時の国の王女
ミストに別れを告げ、ふたりはおそるおそる門をでて、まっすぐ下へとおりていった。ふたりがでると同時に、ミストはさっさと門を閉じてしまったらしく、あとでストラが振りかえってみても、門らしきものはもう、灰色の空のどこにもなかった。
下方には虹の国に似た、緑の大地があった。しかし、よくよく近づいていって観察してみると、地面に生えている草のほとんどは見たことのない形をしている。そして、その半分ほどは枯れていた。おまけに踏んでみるとチクチク足裏に刺さって痛い。人工的に刈りこまれた均質で柔らかな芝生しか知らないストラは、それだけで興奮し、両手をぱたぱたと動かして騒いだ。
「すごいすごい、おかしな地面! 全部虹の国と違うよ!」
「あたりまえじゃない、そんなことで大騒ぎしないで」
アンジュは驚くそぶりも見せず、冷たくぴしゃりと言いはなった。さっきの時計の件といい、どうやらアンジュはこの「下の世界」のことをよく知っているらしい。てっきり喜びを共有してくれるとばかり思っていたストラは面食らい、呆然とその場に立ちつくしてしまった。
「何もないわね。山ばっかりだわ」
アンジュはきょろきょろと周囲の景色を見渡して不満げに鼻を鳴らした。
ふたりが降りたったのは山岳地帯だった。足元の大地にもすでに緩やかな傾きがあり、そのまま空に向かってなだらかに伸びあがって、いくつもの山を形成していた。山の頭頂部には緑がなく、険しい岩肌が露出し、威厳のあるいでたちでこちらを見おろしている。山はひとつではなくどこまでも連なっていて、どちらを見ても延々と高い山脈が壁のようにそびえ立っていた。反対側も同じように視界が山脈に阻まれている。どうやら、ふたりがいるのは山あいの深い谷のようだった。
「おまえたち、何者だい?」
ストラがぼんやりと山頂を見あげていると、ふいに背後からウシガエルを潰したような声がした。声のするほうに視線をむけると、そこには紫のフードつきローブに毒々しい赤のショールを巻いた、趣味の悪い格好の老婆が立っていた。服装もさることながら、しわに顔のパーツが埋もれそうなほどたるんだその顔も、なかなかに恐ろしい。それだけ老けこんでいるにもかかわらず、背筋はぴんと伸びており、首から下だけを切りとると若者のようにすら見える。その上下のアンバランスさは、かえって老婆の怪しさを引きたてていた。
突然のことにふたりが何も言えないでいると、老婆はふたりの翼をじろじろと睨みつけ、何やら合点がいったらしく、ひとり小さくうなずいた。
「その姿は虹の住人か。しかし、よりにもよって随分と未熟な子供をよこしてきたものだね」
「あの、あなたは?」
アンジュが尋ねると、老婆は四方八方に絡まりあった白髪 をいじりながら思案するそぶりを見せ、それから、のったりと口を動かして、おもむろに説明をはじめた。
「あたしは……いや、名前はいらないな。『魔女』だよ。世間ではそう呼ばれてる。虹の国のこともよく知ってるよ。なんてったって、ここに屋敷を構えたのは虹の門を見張るためなのだからな」
「えっ!」
ストラとアンジュはお互いの顔を見て、同時に笑顔になった。これが魔女なのだ! しかも、虹の国のことも知っているらしい。これは話が早そうだ。
「とりあえず、その羽をしまいな。いくら人気がないとはいえ、その格好は目立つ。目立つというのはろくなことじゃない。さあ、まずは家へ入ってくれ。年寄りが外で長時間身体を冷やすのはよくないんだよ」
魔女が右手で示した先には、確かにぽつんと赤い屋根の、小屋のように小さな家があった。
「あれが魔女の館? 『館』っていうほど大きくないじゃない」
アンジュはひとり文句を言って膨れていたが、ストラにはその意味が理解できなかった。かわりに魔女が答えた。
「昔はもう少し大きかったんだけど、古くなりすぎて倒壊しちまってね。今度は小さな家にしたのさ。おかげで掃除が楽になったよ」
魔女はその風貌には不釣りあいなほど広い歩幅でさっさと家まで歩いていくと、小さな樫のドアを無遠慮に開け、そのよぼよぼの身体にしてはえらく元気な声で「帰ったよ」と怒鳴った。
「さあ、ふたりともここへ座るんだ。どうせまた『女王様のお言葉』とやらを届けにきたんだろう? 読んでやるからだしてみな」
その家には小さな窓がいくつかあり、そこから弱々しい日光が差しこんでいるおかげで中の様子はなんとかわかるものの、ほんの数メートル先がまともに見えないほど暗かった。
「やれやれ、暗いねえ。これでも、真っ昼間ならもう少しましなんだがね。なんせ今は夕方だから。さ、そこの椅子に座って待っといで」
魔女がふたりを座らせた椅子は煤けていて、木材が剥きだしの簡素なものだった。テーブルも同様で、あちこちがささくれ、毛羽立った部分化がとげのように鋭く生えていた。
ふたりの着席を確認すると、魔女はどこからか豪勢な肘掛けのついた座椅子を押してきて、偉そうにどかっと座りこんだ。そして、声をはりあげて誰かにこう呼びかけた。
「虹の国から客人だ、灯りを持ってきておくれ。それから、あたしに茶を淹れておくれ。客の分はいらないよ、虹の国から来たのだから」
するとその数秒後、薄暗い部屋の奥からカチャカチャという音がしはじめた。もうしばらく待っていると、やがて痩せた少女が盆と小さなランプを抱えてやってきた。
「お湯が沸いたらお持ちします」
少女はストラたちには目もくれず、目を伏せたままそれだけ言うと、ドンとぶっきらぼうにランプを置き、茶道具を魔女の前に並べはじめた。顔は青白く、頬はこけて鎖骨のあたりには骨が浮いていたが、身なりはよく、綺麗に梳かした髪を耳のあたりでふたつに結っていた。
「ノエル、お客様に挨拶おし。おまえは真面目で働き者だが、礼儀と愛想がないのが欠点だ」
ノエルと呼ばれた少女はぎょっとして固まり、明らかに嫌そうな面持ちで、魔女の向かい側に並ぶふたりの子供たちを凝視していたが、しばらくするとまた目を伏せ、ぼそりとひと言、ひとり言のようにつぶやいた。
「ノエルです。よろしく」
それから、これで気がすんだだろうと言わんばかりに魔女を睨めつけて、また部屋の暗がりに消えていってしまった。
下方には虹の国に似た、緑の大地があった。しかし、よくよく近づいていって観察してみると、地面に生えている草のほとんどは見たことのない形をしている。そして、その半分ほどは枯れていた。おまけに踏んでみるとチクチク足裏に刺さって痛い。人工的に刈りこまれた均質で柔らかな芝生しか知らないストラは、それだけで興奮し、両手をぱたぱたと動かして騒いだ。
「すごいすごい、おかしな地面! 全部虹の国と違うよ!」
「あたりまえじゃない、そんなことで大騒ぎしないで」
アンジュは驚くそぶりも見せず、冷たくぴしゃりと言いはなった。さっきの時計の件といい、どうやらアンジュはこの「下の世界」のことをよく知っているらしい。てっきり喜びを共有してくれるとばかり思っていたストラは面食らい、呆然とその場に立ちつくしてしまった。
「何もないわね。山ばっかりだわ」
アンジュはきょろきょろと周囲の景色を見渡して不満げに鼻を鳴らした。
ふたりが降りたったのは山岳地帯だった。足元の大地にもすでに緩やかな傾きがあり、そのまま空に向かってなだらかに伸びあがって、いくつもの山を形成していた。山の頭頂部には緑がなく、険しい岩肌が露出し、威厳のあるいでたちでこちらを見おろしている。山はひとつではなくどこまでも連なっていて、どちらを見ても延々と高い山脈が壁のようにそびえ立っていた。反対側も同じように視界が山脈に阻まれている。どうやら、ふたりがいるのは山あいの深い谷のようだった。
「おまえたち、何者だい?」
ストラがぼんやりと山頂を見あげていると、ふいに背後からウシガエルを潰したような声がした。声のするほうに視線をむけると、そこには紫のフードつきローブに毒々しい赤のショールを巻いた、趣味の悪い格好の老婆が立っていた。服装もさることながら、しわに顔のパーツが埋もれそうなほどたるんだその顔も、なかなかに恐ろしい。それだけ老けこんでいるにもかかわらず、背筋はぴんと伸びており、首から下だけを切りとると若者のようにすら見える。その上下のアンバランスさは、かえって老婆の怪しさを引きたてていた。
突然のことにふたりが何も言えないでいると、老婆はふたりの翼をじろじろと睨みつけ、何やら合点がいったらしく、ひとり小さくうなずいた。
「その姿は虹の住人か。しかし、よりにもよって随分と未熟な子供をよこしてきたものだね」
「あの、あなたは?」
アンジュが尋ねると、老婆は四方八方に絡まりあった
「あたしは……いや、名前はいらないな。『魔女』だよ。世間ではそう呼ばれてる。虹の国のこともよく知ってるよ。なんてったって、ここに屋敷を構えたのは虹の門を見張るためなのだからな」
「えっ!」
ストラとアンジュはお互いの顔を見て、同時に笑顔になった。これが魔女なのだ! しかも、虹の国のことも知っているらしい。これは話が早そうだ。
「とりあえず、その羽をしまいな。いくら人気がないとはいえ、その格好は目立つ。目立つというのはろくなことじゃない。さあ、まずは家へ入ってくれ。年寄りが外で長時間身体を冷やすのはよくないんだよ」
魔女が右手で示した先には、確かにぽつんと赤い屋根の、小屋のように小さな家があった。
「あれが魔女の館? 『館』っていうほど大きくないじゃない」
アンジュはひとり文句を言って膨れていたが、ストラにはその意味が理解できなかった。かわりに魔女が答えた。
「昔はもう少し大きかったんだけど、古くなりすぎて倒壊しちまってね。今度は小さな家にしたのさ。おかげで掃除が楽になったよ」
魔女はその風貌には不釣りあいなほど広い歩幅でさっさと家まで歩いていくと、小さな樫のドアを無遠慮に開け、そのよぼよぼの身体にしてはえらく元気な声で「帰ったよ」と怒鳴った。
「さあ、ふたりともここへ座るんだ。どうせまた『女王様のお言葉』とやらを届けにきたんだろう? 読んでやるからだしてみな」
その家には小さな窓がいくつかあり、そこから弱々しい日光が差しこんでいるおかげで中の様子はなんとかわかるものの、ほんの数メートル先がまともに見えないほど暗かった。
「やれやれ、暗いねえ。これでも、真っ昼間ならもう少しましなんだがね。なんせ今は夕方だから。さ、そこの椅子に座って待っといで」
魔女がふたりを座らせた椅子は煤けていて、木材が剥きだしの簡素なものだった。テーブルも同様で、あちこちがささくれ、毛羽立った部分化がとげのように鋭く生えていた。
ふたりの着席を確認すると、魔女はどこからか豪勢な肘掛けのついた座椅子を押してきて、偉そうにどかっと座りこんだ。そして、声をはりあげて誰かにこう呼びかけた。
「虹の国から客人だ、灯りを持ってきておくれ。それから、あたしに茶を淹れておくれ。客の分はいらないよ、虹の国から来たのだから」
するとその数秒後、薄暗い部屋の奥からカチャカチャという音がしはじめた。もうしばらく待っていると、やがて痩せた少女が盆と小さなランプを抱えてやってきた。
「お湯が沸いたらお持ちします」
少女はストラたちには目もくれず、目を伏せたままそれだけ言うと、ドンとぶっきらぼうにランプを置き、茶道具を魔女の前に並べはじめた。顔は青白く、頬はこけて鎖骨のあたりには骨が浮いていたが、身なりはよく、綺麗に梳かした髪を耳のあたりでふたつに結っていた。
「ノエル、お客様に挨拶おし。おまえは真面目で働き者だが、礼儀と愛想がないのが欠点だ」
ノエルと呼ばれた少女はぎょっとして固まり、明らかに嫌そうな面持ちで、魔女の向かい側に並ぶふたりの子供たちを凝視していたが、しばらくするとまた目を伏せ、ぼそりとひと言、ひとり言のようにつぶやいた。
「ノエルです。よろしく」
それから、これで気がすんだだろうと言わんばかりに魔女を睨めつけて、また部屋の暗がりに消えていってしまった。