュからの返答が得られないことを悟ると、自ら話を進めにかかった。
「ストラはまだ死んでないんだろ? ストラは生きている。そして、君はそんなストラをこの国に閉じこめようとしている」
「それがなんだっていうの?」
 アンジュは食い気味に彼の主張を遮った。事実とはいえ、まるでアンジュがストラに危害を加えているような言いぐさには、さすがに我慢ならなかった。
「わたしはストラをここへ引き入れてあげたの。お友達になって、一緒に遊んであげただけ。あなたに責められる筋合いはないわ」
「そんなのは君のわがままだ」
 何を言っても相手は引きさがらなかった。彼は立ちあがると、アンジュの瞳を見据え、そして諭すような口調で語りかけた。
「アンジュ、ストラを解放するんだ。今ならまだ間にあう」
「嫌よ。そんなことをしたら、ストラは虹の国の外へ行ってしまう」
「そうだよ。ストラはここにいるべきじゃない。外へ戻るべきなんだ」
「そんなのだめよ。あんな恐ろしい場所に行かせてはだめ。つらい思いをして苦しむだけなのに」
「そんなことはないさ。楽しいことだってたくさんある。虹の国は狭くて、寂しくて、何もない。ここにいるほうが不幸だよ」
「それはあなたの話でしょう!?」
 アンジュはぎっとエイイチを睨みつけた。この人はなんて不愉快で、無神経で、底意地が悪いのだろう。わたしからストラをとりあげて、許可もなくわたしたちのことを嗅ぎまわって、おまけに虹の国にいることを不幸呼ばわりするなんて!
 この人は外の世界の恐ろしさを知らないのだ。どうせ、甘やかされてお気楽に日々を過ごしていたのだろう。そんな無知で愚かな人に、どうして説教をされなければいけないのだろう。どうしてわたしが悪者になるのだろう。
「いいわね、泣いて外の世界に戻りたがっていた人は呑気で」
 とうとう堪忍袋の緒が切れたアンジュは、勢いよく立ちあがって早口で思いのたけをまくしたてた。それがどれだけひどい言葉であるかは理解していたが、もう、歯止めはきかなかった。それほどに、「虹の国の外」はアンジュにとって受け入れがたい場所だった。
「あんなおぞましいところ、わたしは絶対に戻りたくない。もちろん、ストラだって戻さないつもりよ。これ以上、あなたみたいなつまらない苦労知らずといると気が変になりそうだわ。もう二度と、わたしとストラに近づかないで」
 その瞬間、情熱的だったエイイチの表情はゆっくりと温度を落とし、いつか見た「無」の表情へと切りかわっていった。それは、アンジュへの説得を諦めたことを意味していた。
「君にその気がないことはよくわかったよ」
 エイイチは投げやりな口調でそう吐き捨て、氷のように冷たく鋭い視線をアンジュに送った。それは「嫌い」とも「無関心」とも違う、絶対に相容れない「敵」を見る目だった。
「だったらはっきり言う。君はストラを殺そうとしているんだ。君のやろうとしていることは人殺しだ」
 突然の恐ろしい単語に、アンジュは色を失った。それは、二度と聞きたくない、、、、、、、、、最悪の言葉だった。
「違う、違うわ」
 アンジュは必死に否定を試みたが、気が動転してなんの言葉もでてこなかった。わたしはストラとお友達になっただけ。わたしはストラを虹の国に招待してあげただけ。一緒に遊んでいただけ。余計なことを教えなかったのも、彼への親切心からだった。それなのに、わたしがストラにしていることは悪いことなのだという。それも、世界で一番わたしが嫌っている、あの罪、、、を犯しているという。そんなはずはないのに。
「僕からは、これ以上言うことはない。ただ、ひとつだけ覚えていてほしい。国の外が苦しい場所かどうかを決めるのは君じゃない。ストラ自身だ」
 それだけ言い残すと、エイイチは立ち去ってしまった。とり残されたアンジュはひとり、顔面蒼白のまま、棒立ちでうつむいていた。彼の言葉は、それまで正しいと信じて疑わなかった行いに、真実という名の刃を突きたてていた。
 ──わたしは、間違っているの?
 アンジュの脳裏に、不満を訴えるストラの表情がよみがえった。今のストラは、アンジュに笑顔をむけていない。彼が瞳を輝かせて慕っているのは、外界の知識を教えてくれるエイイチなのだ。虹の国と外の世界、ストラが求めているのはどちらの世界なのか。残念ながら、それは誰の目にも明らかだった。
 丘のはるか遠くで、ストラがエイイチを呼ぶ声が聞こえた。あの子は彼を探している。わたしではなく、外の世界を愛する彼を。そして、彼がもたらす外の世界の知識を。
 わたしはどうすればいいのだろう。
 考えたところで、答えなどでるはずがなかった。
 混乱と迷いの中でもがくうち、彼女の足はひとりでに、あの城へと歩を進めはじめていた。
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