天空の物語
「やあ、アンジュ。また来客を待っているのかい」
そう声をかけられ、アンジュは柵門を掴んでいた手を離した。
後ろを振りむくと、そこには日焼けした顔の筋肉質な男性が、歯を見せて笑っていた。
「なあにパンチネロ。私のこと、からかいにきたの?」
「なんてひどい。おまえさんが外の様子ばかり気にしているから、心配してやっているんじゃないか」
パンチネロと呼ばれた男性は芝居がかった口調で話し、大げさに両手を広げておどけてみせた。この人はいつもこうなのだ。彼はかつて曲芸師をしていて、こうしたしゃべりや動きが癖になっているらしい。
「しかたがないじゃない。ここの人はみんな、わたしに冷たいのだもの」
アンジュはふたたび門の外へと視線をむけた。しかし、そこには真っ白い雲海の地面と、何もない青空──どちらかというと無機質なそれは「青空間」と呼んだほうがいいかもしれない──が静止画のように映しだされているばかりだった。
「冷たくしてるんじゃないさ。この国ではみんながお互いに無関心なんだ。俺たちはもう、新たに誰かと関係をつくる必要がない。ただ、穏やかなこの場所でゆっくりと暮らしたいだけなのさ」
「そんなこと、わかってるわ」
アンジュはいらいらした。この男はいつまで自分につきまとうのだろう。普段は姿すら現さないくせに、こなくていいときに限って話しかけてくる。アンジュはこの男との会話を打ちきるべく、こんな質問をした。
「ねえパンチネロ、あなたは何歳でこの国にきたの?」
「三十五だ」
パンチネロはあっさりと答えた。
「本当はそんなに早くくる予定はなかったんだが、ある日突然、胸のあたりが痛くなってな。気がついたら門の前だったよ。自慢じゃないが俺は酒飲みだったからなあ。今じゃ後悔しているよ」
「だからあなたは平気なのよ」
アンジュは門の外から目をそらさずにいった。
「わたしは十四歳まで だったもの。あなたみたいに外の世界を満喫していないの。だからひとりでいるのは辛いのよ」
「十四歳だって?」
パンチネロはアンジュの頭から爪先までをじっくり観察したのちに、遠い土地の民芸品を前にしたかのような顔で唸った。
「こんなに小さな十四歳も存在するんだな」
「今は違うわ」
アンジュはぴしゃりと言いかえし、頭を振って、脳裏をよぎった忌まわしい記憶を払い落とした。せっかく忘れていたのに、どうやら「十四歳」という単語に反応してしまったらしい。
「あれは思いだしたくないわたし 。ここにいるわたしは四歳なの。わたしは小さいわたしのほうが好きだから」
「そうかい」
どういうわけか、パンチネロはそれ以上何も言ってこなかった。詳しい話をするのが面倒になったのか、こちらの事情 を察してくれたのかはわからない。ともかく、これで余計な会話をする必要はなくなった。アンジュはほっとして、もう一度、外の風景へと意識を集中させた。
と、それまで写真のように変化のなかった眼前の光景に、妙な異変が起きた。
かげろうのように、景色の一部分がグラグラと揺らいでいる。そして、その揺らぎは左右に揺れながら、少しずつ大きくなってきていた。
「なんじゃ、ありゃ?」
パンチネロは右手を額にかざして、じっとその影を眺めた。アンジュもまた、目を凝らしてその不思議な現象を見つめていたが、やがて、その小さな揺らぎに小さな足が生えていることに気がついた。
「あれは人だわ。誰かがこの虹の国にやってきたのよ!」
そう、景色の歪みは「大きくなっている」のではなく、「近づいてきている」のだった。小さな足は、小さなかげろうを上に抱え、おぼつかない千鳥足でゆっくりとこちらに歩いてきていた。
「あんな不気味な客は見たことがないぜ」
「なんだっていいわ。わたしのお友達になってくれるのなら」
アンジュは柵門の隙間から細い腕をだして、小さな足に呼びかけた。
「ねえ、あなたは誰?」
小さな足は、その声に反応したようだった。そして、声に導かれるように門の前までやってきて、こう返事をした。
『ねえ、あなたは誰?』
その声は、先ほどアンジュが放ったものと完全に同じだった。
そう声をかけられ、アンジュは柵門を掴んでいた手を離した。
後ろを振りむくと、そこには日焼けした顔の筋肉質な男性が、歯を見せて笑っていた。
「なあにパンチネロ。私のこと、からかいにきたの?」
「なんてひどい。おまえさんが外の様子ばかり気にしているから、心配してやっているんじゃないか」
パンチネロと呼ばれた男性は芝居がかった口調で話し、大げさに両手を広げておどけてみせた。この人はいつもこうなのだ。彼はかつて曲芸師をしていて、こうしたしゃべりや動きが癖になっているらしい。
「しかたがないじゃない。ここの人はみんな、わたしに冷たいのだもの」
アンジュはふたたび門の外へと視線をむけた。しかし、そこには真っ白い雲海の地面と、何もない青空──どちらかというと無機質なそれは「青空間」と呼んだほうがいいかもしれない──が静止画のように映しだされているばかりだった。
「冷たくしてるんじゃないさ。この国ではみんながお互いに無関心なんだ。俺たちはもう、新たに誰かと関係をつくる必要がない。ただ、穏やかなこの場所でゆっくりと暮らしたいだけなのさ」
「そんなこと、わかってるわ」
アンジュはいらいらした。この男はいつまで自分につきまとうのだろう。普段は姿すら現さないくせに、こなくていいときに限って話しかけてくる。アンジュはこの男との会話を打ちきるべく、こんな質問をした。
「ねえパンチネロ、あなたは何歳でこの国にきたの?」
「三十五だ」
パンチネロはあっさりと答えた。
「本当はそんなに早くくる予定はなかったんだが、ある日突然、胸のあたりが痛くなってな。気がついたら門の前だったよ。自慢じゃないが俺は酒飲みだったからなあ。今じゃ後悔しているよ」
「だからあなたは平気なのよ」
アンジュは門の外から目をそらさずにいった。
「わたしは十四歳
「十四歳だって?」
パンチネロはアンジュの頭から爪先までをじっくり観察したのちに、遠い土地の民芸品を前にしたかのような顔で唸った。
「こんなに小さな十四歳も存在するんだな」
「今は違うわ」
アンジュはぴしゃりと言いかえし、頭を振って、脳裏をよぎった忌まわしい記憶を払い落とした。せっかく忘れていたのに、どうやら「十四歳」という単語に反応してしまったらしい。
「あれは
「そうかい」
どういうわけか、パンチネロはそれ以上何も言ってこなかった。詳しい話をするのが面倒になったのか、
と、それまで写真のように変化のなかった眼前の光景に、妙な異変が起きた。
かげろうのように、景色の一部分がグラグラと揺らいでいる。そして、その揺らぎは左右に揺れながら、少しずつ大きくなってきていた。
「なんじゃ、ありゃ?」
パンチネロは右手を額にかざして、じっとその影を眺めた。アンジュもまた、目を凝らしてその不思議な現象を見つめていたが、やがて、その小さな揺らぎに小さな足が生えていることに気がついた。
「あれは人だわ。誰かがこの虹の国にやってきたのよ!」
そう、景色の歪みは「大きくなっている」のではなく、「近づいてきている」のだった。小さな足は、小さなかげろうを上に抱え、おぼつかない千鳥足でゆっくりとこちらに歩いてきていた。
「あんな不気味な客は見たことがないぜ」
「なんだっていいわ。わたしのお友達になってくれるのなら」
アンジュは柵門の隙間から細い腕をだして、小さな足に呼びかけた。
「ねえ、あなたは誰?」
小さな足は、その声に反応したようだった。そして、声に導かれるように門の前までやってきて、こう返事をした。
『ねえ、あなたは誰?』
その声は、先ほどアンジュが放ったものと完全に同じだった。